コンテンツへスキップ

ご報告です。まずはこちらをご覧ください。



ラオスでのプロジェクトがひと段落して、行き先が決まらずウロウロしていたのですが

以前から技術顧問としてライトに参加していたTAKEO株式会社から、声がかかりまして、「CSOチーフ・サステナビリティ・オフィサー」という役職で、昆虫食企業がサステナビリティを武器にしていくための戦略を立案すべく、しっかり参加することになりました。

蟲ソムリエとして、やるべきことはこれまで通りです。むしろ加速していきます。

2023年、いろいろなことがありました。
印象的なのがコオロギ炎上事件でしょう。不適切な昆虫食品の提供が行われたわけでもなく、不本意な形でコオロギを食べさせられた被害者がいるわけでもない、にもかかわらず、というか、だからこそ、なのかもしれません。ネットで誤読が広がり、我こそはと名乗りをあげる「不安の声」がこれまでも、そしてこれからも昆虫を食べないであろう人たちから立ち上がり、それを煽ることで、ネットで稼ぐ人やbotたちが大きな祭りを引き起こしました。そしてその中で、弱々しいながら発信を続けた人たちと、貝のように黙り込んだ人たちがいました。それぞれの判断の合理性について、解析していきます。

昆虫食業界はコオロギへの2020年ごろからの期待感がさらっと消え失せ、次の大胆な一手をなかなか打てない状況が続いています。また、とある界隈で「反コオロギ」が格好の商材として使われ、自説を補強するために都合のいいサンドバックのように叩かれ続け、これまでひっそりと昆虫を食べてきた人たちの肩身の狭い状況がつづいています。

一方で、私は2023年までのプロジェクトで、すでに社会受容が完了している国、ラオスにいました。では社会受容さえあれば、昆虫食ビジネスは軌道に乗るのでしょうか?そんなことはありませんでした。少なくとも昆虫食文化の中心である、ラオスの農村部の人たちが、農家として技術を習得し、昆虫養殖ができる、というところまでは確認しました。

次のステップとして、ビジネスとして流通を確保し、生産管理をするとなるともう一段階、高度な人材を雇う必要がありました。その人たちが、ラオスの農村部にどんな形で、何を期待して生活しているのか、どうすればこちらのビジネスに参画してくれそうか、というところまで、実態を把握してきました。それはこれまでのNGOやODAの活動で手が出されてこなかった人たちであり、新たな展開ができそうです。

次のステップは、ラオスの近隣国との連携を強化し、日本との商流をつなげるための関係性づくりです。それは日本の昆虫食業界を持続可能にするだけでなく、食文化としての未来のビジョンを、地続きで体感するための架け橋になるでしょう。

また、この「炎上」は、本当に昆虫食だけのものでしょうか?様々な政治的対立の「商材」として、これまでもいろんな象徴的な食材が消費されてきました。富裕層が「肉」を食べ、その副産物や廃棄物を貧乏人が食べさせられる、というフードシステムは、持続可能でしょうか?
ある食材を食べると健康になる、というエビデンスが得られたとして、その食材が貧困国で生産され、生産者の口には入らず、富裕国の健康な人たちに輸入される時、このフードシステムは、人々の幸福の総量を増やしていますか?

そしてこれらのような企業倫理の軽視は、その企業に対してどのような事業リスクをもたらすのでしょうか?専業の中小企業はどうでしょう?そしてコモディティ食品を生産している、大企業は?

まだまだ誰も見ていない、不透明でセンシティブな部分にあえて分け入り、火中の栗を拾いにきました。

年末年始の映画、ゴジラ-1.0にあるような「誰かが貧乏クジを引かなきゃなんない」のかもしれませんが、

蟲ソムリエという実務者として、そして当事者として、ガッツリ取り組んでいこうと思います。日本の皆さんをこれまで以上に巻き込んで、問題提起し、挑発していきますので、好奇心と共に見守ってくださるとありがたいです。

「ラオスにいるうちにセキショクヤケイを食べよう」と思いたち、私は村のニワトリをより凝視するようになりました。どこかにセキショクヤケイの遺伝子があるのではないか。彼らニワトリをニワトリたらしめているのはなにか?

書籍「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」においても、

セキショクヤケイの形質はゆれがあり、家畜化されたニワトリとも遺伝的交流があるとのことです。最近100年ほどでニワトリが愛玩動物、経済動物として期待され、ものすごいスピードで選抜されたときにも、遺伝子プールの多様性がその極度な合理化に、よくも悪くもついていけてしまった、と考えられます。

逆に言うと、別の要因で、遺伝的多様性がすでに失われてしまった野生生物は、すでに家畜化に適した遺伝子を失ってしまっていて、人類の歴史上、メジャーな家畜はもう二度と生まれないかもしれません。

ニワトリとセキショクヤケイはなんらかの単一形質や遺伝子マーカーでくっきり分けられることはないけれど、セキショクヤケイの性質のとことん濃いものを選んでいくことで、十分にニワトリと区別できるセキショクヤケイの形質が揃っていればOKだろう、と、この本になぞって自分の中で決めました。

5月の出張の日。午前中のオフィシャルな会議のため、村への出張で前泊しています。泊まりの出張では早起きして朝市にいくのが恒例になっていました。朝市といっても、彼らの本業は農業ですので、まだ暗い4時頃から開始します。

ラオス時間で5時半、これより早いと村の犬たちが警戒モードなので、めっちゃ追っかけてきて怖いです。

うん?これは?

ふつうニワトリはこのように死んだ状態で売られることはまずありません。傷んでしまうからです。この様子はたしかに奇妙。

こんな感じで、ふつうはカゴの中で生きたまま売られたり、
足を縛られて動けないようにして運ばれ、売られるのが、ラオススタイル。売れ残っても持ち帰れますしね。

すでに死んでいる、という売られ方は、ニワトリだとしたらすごく奇妙なのです。猟銃で獲られたときのスタイルに見えます。聴いてみました。「これは野生のニワトリか?」そうとの返事。値段は7万キープと確かにやや高めだけど、まぁ普通の値段。蹴爪が細く鋭く、さっくりと刺さりそうなのが特徴的ですね。書籍に識別情報のあったオスだけを買います。正直、メスを購入したところで識別する自信はないです。

そして一緒に売られていたものも、とても興味深いです。

養殖ヨーロッパイエコオロギの解凍(ラオスにはここまでの生産流通の仕組みがないことから、おそらくタイ産と思われます)養殖カエル、天然のキノコ、そして天然のセキショクヤケイ。

つまり養殖だから効率的、狩猟採集だから割に合わない、という単純な区別ではなく、彼らの合理性の中で、それぞれの事情をふまえて選択されている、と考えるのがいいでしょう。それぐらい自然が豊かで、人間が貧しいのがラオスの特徴です。日本の常識や、わかりやすく単純化したストーリーで語れるものはほとんどないです。

村で氷を購入し、会議の間、氷漬けで保管して、解体することにしました。ニワトリを解体した経験があるとはいえ、これは野生動物(である可能性が高い)ので、衛生管理にはめっちゃ気を使います。ダニがポツポツ見えますね、、、おそるおそる観察しつつ、、、、、

外形的な特徴をチェックしていきます。

「白い耳たぶ」と呼ばれる形質。これはセキショクヤケイの性質と呼ばれたこともあるものの、ラオスの家畜ニワトリにも見られるので、これだけで判断はできないとのことです。

グリーンに輝く黒い羽。これも死んだり乾燥したりすると失われてしまうらしく、繁殖期なのでこの美しさなのか、ニワトリとの違いははっきりわかりませんでした。

体重は測定したのですが、氷漬けの水がしみてしまい、正確ではないです。1164グラム。

羽をむしると1036g これを基準としましょうか。

消化管をチェックしていきます。そ嚢(上)と筋胃(下 砂肝ですね)に入っていたのはアリばかり。砂肝の中には、丸っこく角がけずれた石も見えました。ここまで完全にアリ食だと、短期間でも飼育されていた可能性は低いです。そしてツムギアリのような樹上のアリではないので、丹念につついて食べていたと考えられます。つまり狩猟されるまでは野生下にいた、と言えそうです。

胸肉とささみを見てみましょう。セキショクヤケイであれば飛べますから、ニワトリに比べて比率が高いはずです。

取り出してみるとふつうの胸肉、ささみに見えますが、
元々の体重が1kgと考えると、かなり割合が高いです。
書籍によると体重の15%の胸肉、5%のささみだそうで、とくにササミについて、ニワトリはそこまで大きくならないそうで、これはセキショクヤケイと判断していいでしょう。

細く長い蹴爪
白い耳たぶ
高いササミ比率
胃内容物のアリ

以上の形質から、晴れてセキショクヤケイ、と判断できました。それではこれを焼き鳥にしていきましょう。

あくまでこれは野鳥であり、鮮度その他、食中毒になっても責任はとれないと念押しした上で
食べてみました。
……硬い、、、、

野鳥なのですから当然です。以前にロードキルのキジを食べたときを思い起こします。2014年にさばいて食べた老鶏も同じような感じでした。

血抜きをしていないので血の匂いは強く、中から散弾のかけらが出てきましたし、お世辞にも「おいしい」焼鳥といえる味ではなかったのですが、これが原種の味か、、、と「おいしい経験」になりました。

最後にムリヤリに昆虫の話に戻しますが、いつでも家畜化(=目的に応じた形質を取り出すこと)ができるほどの、遺伝子プールの多様性を保つことが、まず大前提であって、ひとつの生物を家畜化するたびに、その他大勢の生物の多様性を遺伝子ごと全滅させるようなことは、遺伝子の濫獲であって、それでは今後、多様化する世界の気候やニーズに対してセキショクヤケイのようなスターはもう二度と現れないのではないかと思います。

「昆虫の家畜化プロセスにおいて、どう可逆性を担保するか」この遺伝資源の中には昆虫をおいしくたべる伝統知識も含まれます。これまで食べてきた人たちと一緒になにができるのか、
これまで食べてきた人たちを「やむをえず」置き去りにするならば、どんな問題を私達は抱えているのか。

そのような包括的な議論をしないと、効率が低い、地味なキジ科であったセキショクヤケイが世界的な家禽として君臨するようなことは怒らなかったと思われます。

今後鳥インフルエンザなどの猛威により、よりインフルエンザに耐性のある遺伝子が必要とされるかもしれません。ゲームチェンジはいきなり来る、というのは私達もコロナで体感したことです。そのときに、野生個体群が温存されているというのは、すでに絶滅してしまったオーロックスよりもずっとアドバンテージがあります。同じように、「今の価値観で役に立つ昆虫を取り出す」という近視眼的なものではなく「永続的に家畜候補遺伝子を自然界から取り出せるようにする」貯蔵庫としての自然界の必要性を、しっかり考えた上で未来を描いてもいいように思います。

こちらは村で飼われているニワトリ。

2014年の1月のブログで「逆にニワトリを食べてみる」という記事を書いてから9年。ラオスで進展があったのでまとめておきます。

家畜化前のニワトリの原種、セキショクヤケイGallus gallusを食べることができました。食べて考えたのは、今のわたしたちから「家畜化」とイメージできるものって、今の社会の価値観しか反映していない、ということです。わたしたちがいま、利用している家畜を見るとき、経済的価値をもたらす形質だけをピックアップし、そこに機能があるはずだ、という前提で正当化し、機能が見えないものを愛玩動物として切断処理してしまう。そして歴史的に失われた家畜は「淘汰された」とゴミ箱に入れスッキリ。

ヒトと家畜化動物との長い関係の中で、当時の人間がどう行動したのか、そこにどんな合理性があったのか、彼らの得たもの、失ったものが、現代からの視点では、かえって見えにくくなってしまうでしょう。歴史的な時系列を踏まえ、当時の価値観を復元し、そのプラスとマイナスの両側面を見ることが、まず大事です。

家畜化を安易に否定せず、美化もせず、今の価値観にとらわれず、正面から統合的にとらえることで、未来に向けた、家畜のビジョンを描けるようになるでしょう。それでは始めます。

ニワトリは原種が絶滅していない、生物としての源流を辿ることができる、ありがたい家畜です。ウシは原種、オーロックスが失われてしまったので、現代の家畜種の近親交配による遺伝病の回復方法がわからず、産業的に苦しんでいるそうです。冷凍精液が開発された1970年代以前の遺伝子型が追跡できないので、遺伝学的なルーツを探る古代牛復活プロジェクトなんかもあるとか。

2014年の「逆にニワトリを食べる」際のテーマは、昆虫試食会で参加者から言われた「昆虫を食べるなんてかわいそう」でした。動物倫理の意味合いでも重要なテーマでありつつ、昆虫が身近な人にとって、殺すべき、殺したくない、殺したくないのに殺してしまった事故の経験はあたりまえにあるでしょうから、素朴に感じやすいことです。じゃあ逆に考えてみよう。ニワトリはかわいそうじゃないのか?

このときは卵を産まなくなった老鶏をゆずってもらい、しばらくトノサマバッタで飼育したあと、自分で解体して食べました。労働として衛生面、安全面に気を使うだけでなく、血が出ること、苦しそうな呼吸、暴れる動きなど、心理的な疲労も大きいので、どちらも食べてみると、ニワトリの方がかわいそうに感じた、というのが私の主観的な体験です。

2017年からラオスに関わるようになり、多様な脊椎動物の屠殺に立ち会い、それが飲み会やお祭りのいち風景として目に入ったり、夜明け前の村の朝市で野生動物が売られ、次々と買われていく様子を見るうちに、次第に抵抗感がなくなってきた自分がいます。

生活の中で動物を利用することは、彼らにとって必要な生活スキルであり、昆虫食もその中にいます。たとえば犬やネコなど、去勢や避妊が一般的でないラオスにおいては、だれかが個体数を調整しないといけません。人間が動物を管理する手段の一つとして、当たり前に屠殺があること、その生活感になじみつつあるようです。

少し話がそれました。ニワトリに戻しましょう。ラオスでは村でも街でも、ニワトリはいたるところに自由に歩いていて、ときにヒヨコを連れています。2023年1月のある日、とある雄鶏が目に入りました。自由がなく、つながれていたのです。

これがその写真。

ヒモにゆわえられていて竹を掴んでいます。これはなんだろう?とラオス人スタッフに聞くと

なるほど。その後のリプライをいただいて良い書籍にめぐりあえました。

ここからはこの書籍「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」を読みながら勉強する形で、ラオスのニワトリの全貌をみていきます。この本はストーリーの語り口がダイナミックで引き込まれます。大きな流れとして、第一章に「経済動物として圧倒的なニワトリ」の話から入ります。

産卵鶏の年間産卵数は290個、寿命は産卵数が減り始める、700日。本来のニワトリの寿命は15年なのに、殺され廃棄される。
ブロイラー(肉用鶏)は50日で2.8kgまで育ち、そして殺される。その種苗は大企業が牛耳る。
産業として卵と肉の鶏はくっきり分けられ、兼用鶏という歴史的にメジャーだった利用は消滅。
当然だが、産業レベルの「効率のいい」ニワトリの恩恵は、貧困国には届かない。手作業・低効率で育てた地鶏は、商業レベルのニワトリと同程度の価格をつけられ、その労働は安く買い叩かれてしまう。

そして第二章、少なくとも9000年前、「家畜化初期」にだれが何をしたのか、筆者はラオスの現場に出向くことで、その謎を紐解いていきます。前半の「超効率」なニワトリの姿とは打って変わり、そこには面倒で臆病で、森の片隅にひっそりと住む、地味なキジ科の野鳥がいたのです。その名もセキショクヤケイ。

セキショクヤケイを家畜化したらしい、ここのタイ・ラオスの人たちは、とても現代の脅威の経済性を見越して、この鳥を飼い始めた、とはとても思えないのです。おおらかであそびがあって、恵まれた自然を背景に、夜明けとともに働き、昼前には休憩する。こんな気候から、なぜ家畜化をしたのか。「遊び」としか言いようがない。

この本を読み終え、私は思います。「ラオスにいるうちにセキショクヤケイを食べたい」と。

後半に続きます。

2ヶ月前になってしまいますが、3月10日、お誘いいただいたので要旨を書いて応募して、発表してきました。英語発表めっちゃ緊張しますね。なんでこんな異分野に踏み入れたのかといいますと、2年前、読書をしていたからです。

そしてTwitterでつぶやいていたところ

読んでわからんわからん、、と、うんうんとうなっていたところ、訳者の太田先生からメッセージが届き、やりとりしていたら「発表してみませんか?」とのこと。

いやーとっても良かった。「日頃、重要に思っていたけどこれってなんて名前で呼んだらいいだろう?」みたいに思っていた概念がバチッバチッと用語を得て脳内でハマっていって、とても刺激的な体験でした。

やはり問題は一緒で、研究者が、貧困の現場に来れないことで、網羅的、体系的に物事をとらえるべき研究分野全体が偏り、学問の進歩が大きく遅れているだろう、ということをあらためて理解できましたし、

研究者が現場に行って、当事者の困難と直面したテーマの研究のほうが、既存研究、先進国のこれまでの態度に対する批判の切れ味が鋭くなっていました。では昆虫食でも「同じような問題」が起こっている、というべきか「違う問題が起こっている」というべきか、どうにか魅力的なロジックに起こしていきたいところですが、今回の学会発表ではまだ、事例紹介が主になってしまいました。察しのいい研究者のみなさんは、そこに倫理学上の本質的な問題があるぞ、ということはあっという間に感づいてくれたようです。が、私のまだまだ力不足。

次の課題は、食農倫理学の研究者が、昆虫食で成果を出したり、論文を書いたりするようにできるにはどう介入できるか、というところでしょうか。(私が書くことも含めて)

今日、深刻化している様々な問題は「厄介な問題」(wicked problems)と呼ばれており、残念ながら明快な解決策があるわけではありません。これらの問題に対処するためには、フードシステムの多様性と、経済、産業、文化、健康、生活、自然といった他のシステムとの複雑で精緻な相互作用に、注意深く目を向け、読み解いていく必要があります

https://www.apsafe.online/apsafe2023/apsafe2023-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/

いやほんとそう。しかしさ、なんで昆虫食の発表がこんなに少ないの?と思ってしまうほど、ラオスで私達が典型的な問題に直面しているものの、書籍でも、学会でも、昆虫食が題材に扱われない点について、やはりうがった見方をしてしまうわけです。「この食農倫理学という分野全体が、昆虫を食べない人たち=つまり先進国エリートだけの「群盲、象を評す」によるものではないか?」と。

また一方で、「彼らが触れている典型的な食の問題が、昆虫食でも顕著に起こっているということは、食材の事情によらない、普遍的な知(問題提起)がここに存在するのではないか?」ということも同時に感じるわけです。

まだ私の中に答えはないです。大前提として、「厄介な問題」を説明するだけの絶対数としての研究者が足りない。そして足りない中、個々人の研究者の「好奇心」にその分散を頼っている、ということは、国際協力における優先順位の付け方との競合が起こりうるのではないか、とも思うわけです。その一方で、好奇心が有限な資源であることも理解していて、「有限な資源である好奇心をどのように社会課題に向けて分配しうるか」あたりも、考えています。

現状、研究者の好奇心にナワをつけるわけにはいかないので、自由な好奇心に任せているわけですが、そうするとアクセスの悪い昆虫食は後回しになってしまっているわけです。

感染症研究におけるデング熱のような、途上国の人たちの命だけを奪う「NTDs ネグレクテッド トロピカル ディジーズ(無視されてきた熱帯病)」では、名前がつくことで、ようやくその遅れが認識され国際プロジェクトが組まれた、という経緯があります。

しっかり昆虫食が「ネグレクト」されていることを明らかにし、「ネグレクトされてきた昆虫食農倫理学」を改めて組み直し、ではどうしたらいいのか、「開発昆虫学」あたりで、応用昆虫学・民族昆虫学・文化昆虫学を統合して再構築するような形を、悶々と考えています。

はじめにお断りをしておきます。私はこの映画に文句を言うために観ています。

前作、「炎の王国」の段階で、あぁこの映画の路線はもうノットフォーミーなんだな、と気づいてしまったわけで、一作目のファンとして、潔くこのシリーズから離れよう、としたところ、最新作は「バッタ映画である」との噂をききつけてしまい、興味をそそられてしまいました。さすがに映画館で観るものでもないなと待ち、アマプラでみることにしました。

あ、バッタ映画だ!

そうなのです。恐竜たちは今回、人間とかバイクとかゾイド、カバに置き換えても全く問題ないです。Vtuberが選ぶアバターぐらい、恐竜のガワである必然性はまったくなく(恐竜であることの必然性は前作でぶち壊したわけですが)、観客に3Dで映えるスパイスを提供するだけのアトラクション的存在で、物語の主軸からは大きく外されてしまいました。

主役はバッタ。伊勢エビぐらいの、トゲトゲとして、ほどほどのむっちり感に巨大化をした、白亜紀のDNAをもつバッタが、ずっと物語を引きずり回していました。バッタをどうにかしないと食糧危機がうんぬんかんぬん、だそうです。

サイズといい体重といい、このぐらいの伊勢エビ感。

以下ネタバレしますが、ファンはもう映画で観ていますよね。いいですよね。

炎の王国のラスト、突然、最終作のキーマンみたいな感じをプンプンさせる、クローン少女が現れます。最終作には一作目の主要人物、いうてみればおじいちゃんおばあちゃんが再登場するわけですから、ファミリー向けエンタメ映画である以上、年齢構成は大事ですよね。これは、、、恐竜たちに同類的な憐れみを感じて逃がすためのキャラクターですね。時代を飛び越えるというなんかそのアレみたい外来生物問題は気にしない少女。そして闇のオークションにかけられそうになっていた恐竜型遺伝子組み換え動物たちは、野に開け放たれるのです。

そして今作、4年後、主人公カップルは少女と山奥に同居し、悪徳な(?)やつらから恐竜型動物たちを保護する(?)活動をする一方で、開け放たれた恐竜たちは野外に定着し、いろんな人身事故を引き起こしていました。

侵略的外来種としてすでに定着しているにもかかわらず、相変わらずマフィア的な人たちによって行われる闇(?)のオークション。もうすでにわかりにくい!
「麻薬王のカバ」的な話、と考えればいいんでしょうかね。
※麻薬王のカバ、というのはコロンビアの麻薬王が密輸したカバが繁殖・野生化して外来種として問題になっているものの、地元住民にはそこそこ愛されてしまい駆除が進まない、的な状況です。

写真はコビトカバ
カバの頭骨はわりと恐竜と戦えると思う。

とにかく逸出した恐竜型遺伝子組み換え動物の分布が示されていないので、野生なのか飼育なのか、養殖なのかがわかりにくい!これはノネコ問題、としてみればいいのか、、、?外来種でありならが高級食材のシャンハイガニ的なものなのか、、?とにかくオリジンの人たちの飼い方がマズいので、飼い方が確立していない大型の動物、買いたい人ってどのくらいいるのか、、、?

んでさ、シリーズを通して、人間のみなさんがウッカリすぎて、セキュリティがいつものごとくガバガバで、恐竜型クリーチャーがどこにいるか、どこにいないか、ワチャワチャになっていることが明らかになっていきます。もう人類滅びていいぐらい。これは正規の方法では航空機が飛ばないんじゃないかなぁ。滅ぼしたほうがいい気がするぞ、、、

さて、ワチャワチャしますが、結局恐竜はあんまり問題とされてないらしいです、、、が。恐竜の問題をきっちりとらえないと(危険度が上がりすぎてまともなフィールドワークもできないでしょうから、保全生態学はかなり後退していると考えられます)最後の判断、バッタ殲滅もちょっと怪しくないかと思ってしまうわけです。

バッタの話をしましょう。

白亜紀バッタのDNAをサバクトビバッタに組み込んで巨大化したバッタと、そのバッタに耐性のあるコムギを販売することで、バイオシン社はセコイ商売をしようとしていたっぽいんですね。そんなんすぐバレるじゃんと思うんですが、なぜか(生の草でなく)実が乾燥して収穫どころになったコムギで育つのを食べている、よくわからないバッタなんです。生の草を食べるサバクトビバッタのケースにも、エサが置かれていないのであんまり飼い方の様子がわからないです。

そしてこのバッタ、なぜか知らんけれど人間の服を噛む行動をします。これもよくわからん。んで、この人為的に逸出した恐竜型クリーチャーについて、外来種問題にしたくない、っぽいんですよね。なぜかバッタが大きな部屋で、フタのないケースで飼われている。もーこれは逸出させたいとしか思えない。最後の方、バーナーで焼いたらなぜか通風孔から燃えたバッタが逃げ出すという、設計段階から狂っている、まったくよくわからないアクシデントがあるんですが、これまで一度も試運転しなかった装置をいきなり使うんですか、、、?

「人間に対するバッタの被害」に注目しだすと、恐竜のほうが被害出るじゃん、とかバッタによる食糧危機と恐竜による食糧危機(逸出したやつらが繁殖しているし、農作業に対する危険度がバク上がりしているし、すでに食糧危機だと思いますが)を比較するのを避けている様子があります。

んで、一作目ファンへの介護(笑)として、博士三人衆、古生物学者グラント博士、植物学者サトラー博士、数学者マルコムを再登場させなくてはいけないわけですから、植物学者の出番をひねりだすための苦肉のバッタなのでしょう。

恐竜による被害から目をそらすための苦肉のバッタ、これしっかり直視しないと、「肉食恐竜がバッタを食べるシーン」があるんですね。これ、、、恐竜による人的被害、食糧危機が(見かけ上)起こっていないのは、バッタが支えているから、という可能性すらあります。

池でかいぼりをしてブラックバスを駆除したら少し遅れてアメリカザリガニが大発生したり、小笠原諸島でヤギを駆除したら、競合だったネズミが増えてしまい、希少種が食べられてしまった、なんて話もあったりするので、外来生物同士の競合についても、しっかりふまえたうえで対策を検討しないと、「バッタで食糧危機」なんて単純な話をするサトラー博士、、、これ、買収されてませんか?

そして最後、ラボを失ったウー博士が、病原体を感染させた一匹のバッタを放つところで話は終わります。え、解決しないの???モニタリングをだれがするの? 不妊虫放飼みたいなのってもっとたくさん放つ必要があるんじゃないの?

結局バッタ対策がグダグダになったまま、シリーズを通じてCRISPERみたいな特異性の高い遺伝子編集技術もできてしまい、ほとんどの人類がmRNAワクチンも打ったばかりですし、不妊虫放飼による外来種対策なども成功事例が出てきてしまった以上、なんだか、、コンセプトが古い、、んですよね。しかたないこれで最終作だし、、、

ドジスンぐらいしか面白シーンなかったじゃねえか。あとCGちょっと荒くないか、、、
やたら丁寧にいろんなバージョンでおどかしにくるバッタにも第一作にも興味がない人たち、大丈夫だったんでしょうか、、、、


英語ではKidney Garden Spider(Araneus mitificus) 日本ではビジョオニグモ(Bijoaraneus komachi)と和名がつけられているクモに似ていますが、最近、別属となったそうです。丸顔でヒゲのおじさんが腹部に見えてくるので、「プリングルス・スパイダー」として本家プリングルスまでが乗っかって通称の変更?の署名までやっています。
学名はよっぽどのことがないかぎり変えられないですが、日本では和名について共通規則はないものの、英語名ってどうなってるんでしょうか?まぁお遊びでしょうが、もしそうなった場合、文字商標とかどうなるんでしょうか。

Araneus mitificus 茹でて味見。 小さいがプチっとした食感とすこしのぬめりがあり、香ばしさと旨味が広がる。クセはまったくない。枝豆系の爽やかな香り。おいしい。プリングルスよりずっとおだやかな味わい。名前は同じになったとしても、味はほど遠いですね。しかしこれはこれでおいしいので、もっとパンチの弱いヘルシー路線で、枝豆ベースにした「プリングルス・スパイダー味プリングルス」を出すのはどうでしょうか。

いい論文を教えていただきました。国際協力の倫理で言うとまぁ当たり前だろうなと思えることですが、その問題提起が生態学者の間から出てきた、と言う意味で、いいタイミングだと思います。

あくまで「整理」が目的ですので、政治的な提言は弱めですが、タイミングが大事。

地元の生態系を保全するような、優れた生態学的知識について、保全生態学者は高く評価しますが、地元の彼ら自身に「生態系に価値がある」という考えが普及しているから守られているのではなく、貧困や、選べる選択肢が奪われていたりといった痛みの伴う状況がある。そのとき「部外者」である先進国の研究者は、手放しで褒めたり、知見を論文で公開するだけで「全人類に貢献」したような気分になって、現地の貧困を温存するような態度でいいのか、それがフェアか、と言う批判的な視点が展開されていきます。

少し話はそれますが

ラオスにいても思うのですが、学会発表したり論文発表しただけでは、「フェアな貢献」にはなっていないのを実感してしまうわけです。高等教育はおろか、小学校はとりあえず卒業し、読み書きや簡単な計算も十分でない村人が多く、スマホも持たず、ネットにアクセスするにはその日の稼ぎの大きな割合を消耗しないといけない人たちが住む地域。

彼らから聞き取って得られた野生食材利用の伝統知識や、彼らが温存してきた食習慣にマッチさせることでモチベーションを保ってきた昆虫養殖普及プロジェクトの「成果」を、英語で「全世界」に公開したとしても、その情報にアクセスできたり、正しい情報とフェイクを見分けたり、それを理解した上で応用できるようになるには、先進国の高等教育を受けられる環境が必要なわけです。その環境がない人たちに「公開」された情報が公平に届いているか。

このバイアスによって、研究者の仕事が、「役に立つ」ものであればあるほど、貧困地域の知見を吸い上げて、エリート層の強化に使われる、単なる格差拡大のポンプになってしまいます。こういったことは「現場の実感」がないと、ここらへんの加害者感、無知ゆえに加害者になってしまう恐怖感、不公平感はピンとこないでしょうから、どうにか、昆虫食活動家としての立ち位置から、伝わりそうな表現を開発していこうと思います。

貧困と栄養に対する農業的介入の概念図

昆虫食=つまり豊かな自然を背景とする多様な野生食材利用すらも、貧困が温存している、と言えてしまうわけです。彼らには所得向上への欲求がありますので、現金の得られる商品作物や、都市部や隣国タイへの出稼ぎなどの行動の変化は起こりやすいですが、所得と栄養をバランスさせる発想がないので、私達の農業支援が、かえって栄養状態が悪化させてしまう、ということが起こりえます。

あらゆる問題に貧困が影響を与えている時、そしてその貧困が国際的に作り出され、力関係によって固定されている時、そこに何らかの立場=ステートメントを表明しないとSDGs=貧困撲滅を最大課題とした統合的な取り組みに対して、何か貢献するとは言えないんですが、「〇〇番に貢献するかもしれないからSDGs」といった、安易なキャッチフレーズとしての利用が多いだけでなく、そしてそこに批判的になるべき大学が、キャッチフレーズだけに乗っかって、何のアクションもしないのも気になります。

グリーンウォッシュの分類。

話を戻しましょう。

生態学者は、これまで伝統知識を素晴らしい、社会・生態系システムの未来の選択肢を示すものだと賞賛してきたのです。この論文による批判は、「何にもとらわれない、自由な発想」と自認してきた研究者のコミュニティに反省を迫るものでもあります。高等教育を受けた人たちだけの集団ゆえに、現地の彼らの貧困や困難な状況に気づけなかった、つまり(本来学問が目指すべき)総合的な理解を後回しにして、偏った集団が巨大なセキュリティホール=貧困の影響や、脱出に利用されるべき基礎的な知識の蓄積、を見逃してきたのでは、との指摘です。

このような研究者コミュニティにとって「居心地の悪い」ことをあえて指摘し、方針転換を促す、というのは新発見のような華やかさに欠け、コストの高い、その割に評価されにくい行為ですが、その居心地の悪さを飲み込んでこそ、その先の「バグを直した」研究分野の発展と、それを支える研究倫理が見えてくるだろう、というのがこの論文の方針です。

ある地域にとって、生態系というのは共有財ですので、個々人が最適に振る舞うことで、かえって共有財としての機能が失われてしまう「共有地の悲劇」という現象が(なにもしなければ自然と)起こると想定されます。世界的な社会問題、環境問題も、各国がそれぞれ、互いの調整をしないまま最適化を推進しすぎた結果、とも言えます。

多くの伝統的な生態学的知識(Traditional ecologial knowledge)は、共有地の悲劇を防止するための強力なフィードバックがあり、それらが伝統的に維持されるための要因を3つのジャンル(知識・社会・生態系)で整理できます。それぞれのジャンルにはシステムレベルによってパラメーター、フィードバック、デザイン(戦略?)、インテント(動機?)の4つのレバレッジに分けられる、とのことです。上に行くほど測定しやすく、下に行くほど測定しづらい深い階層、だそうです。それらのレベルに対して、TEKが「侵食」される状況についても整理しています。
Fig1-Aを日本語訳したのが下の図です。

FIg1Aの翻訳

TEKの知識そのものは個人に記憶されているものですが、それが失われないためにはフィードバックがあるはずでで、それらが存続していくための戦略的デザインや、内発的な動機も存在するだろう、と理解できます。
隣のジャンル、社会としてみると、文化の伝承という形で知識は温存され、地域における情報伝達様式(口伝や文字・図など)によって知識の散逸がおさえられ、社会関係によって持続可能な土地利用が保たれ、それらに対する願望があるゆえに、その行動が維持される、となります。

3番目、生態系の視点から見ると、高い生物多様性が保たれれていることが指標となり、自然資源利用が持続可能になることで、その集落は結果として長い歴史をもつことになり、これらの行動の変化は、生態系と社会の共進化によって緩やかに変化してきただろう、と考えられます。そのとき、自然のダイナミクスは、その地域の人間が生きるためのあらゆる選択肢を参照させてくれる存在といえるでしょう。

一番右の列、これらTEKが侵食される要因についても、同じくレバレッジで整理できます。人口動態の変化は知識や文化、生態系の安定性を崩すでしょうし、資源環境の危機、現代的な政策・制度の拡大はこれまでの生活を買えてしまうでしょう。そして何の防御もないまま資本主義が導入されると、生態系には手段敵価値しか認められなくなり(今すぐ役に立つものだけを評価する)長期的ではなく短期的な現金に注力してしまいがちです。

このような時間的変化は図Bで説明されます。

生きているTEKは現地の生活と生態系利用が統合され不可分ですが、それらが「開発」によって徐々に離れてしまい、最終的にはその地域の経済的な農業、あるいは産業化によって関係性が希薄になり、知識が失われると、最悪生態系そのものが破壊されてしまいます。

これらの整理から、著者らは4つの仮説(論点)を提案しています。
1,階層のミスマッチ

指標やフィードバックなどの、測定しやすい浅い階層と、戦略や動機といった深いレベルに不一致がある場合、一見TEKが守られているように見えても、彼らの行動がTEKを壊してしまうことがあります。(ラオスだと現金収入を求めて伝統的な農業を放棄する、母乳育児を諦める、などです)

2,外部からのルールやパラダイム

高いレベルの社会政治的文脈は地域の社会生態学系システムやTEKに悪影響を与えうるインセンティブやアイデアを押し付ける可能性があります。そうすると彼らは知識があるにもかかわらず、行動はそれとは異なる状況になります。例えばコミュニティが生態系と強く結びついていたとしても、個人が外的要因によって奨励された行動は生物多様性に害を及ぼすかもしれません。このような状況では、地元の人々が環境に有害であることがわかっている農業を使用する可能性があり、とくに経済的インセンティブがあれば、その変化をいとわないでしょう。地域コミュニティがTEKを維持するためには、(外部からのルールを排除するような)政策決定をすべきか、明らかにできるでしょう。(ラオスの農村部が、土地が痩せるとわかっていてキャッサバ栽培が猛烈に広がっている、という状況をみるとこんなかんじです。作れば作っただけ売れる、海外に買い取られる、という状況はある種のバブルみたいになっています。当然ですが、数年後に大不作が来るでしょうし、それを彼らも知りつつ、現金というインセンティブのために、そうしない、という選択肢が事実上、ありません。)

3,腐敗した動機

腐敗した政治体制は硬直化の罠(誰もが間違っているとわかりながら前例踏襲しかできない)に陥りやすく、人間の主体性と社会資本を劇的に損なわせる可能性がある。この仮設(視点)からの研究を行うことで、社会的イノベーションが地域社会の地kらを高め、人と自然、人と人のつながりを再構築するのに役立つ方法を引き出す。(強権的な政府では、立ち退きさせたい反政府的な地域や民族のいる土地にダムをつくったり植林をしたり、といった腐敗的な手法が使われることがあります。そのとき彼らの地域とのつながりを切断することに、何らかの政治腐敗を嗅ぎつけないといけないのでしょう。)

4,文化の希薄化

地元以外からの新しいコミュニティメンバーの移民、移動は地元のTEKを希薄化させることで、伝承に必要な文化的基盤を弱める可能性があります。この仮説(視点)によって伝統的な自然と人間のつながりや、TEKの伝承を失うことなく、革新と更新を可能にする方法を探る事が可能になります。

結論
TEKは生物多様性の保全と地元の生活の療法にとって高い価値がありますが、伝統的な知識の存在そのものをミームとしてロマンティックに美化するべきではない。なぜなら持続可能性ではなく、貧困の特徴である可能性があるからだ。上記の4つの仮説・論点は、TEKを持続可能な未来のために存続させる、公平な方法を見つけるための出発点となるかもしれない。

ということです。

ラオスにいると、うなずくことばかりなんですが、このようにロジックに強い研究者へ、居心地の悪い提言をするためのロジカルな仕事、というのは本当に大事です。研究者も含め、先進国の多くの人は自分より低待遇な人たちに関する、不都合な事実に目をつぶることへのインセンティブがあるからです。

逆に言うと、研究者は自身の研究分野を属人的なものではなく、総合的・体系的な知識へと発展するインセンティブがあるわけですから、格差や差別の解消を高いモチベーションとともに取り組めるはずです。やろう。

TEKを称賛する研究者たちが、その持ち主が、その知識を、将来に渡って間違って使わないよう、実践的な知識へと「開発」できるような継続的なサポートになっていくことで初めて「普遍的な知識」を「世界に貢献」する、と言えるでしょう。

逆に言うと、素朴にその知識を浅い階層で観察し、称賛して、「発見」しただけでは、そこに横たわる深刻な貧困に、気づかないインセンティブが働いてしまうのです。

ラオスの国際保健の分野にいることで、色々と勉強をしてきたんですが、「タンパク質クライシス・タンパク質危機」と言う話を、とんと聞かないなと。確かにタンパク質は、重要な栄養素ではあるものの、世界的に、タンパク質を増産して、人々の栄養を支えよう、という旗振りをしている人が誰もいない。

昆虫食品の生産者、販売者、そして「代替肉」の議論でよく言われがちなのが、将来、人口増加によるタンパク質不足が起こるので、そのために安定生産をしなければならない、です。これもまた奇妙です。歴史的経緯をまとめた論文があったので、勉強しました。ちょっとまとめてみましょう。

1、栄養不良の人たちの一食と、栄養が足りている私たちの一食は同じ価値ではない。

「増産」が栄養に貢献する、と信じる背景には、栄養が公平に配られているはずだ(配られるべきだ)と言う価値判断があるでしょう。満腹なお腹に押し込む、シメのラーメン、スイーツは別腹、など、娯楽的に食べられる食事よりも、栄養が足りていない人たち、発育初期での成長が阻害されることでその後の人生にわたって何十年も、悪影響を受け続ける子供に届けるべき、と言うのは、直感的にも信じられるし、人類の最大幸福を目指す功利主義哲学とも一致するので、あまり論争はないでしょう。そうすると「栄養問題」の主人公は当然ながら「足りていない人たち」となります。

足りている私たちの食べ物を効率的に変えることが、回り回って誰かの栄養になる、というトリクルダウンを信じたいところですが、人類の食糧が十分以上生産されている現在ですら、10人に一人が栄養不良なのです。残念ながら、これが「ただ一つの何かの増産」によって解決する、と考えている国際保健の人たちは存在しません。なぜなら、栄養不良の原因と背景が多様で、その解決に至るアプローチも、同じように多様でなければ効かないからです。それが1970年代以降の「栄養」分野の蓄積でした。

2、「給食に脱脂粉乳」はあまりに鮮烈な「栄養介入」の印象を残しすぎた。

日本での「栄養介入」の鮮烈なイメージは、戦後給食による脱脂粉乳でしょう。飲んでいた世代も団塊世代以上になりますが、いまだに栄養介入といえば給食とタンパク質、というイメージはこの時の風景を引きずっています。当然ながらあれから50年以上経ちますし、研究は進み、介入アプローチは変わっています。生後1000日が、最も重要で、解決すべき栄養不良で、その投資効率は16倍に達する(この時期に1ドル栄養介入した時の長期的な経済効果は16ドル)となり、人類にとって最も投資効率が高い分野が栄養、とも言われています。たしかに給食アプローチは(子供が労働力である貧困地域においては)出席率の向上には効果がありますし、みんなに平等に配ることで、貧困世帯であっても気兼ねなく、栄養を補完することができますが、先進国では世帯ベースの支援が基本で、「給食で栄養を補っている子供」がいたとしたら、そこに集中して福祉が介入した方がむしろコスパが良い、と言う結論になっています。並行して、就学児以降に栄養を補完しても、ある意味手遅れで、生後1000日の間の栄養不良はリカバーできないこともわかってしまいましたので、途上国におけるアプローチとしても、印象の割に効率的な介入ではないことも判明しています。

3、The Rise and Fall of Protein Malnutrition in Global Health (国際保健におけるタンパク質栄養不良の盛衰)

それでは今回のキモ、総説に移りましょう。
「タンパク質危機」「タンパク質ギャップ」は国連が1950年代から70年代まで国連がえらく注目して警鐘を鳴らしていたが(日本の脱脂粉乳支援も同じ文脈)、今やそうでもない(タンパク質も含めて総合的に判断・介入せよ)という、まぁ普通な話です。地味な話ほど検索では引っかからないので、せめてここに残しておきます。

やはり研究の進捗により栄養における重要度ランキングは上下しています。1950年代から70年代まではタンパク質、その後長らく微量栄養素の隆盛があり、診断基準が整備され、その上で感染症対策におけるワクチンなどの効果が発揮され、2000年代に乳幼児死亡率の劇的な低下という、MDGsの大きな成果があった後に、2015年からの貧困対策、農業、環境、民間セクターを巻き込んだ統合的な介入を目指すSDGs、という話になってきます。つまり「SDGs」という文脈で、1950年代の話をしていては、チグハグになってしまうのです。

1930年代、劇的な発見がありました。劇的な発見は、国際社会を大きく変えるものです。アフリカで「クワシオルコル」というタンパク質不足を原因とする(らしい)疾患が発見されました。「お腹のぽっこりしたしんどそうな子供」の写真を見たことがあるでしょうか。外見的な特徴から診断されるのですが、その後の死亡率が高いことから、発症後の治療よりも原因究明と対策が必要でした。母乳栄養が中断した子供に起こりがちであること、肝油と牛乳の組み合わせで改善することから、トウモロコシなどの栄養バランスの悪い食物による非感染性疾患と考えられています。

1949年、FAOは発展途上国で全般的にクワシオルコルが広がっているのではないか、と調査を開始し、専門家委員会を結成しました。アフリカでは調査地全てで発見され、牛乳を飲む部族では見られないこと、中央アメリカやブラジルでも見られることなどを発見しました。

1952年の会議で「タンパク質栄養失調 protein malnutrition」という用語が導入され、母親、乳児、子供の栄養失調に特化して議論が進みました。その中でmarginal(ちょっとした)な、subclinical disease(医者にかかるほどでもない疾患状態)が慢性的に起こっていると指摘されました。

ちょっと解説しますが、これはグローバルヘルス(国際保健)が、病院にかかるまでを支援したり、病院の外での日々の生活向上に口を出すことの背景ともなっています。私たちは何か違和感があれば病院にかかりますし、出産はほぼ病院が定番ですが、ラオスでもよく見ますが自宅分娩であったり、何か違和感があったら病院の前に祈祷師に相談するなど、やはり「保健」病院にかかる前、病院の外の行動が、病院そのもののレベルアップにも必須ですし、彼らの生活をサポートするために必要だ、と言われています。

1955年の会議では、「欠けた桶」のイメージで知られる論点が示されました。つまりタンパク質の質(必須アミノ酸のバランス)と量とが、重要であるとの結論です。「かけた桶」のイメージは、例えばトウモロコシをたくさん食べることで、見かけ上のタンパク質をたくさん取れていたとしても、必須アミノ酸であるリジンが不足していると、リジンの最大値までしか、他のアミノ酸も利用されない、無駄になってしまう、というものです。

oke_riron1.png (681×754)

そこで二つの戦略が示されました。地元で生産される「おかず」として、野菜や魚の生産と消費を推奨するアプローチと、安価で保管しやすい、補完的な栄養食品の生産と配布です。

一連の研究の中で、クワシオルコルの手前となる「低身長」が、重要な指標であることも示されました。年齢に対する身長の伸びの悪さ(Stunting)はラオスの農村部でもいまだに続く問題です。

1955年 国連タンパク質アドバイザリーグループ(PAG)が結成されました。PAGの目的は、WHO FAO UNICEFに、「タンパク質リッチな食料プログラムの提供」が目的とされました。

1960年には、異なる文化の食習慣を理解するために、社会科学の専門知識を取り入れました。(このアイデアは素晴らしく、ここで昆虫食も入るべきだったんですが、これは60年ほどしばらく後回しになるわけです)ここでは栄養教育、社会科学者の関与、食習慣を研究する方法、新しい食品を導入する方法を見つけることが目標とされました。ここでカロリー当たりのタンパク質、年齢・体重当たりの身長の伸びの悪さ、を指標とする「タンパク質カロリー栄養失調」という用語が定義されました。(後に、低身長の原因はタンパク質だけじゃないよと指摘されるわけですがこの時はそう指標が決まりました。)

1963年の会議では(給食ではカバーできない)就学前児童へリーチする方法が議論されました。1965年の会議では、牛乳、食用魚、穀類、リジン・メチオニンの生産、大豆、綿の種、紅花、トウモロコシのアミノ酸バランス向上がトピックとなりました。(ここでも昆虫は一切出てこないです。)
途上国の子供に脱脂粉乳を提供する(日本の脱脂粉乳給食もその一環ですね)アプローチはモーリス・パテが関与し、1965年、ユニセフはノーベル平和賞を受賞します。ノーベル賞をとってしまうとそこに異論を挟むのが難しくなるというのはまぁどこでもそうでしょうね。

1968年「タンパク質ギャップ」「タンパク質危機」という用語が登場します。即時の対応を必要とする、世界的な緊急事態である、という警鐘を鳴らすものでした。

タンパク質危機を回避するための国連の政策目標 1968
1、従来の人間が直接消費する、植物性・動物性タンパク質の増産の促進

2, 海洋漁業と淡水漁業の両方の効率と範囲の改善のための行動

3、農地・倉庫・輸送における不必要なロス(今ではフードロスと呼ばれますね)の低減

4、油用種子や油用種子タンパクの人への直接利用の促進

5、魚タンパク質の利用促進

6、合成アミノ酸の利用と穀物・野菜からのタンパク源の開発、合成栄養素の利用

7、単細胞生物由来のタンパク質の飼料用・人間用の利用

あれ、相変わらず昆虫食は蚊帳の外ですが、現在語られている「タンパク質危機」「食糧危機」の話と全く同じに見えますね。そうなんです。今の代替肉や培養肉で広告される「タンパク質危機」は、1968年のグローバルヘルスの議論から発しているものの、彼らはこれを引用しません。なぜかというと、この議論はだいぶ古いのと、「新しい」肉を売りたい企業が、1960年代の古いコンセプトで考えていることがバレてしまうと、企業価値を下げかねないからです。営利企業である彼らが、公平な議論を運営することの限界が、ここにあるでしょう。彼らを非難するつもりはないですし、私が雇用されたら、こういった議論を減らすかもしれません。総合的な議論をすべきや行政や大学の責任ですが、まぁそこら辺の批判は直接届けています。変わるかどうかは彼ら次第でしょう。

余談ですが、「石油タンパク」が大きな反発を受けたのもこの時代です。消費者団体が、酵母の培地の原料であるパラフィンに発がん性物質があるのではないか、と不信を募らせて、1973年に申立書を提出、大きな行動へと拡大しました。食品安全法に「新規開発食品」が定義され、実質的に販売不可となりました。
「食品と健康被害との因果関係が認められない段階で流通を禁止できる」ことと
禁止解除のためには「人の健康を損なう恐れがないことの確証」つまりリスクゼロの証明をしなくてはいけない、という無理ゲーが設定されたのです。

当然ですが、通常食品についてもリスクゼロのものなどありませんので、過度に厳しいルールが追加された、と言えます。

さて、この辺りの議論を読んでみると

(1)栄養とい うことに対す る教育問題
(2)製造原価の問題
(3)輸送問題
(4)保存貯蔵の問題
(5)社会習慣の問題
(6)宗教的信念の問題
(7)社会的地位、身分の問題
(8)味
(9)政治上の問題

おどろくほど、今の代替肉と「同じ議論」がされているのがわかるでしょうか。その後、石油価格の高騰(オイルショック)に伴い、立ち消えになったのですが、現在では石油から合成されたリジンが195万トンメチオニンなどの飼料用アミノ酸はすでに普及しています。その明暗を分けたのがなんなのか、正確にはわかりませんが、直接食用にする際のサイエンスコミュニケーションが十分でなかった可能性があり、これは昆虫食でも言えることです。過去をしっかり直視して、未来につなげていきましょう。

「食べている人がすでにいること」
「新しくないこと」
「強要するものではないこと」
「おいしいこと、楽しいこと」

この辺りが私の重視する戦略なのですが、「役に立つ昆虫食」「未来の昆虫食」として、これまでの歴史と切断処理をしてゴリ押すことで、陰謀論の温床になったり、技術一辺倒な税金投入が、かえってサイエンスコミュニケーションとのアンバランスを産んだりと、色々と心配しています。


話を戻します

1970年の報告では、1歳から9歳までの発展途上国の子供の2から10%に影響を及ぼし、1−5歳児の最大50%が影響を受けている、とし、発展途上国における乳幼児の死亡率、発育不良、寿命の低下の重要な原因と認識されました。

PAGはピーナッツ、ごま、ヒマワリ、藻類、合成アミノ酸を使用した食品の開発を進めていましたが、コスト・生産・受容性の問題で後退、補完的な食品の開発へとシフトしました。しかしPAGの「実用的な成果」がないことに不満が高まり、タンパク質ギャップへの支持が揺らぎ始めます。

1974年、「グレートプロテイン・フィアスコ(タンパク質の大失敗)」という批判記事がランセットという著名な医学誌に出されます。

この中で、国連によるあまりに過度な「タンパク質偏重」が、タンパク質だけに特化した介入が今ひとつ成果を上げなかったことや、先進国におけるタンパク質必要量がの下限が下がり、途上国はそこまで不足しているわけではない、と「ギャップ」が閉じられたこと。マラスムスのような、タンパク質以外、全般的な栄養不足による症状が多くあることも見逃したことして、批判しました。150万人が死亡した1974年のバングラディシュ飢饉を受けた世界食糧会議にはPAGはコンサルタントとして呼ばれず、タンパク質は議事録から一気に減ってしまった。
同年、世界食糧評議会が設立され、栄養と食糧生産、安全保障、貿易、援助に関する国連機関同士を連携することが使命とされました。ここでいわゆる「タンパク質偏重」はキャンセルされ、各機関の連携による「総合的な対応」へとシフトした、と言えます。PAGは1977年、解散します。これらを主導したウォーターローとペインは、1975年のネイチャーで、タンパク質危機はもはや支持されないとし、タンパク質以外からの栄養不良も起こること、感染症との相互作用もあると指摘しつつ、以下の言葉でまとめています。

“But perhaps the story of the protein gap shows the arrogance of supposing that we know the answers, and illustrates the need for a continuing critical examination of the premises on which action is based.”

私たちが答えを知っていると思い込むことの傲慢さを示し、行動を起こすための前提を批判的に検討し続ける必要性を示しているのかもしれない

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/810729/

ほんと、肝に銘じたいところです。

The overturning of false paradigms is a painful and costly business and lacks the glamor of making new discoveries 誤ったパラダイムを覆すことは痛みを伴い、コストが高い仕事で、新しい発見をすることの華やかさに欠けている。

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5114156/#R37

4,「タンパク質の大失敗」その後の動き。

さて、この後の動きをざっくりと、ですが、MDGsの成果を見るとよくわかります。微量栄養素の不足による疾患の診断、解明と、ヨウ素・ビタミンAなどの添加による改善、ワクチンなどの感染性疾患の対処など、複合的な要因による乳幼児死亡率の劇的な低下など、大きな成果を上げています。

そして2015年のSDGs「貧困の撲滅」を最大課題とし、「各ゴールは統合され不可分」と宣言し、環境や民間セクターを巻き込んで、持続可能なものにしていこう、との流れを作りました。それがうまくいっているかはさておき、理念としては、これまでのタンパク質偏重から、複合要因へのシフト、感染性疾患へのワクチン、微量栄養素補給などの「外からやってきて劇的な変化をもたらす」成果があったことで、隠れていた問題も明らかになってきました。

つまりタンパク質は相変わらず重要な栄養素であり、「外から持ってくる」だけでは賄いきれない、というものでもあるわけです。微量栄養素の欠乏は診断できますので、それらのない地域での、主要な栄養素、タンパク質・脂質・炭水化物について、バランスよく摂取できるよう、地域の社会に即した貧困改善をしながら、栄養も低下させないようにフードシステム全般を設計構築しよう、という壮大かつローカルな取り組みが必要になったのです。

この「壮大かつローカル」が、世界に何をもたらすのか、という点については、FAOが2021年から取り組んでいる、「先住民のフードシステム」にも現れていますが、持続可能性という点について、先進国のこれまでの技術開発では石油からの変換効率や、資本効率をに偏重してきたものの、最適化されたものではなく、むしろ小規模な先住民が、地域資源を利用しながら営んできた生活の中に、地球全体の持続可能性のヒントが隠されているのではないか、というものです。

そうすると「タンパク質の大失敗」のもう一つの面が見えてきます。「世界全体でチャンピオンの食べ物を食べる」という前提すらも、すでに崩れているのです。ローカルなフードシステムの、当事者による開発が各地で分散的に行われ、その中から他地域にもジャンプできる技術があれば共有し、「パッチワーク」のように、人と環境と文化の結果、ローカルなフードシステムが構築されていく、そんな「小農」が主役になる未来をFAOは描いているのですが、

果たしてFAOを引用する皆様、どこまで理解していただけているでしょうか。

それとも知りつつ、あえて無視しているのでしょうか。

昆虫食では2013年の報告書が注目されがちですが、FAOは2010年にも報告書を出しています。これは昆虫食に対するFAOの基本的なスタンスを示すもので、私は好きでよく引用するのですが、あまり有名ではないです。巷の昆虫食ビジネスは2013年の報告書の中の一つの論文(2010年温室効果ガス論文)の図、ただ一つだけに注目してしまっていて、どうにもFAOの文脈を捉えきれていないように思います。

「文脈を捉えきれない」と何が起こるかというと、FAOの主張に反したり、FAOがこれからやるべきと主張する方針と衝突するにもかかわらず、「FAOが言っているから正しい」かのような、存在しない権威を傘にきたような主張をしてしまう危険があります。FAOの役割は国際機関ですので、そこと反する主張をしながら昆虫食を推進するのはもちろんありうることなのですが、(私もFAOに100%同意ではないです)適切な引用は適切な文脈の解釈あってこそ、ですね。もちろん適切な翻訳も、適切な解釈あってこそ、です。

さて、2010年の報告書のメインテーマは「Edible forest insects 食べられる森林昆虫」です。森林から供給される昆虫などの採集食材は、現地住民の栄養を支えているのですが、森林を木材として現金化する、という目先の利益ばかりにとらわれると、現金を得たところで森林が破壊され、それまで得られていたインフォーマル(流通経済に乗っていない、自給自足や地域内の物々交換をインフォーマルといいます)な食材について、見過ごされてしまうし、かえって栄養を阻害するかもしれないから注意せよ、と警告するものです。

木材の現金化が、ほかの売り物とトレードオフになるのであれば、(たとえば売り物になる伝統薬や染料など)、ブレーキがかかるのですが、栄養となると、当事者もほとんど気にしていません。貧困地域においては現金の得られる手段というものはたいそう魅力的で、当然ながらそこには基本的な栄養教育も行き届いていないので、「栄養があるものを食べなくてはいけない」という発想がそもそもないです。

ちょっと話はそれますが、よく昆虫食を「貴重な栄養源」として表現されることがあります。その際に気をつけなくてはいけないのが、彼らは栄養があるという「動機」で食べているわけではない、ということです。美味しいから、そこにあるから食べています。栄養という「機能」があることと、彼らが栄養を動機として食べているかは別のことで、現地に栄養教育が普及していない以上、栄養教育をしても行動を変えられない状況があるならば、昆虫を食べている動機を栄養と断定するのは不適切、といえます。

話を戻しましょう。

FAOのスタンスはこのときも一貫して、途上国、小規模農家、先住民を重視して、一切ブレていません。2013年の報告書に際しても先進国「にも」食の選択肢になるのではないか、と問題提起をしたところ、先進国だけでバズってしまい、途上国の先住民は置き去りになっています。2021年からFAOの報告書は「先住民のフードシステム」として、生態系を持続可能な形で利用してきた(持続可能じゃない先住民はそこで途絶えてきたシビアな現実もあるわけですが)歴史のある生態系利用について、未来に必要になる、あたらしいフードシステムを提案するものになるだろう、と注目しています。もちろんそこに昆虫も含まれます。

ですが、スタートアップがアピールするのは消費者や投資家の注目である、地球温暖化対策、食品安全、効率化ですので、FAOの主張を十分に受け止められず、ややズレた解釈や広告をしてしまっているのが現状です。

このままズレが拡大すると、「先進国の資本による高効率、大規模でエシカルな工場」が建設され、その建設労働者や軽作業の単純労働者が、昆虫を食べてきた田舎出身者の出稼ぎだったりする事が起こりえます。

これはまさにFAO2010年が警告したとおり、「現金のために栄養が悪化する」あるいは「昆虫を食べてきた貧困地域から昆虫食をとりあげて、先進国向けの栄養をつくる」というたいそうよろしくない産業へと育ってしまいかねません。こういうのを生物学的盗賊行為(バイオパイラシー)といいます。

まとめの図です。

さて、これらを踏まえて本題に戻りましょう。「HUMANS BITE BACK!!」をどう訳すか?

このお題は内山さんから投げかけられたもので、それまで私自身は直訳が難しいため、ちょっと皮肉めいた意訳として「人類よ、食いあらためよ!」とたびたび訳していました。今回、翻訳者の友人に聞いてみたところ、悪くない意訳だ、とのコメントをもらったので、教えてもらったロジックを紹介しておきます。これは翻訳の勉強になりました。

一般的な話として、書籍や報告書の「題名・見出し」の意味するところは2つで
1,内容の予告 2,読者の興味を引く要素

内容を見てみると、Edible forest insects とHumans bite backは「人間が、昆虫を食べる」という意味で同じ内容を示している。つまりHumans bite backは 1,内容の予告という機能はほとんどもたず、2,読者の興味を引くためのフレーズが大部分と考えていい。じゃあどんな興味を引くためのものか。

bite backが句動詞で、単語の直訳では意味が通じない。「人類が噛み返す」ようなニュアンス、本当は虫が人を噛むものなのに、といった前提が読者に共有されていると想定すると「その逆」が読者をおどろかせ、興味を引くフレーズとして機能する。

ただ、報告書の内容を見ると、「先進国が見過ごしてきたインフォーマルな昆虫食を見直すべき」という反省の文脈が含まれているので、読者層を「昆虫が人間を噛むことがあっても、人間が昆虫をかむなんて?」とおどろくような、昆虫を食べない先進国だけに限定してしまうのは、それはそれで「これまで食べてきた人たち」に対して包摂的じゃない。

日本でもイナゴを普通に食べてきた人が、このフレーズにピンとこないものになってしまうだろう。なのでちょっと本意とズレてしまう。
そうするとキリスト教の和訳でよく使われる「悔改めよ」というフレーズをパロディにして、「食いあらためよ!」とし、これまでの先進国が途上国へ一方的に価値観を押し付けてしまった反省を踏まえ、人類全体に改めて提言するものとして「人類よ、食いあらためよ!」は悪くない意訳、となる。

とのことでした。翻訳っておもしろい!特に題名については映画なんかも原題と邦題が大きく違っていることもあり、直訳を含めて正解が無数に考えられる中で、説得力をもたせるここらのロジックはとても勉強になりました。

とてもいいものを買いました。まずはごらんください。


勝手に「壺(こ)vid-19」と名付けましたが、新型コロナウイルスをモチーフとした、壺です。ろくろでつくられた素焼きの、ふっくらと滑らかなツボの周囲に、執拗に取り付けられた「スパイクタンパク」は私たちの粘膜に食い込み、死を呼び寄せ、生活を邪魔し続けた憎き感染症を思い起こさせます。
日本で話題の、非常識に高価なご利益のある壺ではなく、日本円で1500円ほど。

ラオスの民芸品としてはだいぶ高価ですが、手間と焼成の難易度を考えれば安いぐらいでしょう。祈れば治る、といいった怪しげなものですらなく、語られるストーリーもとくになく、全くシンプルにお土産品、民芸品として「Covid-19」が壺になったのです。
この日の会場は県のODOP(1郡1品運動)展示会場。日本発祥の「一村一品運動」が、タイではOTOP、ラオスではODOPとして輸出され、各地の特産品の生産者たちが、出店し、地域の外へと売り先を模索する、という運動に発展しています。


ラオスでは各県の審査でODOPに認定されると、このようなスポンサーを集めて開催される合同展示会への出展が無料になるそうで、私たちが活動する郡からも、出展がありました。
しかし、首都があるビエンチャンに比べると出品物にバリエーションが少なく、ラオスの主要産業の一つである観光業に貢献できるような「売れ筋」を狙えているようにも見えません。つまりは生産者はいるものの、売るために必要な広告、営業、商品開発などの各種のコストが捻出できておらず、消費者からのフィードバックも受けられない状況にあるのです。
そうするとどうなるか、というと作り手側の事情だけで産品が決まるので、どうしても近い地域では「似たり寄ったり」になってしまうわけですね。ラオスの気候、民族、そして手に入る材料などが近いと、だいぶ離れた地域でも似た産品になってしまいます。これは日本の一村一品運動でも同じような問題がありました。こちらのほうは「1品だけ」ではなく同地域から何品も出せるようで、ゆるい方針がゆるい産品を生む余裕になっているようです。
8月に、ラオス第二の都市であるサワンナケート常設ODOPショップに行った時も似たような様子でした。

それぞれに磨かれた技術はあるものの、消費者ではなくて生産者側の都合が強い産品が並び、観光客のほとんどである「ライトな一見客」には今一つウケないものが並んでいます。私はラオスのためになれば、と思ってしまう身内マインドなので、ついつい買ってしまうわけですが、結局この後の発展が見込めない、という意味で、このままでは今一つ先がないわけです。
さて、このような背景を知ることで、このツボがいかに異質な輝きを放っているか、伝わるでしょうか。そう、ODOPにしては、「あまりにクリエイティブ」なのです。
会場の周囲の遊具には、どこかで見たようなアレなキャラクターが並び、非常にチープな雰囲気になっています。


ラオスでは「著作権」や「オリジナリティ」が尊重されたり尊敬されたりしない、まだまだの状況があります。オリジナルが公式にラオスに進出していないので仕方ないのですが、うまいこと先進国を真似られると成功者、ぐらいの感じです。
そして「やきもの」は、この地域でODOPに認定された伝統工芸。ラオスの粘土質の土はそのままレンガが焼けるほど陶芸に向いていて、そこから様々な民芸品がすでにあったのです。
しかし、、、壺vid-19以外の商品を見てください。わりとシュッとしてますね?トゲトゲもしていないです。

そう。これまでの民芸品のツボはもっとスムーズで、スリムな訳です。ここでラオス保健省が「脅し」のように使ってきた「新型コロナ怖いぞ通知」を思い出します。さっさとワクチンを打って、家で静かにしていろ、と、トゲトゲのコロナウイルスがやってくるぞ、と。


ロックダウンの通知、何回目のワクチンの通知、結婚式・祭りの中止、遊戯場の禁止、マスクの強制。
この壺の作者も、私たちと同じような状況だったのでしょう。家にいて、土はあって、ツボは作り放題、だけれど売りに行くこともできない。お客さんは来ない。
そんな閉塞的な状況の中「壺vid−19」は生まれたわけです。

恨みがあったのか、手持ち無沙汰だったのか、何かの遊びだったのか。作者はまだ追跡できていませんが、他の商品とは一線を画す、異常にクリエイティブで、手のかかる大型作品として、壺vid-19は生まれました。
聞いたところ2019年に第一号が製作され、これが2021年12月なので、おそらくこれ以前に1個か2個、年に1個ぐらいのペースで売れたものと考えられます。売れ筋ではない、との売り子の女性のいうことだったので、見せ物としてブースに人が集まる効果はあったっぽいとのことでした。そう、つまり「客寄せ」という「広告」として、初めてツボが機能した瞬間です。生産者が直接売りに来る、広告や営業という概念がほとんど見られないODOPにおいては大きな一歩です。
さて、私はこの壺を買ったわけですが、このラオスらしからぬ、突出したクリエイティビティを、言葉を尽くして高く評価したいわけです。
ふっくらと丸いシルエットの、スムーズな壺をろくろでまず作り、そこに接着のために深い傷をつけ、そして禍々しい手捻りの「スパイク」をつけていく。執念を感じます。そして私たちの粘膜に感じていた「ストレス」はきっとこんな形をしていたはずです。素朴な作風に普遍性を感じます。


それを独自の技法で塑像にした名も知らぬアーティストに、ラオスの現代アートの芽生えを感じるわけです。
逆に言うと、先進国のアーティストでは、ここまで普遍化したCovid-19そのものを素朴に表現することはもはや陳腐化してできないでしょう。ウイルスの実物が全世界中に届いたあとで、「普遍性」をもたせることには苦労しそうです。
しかしアートにおいても、もっとも強く、問題にさらされている現場から、好奇心に任せて新しいアイデアが湧いてくるようなそんなサポートができればいいなと、この壺を見ながら思います。
そうすると、本来の素朴な衝動としての「アート」に対して「アウトサイド」なのは、マーケットなのではないか?と思えてきます。アウトサイダー・アートとして区別を必要とするのは、アートを制作するしかなかった名もなきアーティストではなく、存命中に現金を手にしたいアートマーケットの方でしょう。「市場」は必ずしも正当性を担保しない、というのは残念ながら事実です。ラオスの田舎から、「つくりたかったアート」が素朴に出てきたことに対し、私は未来の希望を抱きました。

しかし未来の前に、わたしには直近の問題があります。「どうやって日本に持ち帰るのか?」トゲのある素焼きのデカイ壺、これは悩ましいです。アドバイスください。