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「ラオスにいるうちにセキショクヤケイを食べよう」と思いたち、私は村のニワトリをより凝視するようになりました。どこかにセキショクヤケイの遺伝子があるのではないか。彼らニワトリをニワトリたらしめているのはなにか?

書籍「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」においても、

セキショクヤケイの形質はゆれがあり、家畜化されたニワトリとも遺伝的交流があるとのことです。最近100年ほどでニワトリが愛玩動物、経済動物として期待され、ものすごいスピードで選抜されたときにも、遺伝子プールの多様性がその極度な合理化に、よくも悪くもついていけてしまった、と考えられます。

逆に言うと、別の要因で、遺伝的多様性がすでに失われてしまった野生生物は、すでに家畜化に適した遺伝子を失ってしまっていて、人類の歴史上、メジャーな家畜はもう二度と生まれないかもしれません。

ニワトリとセキショクヤケイはなんらかの単一形質や遺伝子マーカーでくっきり分けられることはないけれど、セキショクヤケイの性質のとことん濃いものを選んでいくことで、十分にニワトリと区別できるセキショクヤケイの形質が揃っていればOKだろう、と、この本になぞって自分の中で決めました。

5月の出張の日。午前中のオフィシャルな会議のため、村への出張で前泊しています。泊まりの出張では早起きして朝市にいくのが恒例になっていました。朝市といっても、彼らの本業は農業ですので、まだ暗い4時頃から開始します。

ラオス時間で5時半、これより早いと村の犬たちが警戒モードなので、めっちゃ追っかけてきて怖いです。

うん?これは?

ふつうニワトリはこのように死んだ状態で売られることはまずありません。傷んでしまうからです。この様子はたしかに奇妙。

こんな感じで、ふつうはカゴの中で生きたまま売られたり、
足を縛られて動けないようにして運ばれ、売られるのが、ラオススタイル。売れ残っても持ち帰れますしね。

すでに死んでいる、という売られ方は、ニワトリだとしたらすごく奇妙なのです。猟銃で獲られたときのスタイルに見えます。聴いてみました。「これは野生のニワトリか?」そうとの返事。値段は7万キープと確かにやや高めだけど、まぁ普通の値段。蹴爪が細く鋭く、さっくりと刺さりそうなのが特徴的ですね。書籍に識別情報のあったオスだけを買います。正直、メスを購入したところで識別する自信はないです。

そして一緒に売られていたものも、とても興味深いです。

養殖ヨーロッパイエコオロギの解凍(ラオスにはここまでの生産流通の仕組みがないことから、おそらくタイ産と思われます)養殖カエル、天然のキノコ、そして天然のセキショクヤケイ。

つまり養殖だから効率的、狩猟採集だから割に合わない、という単純な区別ではなく、彼らの合理性の中で、それぞれの事情をふまえて選択されている、と考えるのがいいでしょう。それぐらい自然が豊かで、人間が貧しいのがラオスの特徴です。日本の常識や、わかりやすく単純化したストーリーで語れるものはほとんどないです。

村で氷を購入し、会議の間、氷漬けで保管して、解体することにしました。ニワトリを解体した経験があるとはいえ、これは野生動物(である可能性が高い)ので、衛生管理にはめっちゃ気を使います。ダニがポツポツ見えますね、、、おそるおそる観察しつつ、、、、、

外形的な特徴をチェックしていきます。

「白い耳たぶ」と呼ばれる形質。これはセキショクヤケイの性質と呼ばれたこともあるものの、ラオスの家畜ニワトリにも見られるので、これだけで判断はできないとのことです。

グリーンに輝く黒い羽。これも死んだり乾燥したりすると失われてしまうらしく、繁殖期なのでこの美しさなのか、ニワトリとの違いははっきりわかりませんでした。

体重は測定したのですが、氷漬けの水がしみてしまい、正確ではないです。1164グラム。

羽をむしると1036g これを基準としましょうか。

消化管をチェックしていきます。そ嚢(上)と筋胃(下 砂肝ですね)に入っていたのはアリばかり。砂肝の中には、丸っこく角がけずれた石も見えました。ここまで完全にアリ食だと、短期間でも飼育されていた可能性は低いです。そしてツムギアリのような樹上のアリではないので、丹念につついて食べていたと考えられます。つまり狩猟されるまでは野生下にいた、と言えそうです。

胸肉とささみを見てみましょう。セキショクヤケイであれば飛べますから、ニワトリに比べて比率が高いはずです。

取り出してみるとふつうの胸肉、ささみに見えますが、
元々の体重が1kgと考えると、かなり割合が高いです。
書籍によると体重の15%の胸肉、5%のささみだそうで、とくにササミについて、ニワトリはそこまで大きくならないそうで、これはセキショクヤケイと判断していいでしょう。

細く長い蹴爪
白い耳たぶ
高いササミ比率
胃内容物のアリ

以上の形質から、晴れてセキショクヤケイ、と判断できました。それではこれを焼き鳥にしていきましょう。

あくまでこれは野鳥であり、鮮度その他、食中毒になっても責任はとれないと念押しした上で
食べてみました。
……硬い、、、、

野鳥なのですから当然です。以前にロードキルのキジを食べたときを思い起こします。2014年にさばいて食べた老鶏も同じような感じでした。

血抜きをしていないので血の匂いは強く、中から散弾のかけらが出てきましたし、お世辞にも「おいしい」焼鳥といえる味ではなかったのですが、これが原種の味か、、、と「おいしい経験」になりました。

最後にムリヤリに昆虫の話に戻しますが、いつでも家畜化(=目的に応じた形質を取り出すこと)ができるほどの、遺伝子プールの多様性を保つことが、まず大前提であって、ひとつの生物を家畜化するたびに、その他大勢の生物の多様性を遺伝子ごと全滅させるようなことは、遺伝子の濫獲であって、それでは今後、多様化する世界の気候やニーズに対してセキショクヤケイのようなスターはもう二度と現れないのではないかと思います。

「昆虫の家畜化プロセスにおいて、どう可逆性を担保するか」この遺伝資源の中には昆虫をおいしくたべる伝統知識も含まれます。これまで食べてきた人たちと一緒になにができるのか、
これまで食べてきた人たちを「やむをえず」置き去りにするならば、どんな問題を私達は抱えているのか。

そのような包括的な議論をしないと、効率が低い、地味なキジ科であったセキショクヤケイが世界的な家禽として君臨するようなことは怒らなかったと思われます。

今後鳥インフルエンザなどの猛威により、よりインフルエンザに耐性のある遺伝子が必要とされるかもしれません。ゲームチェンジはいきなり来る、というのは私達もコロナで体感したことです。そのときに、野生個体群が温存されているというのは、すでに絶滅してしまったオーロックスよりもずっとアドバンテージがあります。同じように、「今の価値観で役に立つ昆虫を取り出す」という近視眼的なものではなく「永続的に家畜候補遺伝子を自然界から取り出せるようにする」貯蔵庫としての自然界の必要性を、しっかり考えた上で未来を描いてもいいように思います。

こちらは村で飼われているニワトリ。

2014年の1月のブログで「逆にニワトリを食べてみる」という記事を書いてから9年。ラオスで進展があったのでまとめておきます。

家畜化前のニワトリの原種、セキショクヤケイGallus gallusを食べることができました。食べて考えたのは、今のわたしたちから「家畜化」とイメージできるものって、今の社会の価値観しか反映していない、ということです。わたしたちがいま、利用している家畜を見るとき、経済的価値をもたらす形質だけをピックアップし、そこに機能があるはずだ、という前提で正当化し、機能が見えないものを愛玩動物として切断処理してしまう。そして歴史的に失われた家畜は「淘汰された」とゴミ箱に入れスッキリ。

ヒトと家畜化動物との長い関係の中で、当時の人間がどう行動したのか、そこにどんな合理性があったのか、彼らの得たもの、失ったものが、現代からの視点では、かえって見えにくくなってしまうでしょう。歴史的な時系列を踏まえ、当時の価値観を復元し、そのプラスとマイナスの両側面を見ることが、まず大事です。

家畜化を安易に否定せず、美化もせず、今の価値観にとらわれず、正面から統合的にとらえることで、未来に向けた、家畜のビジョンを描けるようになるでしょう。それでは始めます。

ニワトリは原種が絶滅していない、生物としての源流を辿ることができる、ありがたい家畜です。ウシは原種、オーロックスが失われてしまったので、現代の家畜種の近親交配による遺伝病の回復方法がわからず、産業的に苦しんでいるそうです。冷凍精液が開発された1970年代以前の遺伝子型が追跡できないので、遺伝学的なルーツを探る古代牛復活プロジェクトなんかもあるとか。

2014年の「逆にニワトリを食べる」際のテーマは、昆虫試食会で参加者から言われた「昆虫を食べるなんてかわいそう」でした。動物倫理の意味合いでも重要なテーマでありつつ、昆虫が身近な人にとって、殺すべき、殺したくない、殺したくないのに殺してしまった事故の経験はあたりまえにあるでしょうから、素朴に感じやすいことです。じゃあ逆に考えてみよう。ニワトリはかわいそうじゃないのか?

このときは卵を産まなくなった老鶏をゆずってもらい、しばらくトノサマバッタで飼育したあと、自分で解体して食べました。労働として衛生面、安全面に気を使うだけでなく、血が出ること、苦しそうな呼吸、暴れる動きなど、心理的な疲労も大きいので、どちらも食べてみると、ニワトリの方がかわいそうに感じた、というのが私の主観的な体験です。

2017年からラオスに関わるようになり、多様な脊椎動物の屠殺に立ち会い、それが飲み会やお祭りのいち風景として目に入ったり、夜明け前の村の朝市で野生動物が売られ、次々と買われていく様子を見るうちに、次第に抵抗感がなくなってきた自分がいます。

生活の中で動物を利用することは、彼らにとって必要な生活スキルであり、昆虫食もその中にいます。たとえば犬やネコなど、去勢や避妊が一般的でないラオスにおいては、だれかが個体数を調整しないといけません。人間が動物を管理する手段の一つとして、当たり前に屠殺があること、その生活感になじみつつあるようです。

少し話がそれました。ニワトリに戻しましょう。ラオスでは村でも街でも、ニワトリはいたるところに自由に歩いていて、ときにヒヨコを連れています。2023年1月のある日、とある雄鶏が目に入りました。自由がなく、つながれていたのです。

これがその写真。

ヒモにゆわえられていて竹を掴んでいます。これはなんだろう?とラオス人スタッフに聞くと

なるほど。その後のリプライをいただいて良い書籍にめぐりあえました。

ここからはこの書籍「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」を読みながら勉強する形で、ラオスのニワトリの全貌をみていきます。この本はストーリーの語り口がダイナミックで引き込まれます。大きな流れとして、第一章に「経済動物として圧倒的なニワトリ」の話から入ります。

産卵鶏の年間産卵数は290個、寿命は産卵数が減り始める、700日。本来のニワトリの寿命は15年なのに、殺され廃棄される。
ブロイラー(肉用鶏)は50日で2.8kgまで育ち、そして殺される。その種苗は大企業が牛耳る。
産業として卵と肉の鶏はくっきり分けられ、兼用鶏という歴史的にメジャーだった利用は消滅。
当然だが、産業レベルの「効率のいい」ニワトリの恩恵は、貧困国には届かない。手作業・低効率で育てた地鶏は、商業レベルのニワトリと同程度の価格をつけられ、その労働は安く買い叩かれてしまう。

そして第二章、少なくとも9000年前、「家畜化初期」にだれが何をしたのか、筆者はラオスの現場に出向くことで、その謎を紐解いていきます。前半の「超効率」なニワトリの姿とは打って変わり、そこには面倒で臆病で、森の片隅にひっそりと住む、地味なキジ科の野鳥がいたのです。その名もセキショクヤケイ。

セキショクヤケイを家畜化したらしい、ここのタイ・ラオスの人たちは、とても現代の脅威の経済性を見越して、この鳥を飼い始めた、とはとても思えないのです。おおらかであそびがあって、恵まれた自然を背景に、夜明けとともに働き、昼前には休憩する。こんな気候から、なぜ家畜化をしたのか。「遊び」としか言いようがない。

この本を読み終え、私は思います。「ラオスにいるうちにセキショクヤケイを食べたい」と。

後半に続きます。

ラオスの国際保健の分野にいることで、色々と勉強をしてきたんですが、「タンパク質クライシス・タンパク質危機」と言う話を、とんと聞かないなと。確かにタンパク質は、重要な栄養素ではあるものの、世界的に、タンパク質を増産して、人々の栄養を支えよう、という旗振りをしている人が誰もいない。

昆虫食品の生産者、販売者、そして「代替肉」の議論でよく言われがちなのが、将来、人口増加によるタンパク質不足が起こるので、そのために安定生産をしなければならない、です。これもまた奇妙です。歴史的経緯をまとめた論文があったので、勉強しました。ちょっとまとめてみましょう。

1、栄養不良の人たちの一食と、栄養が足りている私たちの一食は同じ価値ではない。

「増産」が栄養に貢献する、と信じる背景には、栄養が公平に配られているはずだ(配られるべきだ)と言う価値判断があるでしょう。満腹なお腹に押し込む、シメのラーメン、スイーツは別腹、など、娯楽的に食べられる食事よりも、栄養が足りていない人たち、発育初期での成長が阻害されることでその後の人生にわたって何十年も、悪影響を受け続ける子供に届けるべき、と言うのは、直感的にも信じられるし、人類の最大幸福を目指す功利主義哲学とも一致するので、あまり論争はないでしょう。そうすると「栄養問題」の主人公は当然ながら「足りていない人たち」となります。

足りている私たちの食べ物を効率的に変えることが、回り回って誰かの栄養になる、というトリクルダウンを信じたいところですが、人類の食糧が十分以上生産されている現在ですら、10人に一人が栄養不良なのです。残念ながら、これが「ただ一つの何かの増産」によって解決する、と考えている国際保健の人たちは存在しません。なぜなら、栄養不良の原因と背景が多様で、その解決に至るアプローチも、同じように多様でなければ効かないからです。それが1970年代以降の「栄養」分野の蓄積でした。

2、「給食に脱脂粉乳」はあまりに鮮烈な「栄養介入」の印象を残しすぎた。

日本での「栄養介入」の鮮烈なイメージは、戦後給食による脱脂粉乳でしょう。飲んでいた世代も団塊世代以上になりますが、いまだに栄養介入といえば給食とタンパク質、というイメージはこの時の風景を引きずっています。当然ながらあれから50年以上経ちますし、研究は進み、介入アプローチは変わっています。生後1000日が、最も重要で、解決すべき栄養不良で、その投資効率は16倍に達する(この時期に1ドル栄養介入した時の長期的な経済効果は16ドル)となり、人類にとって最も投資効率が高い分野が栄養、とも言われています。たしかに給食アプローチは(子供が労働力である貧困地域においては)出席率の向上には効果がありますし、みんなに平等に配ることで、貧困世帯であっても気兼ねなく、栄養を補完することができますが、先進国では世帯ベースの支援が基本で、「給食で栄養を補っている子供」がいたとしたら、そこに集中して福祉が介入した方がむしろコスパが良い、と言う結論になっています。並行して、就学児以降に栄養を補完しても、ある意味手遅れで、生後1000日の間の栄養不良はリカバーできないこともわかってしまいましたので、途上国におけるアプローチとしても、印象の割に効率的な介入ではないことも判明しています。

3、The Rise and Fall of Protein Malnutrition in Global Health (国際保健におけるタンパク質栄養不良の盛衰)

それでは今回のキモ、総説に移りましょう。
「タンパク質危機」「タンパク質ギャップ」は国連が1950年代から70年代まで国連がえらく注目して警鐘を鳴らしていたが(日本の脱脂粉乳支援も同じ文脈)、今やそうでもない(タンパク質も含めて総合的に判断・介入せよ)という、まぁ普通な話です。地味な話ほど検索では引っかからないので、せめてここに残しておきます。

やはり研究の進捗により栄養における重要度ランキングは上下しています。1950年代から70年代まではタンパク質、その後長らく微量栄養素の隆盛があり、診断基準が整備され、その上で感染症対策におけるワクチンなどの効果が発揮され、2000年代に乳幼児死亡率の劇的な低下という、MDGsの大きな成果があった後に、2015年からの貧困対策、農業、環境、民間セクターを巻き込んだ統合的な介入を目指すSDGs、という話になってきます。つまり「SDGs」という文脈で、1950年代の話をしていては、チグハグになってしまうのです。

1930年代、劇的な発見がありました。劇的な発見は、国際社会を大きく変えるものです。アフリカで「クワシオルコル」というタンパク質不足を原因とする(らしい)疾患が発見されました。「お腹のぽっこりしたしんどそうな子供」の写真を見たことがあるでしょうか。外見的な特徴から診断されるのですが、その後の死亡率が高いことから、発症後の治療よりも原因究明と対策が必要でした。母乳栄養が中断した子供に起こりがちであること、肝油と牛乳の組み合わせで改善することから、トウモロコシなどの栄養バランスの悪い食物による非感染性疾患と考えられています。

1949年、FAOは発展途上国で全般的にクワシオルコルが広がっているのではないか、と調査を開始し、専門家委員会を結成しました。アフリカでは調査地全てで発見され、牛乳を飲む部族では見られないこと、中央アメリカやブラジルでも見られることなどを発見しました。

1952年の会議で「タンパク質栄養失調 protein malnutrition」という用語が導入され、母親、乳児、子供の栄養失調に特化して議論が進みました。その中でmarginal(ちょっとした)な、subclinical disease(医者にかかるほどでもない疾患状態)が慢性的に起こっていると指摘されました。

ちょっと解説しますが、これはグローバルヘルス(国際保健)が、病院にかかるまでを支援したり、病院の外での日々の生活向上に口を出すことの背景ともなっています。私たちは何か違和感があれば病院にかかりますし、出産はほぼ病院が定番ですが、ラオスでもよく見ますが自宅分娩であったり、何か違和感があったら病院の前に祈祷師に相談するなど、やはり「保健」病院にかかる前、病院の外の行動が、病院そのもののレベルアップにも必須ですし、彼らの生活をサポートするために必要だ、と言われています。

1955年の会議では、「欠けた桶」のイメージで知られる論点が示されました。つまりタンパク質の質(必須アミノ酸のバランス)と量とが、重要であるとの結論です。「かけた桶」のイメージは、例えばトウモロコシをたくさん食べることで、見かけ上のタンパク質をたくさん取れていたとしても、必須アミノ酸であるリジンが不足していると、リジンの最大値までしか、他のアミノ酸も利用されない、無駄になってしまう、というものです。

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そこで二つの戦略が示されました。地元で生産される「おかず」として、野菜や魚の生産と消費を推奨するアプローチと、安価で保管しやすい、補完的な栄養食品の生産と配布です。

一連の研究の中で、クワシオルコルの手前となる「低身長」が、重要な指標であることも示されました。年齢に対する身長の伸びの悪さ(Stunting)はラオスの農村部でもいまだに続く問題です。

1955年 国連タンパク質アドバイザリーグループ(PAG)が結成されました。PAGの目的は、WHO FAO UNICEFに、「タンパク質リッチな食料プログラムの提供」が目的とされました。

1960年には、異なる文化の食習慣を理解するために、社会科学の専門知識を取り入れました。(このアイデアは素晴らしく、ここで昆虫食も入るべきだったんですが、これは60年ほどしばらく後回しになるわけです)ここでは栄養教育、社会科学者の関与、食習慣を研究する方法、新しい食品を導入する方法を見つけることが目標とされました。ここでカロリー当たりのタンパク質、年齢・体重当たりの身長の伸びの悪さ、を指標とする「タンパク質カロリー栄養失調」という用語が定義されました。(後に、低身長の原因はタンパク質だけじゃないよと指摘されるわけですがこの時はそう指標が決まりました。)

1963年の会議では(給食ではカバーできない)就学前児童へリーチする方法が議論されました。1965年の会議では、牛乳、食用魚、穀類、リジン・メチオニンの生産、大豆、綿の種、紅花、トウモロコシのアミノ酸バランス向上がトピックとなりました。(ここでも昆虫は一切出てこないです。)
途上国の子供に脱脂粉乳を提供する(日本の脱脂粉乳給食もその一環ですね)アプローチはモーリス・パテが関与し、1965年、ユニセフはノーベル平和賞を受賞します。ノーベル賞をとってしまうとそこに異論を挟むのが難しくなるというのはまぁどこでもそうでしょうね。

1968年「タンパク質ギャップ」「タンパク質危機」という用語が登場します。即時の対応を必要とする、世界的な緊急事態である、という警鐘を鳴らすものでした。

タンパク質危機を回避するための国連の政策目標 1968
1、従来の人間が直接消費する、植物性・動物性タンパク質の増産の促進

2, 海洋漁業と淡水漁業の両方の効率と範囲の改善のための行動

3、農地・倉庫・輸送における不必要なロス(今ではフードロスと呼ばれますね)の低減

4、油用種子や油用種子タンパクの人への直接利用の促進

5、魚タンパク質の利用促進

6、合成アミノ酸の利用と穀物・野菜からのタンパク源の開発、合成栄養素の利用

7、単細胞生物由来のタンパク質の飼料用・人間用の利用

あれ、相変わらず昆虫食は蚊帳の外ですが、現在語られている「タンパク質危機」「食糧危機」の話と全く同じに見えますね。そうなんです。今の代替肉や培養肉で広告される「タンパク質危機」は、1968年のグローバルヘルスの議論から発しているものの、彼らはこれを引用しません。なぜかというと、この議論はだいぶ古いのと、「新しい」肉を売りたい企業が、1960年代の古いコンセプトで考えていることがバレてしまうと、企業価値を下げかねないからです。営利企業である彼らが、公平な議論を運営することの限界が、ここにあるでしょう。彼らを非難するつもりはないですし、私が雇用されたら、こういった議論を減らすかもしれません。総合的な議論をすべきや行政や大学の責任ですが、まぁそこら辺の批判は直接届けています。変わるかどうかは彼ら次第でしょう。

余談ですが、「石油タンパク」が大きな反発を受けたのもこの時代です。消費者団体が、酵母の培地の原料であるパラフィンに発がん性物質があるのではないか、と不信を募らせて、1973年に申立書を提出、大きな行動へと拡大しました。食品安全法に「新規開発食品」が定義され、実質的に販売不可となりました。
「食品と健康被害との因果関係が認められない段階で流通を禁止できる」ことと
禁止解除のためには「人の健康を損なう恐れがないことの確証」つまりリスクゼロの証明をしなくてはいけない、という無理ゲーが設定されたのです。

当然ですが、通常食品についてもリスクゼロのものなどありませんので、過度に厳しいルールが追加された、と言えます。

さて、この辺りの議論を読んでみると

(1)栄養とい うことに対す る教育問題
(2)製造原価の問題
(3)輸送問題
(4)保存貯蔵の問題
(5)社会習慣の問題
(6)宗教的信念の問題
(7)社会的地位、身分の問題
(8)味
(9)政治上の問題

おどろくほど、今の代替肉と「同じ議論」がされているのがわかるでしょうか。その後、石油価格の高騰(オイルショック)に伴い、立ち消えになったのですが、現在では石油から合成されたリジンが195万トンメチオニンなどの飼料用アミノ酸はすでに普及しています。その明暗を分けたのがなんなのか、正確にはわかりませんが、直接食用にする際のサイエンスコミュニケーションが十分でなかった可能性があり、これは昆虫食でも言えることです。過去をしっかり直視して、未来につなげていきましょう。

「食べている人がすでにいること」
「新しくないこと」
「強要するものではないこと」
「おいしいこと、楽しいこと」

この辺りが私の重視する戦略なのですが、「役に立つ昆虫食」「未来の昆虫食」として、これまでの歴史と切断処理をしてゴリ押すことで、陰謀論の温床になったり、技術一辺倒な税金投入が、かえってサイエンスコミュニケーションとのアンバランスを産んだりと、色々と心配しています。


話を戻します

1970年の報告では、1歳から9歳までの発展途上国の子供の2から10%に影響を及ぼし、1−5歳児の最大50%が影響を受けている、とし、発展途上国における乳幼児の死亡率、発育不良、寿命の低下の重要な原因と認識されました。

PAGはピーナッツ、ごま、ヒマワリ、藻類、合成アミノ酸を使用した食品の開発を進めていましたが、コスト・生産・受容性の問題で後退、補完的な食品の開発へとシフトしました。しかしPAGの「実用的な成果」がないことに不満が高まり、タンパク質ギャップへの支持が揺らぎ始めます。

1974年、「グレートプロテイン・フィアスコ(タンパク質の大失敗)」という批判記事がランセットという著名な医学誌に出されます。

この中で、国連によるあまりに過度な「タンパク質偏重」が、タンパク質だけに特化した介入が今ひとつ成果を上げなかったことや、先進国におけるタンパク質必要量がの下限が下がり、途上国はそこまで不足しているわけではない、と「ギャップ」が閉じられたこと。マラスムスのような、タンパク質以外、全般的な栄養不足による症状が多くあることも見逃したことして、批判しました。150万人が死亡した1974年のバングラディシュ飢饉を受けた世界食糧会議にはPAGはコンサルタントとして呼ばれず、タンパク質は議事録から一気に減ってしまった。
同年、世界食糧評議会が設立され、栄養と食糧生産、安全保障、貿易、援助に関する国連機関同士を連携することが使命とされました。ここでいわゆる「タンパク質偏重」はキャンセルされ、各機関の連携による「総合的な対応」へとシフトした、と言えます。PAGは1977年、解散します。これらを主導したウォーターローとペインは、1975年のネイチャーで、タンパク質危機はもはや支持されないとし、タンパク質以外からの栄養不良も起こること、感染症との相互作用もあると指摘しつつ、以下の言葉でまとめています。

“But perhaps the story of the protein gap shows the arrogance of supposing that we know the answers, and illustrates the need for a continuing critical examination of the premises on which action is based.”

私たちが答えを知っていると思い込むことの傲慢さを示し、行動を起こすための前提を批判的に検討し続ける必要性を示しているのかもしれない

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/810729/

ほんと、肝に銘じたいところです。

The overturning of false paradigms is a painful and costly business and lacks the glamor of making new discoveries 誤ったパラダイムを覆すことは痛みを伴い、コストが高い仕事で、新しい発見をすることの華やかさに欠けている。

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5114156/#R37

4,「タンパク質の大失敗」その後の動き。

さて、この後の動きをざっくりと、ですが、MDGsの成果を見るとよくわかります。微量栄養素の不足による疾患の診断、解明と、ヨウ素・ビタミンAなどの添加による改善、ワクチンなどの感染性疾患の対処など、複合的な要因による乳幼児死亡率の劇的な低下など、大きな成果を上げています。

そして2015年のSDGs「貧困の撲滅」を最大課題とし、「各ゴールは統合され不可分」と宣言し、環境や民間セクターを巻き込んで、持続可能なものにしていこう、との流れを作りました。それがうまくいっているかはさておき、理念としては、これまでのタンパク質偏重から、複合要因へのシフト、感染性疾患へのワクチン、微量栄養素補給などの「外からやってきて劇的な変化をもたらす」成果があったことで、隠れていた問題も明らかになってきました。

つまりタンパク質は相変わらず重要な栄養素であり、「外から持ってくる」だけでは賄いきれない、というものでもあるわけです。微量栄養素の欠乏は診断できますので、それらのない地域での、主要な栄養素、タンパク質・脂質・炭水化物について、バランスよく摂取できるよう、地域の社会に即した貧困改善をしながら、栄養も低下させないようにフードシステム全般を設計構築しよう、という壮大かつローカルな取り組みが必要になったのです。

この「壮大かつローカル」が、世界に何をもたらすのか、という点については、FAOが2021年から取り組んでいる、「先住民のフードシステム」にも現れていますが、持続可能性という点について、先進国のこれまでの技術開発では石油からの変換効率や、資本効率をに偏重してきたものの、最適化されたものではなく、むしろ小規模な先住民が、地域資源を利用しながら営んできた生活の中に、地球全体の持続可能性のヒントが隠されているのではないか、というものです。

そうすると「タンパク質の大失敗」のもう一つの面が見えてきます。「世界全体でチャンピオンの食べ物を食べる」という前提すらも、すでに崩れているのです。ローカルなフードシステムの、当事者による開発が各地で分散的に行われ、その中から他地域にもジャンプできる技術があれば共有し、「パッチワーク」のように、人と環境と文化の結果、ローカルなフードシステムが構築されていく、そんな「小農」が主役になる未来をFAOは描いているのですが、

果たしてFAOを引用する皆様、どこまで理解していただけているでしょうか。

それとも知りつつ、あえて無視しているのでしょうか。

さて、ラオスは引き続きロックダウンの毎日です。6月末に入国して隔離期間14日、ビエンチャンでワクチンをうち、中部タケークに移動して自宅隔離14日、もう8月ですが、一ヶ月活動したと思ったら市内感染が少しずつ増え、8月31日から9月13日まで街ごとロックダウン。

ここまでは食料品の買い出しや、テイクアウトの買い物はできていたんですが、市中感染が止まらず、ラオス国内でも感染者が多い地域になってしまったので、更に厳しい外出禁止が9月27日まで。家にずっといるのでやることが捗るか、と思ったら、備蓄の食料から自炊するのでけっこう手間がかかるのと、メンタル維持のほうがけっこう大変で、まぁなかなか、オンラインで引続き日本ともつながりながらどうにかやっていきます。庭に畑もありますし、昆虫が自給自足できるようイネ科の草も用意してあったので、外出禁止でもいろいろと実験はできるのですが、買い物ができない、息抜きに外に出れない、というのはなかなかなものがあります。

さてロックダウンで悶々としていたときに、こんなつぶやきが。

いやいや。そうはならんやろと。

幸いドラゴンフルーツは日持ちがするので、備蓄用として買っておいたものがあり、できなくはない。

お酢も買ってあり、めんつゆがあり、お米も買ってあるので、できなくはない。だけれども。

冷蔵庫にあった
ドラゴンフルーツ。

中身はカットして冷蔵。
今日の主役は皮だ。

生でかじる。水気があってあおくさいけど甘みがない。ちょっとぬめりのある「果物の皮」の印象。そうはならんやろ、と思いつつ
ちょっとだけ期待する自分がいる。

わさびもしょうゆも買いに行けないからめんつゆとライムで許しておくれ、、茹でよう。

茹でる。

すぐクタっとするので、
冷水に入れて外皮をむく。
いやー。。どうか。

ヅケ。

予想通り、マグロ、、ではない。ヌルっとした甘くない「なにか」だ。
しかしマズいかと言われるとマズくはなく、うまいかと言われるとうまいとも言えない。。。
判断に困るな、、、
どうすればいいんだ。。。。

結論は明日にします。
#外出禁止限界ラオス飯

Originally tweeted by ラオスで外出禁止の蟲喰ロトワ (むしくろとわ) 著書「おいしい昆虫記」by おいしい昆虫生活™️ (@Mushi_Kurotowa) on 2021年9月20日.

#外出禁止限界ラオス飯

🍣🍣🍣 すしだな。

ぐにんぐにんする。めんつゆに漬けたドラゴンフルーツの皮。
マグロではない。
だけど、、、?

「23世紀の合成寿司」っぽい。
たしかに寿司の楽しみは通りすぎる。通りすぎるけど満足感として貯まらない感じ。食後は虚無。
#外出禁止限界ラオス飯

https://twitter.com/Mushi_Kurotowa/status/1439955202275102723?s=19
昨日から続く話です。

コーンツナサラダに。。。?

いやー。食感が虚無。クセはないし味付けはなんでもいけるんだけど、ツナとコーンに比べて食感の喜びがずいぶんと低い。
うーん。これは、、もういいかな。

Originally tweeted by ラオスで外出禁止の蟲喰ロトワ (むしくろとわ) 著書「おいしい昆虫記」by おいしい昆虫生活™️ (@Mushi_Kurotowa) on 2021年9月20日.

ごちそうさまでした。楽しかったけど、、、次のロックダウンまではやらんかな。

全滅しました、もあり得たわけですよ。

そもそもが産卵室を作ってその中で産卵するのが普通らしく、それが壊れた、あるいは壊してしまったから観察できている、というこの状態。

まずはこちらをみて欲しい。

時系列でまとめたのはこちら。

https://twitter.com/i/events/1423197330585505795?s=20 モーメントになってます。

いやもうね。この親が寄り添うこの様子。

色々言いたいことはあるけれど、そもそもの情報量がすごいのでまずじっくりみて欲しい。タイムラプスで見つかる生態。ありがとう。自然界にグッドもバッドもないけれど、それでも去来するものがあるさ。

自由時間のほとんどをつぎ込んでしまったので、そろそろ通常業務に戻りつつ、依頼仕事を片付けつつ、観察を続けたいと思います。

さて、タケクでの自主隔離もあと2日となった7月23日。玄関の横に謎の物体が。卵、のように見えるけどなんの卵?

小ぶりなビー玉ぐらい。中でぐるぐるしている。

魚のような体型で外鰓がある。ということは両生類?おたまじゃくしのような体型ではなくスラっとしているし、サンショウウオだとすると脚がない。すると詳しい方からリプライをいただきました。

なんか、すごい生き物らしい。名前にミスリードを誘われたが、イモリが足を失ったグループ、ではなくて両生類の無足目、という無尾目(カエル)有尾目(サンショウウオ)でもない、3つ目の大きなグループとのことです。南米、東南アジア、インド、マダガスカル以外のアフリカに生息、パンゲア大陸由来とのこと。すごいな。

毒のある種もいるらしいとか、卵生とか胎生とか、地中性とか水性とか、いろいろと多様性があるようですが、如何せん情報が少ない。日本でも継代飼育に飼育した人はまだいないのだとか。

確かにラオスの雨季は粘土質の土が水を含んでヌルヌルになり、人の行く手を阻む。トヨタのオフロードでないと未舗装の道は踏破できない。農村部では田植えを終えると農閑期になり、あまり農作業をしない。農地で重たく粘着する土を無理にいじると体を痛めてしまう(私は腰を痛めました。)雨季は意外と生き物に出会いにくい気候なのだろう。 それでもなお、たまたま偶然、玄関の横に産卵したというのは喜ばしいことだ。フェンスで囲まれた敷地内なので、犬も怖くないし、泥棒も入ってこない。カメラを設置しよう。インターバル撮影だっ!

ここでお母さん登場。模様からコータオヌメアシナシイモリと推測されます。

タイムラプスが、、うまくいかない!マニュアルフォーカスが解除されてしまう(仕様とのこと)

二度目!

昼間は雨!水没したけれど大丈夫そうだ。

そしてその夜。オートフォーカスのための小さな明かりをともし、待ちます。昨日は日没後すぐに来ていたのに、なかなか来ない。うろうろしていたら土から顔を出すお母さんと目が合う!これはすまない。邪魔をしてしまっていたようだ。

そしてついに!タイムラプス成功!

今のところ、卵が完全に水没すると世話をしにこなさそうです。そして水に浸かっても卵は死なない模様。

周囲の水位が下がると、乾燥の危険が高まるので粘液をまとわせてそれを防ぐ、のでしょうか。抱卵といっても温めるというよりはぐるぐると回転させているようです。どんな意味があるのでしょう。翌朝子守をしたまま発見。抱卵の時間帯は結構アバウトなのか、それとも天気次第なのか、しばらく観察を続けます。

さて今夜は金土と続いた長い雨がいったん途切れ、6時からタイムラプスを動かし始めています。さて母親は来ているでしょうか?水位が低いので、これまでの考察がただしければ、日没後すぐに来るでしょう。

しかしこれ食えるのか、ラオスにも食う文化があるのか、知りたいところです。写真を見せて聞き込みをして、

調べてみます。

出国も迫る6月16日、サエボーグ個展「Livestock」を観てきました。イベントでのパフォーマンスが本領発揮なアーティストですが、展示として造形をじっくり観られるのもまたよいものです。パフォーマンスはまだ観れず。

ご本人も会場にいらして、「食べること」「ウンコすること」を中心に色々話しました。

センシティブなテーマであることもあって、一部撮影禁止だったり入り口からは見えない位置に置いてある作品もありましたが、全体的に「お祭り感」があるのがいいですね。ご本人も「祝祭」を意識されてるとのことでした。

どうしても作品展示というのは触れる時間が短くなりがちで、「なぜここにウンコがあるのかわからない」といった素朴な感想もあったようで、そりゃ大動物家畜がいて食肉生産をしていたら、そこにウンコがあるだろう、という発想が、どうやらない人もいるらしい、のです。

どうしても人間はピンとくる部分に目が行きがちで、作品を観に来るときはその感度が高くなっているときでしょう。そのときに「システム全体」を見ることがいかに難しいか。

ピッタリとしたラバーはきもちいい、とか、くびれやくるぶしがピタッとしていて、いいですね。

また一方で、「作る側」になると見え方が違ってきます。取材し調査し、試作と思索を繰り返し「何を強調するか」を考えるとき、「何を強調しないか」そしてその全体を把握していないと見失うものがあるのでしょう。

昆虫食と文明」という名著のあるデイビッド・ウォルトナー・テーブズ

の「排泄物と文明」にも話が及びました。

国境なき獣医師団をつくった疫学者で、学者肌の雰囲気を漂わせるナイスな翻訳文なのですが、サエボーグさん的には「めっちゃ大事なのはわかっているけれど読み込みにくい」とのこと。確かにちょっと硬いし、前提知識がいるし、サイエンスを背景にしない人にはとっつきにくいかも。

そういう意味で表現の目的ごとに「解説役」というのがいろんな形で必要なのでは、とも思うのです。対話型専門知だ。

最近リアルタイムで読書をしてメモを残していく「読書メモ」というのをやっているのですが、もともとは読書中にTwitterを占拠して、気が散るのを抑えるための苦肉の策だったのですが、意外と好評で、こういった専門知ユーザーとしての目線を増やしていく、というタイプの対話型専門知も実践できればな、と思っています。

専門知を再考する 読書メモ

https://togetter.com/li/1708730

食農倫理学の長い旅 読書メモ

https://togetter.com/li/1733281

先週木曜日、すでに玉置標本さんがあっという間に記事にされてましたが、色々イベントがひと段落したので、遅れての記事化です。特に会の名前は決めてなかったのですが、このご時世での野草・野虫食のお悩み相談みたいになったので、「野草食・野虫食ミーティング」と呼んでみましょう。

https://blog.hyouhon.com/entry/2020/09/11/152120

Twitter上ではたびたび交流があったのですが、365日野草生活ののんさんにはお会いしたことはなく、野草会にも参加したかったのですが実現しなかったので、直談判でお誘いしました。今回はじっくりお話ししたかったので、少人数のミーティング、という形にしました。

そして共通で交流のある玉置標本さんをお誘いすることに。玉置さん、オールマイティーのイメージがありますね。なんでもいけちゃう。

そして私の家を使うことになったので、妻も誘って一緒に採集。場所は某川河川敷です。

「河川敷は採集が自由なのでラク」とか、「ここに外来種が入って環境が変わりつつある」とか、河川敷に降りた瞬間からすごい。この雑草がアカメガシワか。この背の高いのがオオブタクサか、キクイモ、カナムグラと、名前ぐらいは聞いたことのある草が、近所のこの植物であった、と言う一致はなかなか個人では億劫でやらないことが多いものです。

自分より詳しい人と「いつものフィールド」を散策する、というのはめっちゃ勉強になります。新しい景色に興奮するというより、解像度が増していく感じ。同じものを見ているのに、そこから得られる情報密度が濃くなるので、「観光」的なもの珍しさとは違う方向性に感じます。

当初は1kmほど移動しながら採集する予定だったのですが、200mほどしか動けずにあっという間に2時間が経過。やはり専門領域がクロスすると情報密度がすごい。「あまり移動できない」という時にこそ、異なる専門家をコラボすると、普通種だけですごく楽しいです。むしろ普通種だからこそ、日常生活に身近で、季節の楽しみとして生活に寄り添うようになれるかもしれない。

植物もそうかもしれないです。

アカメガシワ。葉が大きくていろんなところに生えるのでよく見る。
これもよくいるけどキクイモの仲間とのこと。
荒地に適応したイヌキクイモ(芋がでかくならない)ではないかと。
クズの花。高級感のあるブドウのような、フルーツ香がある。
見慣れた花だけど意外な新情報に、見方が変わる。

エノキの実。タネが大きくうっすらとしたあまみと干ガキのようなコクがあり、楽しい。

ここで見つけたモンクロシャチホコ!

鈴なりのモンクロシャチホコ。河川敷に多いイメージはなかったので意外でした。

いつもは蛹になるため幹を降りてくる幼虫を捕まえていたのですが、今回は枝のものを取りました。ふと桜の香りがしないな、とこの時違和感があったのですが、あまり気にせず採集。

そこそこ取れましたが、桜もちのような特徴的な香りがしない、、?

家に移動し、料理開始。まずは夏の間にためておいたセミとバッタとナッツのアヒージョ。

セミとバッタをアヒージョで食べてもらうのは
食感の違いを確かめてもらうためです。バッタよりセミの方がアヒージョに向いている。
のんさんチョイスで野草天ぷら。秋はいずれの野草も硬くなり、やはり旬は春とのこと。
虫とはちょっと違う。
アヒージョのオイルはカプレーゼに。のんさんはシロザたっぷりキッシュ。
そしてバッタは素揚げして、ドリトスとともにサラダに。

バッタは高温でカリッとさせて、食感の近いドリトスと合わせることで、「口に残ってしまう」という違和感を減らしています。低温のアヒージョよりも高温のフライの方がバッタに向いている、という話をしました。

のんさん持ち込みのシロザのキッシュ。ボールいっぱいのシロザが入っているとのことで密度がすごい。ほうれん草のような、売り物になる野菜の味。すごい美味しい。
昨日つったタチウオをさばく玉置さん。
天ぷら旨い!
あぶり。
野虫盛り合わせ。美味しいとかおいしくないとかいいながら食べるのが楽しい。
モンクロシャチホコ 蛹化する前の若い幼虫だと全然香りがない!
不味くはないが、あまり特徴がなくて普通の味。
蓄養するとおいしくなると思われるので、要検討。

「野草」と「野虫」の似ているところ、違うところなどを語り合いました。

やはり野草も生では食べない方が良いとのこと。また「薬効」が明らかな野草もあり、薬と毒は表裏一体なので食べ過ぎるのはあぶない。

「効く」タイプの野草を非合法な感じで楽しんでしまう人もいるらしく、なかなか野草の業界もカオス。

食べてもらった感じでいうと、今回は「美味しい」昆虫と「そうでもない」昆虫の両方を食べてもらったこともあり、「草に比べると普通に食べられる種類が多い」との感想をいただきました。動けない草に比べて、逃走や攻撃・威嚇にコストをかける昆虫は、味がまずい割合が植物よりも低いのかな、と思います。

もう一つ野草はどうしても「野菜」と比較されがちなことが虫との違いだろうという話にもなりました。栽培化された野草ですので「家菜」という方が実態に即していそうですが、栽培化され、品種や栽培方法などが均一化した物と比べると、「それほどおいしくない」のが野草の実態だそうです。野菜と並べて遜色ない美味しさ、アクセスのしやすさの野草はかなり少ないとのこと。

この先昆虫が食用に養殖され「家虫」になっていくとして、おいしくアクセスのいい養殖昆虫に比べると、野外の虫ってあまりおいしくないよね、と言われるようになるかもしれないですね。今だと野虫も家虫も同じように一般的じゃないので、同じような扱いですが。

あとは自然物相手なので、アイデアの「タダ乗り」が横行しがち、という問題もあるようです

著作権や独占権があるわけでもないのであくまでマナーですが、アマチュアリズムとして、誰のアイデアなのか、自分の新しいアイデアはどこなのか、という部分を大切にできる間柄だと、情報交換が楽しくなりますよね。

すべて自分で考えたかのように振る舞うと、初心者にはびっくりしてもらえますが、同業者には情報を与えたくないと思われてしまうでしょう。

「今まで食べて大丈夫だった」という時代錯誤の食品衛生の考え方をしてしまう方もいるようで、自然物を採集して食べる、という食品流通に人が関与しないことから、「どんなひどい人でもアクセスできてしまう」という、平等さの負の側面が出てきてしまいます。

刺激的な方が再生回数が伸びる動画サイトでもそうですし、ネットで「正しい情報」を検索しようとしても、「都合のいい情報」しか手に入らない、という記者の方からの嘆きも聞きました。

野草の楽しみ方を拡張できたことで、「おいしくない」という部分を楽しめるかどうかが野食の楽しみ方なんだろうなと思えてきます。

そして私の野虫食は「養殖候補を見つける」という意味合いが強く、おそらく多くの野食の方達とは全く違うマインドで食べているんだろう、という話にもなりました。

「ベジタブル」という言葉はウェゲタービリス(vegetabilis)「活力を与えるもの」という語源だそうです。昆虫も食用養殖化されることで、別の名前が与えられるでしょう。

昆虫が増えるという性質を使って、これまで利用されてこなかったバイオマスを利用できるようになったり、自分に適した栄養バランスへと編集できたり、昆虫を食べる別の動物や昆虫を養殖できたりと、昆虫の多様性を道具のように自在に使いこなすことができるとしたら、様々な新しい農業が多様化していくことでしょう。

養殖化することで、人間が昆虫を利用できる多様性を手に入れるもの、という意味で家畜昆虫の総体を「インセクタブル insectable」とかいかがでしょうか?

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何を言っているかわからないと思いますが、私もわからなかったです。初、文春オンラインに寄稿しました。しかも昆虫食ネタではなく。ひとまず先に読んでいただきたいです。ブログではその記事からはみ出た部分を補足して、宣伝としたいと思います。

以前のこのTweetがバズってしまい、編集者の方に声をかけられて寄稿することに。

記事化にあたって改めて情報収集しようにも、攻略本は売り切れ、私はSwitch持ってない。

ゲーマーのみなさんから公式非公式の情報を集め、どうにか分析をすすめました。が。記事の長さの関係で、メンデル遺伝とあつ森遺伝学との関係を指摘する部分がメインになり、細かなあつ森遺伝学の遺伝子と表現型との対応関係なんかを大幅に割愛することとなりました。

一般向け雑誌に遺伝学を掲載するチャンスかと思ったのですが、私が遺伝学のおもしろみをうまいこと咀嚼することができず、小難しい文章が仕上がってしまい、結果割愛となりました。編集の方はめっちゃ親身に読者への狙いやわかりやすさについて助言くださって、私の文章能力不足が改めて身に沁みたわけですが、この割愛部分について、ブログで宣伝がてら書いて良いとのことでしたので、ここに放流しておきます。

あらかじめ言っておきますが、攻略に一切貢献しない情報です。

一体誰向けなんだと言われると、遺伝学に青春をささげた覚えのある人向け。

これが読み解けたからといってあつ森が有利になったり攻略が進むわけでもないです。外に出てくることが決してない、「あつ森の中の人」のことを妄想するためのテキストになります。

さて、最初の発端は小森雨太さんのこのつぶやきから。

おや、高校生のときに勉強した遺伝学みたいな図がならんでるぞ。あつ森なのに。

どうやら遺伝のルールにかなり忠実に花の色が設定されていて、遺伝交配によってレアな花が手に入る模様。

教えてもらった攻略サイトにある遺伝表をもとに、その遺伝子の対応関係を整理してみました。記事化の前提となるリサーチです。

最も素直な遺伝学を実装しているのはパンジー。

まずはパンジー。

白いタネにヘテロ接合で含まれる遺伝子の本体は青の遺伝子で、潜性ホモでBB青を発色する。これは赤い花の遺伝子RRと混色できるので、RRBBで紫、RrYyではBBの発色は隠れてしまいオレンジ、rrYYではイエローに。ここらへんはわかりやすいですね。

アネモネ

アネモネも比較的素直。オレンジの発色がえらく強いですが、W遺伝子の本体は青の色素。RとWの混色によって紫を発色します。

続いてチューリップ

RRだと発色が強すぎて黒になっちゃうので、それを抑制する遺伝子S(サプレッサー遺伝子)としますか。白いタネに含まれる遺伝子は赤色Rの脱色遺伝子。例外的に赤と黄が交じるRRYYで紫、というなんとも説明しがたい混色パターンを見せます。pHでも変わったアントシアン系色素なのでしょうか。「議論の思いやりの原則」にのっとって、最大限好意的に解釈していきます。

こちらはコスモス。

RRが赤、Rrがピンクとなり、遺伝子量効果のようなものが見えています。RrYYでオレンジ、RRYYでブラックというこれまた妙な混色パターンがあり、こちらも白いタネに含まれる遺伝子は抑制遺伝子なのですが、YYを抑制したりRRを抑制したり、赤の発色を強めたりとなかなかトリッキーなふるまいをする遺伝子です。

キクの発色もまた奇妙です。RRYYを混ぜたらグリーンというのはなかなか混色の発想としては逸脱しているように見えます。

「一番簡単なのはユリ」と教わったのですが、あくまで交配手順が最短で、多くの花色が手に入るという意味での「簡単」で、遺伝学的にいちばんシッチャカメッチャカなのもまたユリでした。

白にサプレッサー遺伝子があるのはチューリップと同様なのですが、RRSSTYYがすべてホモで揃ったらなぜか白。いやいやほかの色の時そんなに強く抑制効いてなかったやん。と、いいかげん抑制遺伝子の八面六臂の活躍ぶりに嫌気がさす感じですが、これは分析の当初、劣性ホモ系統を使った検定交雑を邪魔する目的かと思ったのですが、

交配二世代で、すべてのレア花を手に入れられるユリの難易度は低い、というユーザー視点の判断ですので、それは意図的な操作であろうと結論づけることになります。難易度調整としての逸脱で、こちらは難易度を下げる目的。

そしてヒヤシンス。妥当なrryyww青と、逸脱のRRYyWW青があります。27パターンのうちの2パターンが青。これは最後のバラが81パターンのうち1だけが青いバラの遺伝型になっている最高難易度と、差をつけるためでしょう。ここらへんは遺伝学を逸脱してランダムなゲーム性に任されている。

そして最後にバラ。

遺伝子量効果が色素遺伝子と抑制遺伝子それぞれで効いてくるので、花の色から推測される遺伝パターンがなかなか複雑に。それでもWの本体である紫の遺伝子と赤、黄色、抑制遺伝子の4つで青が発色されるのは妙です。

RRYYWWssはどうかんがえても黒の発色にならないと変。つまり類推によっては青にたどり着けなくて、81パターンすべてを解明しないとたどり着かない。まさに最高難易度。

そして記事を「プレイしていない人」という形でプレーヤーへの嫉妬でシメようとしていた先週のこと。ヨドバシカメラから抽選販売当選のメールが。

ええ、このタイミングで?!!

嬉しいやら困るやらで、編集の方に相談しながら結局記事のシメは変えないことにしたのですが、注釈にもありますように、もう我が家にあつ森は届いているのです。

さっそく移住です。

むしくろとわが、移住するならむしの島ですよね。

ん?コレは、、、、食材だぁーーーー!

*記事内の見解はすべて著者によるものです。「あつまれどうぶつの森」発売元の任天堂の見解ではありません。

あつ森はおいしい昆虫の宝庫だったのです。大きくて食べごたえがすごそう。バッタがキョジンツユムシのような、ザリガニや魚と同じくらいのボリューム感があります。

アップデートで昆虫を食べるコマンドつけてもらえないだろうか。たのみます。任天堂さん。

さて、このあつ森の入ったSwitch。次なる問題として、ラオスに持っていくかどうか迷います。あぁエクササイズ系のソフトも入れたい。無事私はあつ森の沼に沈んでいくのでした。

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以前に購入した、GXR 50mm macroがラオスの景色を撮影するのに大変によかったのですが、防塵防滴ではない、この古くて弱々しいカメラに、そろそろラオスにも雨季の気配がやってきました。ちょっと心もとない。そこでレンズ検討をしました。

マイクロフォーサーズのマクロレンズには4種類があります。

ひとつは愛用している60mm 防塵防滴でカメラ内深度合成にも対応。

 そして軽くて安くてお手軽にしっかり寄れる、30mm 深度合成にも対応。これが防塵防滴なら完璧なんですが。惜しい。

そしてパナソニックから。こちらも防塵防滴ならラオスに持っていきたいんですが、日本でよく使っています。いいレンズです。

そしてやや発売年が古いですが45mm、これもいいらしいですね。

さて、GXRの50mmマクロを使ってみると、なかなか料理が美味しそうに撮れる。そしてこのカメラの案件はかなり遅いオートフォーカスと、防塵防滴がないので村に持っていくには心配なことです。

ということで更に古いレンズを探って、これにたどり着きました。

新品こんなにするの! 中古品で12000円のを買いました。

今回の帰国時に日本で動作確認をする予定だったのですが、予定がキャンセルになり動作確認をしないといけないので、厳重に梱包してEMSでエイヤッと送ってもらいました。必需品の粉アクエリアスと一緒に。

無骨でかっこよい。

位相差AFのみの対応なので、使えるボディはE-M1のみ。しかし、いい感じに写ります。すごい。

ううむ。すごい。

うまそうですね、GXRの50mm相当ハーフマクロと比較して、画角は半分、お皿を撮るにはちょっと離れないといけないですが、なかなか美味しそうに写りますね。カメラボディは新しいので手ブレ補正や高画素で、たよりがいがあります。そしてすべて防塵防滴。

AFが遅い、というレビューもあったんですがGXRよりはマシだし、レンズも300gとそこまで重くもないし。ということでかなり満足度が高いです。中古が安いので何本かストックしておこうかと思います。

ラオスの撮影条件はなかなかきびしくて、粘土質の赤土が粉になって舞い上がる乾季と、何もかもをカビさせる長い雨季、そして日本で言うところの真夏の日差しが年中斜めから降り注ぐ逆光の怖さ。そして薄暗いところはとことん暗く、明るいところは底抜けに鮮やか。こういったラオスの良さを描写できるのはこれではないかと思います。エクステンションチューブも同時購入したのですが、ピントの合う範囲がかなり狭くなるので今持っている60mmマクロを置き換えるほどではないかな、と。

テレコンEC-14を使えばパンフォーカスも可能と。こんなのもあるんですか、、、試してみたい。

ひとまずさらっと撮ってみました。接写キョウチクトウスズメはエクステンションチューブを使ってます。

いろいろキャンセルになって日本に帰れない日々が続いていますが、またしばらくラオスで楽しくやれそうです。