コンテンツへスキップ

はじめにお断りをしておきます。私はこの映画に文句を言うために観ています。

前作、「炎の王国」の段階で、あぁこの映画の路線はもうノットフォーミーなんだな、と気づいてしまったわけで、一作目のファンとして、潔くこのシリーズから離れよう、としたところ、最新作は「バッタ映画である」との噂をききつけてしまい、興味をそそられてしまいました。さすがに映画館で観るものでもないなと待ち、アマプラでみることにしました。

あ、バッタ映画だ!

そうなのです。恐竜たちは今回、人間とかバイクとかゾイド、カバに置き換えても全く問題ないです。Vtuberが選ぶアバターぐらい、恐竜のガワである必然性はまったくなく(恐竜であることの必然性は前作でぶち壊したわけですが)、観客に3Dで映えるスパイスを提供するだけのアトラクション的存在で、物語の主軸からは大きく外されてしまいました。

主役はバッタ。伊勢エビぐらいの、トゲトゲとして、ほどほどのむっちり感に巨大化をした、白亜紀のDNAをもつバッタが、ずっと物語を引きずり回していました。バッタをどうにかしないと食糧危機がうんぬんかんぬん、だそうです。

サイズといい体重といい、このぐらいの伊勢エビ感。

以下ネタバレしますが、ファンはもう映画で観ていますよね。いいですよね。

炎の王国のラスト、突然、最終作のキーマンみたいな感じをプンプンさせる、クローン少女が現れます。最終作には一作目の主要人物、いうてみればおじいちゃんおばあちゃんが再登場するわけですから、ファミリー向けエンタメ映画である以上、年齢構成は大事ですよね。これは、、、恐竜たちに同類的な憐れみを感じて逃がすためのキャラクターですね。時代を飛び越えるというなんかそのアレみたい外来生物問題は気にしない少女。そして闇のオークションにかけられそうになっていた恐竜型遺伝子組み換え動物たちは、野に開け放たれるのです。

そして今作、4年後、主人公カップルは少女と山奥に同居し、悪徳な(?)やつらから恐竜型動物たちを保護する(?)活動をする一方で、開け放たれた恐竜たちは野外に定着し、いろんな人身事故を引き起こしていました。

侵略的外来種としてすでに定着しているにもかかわらず、相変わらずマフィア的な人たちによって行われる闇(?)のオークション。もうすでにわかりにくい!
「麻薬王のカバ」的な話、と考えればいいんでしょうかね。
※麻薬王のカバ、というのはコロンビアの麻薬王が密輸したカバが繁殖・野生化して外来種として問題になっているものの、地元住民にはそこそこ愛されてしまい駆除が進まない、的な状況です。

写真はコビトカバ
カバの頭骨はわりと恐竜と戦えると思う。

とにかく逸出した恐竜型遺伝子組み換え動物の分布が示されていないので、野生なのか飼育なのか、養殖なのかがわかりにくい!これはノネコ問題、としてみればいいのか、、、?外来種でありならが高級食材のシャンハイガニ的なものなのか、、?とにかくオリジンの人たちの飼い方がマズいので、飼い方が確立していない大型の動物、買いたい人ってどのくらいいるのか、、、?

んでさ、シリーズを通して、人間のみなさんがウッカリすぎて、セキュリティがいつものごとくガバガバで、恐竜型クリーチャーがどこにいるか、どこにいないか、ワチャワチャになっていることが明らかになっていきます。もう人類滅びていいぐらい。これは正規の方法では航空機が飛ばないんじゃないかなぁ。滅ぼしたほうがいい気がするぞ、、、

さて、ワチャワチャしますが、結局恐竜はあんまり問題とされてないらしいです、、、が。恐竜の問題をきっちりとらえないと(危険度が上がりすぎてまともなフィールドワークもできないでしょうから、保全生態学はかなり後退していると考えられます)最後の判断、バッタ殲滅もちょっと怪しくないかと思ってしまうわけです。

バッタの話をしましょう。

白亜紀バッタのDNAをサバクトビバッタに組み込んで巨大化したバッタと、そのバッタに耐性のあるコムギを販売することで、バイオシン社はセコイ商売をしようとしていたっぽいんですね。そんなんすぐバレるじゃんと思うんですが、なぜか(生の草でなく)実が乾燥して収穫どころになったコムギで育つのを食べている、よくわからないバッタなんです。生の草を食べるサバクトビバッタのケースにも、エサが置かれていないのであんまり飼い方の様子がわからないです。

そしてこのバッタ、なぜか知らんけれど人間の服を噛む行動をします。これもよくわからん。んで、この人為的に逸出した恐竜型クリーチャーについて、外来種問題にしたくない、っぽいんですよね。なぜかバッタが大きな部屋で、フタのないケースで飼われている。もーこれは逸出させたいとしか思えない。最後の方、バーナーで焼いたらなぜか通風孔から燃えたバッタが逃げ出すという、設計段階から狂っている、まったくよくわからないアクシデントがあるんですが、これまで一度も試運転しなかった装置をいきなり使うんですか、、、?

「人間に対するバッタの被害」に注目しだすと、恐竜のほうが被害出るじゃん、とかバッタによる食糧危機と恐竜による食糧危機(逸出したやつらが繁殖しているし、農作業に対する危険度がバク上がりしているし、すでに食糧危機だと思いますが)を比較するのを避けている様子があります。

んで、一作目ファンへの介護(笑)として、博士三人衆、古生物学者グラント博士、植物学者サトラー博士、数学者マルコムを再登場させなくてはいけないわけですから、植物学者の出番をひねりだすための苦肉のバッタなのでしょう。

恐竜による被害から目をそらすための苦肉のバッタ、これしっかり直視しないと、「肉食恐竜がバッタを食べるシーン」があるんですね。これ、、、恐竜による人的被害、食糧危機が(見かけ上)起こっていないのは、バッタが支えているから、という可能性すらあります。

池でかいぼりをしてブラックバスを駆除したら少し遅れてアメリカザリガニが大発生したり、小笠原諸島でヤギを駆除したら、競合だったネズミが増えてしまい、希少種が食べられてしまった、なんて話もあったりするので、外来生物同士の競合についても、しっかりふまえたうえで対策を検討しないと、「バッタで食糧危機」なんて単純な話をするサトラー博士、、、これ、買収されてませんか?

そして最後、ラボを失ったウー博士が、病原体を感染させた一匹のバッタを放つところで話は終わります。え、解決しないの???モニタリングをだれがするの? 不妊虫放飼みたいなのってもっとたくさん放つ必要があるんじゃないの?

結局バッタ対策がグダグダになったまま、シリーズを通じてCRISPERみたいな特異性の高い遺伝子編集技術もできてしまい、ほとんどの人類がmRNAワクチンも打ったばかりですし、不妊虫放飼による外来種対策なども成功事例が出てきてしまった以上、なんだか、、コンセプトが古い、、んですよね。しかたないこれで最終作だし、、、

ドジスンぐらいしか面白シーンなかったじゃねえか。あとCGちょっと荒くないか、、、
やたら丁寧にいろんなバージョンでおどかしにくるバッタにも第一作にも興味がない人たち、大丈夫だったんでしょうか、、、、


とてもいいものを買いました。まずはごらんください。


勝手に「壺(こ)vid-19」と名付けましたが、新型コロナウイルスをモチーフとした、壺です。ろくろでつくられた素焼きの、ふっくらと滑らかなツボの周囲に、執拗に取り付けられた「スパイクタンパク」は私たちの粘膜に食い込み、死を呼び寄せ、生活を邪魔し続けた憎き感染症を思い起こさせます。
日本で話題の、非常識に高価なご利益のある壺ではなく、日本円で1500円ほど。

ラオスの民芸品としてはだいぶ高価ですが、手間と焼成の難易度を考えれば安いぐらいでしょう。祈れば治る、といいった怪しげなものですらなく、語られるストーリーもとくになく、全くシンプルにお土産品、民芸品として「Covid-19」が壺になったのです。
この日の会場は県のODOP(1郡1品運動)展示会場。日本発祥の「一村一品運動」が、タイではOTOP、ラオスではODOPとして輸出され、各地の特産品の生産者たちが、出店し、地域の外へと売り先を模索する、という運動に発展しています。


ラオスでは各県の審査でODOPに認定されると、このようなスポンサーを集めて開催される合同展示会への出展が無料になるそうで、私たちが活動する郡からも、出展がありました。
しかし、首都があるビエンチャンに比べると出品物にバリエーションが少なく、ラオスの主要産業の一つである観光業に貢献できるような「売れ筋」を狙えているようにも見えません。つまりは生産者はいるものの、売るために必要な広告、営業、商品開発などの各種のコストが捻出できておらず、消費者からのフィードバックも受けられない状況にあるのです。
そうするとどうなるか、というと作り手側の事情だけで産品が決まるので、どうしても近い地域では「似たり寄ったり」になってしまうわけですね。ラオスの気候、民族、そして手に入る材料などが近いと、だいぶ離れた地域でも似た産品になってしまいます。これは日本の一村一品運動でも同じような問題がありました。こちらのほうは「1品だけ」ではなく同地域から何品も出せるようで、ゆるい方針がゆるい産品を生む余裕になっているようです。
8月に、ラオス第二の都市であるサワンナケート常設ODOPショップに行った時も似たような様子でした。

それぞれに磨かれた技術はあるものの、消費者ではなくて生産者側の都合が強い産品が並び、観光客のほとんどである「ライトな一見客」には今一つウケないものが並んでいます。私はラオスのためになれば、と思ってしまう身内マインドなので、ついつい買ってしまうわけですが、結局この後の発展が見込めない、という意味で、このままでは今一つ先がないわけです。
さて、このような背景を知ることで、このツボがいかに異質な輝きを放っているか、伝わるでしょうか。そう、ODOPにしては、「あまりにクリエイティブ」なのです。
会場の周囲の遊具には、どこかで見たようなアレなキャラクターが並び、非常にチープな雰囲気になっています。


ラオスでは「著作権」や「オリジナリティ」が尊重されたり尊敬されたりしない、まだまだの状況があります。オリジナルが公式にラオスに進出していないので仕方ないのですが、うまいこと先進国を真似られると成功者、ぐらいの感じです。
そして「やきもの」は、この地域でODOPに認定された伝統工芸。ラオスの粘土質の土はそのままレンガが焼けるほど陶芸に向いていて、そこから様々な民芸品がすでにあったのです。
しかし、、、壺vid-19以外の商品を見てください。わりとシュッとしてますね?トゲトゲもしていないです。

そう。これまでの民芸品のツボはもっとスムーズで、スリムな訳です。ここでラオス保健省が「脅し」のように使ってきた「新型コロナ怖いぞ通知」を思い出します。さっさとワクチンを打って、家で静かにしていろ、と、トゲトゲのコロナウイルスがやってくるぞ、と。


ロックダウンの通知、何回目のワクチンの通知、結婚式・祭りの中止、遊戯場の禁止、マスクの強制。
この壺の作者も、私たちと同じような状況だったのでしょう。家にいて、土はあって、ツボは作り放題、だけれど売りに行くこともできない。お客さんは来ない。
そんな閉塞的な状況の中「壺vid−19」は生まれたわけです。

恨みがあったのか、手持ち無沙汰だったのか、何かの遊びだったのか。作者はまだ追跡できていませんが、他の商品とは一線を画す、異常にクリエイティブで、手のかかる大型作品として、壺vid-19は生まれました。
聞いたところ2019年に第一号が製作され、これが2021年12月なので、おそらくこれ以前に1個か2個、年に1個ぐらいのペースで売れたものと考えられます。売れ筋ではない、との売り子の女性のいうことだったので、見せ物としてブースに人が集まる効果はあったっぽいとのことでした。そう、つまり「客寄せ」という「広告」として、初めてツボが機能した瞬間です。生産者が直接売りに来る、広告や営業という概念がほとんど見られないODOPにおいては大きな一歩です。
さて、私はこの壺を買ったわけですが、このラオスらしからぬ、突出したクリエイティビティを、言葉を尽くして高く評価したいわけです。
ふっくらと丸いシルエットの、スムーズな壺をろくろでまず作り、そこに接着のために深い傷をつけ、そして禍々しい手捻りの「スパイク」をつけていく。執念を感じます。そして私たちの粘膜に感じていた「ストレス」はきっとこんな形をしていたはずです。素朴な作風に普遍性を感じます。


それを独自の技法で塑像にした名も知らぬアーティストに、ラオスの現代アートの芽生えを感じるわけです。
逆に言うと、先進国のアーティストでは、ここまで普遍化したCovid-19そのものを素朴に表現することはもはや陳腐化してできないでしょう。ウイルスの実物が全世界中に届いたあとで、「普遍性」をもたせることには苦労しそうです。
しかしアートにおいても、もっとも強く、問題にさらされている現場から、好奇心に任せて新しいアイデアが湧いてくるようなそんなサポートができればいいなと、この壺を見ながら思います。
そうすると、本来の素朴な衝動としての「アート」に対して「アウトサイド」なのは、マーケットなのではないか?と思えてきます。アウトサイダー・アートとして区別を必要とするのは、アートを制作するしかなかった名もなきアーティストではなく、存命中に現金を手にしたいアートマーケットの方でしょう。「市場」は必ずしも正当性を担保しない、というのは残念ながら事実です。ラオスの田舎から、「つくりたかったアート」が素朴に出てきたことに対し、私は未来の希望を抱きました。

しかし未来の前に、わたしには直近の問題があります。「どうやって日本に持ち帰るのか?」トゲのある素焼きのデカイ壺、これは悩ましいです。アドバイスください。

この作品、開催中の「おいしい昆虫生活®︎展」にゲスト展示してもらっているのですが、その紹介がまだでした。

まだ私がラオスにいた11月頃、オンラインで監修として参加したプロジェクトがありました。「昆虫食おままごとセット」

これは、、なんとすごいコンセプトだろうか。私自身が思いつけなかったことをいたく嫉妬したものですが、発案者はアートディレクターの北恭子さん。私は監修、考証としてチームに後から参加することに。

木工職人の方や、香料メーカーの方もすでにチーム内におり、万全の体制です。これはいい形にせねば。

私からは香料で再現できる「香る昆虫食」の部分と、3つ作成予定の昆虫料理のバリエーションのバランスを見つつ、揚げ物、燻製からのスープ、スイーツと、調理歴のわかるメニューを提案しました。採ってきてから調理するまでの衛生的な器具の使い分け、加熱した時のバッタの色の変化、ラオスでよく見る「スネはトゲがあるので除去するけど、フトモモはおいしいので残す」という脚の除去のルールなど、昆虫をまだ食べたことがない子供が、おいしく安全に昆虫を調理するためのエッセンスが詰まっています。

元ネタとなった料理はこれら。

これから未来の話として、昆虫食が普及にするにつれ、昆虫を食べたいと素朴に思う子供達に対して、本物の昆虫を使って適切に案内できない、「昆虫を食べない」保護者の方が多い時代がしばらく続くでしょう。その時に昆虫を含まない、おままごとセットとしてスモールステップを踏めることで、子供にも、その保護者にも優しい知育玩具になりそうです。

そこで、ラオスにいる私は、はたと気づいてしまったのです。「この作品が発するメッセージには普遍性がある」

つまり、ラオスの子供達に、特に農村部の子供達に、この「おままごとセットの中に昆虫食も含まれている」ことのメッセージが届いていないのではないか、という問題意識です。なので首都ビエンチャン、そして近所のコンビニと、おままごとセットがないか、調査してみたところ、確かにあるのです。あるのですが、当然ながら昆虫は含まれていない。そして売っているのも都市部で、昆虫をよく採って食べている、農村部の子供達の手の届く値段でもないのです。

首都ビエンチャンの百貨店にて。
近所のコンビニにて。

今回、作品は一点ものですが、この先、むしろプラスチックの安っぽい大量生産品として、ラオスの田舎にも届くような、「昆虫を食べたいいと思うことはおかしいことではない」という普遍的なメッセージを次世代に届けられるような、そんな未来まで、提案したいものです。

そしてこの作品が、もう会場に届いています。香りも嗅ぐことができます。ぜひご覧ください。

とはいえ、とはいえ子供達は自由ですので、「知育玩具」に込められた大人たちの重いメッセージに対して、軽やかに飛び越して遊んでいくのです。伝わったか、伝わらなかったか。それはそれとして、遊んでもらえたらうれしい。

昆虫食仲間のムシモアゼルギリコさん家の虫を食わない娘さんも、遊んだそうです。楽しそうだ。そして自由だ。

更新お久しぶりです。タスクとしての書き物が増えるほど、このブログという無償の書き物が億劫になってしまいます。商標登録がうまくいった勢いで、私の独断でやると宣言してしまった「おいしい昆虫生活®︎展 vol.0」皆様のお助けのおかげで、期日通りにスタートできました。ありがとうございます。キャプションを書かないと、展示物がただの謎の物体になってしまうので、色々と会場用の文章を書いていました。

無念なことに、もろにオミクロン株のあおりを受けてしまい、集客をしたらいいのかそれとも中止をしたらいいのか、判断に悩みましたが、いつも通りの営業と、来るものは拒まず、無理に人を集めることはしない、という方針で進めています。

西塚emさんにお願いしていたメインビジュアルも間に合わせていただいてすごいものができています。

おいしい昆虫生活®︎メインビジュアル

色々とメッセージを込めたものになっていて、その微妙な調整に西塚emさんがお付き合いくださり、すごいものに仕上がっています。隠されたメッセージにいくつ気づいてもらえるでしょうか。気づいてもらえなくてもいいです。末長くよろしくお願いいたします。

期間は2月13日、日曜日まで、1月30日と2月12日が、オフィシャルの在廊日となっていますが、それ以外にも裏手にいる日がありますし、Twitterでメンションくだされば、調整可能です。

私がおもしろいと思うことを展示します。雑多でカオスですが、それぞれに意味が通じています。語りたいことはいろいろありますがひとまず見ていただければと思います。ひっそりとやりますので、こっそり分散してきてくだされば、と思います。

オンライン在廊も対応可能です!対面がかなわなかった場合でも、オンラインで対応できますのでまたお声掛けください。

場所は浅草、昆虫食のTAKEO の新店舗TAKE-NOKOです。営業時間は店舗に準じますので、ご確認の上お越しください。

足立区生物園に展示されてます!

以前に応募して入選していた、害虫展season2 は、9月7日より9月20日まで、東京会場の足立区生物園にて展示開始しています。

家族に見に行ってもらったのですが、常温の液浸標本たちは心配していた変色もほぼなく、無事展示されているようです。

以前からフォローしていた、ドラァグクイーンのRachel D'Amourさんが観に行ってくださったそうで、
実物展示というのは普段接点のない方を招待できるので改めて素敵だなと。

足立区生物園、いいですよね。新鮮な気持ちでまた観に行ってみようと思います。
東京には上野に巨大なミュージアムたちがあるので、「日本一」を観たければそっちにいけばいいわけです。

以前に行ってみた渋谷区ふれあい植物センターにも感じたのですが、生活や地元になにをもたらす施設なのか、という意識がはっきりしていて、とてもいいです。地方の博物館だと、上野に行けない人のためのトップ施設という立場も必要になりますが、東京の小規模博物館はそこらへんをはっきり使い分けていて、すごく勉強になります。

この感染状況ですし、ぜひ見に来てほしい、とはいいにくいのですが、

何かの際にお寄りくだされば、足立区生物園に害蟲展が置かれることの面白さを

味わっていただけると思います。

出国も迫る6月16日、サエボーグ個展「Livestock」を観てきました。イベントでのパフォーマンスが本領発揮なアーティストですが、展示として造形をじっくり観られるのもまたよいものです。パフォーマンスはまだ観れず。

ご本人も会場にいらして、「食べること」「ウンコすること」を中心に色々話しました。

センシティブなテーマであることもあって、一部撮影禁止だったり入り口からは見えない位置に置いてある作品もありましたが、全体的に「お祭り感」があるのがいいですね。ご本人も「祝祭」を意識されてるとのことでした。

どうしても作品展示というのは触れる時間が短くなりがちで、「なぜここにウンコがあるのかわからない」といった素朴な感想もあったようで、そりゃ大動物家畜がいて食肉生産をしていたら、そこにウンコがあるだろう、という発想が、どうやらない人もいるらしい、のです。

どうしても人間はピンとくる部分に目が行きがちで、作品を観に来るときはその感度が高くなっているときでしょう。そのときに「システム全体」を見ることがいかに難しいか。

ピッタリとしたラバーはきもちいい、とか、くびれやくるぶしがピタッとしていて、いいですね。

また一方で、「作る側」になると見え方が違ってきます。取材し調査し、試作と思索を繰り返し「何を強調するか」を考えるとき、「何を強調しないか」そしてその全体を把握していないと見失うものがあるのでしょう。

昆虫食と文明」という名著のあるデイビッド・ウォルトナー・テーブズ

の「排泄物と文明」にも話が及びました。

国境なき獣医師団をつくった疫学者で、学者肌の雰囲気を漂わせるナイスな翻訳文なのですが、サエボーグさん的には「めっちゃ大事なのはわかっているけれど読み込みにくい」とのこと。確かにちょっと硬いし、前提知識がいるし、サイエンスを背景にしない人にはとっつきにくいかも。

そういう意味で表現の目的ごとに「解説役」というのがいろんな形で必要なのでは、とも思うのです。対話型専門知だ。

最近リアルタイムで読書をしてメモを残していく「読書メモ」というのをやっているのですが、もともとは読書中にTwitterを占拠して、気が散るのを抑えるための苦肉の策だったのですが、意外と好評で、こういった専門知ユーザーとしての目線を増やしていく、というタイプの対話型専門知も実践できればな、と思っています。

専門知を再考する 読書メモ

https://togetter.com/li/1708730

食農倫理学の長い旅 読書メモ

https://togetter.com/li/1733281

「おいしい昆虫記」発売一ヶ月が過ぎました。
みなさまのお手元に届いているでしょうか。

某所でコラボを始めようとしている企業の方が、「おいしい昆虫記」を読みはじめてくださったとの報告をいただきました。また別のラオス関係の方から、本を熟読してくださり、信用を頂いたとのことでいろんな方をご紹介いただきました。

やはり、ひとまず信用を勝ち取るにはエモい部分が必要なんだろうと思います。その後にまでエモさで押し切るのはプロとしてよろしくなくて、私の手に余ることについては適切な専門家へと橋渡しをして、ビジネスとして成立するよう後押しするのが、蟲ソムリエの役割でしょう。

だいぶ前になってしまいました。

私のたっての希望で、AI HASEGAWAさんとトークイベントをできることになりました。同時に代官山蔦屋書店で昆虫食本のフェアもしてくださるとのことです。

非常に濃い時間になりました。ご覧いただいたみなさま、ついてきていただけたでしょうか。ここではもうちょっと補足を入れつつ、振り返ってみましょう。私とこのあたりの分野との、はじめの出会いはここらへんの書籍から。

最初は反発から入りました。「スペキュラティヴ・デザイン」問題を解決ではなく問題提起をするデザイン。
問題をほじくり出して、解決しようとしない。なんと無責任なことだろう!

このスペキュラティヴ・デザインの流れでバイオアートも説明されることが多くあります。バイオロジーを背景とする表現物でありながら、論文ではなく専門家による査読もない。評論は美術畑の人からはあるのに生物学からはほとんどない。反発そして嫉妬ですね。当時は私が論文がかけずに苦悩していた時期でしたので、余計に憎悪が募ったと思います。最近これを読み返すと、「思ったことをプロトタイプの状態で世間に出せるというのはなんと自由なんだろう!」というまた違った感情もわきあがってきました。ヒトの情動とは変化するものです。

そして、未来と芸術展での「POP ROACH」の展示。

こちらも以前から知っていた作品なのに、六本木という土地柄もあり、「都市」に寄り添うものの、昆虫食文化をもつラオスには縁遠い、と感じるようになりました。少しの寂しさと、フェアネスについて物申したい感じ。そして「おいしい昆虫記」を出したこともあり、日本の出版においてラオスの昆虫食の「リアル」を日本にただ、そのままを持って帰っても、「遠く異国の昆虫食」と、リアリティの薄い、地続きで見てくれない、という反応も気になってきました。

ラオス産の昆虫を日本に持ち込んだときに、「遠く異国の昆虫食」では売れないでしょう。そこにラオスと日本を共有する、リアルではなく「リアリティ」のスペキュラティヴなデザインを仕掛けないといけないのでは、と考えたのです。

そしてイベント直前、流れがまとまらずウンウンうなっていたとき、愛さんから送られてきた参考文献の中に、こんな本が出てるではないですか!

ラオスでバタバタしていて、帰国後はおいしい昆虫記を書いていたので、お恥ずかしいことにまったく気づいていませんでした。さっそく購入して、授業を受けてみることに。

どうしても通常のビジネス、デザインでは「望ましい」部分しか可視化されない。

PPPP図という、ピコ太郎みたいな図から入ります。現在から未来に向かって、可能性は円錐状に広がっていると考えてみると、人間の想像の限界によって、あるいは資本主義的な投資、投機のバイアスによって、どうしても今の構成員による「望ましい」未来しか想定されなくなってしまう。すごくよくわかります。昆虫食とほかの食資源の将来性を「直感に従えばフェアに比較できるとピュアに思いこんでいる」という場面によく出くわします。

縄文時代に昆虫食があったのか、証拠は見つかりにくいときに、「あっただろうと想像する」ことができなくなっている。

未来を考えるときに、昆虫を食品レベルの値段で養殖する技術はあるのに、その技術がまだない培養肉のほうが「望ましい」ので「起こりそう」と思われてしまっている。

おいしい昆虫記についても、前半は個人的な話ですが、後半はスペキュラティヴ、つまり社会的動機から問題提起をしたい、という構造になっています。

最後にワークシートがついています。この「スペキュラティヴ・デザイン」というのは対話型専門知の一つ、と言い換えられるかな、と思いました。

実際に空欄に入れていく、という行為によって、どっちつかずだったものを「とりあえず当てはめてみる」という思考の整理が進んでいきます。それが自分のモヤモヤのすべてを表すものではなくても、「選んで当てはめる」ということが大事。目指したいのはラオス発の昆虫養殖技術が世界に広がり、各地から多様な昆虫食材が貿易されて、みんなが食べたい昆虫を食える未来。

そして大資本が富裕層向けに昆虫を売り、ラオスの貧困層は労働搾取される、これが最悪のシナリオでしょうね。

やっぱり不思議だったのはこれまで書いてきた計画書との違いですね。「え、自分の痛みって必要なの?」と面食らいました。しかしNGOや研究者も、様々な個人的な背景から、熱意を継続している方が多くいます。なるほど、痛みか。。。。

私にとって「痛み」とは「自分が変人に見られたくない」ということでした。昆虫を食材として扱う、というまったくおかしくないことが、「奇妙キテレツ」に見られてしまうことで、これから昆虫食が取り組むべき技術的課題ではなく、見た目の問題に矮小化されてしまうのを見てきたからです。フェアに議論したい。そのときに偏見は大きく邪魔をしてきます。それが今は痛い。

さて、今回はあえて「おいしい昆虫記をスペキュラティヴ・デザインから解剖する」ということを愛さんと一緒にやってみました。

対談の中でいろいろとアイデアが湧いてきて、「演じてみる」ということが私のこれからの余白だろうなと思えてきました。自分じゃない人だったらどうするか。イーロン・マスクだったら昆虫を宇宙に打ち上げるだろうし、クリストファー・ノーランだったら緊張感が3時間つづく映画を作るだろう。

そしてやはり、昆虫は「悪目立ち」してしまう。先の森美術館の展示でも、poproachよりもアートとして高く評価されている作品、Shared baby やImpossible babyよりも、SNSでつぶやかれたのはPoproachのほうが多かったそうなのです。そして色を変えてゴキブリを食べやすくするという発想自身が「ルッキズム」ではないかという指摘をされて驚いた、とおっしゃっていました。

ゴキブリには人権がないので、この作品そのものはルッキズムにはあたらないのですが、その茶色い見た目が嫌悪されている構造から、肌の色を理由とする差別のような、ある種のルッキズムを連想させてしまったようなのです。これは驚いた。

以前に別の作家さんから「昆虫は無価値であることが社会的に共有されている」という話をもらったことを思い出しました。無価値だからこそ、食べない愛好家と、私のような食べる人が一緒に話ができる。

また無価値だからこそ、ある種のミームのように、自分の思い入れが自由に投影されてしまう。のでしょう。

昆虫食の見た目解決として、「すりつぶす」というのはルッキズムの度外視、とは言えそうですが、果たしてルッキズムからの解放、といえるのか、むしろ「すりつぶせば食える」ことこそルッキズムに縛られていないか。

ここらへんも新しい切り口です。ルッキズムと昆虫を、あえて近づけたり遠ざけたりして教材にしていくような、そんな攻め方ができそう、という、私にとっても非常にスペキュラティヴな経験でした。長谷川愛さん、ありがとうございました。

愛さんからも、「苦手な昆虫と向き合ってみる」という宣言をいただきました。アーティストが本気で昆虫と向き合っていく先に、どんな挑発的なデザインが生まれてくるか、とても楽しみです。

1

発売日は取り扱いによってまちまちだったのですが、販売が始まっておよそ10日間、いろんなイベントをしました。

立派なお花をいただきました。

立派なお花を出版社からいただきました。ありがとうございます。

最速はこちら!

今の御時世で、なかなかリアルイベントが開けません。昆虫関係者にも夏の昆虫イベントの中止が相次ぎ、苦しんでいるとの話も聞きます。また一方で、TAKEOは通販の会社です。そもそもの食品衛生の管理があり、その上で対面で長時間会話しない、という性質上、通販はレストランよりもずいぶんとリスクが低い、と試算されているようです。そしてさらに、テイクアウトの店先がある。おお、これは。

一つのリアルイベントの可能性として、挑戦してみようとTAKEOのみなさんと打ち合わせをしました。

1,私は会計を扱わない。サイン本のみ。

これは今回、1日店長という形ですが、客さばきを仕事とする「副店長」のような役割です。通常営業のみうら店長が引き続き会計とテイクアウトメニューの対応を行い、私が通常業務の衛生リスクを上昇させないようにしています。またサイン本についてはネット会計を済ませており、本人確認をした上で、手を洗った私がサインを手渡す、という一方向でのやり取りに抑えました。

2,店内へ入れるのは二組まで

こちらは軒先の私の仕事です。基本的に店外に顔を出した状態で会話します。幸い天気もよく、換気も十分にされていたとおもいます。狭い店内ですので、会計が必要な方、持ち帰り用のTAKEO商品をご購入の方のみ、私の案内で店内に入ってもらいます。

3,時間帯予約を入れてもらう

結果的に混雑することはなかったのですが、一時間ごとで時間帯予約をいれてもらいました。細く長く、客足が途切れない状態なので、小さなお店、小さなテイクアウトカウンターではおまたせ時間が減っていいかもしれません。

4,やっぱりリアルイベントの偶発的な出会いは必要

いまのオンラインで大きく不足したのが「雑談」と「偶発的な出会い」です。

防犯上仕方ないのですが、オンラインでは宛先のはっきりした出会いしか、いまのところありません。「とおりがかり」や「たまたま」の出会いが作られるのがこのリアルイベントの大事なところです。もちろん私の著書を買ってくださる、という極めて趣味の近い方が出会う場にもなるでしょう。無事何組か、知り合ってほしかった皆さんを近づけることができました。オンラインでは私の著書を介してのつながりしかなかったものが、オフラインで出会うことで私の介在なしに、勝手に話が進みそうで、すごく楽しみです。

こういった「リアルの出会い」によってオンライン上の関係性を一気に多重にして、「介在」という伝書鳩的ロスを省略してしまうのがリアルイベントのはっきりとした機能になるような気がしてきました。会うコストが高くなるにつれ、はっきりとした意義をもたせたリアルイベントが、今後増えていくでしょう。

今後の課題は「ランダム性」と「偶発性」をいかに防犯しつつ作り出していくか、でしょうか。あのリアルはなんだったのか、考えて整理する機会にもなりそうです。

さて次はオンラインイベント ロフトプラスワンウエスト主催でのトークイベントです。主催が大阪、会場は出版社の東京、ゲストはギリコさん、お客さんは全国、となんだかイベントとして「どこにあるイベントか」わからなくなるバーチャル感がありますね。

 

ギリコさんも「蟲ソムリエ」に。

無事終えました。アクセスいただいたみなさま、ありがとうございました。

さて(いまのところ)出版イベント最後はこちら!

代官山蔦屋書店からお声掛けをいただきまして、書店から無観客オンラインイベントを配信することになりました。お相手はわたしのたっての希望で「AI HASEGAWA」さんです。

じつは細く長いおつきあいがありまして、作品を何度も見に行っています。

非常に「硬派」な文脈の作品を作られるので、素人の私が見ても、あるいはアートとしてではなく「論文をベースとする表現物」として外から見ても、誠実で頑強なロジックが貫かれています。

私の願望が強く出過ぎた 笑 イベントなので、ちょっと説明が必要に思います。こんな経緯なのです。

ということで、何を話そうか、また新しい挑戦でハラハラしております。

27日の日曜日、お昼過ぎにオンラインでお会いしましょう!

ええと、もしや、、売れているんですか?正直なところ、Twitterでしか反応が見えないのです。いつも見る「昆虫を食べないみなさん」が買ってくださって、勇気づけられるコメントをいくつもいただきました。

すごくありがたいなぁと思うとともに、ふと一般書店を見ても(当たり前ですが)置かれているので、「Twitterを見ない方」にどれほど手にとっていただけているか、正直まったくわからないのです。

レビュー書いていただけるとありがたいです!

あと、10月にラオスとのオンラインでの調印式のあと、私がラオスに戻れるのは年明けになる予定になってしまいました。私はすぐ戻りたいのですが。ラオスは封じ込めに成功した国ですので、感染リスク制御については国際的な取り決めにならうしかありません。

そのため「ラオスの活動の広報」という形で、年内は国内でセミナーや講義などお引き受けできます。ラオスに行ってしまうと、日本に戻るのは難しいのでオンラインが基本になるでしょう。詳細はお問い合わせください

先週木曜日、すでに玉置標本さんがあっという間に記事にされてましたが、色々イベントがひと段落したので、遅れての記事化です。特に会の名前は決めてなかったのですが、このご時世での野草・野虫食のお悩み相談みたいになったので、「野草食・野虫食ミーティング」と呼んでみましょう。

https://blog.hyouhon.com/entry/2020/09/11/152120

Twitter上ではたびたび交流があったのですが、365日野草生活ののんさんにはお会いしたことはなく、野草会にも参加したかったのですが実現しなかったので、直談判でお誘いしました。今回はじっくりお話ししたかったので、少人数のミーティング、という形にしました。

そして共通で交流のある玉置標本さんをお誘いすることに。玉置さん、オールマイティーのイメージがありますね。なんでもいけちゃう。

そして私の家を使うことになったので、妻も誘って一緒に採集。場所は某川河川敷です。

「河川敷は採集が自由なのでラク」とか、「ここに外来種が入って環境が変わりつつある」とか、河川敷に降りた瞬間からすごい。この雑草がアカメガシワか。この背の高いのがオオブタクサか、キクイモ、カナムグラと、名前ぐらいは聞いたことのある草が、近所のこの植物であった、と言う一致はなかなか個人では億劫でやらないことが多いものです。

自分より詳しい人と「いつものフィールド」を散策する、というのはめっちゃ勉強になります。新しい景色に興奮するというより、解像度が増していく感じ。同じものを見ているのに、そこから得られる情報密度が濃くなるので、「観光」的なもの珍しさとは違う方向性に感じます。

当初は1kmほど移動しながら採集する予定だったのですが、200mほどしか動けずにあっという間に2時間が経過。やはり専門領域がクロスすると情報密度がすごい。「あまり移動できない」という時にこそ、異なる専門家をコラボすると、普通種だけですごく楽しいです。むしろ普通種だからこそ、日常生活に身近で、季節の楽しみとして生活に寄り添うようになれるかもしれない。

植物もそうかもしれないです。

アカメガシワ。葉が大きくていろんなところに生えるのでよく見る。
これもよくいるけどキクイモの仲間とのこと。
荒地に適応したイヌキクイモ(芋がでかくならない)ではないかと。
クズの花。高級感のあるブドウのような、フルーツ香がある。
見慣れた花だけど意外な新情報に、見方が変わる。

エノキの実。タネが大きくうっすらとしたあまみと干ガキのようなコクがあり、楽しい。

ここで見つけたモンクロシャチホコ!

鈴なりのモンクロシャチホコ。河川敷に多いイメージはなかったので意外でした。

いつもは蛹になるため幹を降りてくる幼虫を捕まえていたのですが、今回は枝のものを取りました。ふと桜の香りがしないな、とこの時違和感があったのですが、あまり気にせず採集。

そこそこ取れましたが、桜もちのような特徴的な香りがしない、、?

家に移動し、料理開始。まずは夏の間にためておいたセミとバッタとナッツのアヒージョ。

セミとバッタをアヒージョで食べてもらうのは
食感の違いを確かめてもらうためです。バッタよりセミの方がアヒージョに向いている。
のんさんチョイスで野草天ぷら。秋はいずれの野草も硬くなり、やはり旬は春とのこと。
虫とはちょっと違う。
アヒージョのオイルはカプレーゼに。のんさんはシロザたっぷりキッシュ。
そしてバッタは素揚げして、ドリトスとともにサラダに。

バッタは高温でカリッとさせて、食感の近いドリトスと合わせることで、「口に残ってしまう」という違和感を減らしています。低温のアヒージョよりも高温のフライの方がバッタに向いている、という話をしました。

のんさん持ち込みのシロザのキッシュ。ボールいっぱいのシロザが入っているとのことで密度がすごい。ほうれん草のような、売り物になる野菜の味。すごい美味しい。
昨日つったタチウオをさばく玉置さん。
天ぷら旨い!
あぶり。
野虫盛り合わせ。美味しいとかおいしくないとかいいながら食べるのが楽しい。
モンクロシャチホコ 蛹化する前の若い幼虫だと全然香りがない!
不味くはないが、あまり特徴がなくて普通の味。
蓄養するとおいしくなると思われるので、要検討。

「野草」と「野虫」の似ているところ、違うところなどを語り合いました。

やはり野草も生では食べない方が良いとのこと。また「薬効」が明らかな野草もあり、薬と毒は表裏一体なので食べ過ぎるのはあぶない。

「効く」タイプの野草を非合法な感じで楽しんでしまう人もいるらしく、なかなか野草の業界もカオス。

食べてもらった感じでいうと、今回は「美味しい」昆虫と「そうでもない」昆虫の両方を食べてもらったこともあり、「草に比べると普通に食べられる種類が多い」との感想をいただきました。動けない草に比べて、逃走や攻撃・威嚇にコストをかける昆虫は、味がまずい割合が植物よりも低いのかな、と思います。

もう一つ野草はどうしても「野菜」と比較されがちなことが虫との違いだろうという話にもなりました。栽培化された野草ですので「家菜」という方が実態に即していそうですが、栽培化され、品種や栽培方法などが均一化した物と比べると、「それほどおいしくない」のが野草の実態だそうです。野菜と並べて遜色ない美味しさ、アクセスのしやすさの野草はかなり少ないとのこと。

この先昆虫が食用に養殖され「家虫」になっていくとして、おいしくアクセスのいい養殖昆虫に比べると、野外の虫ってあまりおいしくないよね、と言われるようになるかもしれないですね。今だと野虫も家虫も同じように一般的じゃないので、同じような扱いですが。

あとは自然物相手なので、アイデアの「タダ乗り」が横行しがち、という問題もあるようです

著作権や独占権があるわけでもないのであくまでマナーですが、アマチュアリズムとして、誰のアイデアなのか、自分の新しいアイデアはどこなのか、という部分を大切にできる間柄だと、情報交換が楽しくなりますよね。

すべて自分で考えたかのように振る舞うと、初心者にはびっくりしてもらえますが、同業者には情報を与えたくないと思われてしまうでしょう。

「今まで食べて大丈夫だった」という時代錯誤の食品衛生の考え方をしてしまう方もいるようで、自然物を採集して食べる、という食品流通に人が関与しないことから、「どんなひどい人でもアクセスできてしまう」という、平等さの負の側面が出てきてしまいます。

刺激的な方が再生回数が伸びる動画サイトでもそうですし、ネットで「正しい情報」を検索しようとしても、「都合のいい情報」しか手に入らない、という記者の方からの嘆きも聞きました。

野草の楽しみ方を拡張できたことで、「おいしくない」という部分を楽しめるかどうかが野食の楽しみ方なんだろうなと思えてきます。

そして私の野虫食は「養殖候補を見つける」という意味合いが強く、おそらく多くの野食の方達とは全く違うマインドで食べているんだろう、という話にもなりました。

「ベジタブル」という言葉はウェゲタービリス(vegetabilis)「活力を与えるもの」という語源だそうです。昆虫も食用養殖化されることで、別の名前が与えられるでしょう。

昆虫が増えるという性質を使って、これまで利用されてこなかったバイオマスを利用できるようになったり、自分に適した栄養バランスへと編集できたり、昆虫を食べる別の動物や昆虫を養殖できたりと、昆虫の多様性を道具のように自在に使いこなすことができるとしたら、様々な新しい農業が多様化していくことでしょう。

養殖化することで、人間が昆虫を利用できる多様性を手に入れるもの、という意味で家畜昆虫の総体を「インセクタブル insectable」とかいかがでしょうか?

1

私は屋号として「適切なヒトに適切な虫をオススメする蟲ソムリエ」を名乗っているのですが、全然普及しないですし真似するヒトも出てこないので、積極的に「蟲ソムリエする」動詞形を使っていこうかと思います。
ちょっとかしこまって言うと、
「行動原理の異なる事業者同士を、虫でつなげて目的を同じくしたチームをつくる仕事」です。

合同会社TAKEOから情報公開の許可が下りましたので、ちょっと前の話ですが書いておきます。

タガメナイトに参加したときともつながるのですが、そもそもタイワンタガメの飲料を作ろうと始めたのはフェロモンデータベースを読みながら思いついた、2011年のタガメウォッカが最初です。引用されている論文は1950年代から60年代のもの。前後して油にとかしたラー油を作ってみたりしたのですが、ニオイは飛んでしまい、うまくいきませんでした。

分子構造からアルコールに溶けそうだなと、タイワンタガメのオスの性フェロモンの香りをアルコールに移すことで、誰にでも楽しめる飲料にならないか、と、開発しました。
焼酎とかジンも試したのですが、タガメの香りを邪魔しないウォッカベースに決定。

美味しくできたものの、虫フェスなどの集まりで改良を重ねたのですが、漬けたあと2週間ほどで泥臭さが出てしまい長期保存に難があることが問題でした。このときが2011年。

時は流れ2019年、TAKEOに入社した食用昆虫科学研究会の古参メンバー(といっても私より年下ですが)が前職の香料メーカーの専門性を発揮し、なんと特許技術まで開発してこの泥臭さ問題を解決し、長期保存できるタガメの香りを保ちつつ、泥臭くなく、そしてほんのちょっとのタガメのクセを残したサイダーができたのです。

その後、タガメLethocerus deyrollei(タイワンタガメではなく日本のタガメ)の商用販売禁止となる、特定第二種国内希少野生動植物種に指定されました。

「なんかタガメサイダーの売上から、日本のタガメ保全に還元できる仕組みって作れないですかね?」との相談をTAKEOから受け、収益から寄付をすることとして合意し、各方面に情報収集をしながらその「タガメ基金」の行き先を決めることになったのです。

そこで思い出したのは、タガメウォッカの思い出です。1950年代の、生化学によって様々な機能性の化学物質が抽出されていた時代、応用を前提としていない基礎研究の情報を読んだことが、タガメ飲料のきっかけとなったのですから、「基礎研究に還元する」という方向性で話し合いました。

幸いなことに、タガメの生態研究といえば、と複数の情報提供元から推薦があった、長崎大学の大庭准教授が、このタガメ基金の寄付先として、引き受けてくださいました。

少額ですが、使い勝手の良い研究費として活用してくださるとのことでした。

タガメの匂いがアリを撃退している、というニオイの関連する新しい成果もありましたし、我ながら上々のマッチングができたかと思います。

確かに検索するとタガメ放流といった、直接的な保全をうたうグループもありますが、タガメは農薬に激弱な性質から、生息地の分断されている現状をみると、もし地域外から種苗を移入していたら、放流はむしろ国内外来種の移入となり、地域個体群を破壊してしまうという、保全に逆行する行為かもしれないのです。

また正直なところ、ふさわしい活動団体を精査するほどのつながりがなかった、ということも今回の判断の理由です。

この「基礎研究に還元する」という方針について、もうちょっと社会的意義を考えてみましょう。

利用するにしても、保全するにしても、基礎的な知見を抜きに語れませんし、情報不足によって強行されてしまった取り返しのつかない環境破壊や、逆に保全に逆行するほどの過度の利用制限など、応用や保全の分野での残念な事案を見ることがあります。

基礎研究として発表・評価された論文は、利用や保全に大してウソをつくインセンティブが低いので、「保全する側」「利用する側」いずれにしても、議論における、信頼性の高い情報リソースになります。

この件で「公益性」について、あらためて考えることにもなりました。

寄付により直接的な保全活動の資金となることと、保全に使える知見の間接的な蓄積になることのどちらが公益性が高いのか。前者のほうが、直接的で歯車が噛み合っているようにも見えます。後者のほうがまどろっこしくて因果関係が遠いようにも見えます。

また一方で、製品にタイワンタガメを消耗する以上、企業の社会的責任が利益相反にも影響することになります。今回は全く少額ですが、将来的に、高い収益を上げる昆虫食企業が、その昆虫資源の研究に、巨額の研究費を出資していた場合、その信頼性について疑問を呈されてしまうのは当然でしょう。

寄付と結果が近いほど公益性が高い、というわけでもないのです。

学術と企業がほどよい距離感を保ちつつ、少額でも確実に未来のためになることを、と考えた時、「学術的意義」によってピアに評価されてきた基礎研究への寄付という選択肢は、企業にもっと活用されていいように思います。

企業にとって不利でも有利でも「事実」を明らかにする基礎研究に還元することで、利益誘導との疑念を最小限にできる社会貢献活動だと言いたいです。

また、「昆虫を食べる」というコンセプトがほとんどなかった先進国において、ここまで食用に利用できる基礎研究の蓄積があったということも驚くべきことです。「役に立つ」「役に立たない」を数年のトレンドで評価することのバイアスが、基礎研究を曲げてしまうことを懸念します。

利用するにしても、保全するにしても、昆虫基礎研究が充実してくれないことには議論も進みません。現在の「役に立つ」研究の流れとして、昆虫食にも声がかかる事が増えましたが、その前段階として、多様で裾野の広い基礎研究の状況が改善することを願って、「タガメ基金」の設立をお手伝いしました。

そしてこの活動のもう一つの面白さは、「タガメサイダーを買うことで応援ができる」という参加型であることです。クラウドファンディングのように期間限定でもありません。いつでも、今すぐにでも、これを飲むことで少額ながら確実に、タガメ基礎研究に届くという実感は、多くのタガメ愛好家にとって「おいしい」話ではないでしょうか。

ぜひぜひ、この暑い夏にタガメサイダーを飲みながら、タガメの基礎研究に思いを馳せてはいかがでしょう。