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あの終わり方がハッピーエンドだと仮定した場合、

どう考えても食べてる。少なくとも間接的に利用している。と考えるしかないんですあの世界は。
さらにいうと、「昆虫食」という発想すらないかもしれない。「持続可能なカガステル農業」を考えたとき、すでに唯一の食料源がカガステルになっている可能性すらあります。

さて突然、無茶ぶりでトクロン先生から振られていたネタを、一年ぶりぐらいに回収します。頭の隅に引っかかっていたのが、ついに結論を得ました。

カガステルの考察の難しさは、公式設定としての「語り部」がいないことです。(進撃の巨人では現在公開可能な情報、という第4の壁を破るような公式設定が、読者を誘導する役割を果たしていましたが)
そして一見すると、ポストアポカリプス的な世界ゆえに、語られる状況がもうすぐ滅亡することを示しているのか、それとも再生の途上なのか、それとも持続可能な定常状態なのか、判断する要素が少ないことです。

またその原因が「大戦」と「カガステル」という2つの破局を経験した後なので、今の状況がどちらの破局の結果なのか、判別しにくい。さらにもう一つ、ラストまで「総括」がなかったことで、なんとなくいい雰囲気のラストシーンのあと、どんな未来が待っているのか、暗示されていないことです。コレは困った。

劇中のカガステルは、モンスター・パニックの要素と、ミリタリーアクションの要素、そして(人間がモンスターに変わるという意味での)ゾンビものの要素を併せ持つわけですが、そこに「食」と「生殖」がからまってくると、ジャンル別だったものが、全体のシステムの関係性や持続可能性について読者が気になってきてしまう、という状況にあります。私もフードシステムが気になってしまって、本命のストーリーが頭に入らなくなることがありました。

これはうまく整理しないと、モンスターの要素とゾンビの要素が文字通り「食い合って」しまうという意味で、どっちつかずになってしまう、やややこしい作劇の問題です。おそらく作中において、あえて濁すような言い回しもありますので、野暮に明快にしないほうがいいのかもしれません。しかしSDGsを定義した2030アジェンダにもこう書いてあるわけです。「すべてのゴールは統合され不可分」のです。せっかくですので、ハッピーエンドに終わるための持続可能なカガステル農業の未来に向けて、ここはSDGs的な最適解を目指しましょう。

カガステルが誰かにデザインされた、目的を持った生物であるかどうか、は結局濁されています。これもまためんどくさいです。しかしカガステル研究者だった親子、エメト・キーリオとフランツ・キーリオ父子が「人類の進化では」との仮説で20年以上、研究を進めてきたわけで、彼らの遺志をつぐことにしましょう。

カガステルは人類の進化であり、この物語はハッピーエンドである。と仮定します。

こういう先に未来(ゴール)を決めて、
今何すべきかを逆算していく、というのをフューチャーデザイン
、といったりしますね。
下の図はここから引用です。

さて、SF批評のマナーとして、最小の補助線でもって、この世界を解釈してみましょう。シンプルな仮説でよく説明できることが、解釈の正解かどうかは作者しかわかりませんが、それはそれとして良い考察である、とは言えるでしょう。

読後の雰囲気からしても、物語はハッピーエンドで終わってほしいものです。なのでラストシーンのあとは「持続可能なカガステル農業」がある、と願望をこめて想定してみます。

大フィクションとして
「カガステルは人体に窒素同化とリン回収濃縮、そしてセルフ防犯機能をもたせた農業のためのデザイナーズ感染症」という仮説をぶっこんでみます。つまり発症者は「農家へ強制的に転職させられた」のです。ウイルスによる染色体のリコンビナント、遺伝子導入、いろいろ想像できそうですが、「戦時下のため、カガステルへの発症リスク情報が粛清の対象になってきたことから、かなり情報の精度が低く、調査分析が荒い」ということが示されています。いろいろ考えつつも、作中で示される不確定な情報を鵜呑みにしすぎず、最小限の理解にしておきましょう。

性質の一部は(キーリオ父子研究者の予測に反して)遺伝するらしいということもふくめて、なんらかの変異原性をもつことが示されました。そして全員がカガステルになってしまえば(コルホーズやソフホーズのような?)それもまた一つのハッピーエンドなのですが、人間の遺伝子を再編・利用する性質から感染や発症に対してかなり個人差がある、と言えそうです。また「昆虫」とは無関係なこと。「野生」と「虫籠」の2パターンの生活史がありそう、とも語られています。

それでは参りましょう。まずはカガステルの生態について。

一読した当初、わたしは「人間はカガステルにとって遺伝資源」ではないかと考えていました。しかしデザイナーによって目的をもって作られたとすると、それは奇妙です。人間の不確かな遺伝資源をカガステルがわざわざ摂取し、利用する意義は見えません。もう一段階シンプルに考えましょう。人体は単純に、「リン資源」なのではないでしょうか。つまり劇中、かなり存在や描写が隠されていた「農業」および「弾薬」に、その理由を求めてみるのです。

壁で覆われた集落、集落間の移動に武装した隊列を組む、などなど、人口が密集した集落が点在していながら、農業、電気、上下水道など、インフラに関わる設定は、徹底的に情報が明かされませんでした。ポストアポカリプスもので、そのようなシステムが設定に明示され、ストーリー展開に利用されるのは、映画でいうとスノーピアサーブレードランナー2049マッドマックス怒りのデスロード(ここでは弾丸農場バレットファームで人間のウンコから弾薬を製造しているという公式設定がありました)など2010年代中盤から後半にかけてですので、2005年開始というカガステルにおいて、それを求めるのはズレてしまうかもしれません。オーバーテクノロジーになりすぎないよう、誠実に想像で補いましょう。

カガステルは人間を襲う、という設定から、すべての農業が無人ロボット化していた、と考えることができるかもしれません。そうすると古い兵器で戦闘していたり、コンピューターが古い、最先端なはずの研究所内があまりにアナログであることから、これは整合性が薄いと思われます。カガステルがいないにしても、人間が襲いに来てしまうでしょう。またアンチョビやサバなどの海産物らしきものが出てきていましたが、これが海が利用可能な状態にあるのか、それとも缶詰として備蓄されていたものを、人口が減った人類が掘り出して使っているのか、明確な描写はありませんでした。海の幸も期待しないでおきましょう。

また、カガステルが昆虫とは類縁関係がないとはいえ、「昆虫食」という言葉は劇中に出てきませんでした。あったのは第一巻106ページの商店街シーン、右下「BUG」という看板。これも昆虫食なのか、それとも虫対策用品店(つまり武器屋)なのか、わかりません。もう一つあったのは「ミートボールとヨーグルトソースと雑穀ピラフ」さて、何のミートでしょう。そうですね、カガステルです。「首の後ろに神経毒を打ち込む」と殺せるという意味でも、食利用のしやすい生物といえるでしょう。

そうすると単に人類同士が共食いするのと、どう違うのでしょうか。考えられるのは、何らかの付加的機能です。人類には到底できないことが、カガステルにはできる、ということです。「野良カガステル」の卵から孵った幼虫についても、人間より大きかったことから考えると、おそらく単なる従属栄養生物ではなく、独立栄養生物の側面も持ち合わせていた、と考えられないでしょうか。「発症」によって変形していった人間も、カガステルになるにつれ固く巨大になっていったように見えます。動物に必須で、硬い強靭な甲皮が必要で、その原料が環境中から得られる、つまり空気中の窒素から「ハーバーボッシュ法」を生体内で行って、人体に利用可能な窒素化合物を得ていた、と考えてみましょう。

窒素ではないですが、熱帯雨林におけるアリのバイオマスが、そこに住む哺乳類の合計より重い、という論文がありました。単なる捕食者ニッチではなく、農業やスカベンジャー(分解者)として、炭素循環の担い手としての役割があるだろう、との推測をしています。バイオマスや個体数でいうと人間を凌駕しているかもしれないので、カガステルには様々な生態系の機能を担ってもらいたいものです。

その中でも葉っぱを集め、キノコを栽培する農業を行うハキリアリについては、体内ではダメージの大きい、激しい化学反応を「体外」で行うことで、栽培したキノコに含まれるリグノセルロースを速やかに分解し、消化利用可能にしているそうです。カガステルは強靭な外皮の中でこのような「苛烈な化学反応を体内で」行える、画期的な家畜なのではないでしょうか。そうすると、あの資源が少ない世界で気兼ねなくドンパチ=火薬がふんだんにつかえることも理由がついてきます。火薬に利用する窒素化合物も、カガステル由来なのでしょう。虫籠に人間の軍が立てこもるのも納得です。

カガステルが昆虫と類縁関係がないことは明示されていましたが、その生態を考察する上で、アリはハチなどの社会性昆虫と比較して考察されていました。社会性昆虫にみられる「群知能」は、個体それぞれ単体では不合理な生理生態をしていても、群れとして適応度を高める行動をとるとき、群れにおいて最適な行動をとるよう個体の行動が調節されている、として分析します。カガステルの窒素同化の機能も、同様に考えてみましょう。

社会性「虫籠のカガステル」は、孤独性「野良カガステル」と異なり、女王からの「周波」でコントロールできていました。これが音波なのか電磁波なのか(つまり周波数)は明示されなかったものの、距離に従い減衰するところを考えると何らかの空間を伝わる波だったと思われます。

そうすると、待ち伏せタイプで飢えをしのぎ、散在する野良カガステルと違い、虫籠のカガステルの多くが、波の届く近くの人間という資源にたよりっきりになってしまうリスクがあります。これでは常に警戒行動をしている、群れのエサを賄うことが難しくなってしまいます。また、人類はカガステルの登場と同期して戦争状態になっており、人口の2/3が失われています。カガステルにとっても、減少しつづける人類だけをエサ資源としているわけにはいかないのです。また「虫籠」は構造物様のものも作っているようです。その強度が人類の鉄筋コンクリートに比べて強いわけでもなさそうなので、「戦争に勝てる構造物」を作るための分泌係としてのカガステル、というわけでもなさそうです。

また、完全な独立栄養生物であった、と考えてしまうと、人類を捕食する意義もなくなってしまいます。なので足りない栄養素を仮に「リン資源」としておきましょう。戦争によりリン鉱石は不足し、あるいは戦時中に資源国が海に流すなどの措置をして、地球上のリン資源は薄まり、利用困難な状態、と仮定してしまいましょう。カガステルの死体が蓄積している虫籠の地下は、肥料に適したグァノのような、蓄積したリン鉱石のようになっていることでしょう。カガステルのウンコの描写はありませんでしたので、人間を食べた後は虫籠に戻ってウンコをするのかもしれません。

そうすると「虫籠のカガステル」が行っている作業は「人間を苗床にした農業」に近いことがわかります。おぉ、再生中の森を守る番人としての蟲、と説明された風の谷のナウシカよりも「積極的に人間を狩りに行く」生態も説明できます。つまり人間と人間の感染者であるカガステルは、耐圧性の外皮で高温高圧の窒素同化を行い、「相互に狩り合う」ことで種内競争を行い、リン資源などの利用しにくくなった薄い元素を濃縮し虫籠に溜め込み、農業を発展させつつ、環境収容力の中に収まるよう、急速に個体数を間引きし、安定させようとしているのです。

ようやく全体像が見えてきました。

それでは「人類全体」ではなく個人として、独裁軍事政権の「都市」か、さっさとカガステルに発症してカガステル同士は戦わない「虫籠」か、それとも「野良カガステル」か。どれを選ぶのがいいんでしょうか。

カガステルになる資質のない主人公たちは人間のまま「野良」を選んだようですが、ハッピーエンドを狙うならば窒素化合物は弾薬にせずできるだけ肥料に、ウンコと死体は捨てずにリンを回収し、カガステルに狙われないよう自動化ロボット農業をどこかでスタートする、というのがよさそうです。

主人公たちの次のゴールは、都市間の人間同士の戦闘を(統一にせよ全滅にせよ)収束させ、火薬より肥料に窒素化合物を転用し、ウィズカガステルの未来を達成するためにも、「砂漠でも海でもない農耕適地を探すこと」と「兵器を改造した無人農業ロボットの開発」「都市間を移動する無人の肥溜め」ですね。「無人カガステル捕縛装置」なんかもいいかもしれない。そうすると、彼らカップルの仕事、役割は見えてきました。「無人ロボット農場の用心棒」です。無人となると戦時下ですからむしろ人間から狙われやすく、そこをさらにカガステルが襲いに来る事も考えられます。であればイリがカガステルを追い払うか、近所のカガステルを使役し、防御に利用する、キドウが作物泥棒を肥料に還元する。といった農地の用心棒職なら、食いっぱぐれることはないでしょう。

なかなかバイオレンスなカップルですが、紛争や収奪がまかりとっているあの時代の食糧生産は命がけなのです。カガステルも人間も、そろって畑の肥やしになってもらいましょう。環境収容力のみが、あの時代の生死を決めるのです。用心棒としての雇用を確保すれば、自分探しの旅をはじめていたアハトも定職につけそうです。

この作品、開催中の「おいしい昆虫生活®︎展」にゲスト展示してもらっているのですが、その紹介がまだでした。

まだ私がラオスにいた11月頃、オンラインで監修として参加したプロジェクトがありました。「昆虫食おままごとセット」

これは、、なんとすごいコンセプトだろうか。私自身が思いつけなかったことをいたく嫉妬したものですが、発案者はアートディレクターの北恭子さん。私は監修、考証としてチームに後から参加することに。

木工職人の方や、香料メーカーの方もすでにチーム内におり、万全の体制です。これはいい形にせねば。

私からは香料で再現できる「香る昆虫食」の部分と、3つ作成予定の昆虫料理のバリエーションのバランスを見つつ、揚げ物、燻製からのスープ、スイーツと、調理歴のわかるメニューを提案しました。採ってきてから調理するまでの衛生的な器具の使い分け、加熱した時のバッタの色の変化、ラオスでよく見る「スネはトゲがあるので除去するけど、フトモモはおいしいので残す」という脚の除去のルールなど、昆虫をまだ食べたことがない子供が、おいしく安全に昆虫を調理するためのエッセンスが詰まっています。

元ネタとなった料理はこれら。

これから未来の話として、昆虫食が普及にするにつれ、昆虫を食べたいと素朴に思う子供達に対して、本物の昆虫を使って適切に案内できない、「昆虫を食べない」保護者の方が多い時代がしばらく続くでしょう。その時に昆虫を含まない、おままごとセットとしてスモールステップを踏めることで、子供にも、その保護者にも優しい知育玩具になりそうです。

そこで、ラオスにいる私は、はたと気づいてしまったのです。「この作品が発するメッセージには普遍性がある」

つまり、ラオスの子供達に、特に農村部の子供達に、この「おままごとセットの中に昆虫食も含まれている」ことのメッセージが届いていないのではないか、という問題意識です。なので首都ビエンチャン、そして近所のコンビニと、おままごとセットがないか、調査してみたところ、確かにあるのです。あるのですが、当然ながら昆虫は含まれていない。そして売っているのも都市部で、昆虫をよく採って食べている、農村部の子供達の手の届く値段でもないのです。

首都ビエンチャンの百貨店にて。
近所のコンビニにて。

今回、作品は一点ものですが、この先、むしろプラスチックの安っぽい大量生産品として、ラオスの田舎にも届くような、「昆虫を食べたいいと思うことはおかしいことではない」という普遍的なメッセージを次世代に届けられるような、そんな未来まで、提案したいものです。

そしてこの作品が、もう会場に届いています。香りも嗅ぐことができます。ぜひご覧ください。

とはいえ、とはいえ子供達は自由ですので、「知育玩具」に込められた大人たちの重いメッセージに対して、軽やかに飛び越して遊んでいくのです。伝わったか、伝わらなかったか。それはそれとして、遊んでもらえたらうれしい。

昆虫食仲間のムシモアゼルギリコさん家の虫を食わない娘さんも、遊んだそうです。楽しそうだ。そして自由だ。

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出国前にようやっと、完成しまして、害虫展season2 への応募が完了しました。これから一次審査、二次審査へと進み、落選しなければ、落選しなければ、ですが、足立区生物園、箕面昆虫館でそれぞれ展示されます。TwitterでRTいいねをしていただくと残れる確率が高まりますので、応援よろしくおねがいします。

Insect "Cooked" Specimens 昆虫”調理”標本

害蟲展は第一回、昨年2020年の応募が初めてで、入選をいただくことができました。だれが害虫、という線引をするのか、そしてそれを更改するのはだれか。(それがラオス人であってほしい、という願望も含めて)ヤシオオオサゾウムシを題材に、写真作品を応募しました。

審査員の館野鴻さんから、「そのままじゃん!」と講評をいただきましたので、今度は「表現」を噛ませたものを作ろうと、立体作品にしました。手法は「液浸標本」です。

「昆虫標本ってうまそうじゃないな、、、」がきっかけです。昆虫は外形の特徴をかんたんに、そして長期に保存できることから、乾燥標本が主流です。バッタなどの一部の昆虫は退色してしまい、生きているときの彩りを残すことができません。凍結乾燥などの高価な機材が必要な方法も普及に困難があります。

またトノサマバッタは茹でると、含まれるアスタキサンチンがエビのように赤く色づき、その後茶色く退色してしまいます。佃煮などの保存食にする頃には茶色いのです。茹でたあと、冷凍してもしばらくすると退色してしまいます。エビぐらい赤くおいしそうなまま、保存できる方法はないか。

ということで海産無脊椎動物の液浸標本の方法を教えていただき、茹でたバッタの赤を保存する方法を模索しました。ようやく、まだまだ完成ではないですが、各調理法に応じて、退色脱色を最小限にした保存方法ができたので、既存の乾燥標本と並べ、「茹で」「揚げ」「混和」「成形」の4種の調理歴をもつ「昆虫”調理”標本」ができたのです。

これが昆虫の乾燥標本と生体が並ぶ昆虫館に展示されることで、乾燥標本が美味しそうに見えない、ということと「昆虫が美味しそうに見えない」ということは、必ずしも同一とは言えない、という新たな軸がみえることを期待します。

今回は「混和」「成形」という本来の標本、つまり外形の情報が残らないものも、あえて「標本」と称して並べました。果たしてあなたが食材として口にするのはどういう調理法なのか、乾燥標本の軸から少し外れて、昆虫調理標本を目の前に(審査が通過すれば、ですが)考えてみてはいかがでしょうか。

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以前に「害虫展」に応募した写真作品ですが、使ってみたかった「メタルプリント」での出力をしました。これはアルミ板に昇華印刷をしたもので、光沢や発色が優れているだけでなく耐候性が非常に高く、「アルコールにも耐える」という今の感染制御のご時世でピッタリの性質をもつ、写真パネルとのことでした。これを昆虫料理レストランに飾りたいのです。

返却してもらっておいしい昆虫記、出版記念の一日店長でも飾らせてもらいました。

強度はアルミ板のまま。曲がらない限り印刷は痛みません。かなり丈夫です。角は気をつけたいところですが、取り回しは楽でした。

さて、このパネル、本当にアルコールに耐えるのか。やってみたいのですがこの大きめパネルだとちょっと決心がつかない。

ということで光沢のある昆虫の質感も確かめたいと、ちょうどやっていたモニター募集に応募することにしました。

そして、

とどいた!

そして、買っておいた蒸留エタノールで拭く!

問題ないですね。重さもこの大きさぐらいまでだったら気軽に持ち運べます。ブルーの構造色が美しいフェモラータオオモモブトハムシのメタルな雰囲気も十分に伝わっています。

今回のモニターは、パイオテック株式会社さまの協力で実現しました。


 [HP]
 ・メタルプリント本サイト https://www.metal-print.jp/
 ・ペット特集サイト    https://www.metal-print.jp/lp/pet/
 ・趣味特集サイト     https://www.metal-print.jp/lp/hobby/
 ・コスプレ特集サイト   https://www.metal-print.jp/lp/cosplay/
 [SNS]
 ・YouTube  https://www.youtube.com/channel/UCkJx6l52i2-Wi_se9bhxABA
 ・BLOG    https://www.piotec.co.jp/blog/
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 ・Facebook  https://www.facebook.com/Piotec-HD-Print-335658950230225/

この画像、パネルについても、貸し出しサービスに使われるかも、とのことでした。なかなか画像や動画では伝わりにくい質感ですので、見て確認するといいかと思います。

▼貸し出しサービス

https://www.piotec.co.jp/blog/?p=708

さて、「きらめく」といえば、ちょうどこんな本が出ました。

肉眼で「きらめき」を感じるとき、光源とそれを反射する物体の関係から、左右の目には異なる反射が入ってくるでしょう。つまり立体映像と「きらめき」は相性が良い。VRなんかで映えるのでしょう。

一方で、印刷物、とくに液晶画面のように発光しない面で「きらめき」を表現しようと思うと、かなりいろんな表現技法が使われています。

そんな難しい事を考えなくても、ビジュアルがひたすらによいのがいいですね。オススメです。

美しい干物を見る気分で楽しめました。一部麻酔された昆虫がいる感じがしますが、ほとんどは乾燥標本です。

表紙になっているプラチナコガネは乾燥にともなう収縮で「貫入」のようなヒビが入っています。それを単なる学術標本の劣化ではなく「ある種の別の美しさ」としてテクスチャ表現したい、とのことでした。すごい。変態だ。(褒め言葉)

著者で最も若い法師人響さんは「アリの巣の生きもの図鑑」を見て昆虫の世界に入ったとのこと。そう。若いのです。

図鑑は単なる図鑑ではなくって、思い入れのある著作物は人の人生を揺さぶるパワーがあるなと改めて実感する、新世代の写真集でした。

このブログや私の表現物もそうなりたいと願う年齢になってきましたね。

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何を言っているかわからないと思いますが、私もわからなかったです。初、文春オンラインに寄稿しました。しかも昆虫食ネタではなく。ひとまず先に読んでいただきたいです。ブログではその記事からはみ出た部分を補足して、宣伝としたいと思います。

以前のこのTweetがバズってしまい、編集者の方に声をかけられて寄稿することに。

記事化にあたって改めて情報収集しようにも、攻略本は売り切れ、私はSwitch持ってない。

ゲーマーのみなさんから公式非公式の情報を集め、どうにか分析をすすめました。が。記事の長さの関係で、メンデル遺伝とあつ森遺伝学との関係を指摘する部分がメインになり、細かなあつ森遺伝学の遺伝子と表現型との対応関係なんかを大幅に割愛することとなりました。

一般向け雑誌に遺伝学を掲載するチャンスかと思ったのですが、私が遺伝学のおもしろみをうまいこと咀嚼することができず、小難しい文章が仕上がってしまい、結果割愛となりました。編集の方はめっちゃ親身に読者への狙いやわかりやすさについて助言くださって、私の文章能力不足が改めて身に沁みたわけですが、この割愛部分について、ブログで宣伝がてら書いて良いとのことでしたので、ここに放流しておきます。

あらかじめ言っておきますが、攻略に一切貢献しない情報です。

一体誰向けなんだと言われると、遺伝学に青春をささげた覚えのある人向け。

これが読み解けたからといってあつ森が有利になったり攻略が進むわけでもないです。外に出てくることが決してない、「あつ森の中の人」のことを妄想するためのテキストになります。

さて、最初の発端は小森雨太さんのこのつぶやきから。

おや、高校生のときに勉強した遺伝学みたいな図がならんでるぞ。あつ森なのに。

どうやら遺伝のルールにかなり忠実に花の色が設定されていて、遺伝交配によってレアな花が手に入る模様。

教えてもらった攻略サイトにある遺伝表をもとに、その遺伝子の対応関係を整理してみました。記事化の前提となるリサーチです。

最も素直な遺伝学を実装しているのはパンジー。

まずはパンジー。

白いタネにヘテロ接合で含まれる遺伝子の本体は青の遺伝子で、潜性ホモでBB青を発色する。これは赤い花の遺伝子RRと混色できるので、RRBBで紫、RrYyではBBの発色は隠れてしまいオレンジ、rrYYではイエローに。ここらへんはわかりやすいですね。

アネモネ

アネモネも比較的素直。オレンジの発色がえらく強いですが、W遺伝子の本体は青の色素。RとWの混色によって紫を発色します。

続いてチューリップ

RRだと発色が強すぎて黒になっちゃうので、それを抑制する遺伝子S(サプレッサー遺伝子)としますか。白いタネに含まれる遺伝子は赤色Rの脱色遺伝子。例外的に赤と黄が交じるRRYYで紫、というなんとも説明しがたい混色パターンを見せます。pHでも変わったアントシアン系色素なのでしょうか。「議論の思いやりの原則」にのっとって、最大限好意的に解釈していきます。

こちらはコスモス。

RRが赤、Rrがピンクとなり、遺伝子量効果のようなものが見えています。RrYYでオレンジ、RRYYでブラックというこれまた妙な混色パターンがあり、こちらも白いタネに含まれる遺伝子は抑制遺伝子なのですが、YYを抑制したりRRを抑制したり、赤の発色を強めたりとなかなかトリッキーなふるまいをする遺伝子です。

キクの発色もまた奇妙です。RRYYを混ぜたらグリーンというのはなかなか混色の発想としては逸脱しているように見えます。

「一番簡単なのはユリ」と教わったのですが、あくまで交配手順が最短で、多くの花色が手に入るという意味での「簡単」で、遺伝学的にいちばんシッチャカメッチャカなのもまたユリでした。

白にサプレッサー遺伝子があるのはチューリップと同様なのですが、RRSSTYYがすべてホモで揃ったらなぜか白。いやいやほかの色の時そんなに強く抑制効いてなかったやん。と、いいかげん抑制遺伝子の八面六臂の活躍ぶりに嫌気がさす感じですが、これは分析の当初、劣性ホモ系統を使った検定交雑を邪魔する目的かと思ったのですが、

交配二世代で、すべてのレア花を手に入れられるユリの難易度は低い、というユーザー視点の判断ですので、それは意図的な操作であろうと結論づけることになります。難易度調整としての逸脱で、こちらは難易度を下げる目的。

そしてヒヤシンス。妥当なrryyww青と、逸脱のRRYyWW青があります。27パターンのうちの2パターンが青。これは最後のバラが81パターンのうち1だけが青いバラの遺伝型になっている最高難易度と、差をつけるためでしょう。ここらへんは遺伝学を逸脱してランダムなゲーム性に任されている。

そして最後にバラ。

遺伝子量効果が色素遺伝子と抑制遺伝子それぞれで効いてくるので、花の色から推測される遺伝パターンがなかなか複雑に。それでもWの本体である紫の遺伝子と赤、黄色、抑制遺伝子の4つで青が発色されるのは妙です。

RRYYWWssはどうかんがえても黒の発色にならないと変。つまり類推によっては青にたどり着けなくて、81パターンすべてを解明しないとたどり着かない。まさに最高難易度。

そして記事を「プレイしていない人」という形でプレーヤーへの嫉妬でシメようとしていた先週のこと。ヨドバシカメラから抽選販売当選のメールが。

ええ、このタイミングで?!!

嬉しいやら困るやらで、編集の方に相談しながら結局記事のシメは変えないことにしたのですが、注釈にもありますように、もう我が家にあつ森は届いているのです。

さっそく移住です。

むしくろとわが、移住するならむしの島ですよね。

ん?コレは、、、、食材だぁーーーー!

*記事内の見解はすべて著者によるものです。「あつまれどうぶつの森」発売元の任天堂の見解ではありません。

あつ森はおいしい昆虫の宝庫だったのです。大きくて食べごたえがすごそう。バッタがキョジンツユムシのような、ザリガニや魚と同じくらいのボリューム感があります。

アップデートで昆虫を食べるコマンドつけてもらえないだろうか。たのみます。任天堂さん。

さて、このあつ森の入ったSwitch。次なる問題として、ラオスに持っていくかどうか迷います。あぁエクササイズ系のソフトも入れたい。無事私はあつ森の沼に沈んでいくのでした。

TwitterとFacebookで何度かやり取りをしていただいた岩崎秀雄先生から 日本滞在中に招待をいただきました。

ひっそりと行われている(?)オープンセミナーとのことで、 アートは門外漢ですが時間がとれそうだったので、ぜひお会いしたいと突撃してきました。
久しぶりの再会をすることになったAI HASEGAWAさん、会場で挨拶をすると、「きっとおもしろいのでちょっとなにか喋ってもらえますか」 との無茶振り。

こ、、、これは。。。なんの準備もしてないですが、受けて立とうじゃありませんか。ラップバトルみたいになってきましたね。


セミナーの内容はすごくディープで、「発想し、つくる」という活動のサイクルの速さがものすごいと感じました。このようなタイムラグの短さはコンセプトデザイナーを思わせます。 特に生殖にまつわる作品が多く、作品を知った当時「僕にも子宮という臓器があれば出産についてこんなにも深く考えられたのだろうか」と嫉妬も覚えました。

私はアートの批評を勉強したわけではないので、アートという文脈での評価をすることはできないのですが、彼女に対して 私が尊敬する姿勢として「徹底したリサーチ」と「デメリットの開示」にあります。

これは科学者の倫理としても通じる姿勢なので、もしかしたらアート業界ではあまり見ない (リサーチが甘かったり、ウソ、おおげさまぎらわしい作品ですらアートとして評価されてしまった、GFPバニーという作品もあります。) のかもしれません。ひとまず業界を超えるパワーと技術と手法を持つ方だと考えています。

2013年の「私はイルカを生みたい」ではまだ見ぬ出産に関する自己決定権に関する遠い未来の技術を想定したものでした。 おそらくこの発想はズートピアにつながるものだ、と私は勝手に解釈しています。現行法によると、出産によって生まれた存在は「人権」をもつのです。 2015年の(Im)possible babyでは同性間カップルの子供を想定し、いくつかのフィクションを入れながら 未来の家族を描き出しました。ここで当事者である同性カップルの片方はポジティブな感想を、もう一方はネガティブな感想を述べていたのが印象的でした。

今回「未来と芸術展」で紹介されていたのは生殖医療の一種でありながら「最新テクノロジーをあえて抜く」という方法で考えられた 2011年の作品、Shared baby 。複数親のいるベビー。まず受精卵からES細胞を作成、そこから精子を作成し、他の卵子と受精させると3人親の子供が生まれます。ミトコンドリア病などの遺伝病の治療目的として「消極的な3人親」は見当されはじめましたが、産む権利としての積極的な出産のための議論はほとんどされてこなかったようです。そのときに「デメリット」について専門家に取材した動画が、まず流れていたのです。

この展示で想定された技術はもう技術的には利用可能で、法的な議論が届いていない状態です。 祖父母から突然孫が生まれるような、わりと「枯れた」テクノロジーのみで生まれることができるかもしれない ベビー。枯れているからこそリアルさが強く、反実仮想を「実装」するために契約書を交わし、 専門家に「まずデメリットについて」取材しながら意見を深めていきます。
セミナー会場から出てくる感想は「子供がいじめられるかもしれない(だからすべきでない)」とか、「出産される子供と同意がとれないから搾取的である」と言った意見も出ました。

私が聞いているうちに感じたのはすでに実装されている「養子」という制度の先進さと異質さです。 「DNAが共有されているからこそ責任をもてる」という複数親遺伝子の「意義」を語る参加者に対し、任意で、両者(と立ち会い人としての行政)の合意で親子関係を結ぶという「養子」の契約主義は、DNAと遺伝学によって図らずも強化されてしまった血統主義と真っ向から相反します。

そして「すべての赤子は親と契約してうまれてきたのではない」という慣例的な人権無視(そこからの反動として半出生主義に行きますか) に対しても違和感が増えていきます。 わたしは誰のDNAに寄るものか、ではなく本人の意志により親が決まる。そんな世界に憧れもありますし、全てが自己責任になる怖さもあります。 あとでTwitterで教えていただいたのですが、小さな農業共同体においては子育ては集団で行い労力を節約することで、「誰の子供」であるかは薄くなる ことがあるそうです。

セミナーの後の参加者の発言が非常に印象的でした。 「とても普通では開示できないような内心が漏れ出てきている」ような空気を感じたのです。 これがアートの「能力」といえるかもしれません。 倫理的なもの、非倫理的なもの、そして分類不明の不可思議な感情まで、漏らし出さずにはいられない。我慢ができない。たまたま、その場の状態によって ひどく非倫理的な結論を導き出してしまうかもしれない。それでも根本は「人は表現せずには生きられない」という社会的「表現欲」の概念です。

そして私は、オファーに応えて、最後に蛇足として昆虫食の話をします。論というよりは感想です。 POP ROACHの作品を森美術館で「観た」とき、以前からこの作品をしっておきながら非常に怒りが湧いてきたこと、 愛読書である火の鳥の太陽編でゴキブリが食べられている生原稿を観て、「怒り」が湧いてきたこと。アートの業界が高等教育を受けたハイソなお金持ちを対象とする「市場」に評価されることによって、アートが社会に向けて発信する意見が、顧客にならない貧乏なマイノリティを抑圧したり排除しているのではないか。 そして私の怒りそのものが、ラオス人を隠れ蓑にした私の独善的な怒りかもしれない、という気づき。 そしてそれを「言わずには我慢できなかった」のです。

そこからさらに拡大するとアートとして 虫をモチーフにした表現をしている作家さんにやってくる心無い言葉にもひとつの説明が付きます。 「キモ」「なんでわざわざ虫?」「これなら我慢できる」 などなど。

虫をモチーフにしない作品に対しては、とても言わない失礼な発言でしょう。これらは 「そのアートによって我慢できずに漏れ出してしまった内心」なのではないでしょうか。 つまり虫アートはまっとうに「アートとして」機能したのです。 すでに虫がアートじみた機能をもっているゆえに、アーティストが虫をモチーフとして使うことの「オリジナリティ」を発揮するのがむしろ難しいのではないでしょうか。

逆に言うと、内心と表現を「一致させても良い」ネコとかイヌなんかは、大衆娯楽としてのパワーがありますが、ネコが嫌いだったり、イヌに噛まれてトラウマだったりする人にとっては、なかなか内心を出すことが難しい状況を作り出してしまいます。 また「好き」とはいっても食材として好きな場合、イヌを食う話をイヌ好きとできる場所などないでしょう。

ところが、幸いなことに、 昆虫を食う話を、「昆虫好き」の人たちとできる現状があります。これはすごいことです。「昆虫好き」を公言すると「食うの?」とニヤニヤ聞かれることもあるそうで、私の責任ではないですが、昆虫食趣味が表に出ることによる迷惑も、もちろんかかっています。

しかし違っているからこそ、共感できないからこそ興味関心が互いに多様化し、無限の多様性をもつ昆虫という 、一人の人間の一生では到底カバーできない世界を、過去から未来まで、みんなで補完して少しずつ 説明できるようにしていこう、というのが「昆虫学」の営みです。

昆虫表現物は昆虫学をベースにしないととても困難ですし、 広がりや深みを得るためにも昆虫学との接点は必要に感じます。
しかし、大きな偏見により、その虫表現物の生産と開示を妨げるものがあります。「わざわざ」という言葉です。

昆虫食への批判としてもよく言われるのが「わざわざ見せる」というものです。 「私(社会)が嫌がることを知っているのに」と言ったニュアンスがあります。 あなたの感情はマイノリティ、私の感情はマジョリティという優越感もありますし 「マジョリティである私」がないと生まれない「わざわざ」という感情であるにも関わらず、 「虫好きから嫌がらせを受けている」といったマイノリティ的な立ち位置を利用しようともしてしまいます。

昆虫、そんなにわざわざ生きているものでしょうか。地上の覇者として、一般的にあまねく存在するものと私は認識しています。 彼らも私たちも、空はそれほど高く飛べないですし、自力で海に深く潜ることもできません。地上の狭くて薄い範囲に生息する、隣人として 「共感できないながらも存在することを認識する」というバランスをもっていきたいものです。

さて、またAIさんの作品について 「子宮という臓器をもつからいいアイデアにつながったのではないかという嫉妬」についても 失礼ながらぶつけさせていただきました。

お返事としては「確かに長い付き合いなので長い時間を生殖、出産といった思索につかうきっかけになったかもしれない。けれど『いいアイデア』に必ずしもつながるとは思えない」 とのことでした。ありがとうございます。

「長い付き合いだからといって「いいアイデア」になるとは限らない。」自戒していきたいと思うのと同時に やはり「いいアイデア」という時間空間を超える価値観についても、ずっと考えないといけないものだと思いました。
みなさんも、 「いいアイデア」ありますか? 誰に聞いてもらいますか?どこにぶつけますか? どうやって表現しますか?

そんな場を作りたい、としばし準備をしていきます。少々お待ち下さい。

3

さて、ラオスにいる時間が長いとTwitterに流れる日本での催し物に対して、とても「飢えた状態」になります。どれだけ行きたくとも、行けないという物理的制約です。「いきもにあ」に嫉妬してこんなことをしたこともありました。

そうすると日本に帰国した時に煽られていろんなイベントに参加したくなります。無理してでも。むしろ日本にいた時より年間の頻度は増してるかもしれないです。

最初に行ってきたのは、他の打ち合わせが早めに終わったので近場でこれ。

未来と芸術展

森美術館というオサレ空間を見てきました。やはり気になるのはこれら。なぜ建築家はビルにコケをはやしたがるのか。

なぜ建築家はビルにコケをはやしたがるのか。それで食糧生産、的なストーリーがついているのです。

都市、という不特定多数のニンゲンが密集する狭い狭い空間において、食糧の一次生産=光合成にするというのはなかなかナンセンスです。たとえ光合成効率100%というとんでもないものが生まれたとしても、そもそも利用可能な太陽光のうち、都市に降り注ぐのはわずかですし、都市、というのは田舎への依存によって成立する空間ですので、利用可能な土地全部が都市になってしまってはいけません。そして迷子がいるかもしれない都市で巨大な農業機械をぶん回すなど、危険すぎます。棲み分けがだいじです。というかこれらを考えている人と、評価する人、あなた都市にしか住んだことないですよね、と薄々見えてきます。

田舎はグリーンとかピュアとかナチュラルといった「都会の無機質・閉塞感」のアンチテーゼから想像されるお花畑ではないんです。

「都市」が様々な資源(電力・食料・人的リソース・そして価値観)をその周囲から搾取していることを強烈に意識しているのが会田誠のNEO出島。東京という「日本の大将」たる都市の上空に、「グローバルエリート」というコンプレックスを刺激しまくるさらなる搾取の上位存在を浮かばせる、という、なんと田舎根性の卑屈な作品が作れるんだろうか。たぶん都市に住んでるのに。田舎出身の私としてはひどくスッキリしたものです。

ネオ出島。アリータの世界観にも近い。

次に見たのがNASAの火星移住プロトタイプ。現地の土で簡便なシェルターをつくり紫外線を遮り、中にもちこんだ空気圧式の居住スペースを展開していく。「宇宙船地球号」と呼ばれる地球そのものも巨大な半閉鎖系なのですが、こういった宇宙開発というロマンと組み合わせると、閉鎖式の生態系模倣型農業も、閉塞的なストレスが減り魅力的に見えてきます。

そして見たかった「POP ROACH」

ゴキブリを遺伝子組換えをすることで新たなフレーバーをもたらした昆虫食の新しい形、の架空の広告という設定のAI Hasegawaさんの作品。

AI Hasegawaさんは以前から存じ上げていて、とてもリサーチが強い、専門家からの批評にも耐える強度の高い作品を作られる方です。もう2点、生殖医療をテーマにした作品も展示されています。この話は後で紹介しますが、この作品でも、アートの反実仮想によって想定された「複数の親がいる子供の可能性」について、「専門家」にデメリットから先に語らせるという動画が流れています。

このゴキブリ作品も以前から知っていたのですが、なぜか、妙に、唐突で強烈な「不快感」が出てきたのです。

「私たちはゴキブリを食べられるのでしょうか?」

「不快だ」だけは面白くないので、なぜそう感じたのか、読み解いていきましょう。

ゴキブリ、という都市で汚染されたミームを持つ存在を取り上げていますが、多くの昆虫食文化は都市以外、つまり田舎で育まれてきたので、ゴキブリを食べる文化はさほど多くありません。森に行かないとまとまって手に入りにくく、独特の集合フェロモン臭があるからです。そして家屋の周りをうろついているゴキブリは衛生上の問題があります。それは「ニンゲンの生息環境が汚い」だけで、ゴキブリのせいでもないのです。

つまり典型的な昆虫食文化を背景にすればゴキブリを代表として選出するとは考えにくく、「昆虫食文化の文脈を意図的か非意図的に無視している」という点です。

これが意図的でないことはあとから解説します。アート、および建築意匠にかかわる人材の都市集中による構造的な問題かと思います。

そして次に「遺伝子組み換えによる風味の改変」です。

ゴキブリに一年間チョコを食べさせると味が変化する という実験からもわかるように、遺伝子組換えをしなくとも、エサによってでも風味を変えることは可能で、遺伝子組換えを登場させる意義としては弱くなってしまいます。もともと遺伝子組み換えと昆虫の相性はよいので、例えば自然界にない物質への栄養要求性を付与し、脱走すると死ぬ安全な食用昆虫とか、甲殻類アレルギーを緩和する作用のある昆虫などなど、今後活用される場面は色々考えられると思いますが、「ゴキブリにフレーバーをつける目的で行う」のはかなり後回しでしょう。

ゴキブリはタンパク質をあまりふくまない廃棄バイオマスからも効率的にタンパク質を回収できる、という論文もあるので、もちろん都市に適応したゴキブリを、都市型の廃棄物再処理目的で飼うことは全く筋が通っています。

しかし、それを「昆虫食の第一歩」「果たしてあなたは食べられるか、という踏み絵と」して提示されていることに、一種のさみしさを感じたのです。

あぁ私たちは無視されていると。ラオスに滞在しているからって「私たち」と総称することもまたおこがましいですし、それをもって都市生活者を攻撃するのもナンセンスなんですが。率直な気持ちとして。

と同時に、2015年にはこの作品を知っていて、こんな不快感は全く沸き起こらなかったことを思い出します。つまり、「私の不快感」はラオスに行くことで大きく変わったといえるでしょう。

すると愛読していた火の鳥までもが、昆虫食への偏見(火の鳥太陽編でのシャドーの食生活の酷さを示すためにゴキブリやざざむしが使われる)にまみれていることにイラッと来ますし、森美術館という都市のまんなかで、都市生活者だけで食の未来を語れると素朴に思っていることこそがおこがましい、とまで怒りは膨らんでいきました。展示の場所にも影響されている気がします。

ある現代アートに対して、「スペキュラティブだ」と評価がつくことがあります。作家が意図的であることを前提として、社会に向けて問題提起するパワーが強いことを美術批評家が発します。日本は批評家やキュレーターが豊富とはいえないので、そのように評価されたことを、アーティスト自らが発信しなくてはいけない側面もあります。(本来はアーティストが自分への評価を広告するのはやらなくていいはずですが)

するとこういった「スペキュラティブさ」は

都市部の、お金持ちの、人口密集地の「社会」に対するメッセージ性で測定され

辺境の、貧乏の、過疎地の、もう一ついうとマイノリティの「社会」は見逃されがちであるという点に、多くの(貧乏な時代を過ごしたはずの)アーティストが自覚を失ってしまうことこそが、構造的な危険性をはらんでいるように見えてきました。

報われないアーティストが上流階級に入り込むため、同じような報われない境遇にある、非アーティストを踏みつけた作品を作るとしたら、それこそ表現の地獄というやつになると思います。そしてその多くは「非意図的に」「無自覚なリサーチ不足で」起こっている。

無自覚なリサーチ不足によって、アーティストが「お客さんとならない弱者」を採算から度外視することで、差別を再生産するとき、それに共感する「お客さん」の存在によって、アーティストの評価は決まってしまいます。

アウトサイダーである、ここでいうと昆虫を日常的に食べている人たちの声によって、アーティストの名声が落ちることは構造的にありません。アート・ワールドのこの構造を変えろということはないですし、コネと政治によって不当に高く評価されている論文(によって一般市民の健康が不当にバイアスがかかってしまう)が学術界は多々あるので、他山の石としたいものです。

他業界におけるアラが目についてしまうのは、お互いにないものねだりといえるでしょう。つまりこれから、どのような表現物に対しても「リサーチ不足」が致命的になりかねない、あるいはそうなるべきだとも思います。

幸いにも、この作者であるAI Hasegawaさんに、この疑問、不快感、問題を直接受け取めてもらうことができましたので、しばらくこの話は続きます。結論からいうと、コラボを企画することになりました。いつまでに、というものではないので気長に待ってください。いつかやりたい、とラブコールを改めて発しておきます。

次は人体を使った、ある意味「究極」の表現物、ミイラ展につづきます。

自己を犠牲にした究極の表現物「即身仏」はどのような「強さ」をもつのか。表現者がそれをやりたくなる衝動について、現代社会はそれを許容していいものか。

8月9日、もう一ヶ月前になりますか。とある大学のつながりで、バンコクのトークイベントに参加すると旅費をいただけるというので行ってきました。なかなか厳しい台所事情ですが、それなりに楽しみつつ、研究費や経費を確保していこうと思います。

バンコクと日本のデザイナー、建築家の方々が集まる、だいぶアウェイなかんじがしましたが、とりあえず今回のテーマ「Exixtence=実在」 について、語りました。昆虫という「実在」によって、人がどう変化し、全体のプロジェクトのデザインがどう影響されていったのか、とか言う話をしたかと思います。観覧者にはバンコクの学生さんらもいて、昆虫食に対するバンコクの若者の印象も聞いてきました。

デザインという空論であり、実現していない以上「茶番」であることを、どこまで大事にし、深く、そして自由に発想できるかというのはとても重要な営みだと思います。そしてそこに「昆虫」が参加することはこれまでまずなかった。なので一種のスパイスとか「意図的なバグ」として、私が乱数発生器のように乱入して、かき回してみようかと思いました。デザインの世界のみなさんに投げ込んだ「実在の虫」のパワーはすごく、それでいて新しい概念を自分のデザインに反映させ、咀嚼していこうという適応力もすさまじく、スパークジョイな感じでした。

タイ東北部では昆虫食が普通なので、私の昆虫の話もさほど驚かれないかな、と心配したのですが、みなさん無事驚いてくれて、学生さんも女性の一人はロットドゥアン(タケムシ)だけ食べられるけどコオロギやバッタは脚があって無理、もうひとりの女性は全部無理、男性のひとりはサソリにチャレンジしたことはあるけれど。もうひとりはレシピ次第じゃないかなという消極的な感じ。いずれもバンコクの意識の高い、そして野心も高いデザインの学生なのでバイアスはあるかと思いますが、十分に「昆虫を食べる」というアイデアが敏感な若い世代にとって斬新に映るという手応えがあったので、ここバンコクも未来的昆虫食の展開のいい拠点になるだろうなと感じました。

またいっぽうで、ベテランのバンコク在住の先生方は伝統食として普通に食べていた時代を経験していて、ひと世代のあいだにジェネレーションギャップがギュッと詰まっていていい感じです。その年配の先生がこのようなスライドを用意してくださいました。

UNJUNK THE WORLD

Un-junkというのは検索してみると脱ジャンクフード的な書籍に使われたワードのようですが、この「ジャンク=役に立たない、安っぽい、価値が低い」といったものを価値観が同じママの社会で「役に立つもの」に変えていくリサイクルの発想ではなくて、その「役に立たないものという発想そのもの」をキャンセルしていこうという発想です。社会が変わることで、そのものが変わらなくてもコンセプトが変わる。これほど省エネなことはないでしょう。つまり昆虫にも同じことが言えます。ジャンクフードの代替として、安い、コスパのいい食べ物ではなくて、文化的な、先進的な、そして人の役に立つことのできる膨大なキャパシティをもつ尊敬すべきバイオマス。

そんな「UN-JUNKE THE INSECS」をこの世代で達成してしまわないと、バンコクの若者が昆虫食をジャンクな食べ物と誤認したまま次世代をつくってしまう。赤ん坊のころに植え付けられた食の価値観を変えるのは難しいですので、この世代のうちに、変えていきましょう。みなさま、ありがとうございました!

バンコク、今回は時間が少し余裕があったので色々見てきました。ミズオオトカゲが歩いていたり、スラムと高層ビルが対比されたり、他の都市と同じように、色んな面のある街なんだろうなと。

2018年に食べていたのですが、Twitterで報告したっきりブログに書いていませんでした。キョジンツユムシ Pseudophyllus titan です。

キョジンツユムシ Pseudophyllus titan

ちょうど一年ほど前ですね。ヨツモンヒラタツユムシ と同じように、昆虫採集目的でない日常生活でこのぐらいの驚きの昆虫に出会うと脳が気持ちのいいパニックになります。すごくメリハリがいい。以前にサソリを見つけて舞い上がって自転車をパクられたときもこんな感じなので身の回りには気をつけようと思います。

さて、養殖昆虫というと「大きな昆虫を食べたい」と思う人が多いようなのです。大きい方が効率的とか食べごたえとか。確かに大きなエビカニは高級品ですし、タカアシガニは大味、とかいう話もあるのである程度の味とのトレードオフはありそうです。

以前に5.4gの巨大トノサマバッタ系統の味見をしましたが、養殖がとても難しい系統でした。つまり大きいとしても養殖がしやすいとは限らないのです。また、昆虫は成虫になるともう2度と脱皮しないので、そこら辺のコントロールがむずかしいかと。しかし、徳島大学がそこら辺をハックする論文を出しました。

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この論文の巨大幼虫、夢がありますね。

しかしその夢、キョジンツユムシを見るとあまりうまくいかなそうです。

なんだか、巨大な昆虫はパサつくのです。味気ないというかなんというか。密度が足りない感じ。まだ数頭しか味見していないのでなんとも言えないですが、こんな論文を思い出します。

ツユムシも同様かどうかは言えないですが、巨大なほど解放血管系にたよっている昆虫の循環系の効率の低さが負担になっていきます。大きくなるほど呼吸系、循環系の占める割合が大きくなると予想されます。つまりスカスカ、パサつくという感じでしょうか。また過去の酸素濃度が高い石炭紀の昆虫は巨大だったことも知られていますので、人工的に酸素濃度が高い、たとえば水素ステーション(水分解のシステムが採用されればですが)の副産物の酸素を与えて巨大昆虫を、ということまで妄想が膨らみます。

さらにいうと、大きさはともかく高酸素濃度により気管系の空間をさほど必要としない、「身の詰まった昆虫」なんかも作れるのではないかと思います。夢が膨らみますね。プリップリの身詰まりのいい昆虫。食べたいです。

虫展、まだやってますね。日本帰国時に行ってきたレポートです。

ハムシがトップを飾る。カブトムシ、クワガタが定番のなか攻めている。
最初の概説パネル。うるさすぎず、シンプルにデザインされている。
多様性の極みともいうべき標本群。あえて分類群をまとめず、対比的に多様性を見せる並べ方をしている。
ラオスで竹の子イモムシ、と呼ばれている大型のゾウムシ。いつか食べたい。
巨大なゾウムシの脚。びっくりさせる、ギョッとさせる目的でエントランス付近においてある。 逆に言うと、ギョッとさせる目的ではない場所で巨大な拡大模型は「過剰」なんだと思う普通の人にとっては。
ロクロクビオトシブミ。かなり小さい。深度合成写真のレベルが上ったので写真を見ると巨大な昆虫のように見えてしまうが 重力加速度の影響が少ない小さい昆虫のほうが人間が理解できない姿をしている。
カブトムシの飛翔筋の模型。
はにわや工房さんのマンマルコガネ。バンダイから出ましたがこちらが元祖ですよ。
広々とした大展示。
トビケラの巣からインスパイアされたといういくつかの作品。巨大化することで設計コンセプトが変わるだろうに、 そのまま相似拡大して「新しさ」を出しているように見える。うーん。華奢な構造のモジュール構造は人間用の建築には向かないだろう。
有名な建築家が参加。 デザインの「お手本」とするときに工学的な要素はあんまりいらないんだろうか。 バイオミミクリーというよりはインスパイアという感じ。
どれもキレイにしか見えなかったのでまぁ。メインターゲットではないんだろうなとあらためて思う。
和名のいろいろを組み合わせて新しい昆虫をつくる

話はそれますが、台湾が日本統治下にあった影響か、亜熱帯に広く住む昆虫の和名が「タイワンーーー」であることが多いように思います。 ラオスで見つけた昆虫がそのパターンである場合が多く、タイワン固有種と誤解を生みかねない不適切な和名ではないかと。実際私は誤解していました。
今後和名のルール化が目指される中で、地名が含まれるべきなのはその地域の固有種である場合ではないだろうかと思います。 (そういえば北海道にのみ生息するトウキョウトガリネズミなんてのも思い出しますね。)

昆虫食も売られてるやん!このスペースで将来、大昆虫食展を開きたいなぁとおもった。

さて、見に行く前から、うすうす気づいていましたが、そしてこの文章を読んだ方も気づいてきたかもしれないですが 、
この虫展は私はストライクゾーンに入っていません。外れ値だ。 もちろんブワーッと昆虫あふれる大昆虫展のほうがお気に入りだけれども、だがしかし。
気に入るということと、展示として興味深いことは別なのです。おそらく 展示学的にすごい判断が行われていたのではないか、と読み解きたい。それでは参りましょう。


はじめに提示するのは「世界一美しい昆虫図鑑」 クリストファーマーレー

レビューも投稿しました。そしてこちらが原著。

これは原著はアートワークなのですが、写真がたくさん入って情報が入っている分厚い本を「世界一美しい〇〇図鑑」と 名付けて売ることが一時的に流行したことを受けてのことでしょう。翻訳版が原著よりも安い、ということはそれだけ印刷したということで、一般向けに売れる方針をとらなければならないのでしょう。それは仕方ない。はたしてこれを学術的な文脈をもつ「図鑑」と位置づけていいものでしょうか。

だいたい昆虫の社会的位置づけが揺らぐと見に行くのは丸山先生、こんなことをおっしゃってました。

なるほど。学術の文脈を借りるのであれば、その文脈に対して侵害的であるのはマナーが悪い。
いくつかのアートワークでは折りたたみ、隠されている脚がいくつかの作品では取り除かれてしまっている。
丸山先生はただ批判だけして終わらない。(批判することはもちろん大事なのだが、そればかりでは外野から見ると息苦しくなってしまう) そのアンサーとして美しい書籍を送り出した。

その名もきらめく甲虫。
撮影技術、標本のクオリティ、そして角度を変えることで初めて「きらめく」はずの昆虫が 白い紙に平面に印刷されているのに、「きらめく」というそのすごさ。 大きい虫も、小さいむしもおなじぐらいに「きらめいて」いる撮影技術の一貫性 (同じように撮ってしまうと、サイズによってバラバラな写真になってしまうはずだが、そこが注意深く揃えられている。)
そして 次作

「とんでもない昆虫」
からの、共著者である東京芸大の福井さん作製のこの展示台につながるわけです。

多様性の極みともいうべき標本群。あえて分類群をまとめず、対比的に多様性を見せる並べ方をしている。
おわかりいただけただろうか。
ハムシの下の台紙の下になにかあるのを。

あえて昆虫の名前を隠すことで姿かたち、多様性に注目させ、ホワイトのバックにより清潔感をもたらす。 そしてラベルを「取り除く」という事もできたが今回は取り除かず、体の下に隠す、という方法をとった。
つまりこれは 学術標本の価値を全く損なうことなく、展示用に転用してみせたという意味ですごいのです。
更にいうと、ラベルを見せた展示もできたでしょう。 しかし見てわかるようにラベルというのは 採集当時に作られたもので、標本によっては黄ばみ、これまでの多様な昆虫標本では様々な時代、様々な人の字のクセが前に出てしまう。 このようなノイズを丹念に取り除く過程で、「ラベルを取り除く」のではなくて隠す、という選択をしたのでしょう。


この展示に敬意を送りたい。すごい。
しかし、生きた虫がいてほしかった。と「いろんな床材に苦しむカブトムシの映像展示」に釘付けになっている男の子をみて 思うのだった。生きた虫はすごい。強すぎて他の創作物を邪魔しかねない可能性を考えて、あえてここに置かなかったんだろうと思う。 生きた虫はラオスで楽しもう。そうラオスで。

ヨツボシヒラタツユムシ

以前にTwitterでテングビワハゴロモを評して「色彩構成でゼロ点」とコメントを頂いたけれど、これもまたそう。すごい。キャッサバの栽培状況を見に行っていきなりこれが現れるとインパクトがすごい。

人間の創造物だとしたら悪趣味で売り物にならない、と言われそうなデザインセンスを 「このデザインで生き残っている」という圧倒的存在感でねじ伏せる生き様!かっこいい! この虫の話もまた後でしましょう。