コンテンツへスキップ

こちらは村で飼われているニワトリ。

2014年の1月のブログで「逆にニワトリを食べてみる」という記事を書いてから9年。ラオスで進展があったのでまとめておきます。

家畜化前のニワトリの原種、セキショクヤケイGallus gallusを食べることができました。食べて考えたのは、今のわたしたちから「家畜化」とイメージできるものって、今の社会の価値観しか反映していない、ということです。わたしたちがいま、利用している家畜を見るとき、経済的価値をもたらす形質だけをピックアップし、そこに機能があるはずだ、という前提で正当化し、機能が見えないものを愛玩動物として切断処理してしまう。そして歴史的に失われた家畜は「淘汰された」とゴミ箱に入れスッキリ。

ヒトと家畜化動物との長い関係の中で、当時の人間がどう行動したのか、そこにどんな合理性があったのか、彼らの得たもの、失ったものが、現代からの視点では、かえって見えにくくなってしまうでしょう。歴史的な時系列を踏まえ、当時の価値観を復元し、そのプラスとマイナスの両側面を見ることが、まず大事です。

家畜化を安易に否定せず、美化もせず、今の価値観にとらわれず、正面から統合的にとらえることで、未来に向けた、家畜のビジョンを描けるようになるでしょう。それでは始めます。

ニワトリは原種が絶滅していない、生物としての源流を辿ることができる、ありがたい家畜です。ウシは原種、オーロックスが失われてしまったので、現代の家畜種の近親交配による遺伝病の回復方法がわからず、産業的に苦しんでいるそうです。冷凍精液が開発された1970年代以前の遺伝子型が追跡できないので、遺伝学的なルーツを探る古代牛復活プロジェクトなんかもあるとか。

2014年の「逆にニワトリを食べる」際のテーマは、昆虫試食会で参加者から言われた「昆虫を食べるなんてかわいそう」でした。動物倫理の意味合いでも重要なテーマでありつつ、昆虫が身近な人にとって、殺すべき、殺したくない、殺したくないのに殺してしまった事故の経験はあたりまえにあるでしょうから、素朴に感じやすいことです。じゃあ逆に考えてみよう。ニワトリはかわいそうじゃないのか?

このときは卵を産まなくなった老鶏をゆずってもらい、しばらくトノサマバッタで飼育したあと、自分で解体して食べました。労働として衛生面、安全面に気を使うだけでなく、血が出ること、苦しそうな呼吸、暴れる動きなど、心理的な疲労も大きいので、どちらも食べてみると、ニワトリの方がかわいそうに感じた、というのが私の主観的な体験です。

2017年からラオスに関わるようになり、多様な脊椎動物の屠殺に立ち会い、それが飲み会やお祭りのいち風景として目に入ったり、夜明け前の村の朝市で野生動物が売られ、次々と買われていく様子を見るうちに、次第に抵抗感がなくなってきた自分がいます。

生活の中で動物を利用することは、彼らにとって必要な生活スキルであり、昆虫食もその中にいます。たとえば犬やネコなど、去勢や避妊が一般的でないラオスにおいては、だれかが個体数を調整しないといけません。人間が動物を管理する手段の一つとして、当たり前に屠殺があること、その生活感になじみつつあるようです。

少し話がそれました。ニワトリに戻しましょう。ラオスでは村でも街でも、ニワトリはいたるところに自由に歩いていて、ときにヒヨコを連れています。2023年1月のある日、とある雄鶏が目に入りました。自由がなく、つながれていたのです。

これがその写真。

ヒモにゆわえられていて竹を掴んでいます。これはなんだろう?とラオス人スタッフに聞くと

なるほど。その後のリプライをいただいて良い書籍にめぐりあえました。

ここからはこの書籍「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」を読みながら勉強する形で、ラオスのニワトリの全貌をみていきます。この本はストーリーの語り口がダイナミックで引き込まれます。大きな流れとして、第一章に「経済動物として圧倒的なニワトリ」の話から入ります。

産卵鶏の年間産卵数は290個、寿命は産卵数が減り始める、700日。本来のニワトリの寿命は15年なのに、殺され廃棄される。
ブロイラー(肉用鶏)は50日で2.8kgまで育ち、そして殺される。その種苗は大企業が牛耳る。
産業として卵と肉の鶏はくっきり分けられ、兼用鶏という歴史的にメジャーだった利用は消滅。
当然だが、産業レベルの「効率のいい」ニワトリの恩恵は、貧困国には届かない。手作業・低効率で育てた地鶏は、商業レベルのニワトリと同程度の価格をつけられ、その労働は安く買い叩かれてしまう。

そして第二章、少なくとも9000年前、「家畜化初期」にだれが何をしたのか、筆者はラオスの現場に出向くことで、その謎を紐解いていきます。前半の「超効率」なニワトリの姿とは打って変わり、そこには面倒で臆病で、森の片隅にひっそりと住む、地味なキジ科の野鳥がいたのです。その名もセキショクヤケイ。

セキショクヤケイを家畜化したらしい、ここのタイ・ラオスの人たちは、とても現代の脅威の経済性を見越して、この鳥を飼い始めた、とはとても思えないのです。おおらかであそびがあって、恵まれた自然を背景に、夜明けとともに働き、昼前には休憩する。こんな気候から、なぜ家畜化をしたのか。「遊び」としか言いようがない。

この本を読み終え、私は思います。「ラオスにいるうちにセキショクヤケイを食べたい」と。

後半に続きます。

2ヶ月前になってしまいますが、3月10日、お誘いいただいたので要旨を書いて応募して、発表してきました。英語発表めっちゃ緊張しますね。なんでこんな異分野に踏み入れたのかといいますと、2年前、読書をしていたからです。

そしてTwitterでつぶやいていたところ

読んでわからんわからん、、と、うんうんとうなっていたところ、訳者の太田先生からメッセージが届き、やりとりしていたら「発表してみませんか?」とのこと。

いやーとっても良かった。「日頃、重要に思っていたけどこれってなんて名前で呼んだらいいだろう?」みたいに思っていた概念がバチッバチッと用語を得て脳内でハマっていって、とても刺激的な体験でした。

やはり問題は一緒で、研究者が、貧困の現場に来れないことで、網羅的、体系的に物事をとらえるべき研究分野全体が偏り、学問の進歩が大きく遅れているだろう、ということをあらためて理解できましたし、

研究者が現場に行って、当事者の困難と直面したテーマの研究のほうが、既存研究、先進国のこれまでの態度に対する批判の切れ味が鋭くなっていました。では昆虫食でも「同じような問題」が起こっている、というべきか「違う問題が起こっている」というべきか、どうにか魅力的なロジックに起こしていきたいところですが、今回の学会発表ではまだ、事例紹介が主になってしまいました。察しのいい研究者のみなさんは、そこに倫理学上の本質的な問題があるぞ、ということはあっという間に感づいてくれたようです。が、私のまだまだ力不足。

次の課題は、食農倫理学の研究者が、昆虫食で成果を出したり、論文を書いたりするようにできるにはどう介入できるか、というところでしょうか。(私が書くことも含めて)

今日、深刻化している様々な問題は「厄介な問題」(wicked problems)と呼ばれており、残念ながら明快な解決策があるわけではありません。これらの問題に対処するためには、フードシステムの多様性と、経済、産業、文化、健康、生活、自然といった他のシステムとの複雑で精緻な相互作用に、注意深く目を向け、読み解いていく必要があります

https://www.apsafe.online/apsafe2023/apsafe2023-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/

いやほんとそう。しかしさ、なんで昆虫食の発表がこんなに少ないの?と思ってしまうほど、ラオスで私達が典型的な問題に直面しているものの、書籍でも、学会でも、昆虫食が題材に扱われない点について、やはりうがった見方をしてしまうわけです。「この食農倫理学という分野全体が、昆虫を食べない人たち=つまり先進国エリートだけの「群盲、象を評す」によるものではないか?」と。

また一方で、「彼らが触れている典型的な食の問題が、昆虫食でも顕著に起こっているということは、食材の事情によらない、普遍的な知(問題提起)がここに存在するのではないか?」ということも同時に感じるわけです。

まだ私の中に答えはないです。大前提として、「厄介な問題」を説明するだけの絶対数としての研究者が足りない。そして足りない中、個々人の研究者の「好奇心」にその分散を頼っている、ということは、国際協力における優先順位の付け方との競合が起こりうるのではないか、とも思うわけです。その一方で、好奇心が有限な資源であることも理解していて、「有限な資源である好奇心をどのように社会課題に向けて分配しうるか」あたりも、考えています。

現状、研究者の好奇心にナワをつけるわけにはいかないので、自由な好奇心に任せているわけですが、そうするとアクセスの悪い昆虫食は後回しになってしまっているわけです。

感染症研究におけるデング熱のような、途上国の人たちの命だけを奪う「NTDs ネグレクテッド トロピカル ディジーズ(無視されてきた熱帯病)」では、名前がつくことで、ようやくその遅れが認識され国際プロジェクトが組まれた、という経緯があります。

しっかり昆虫食が「ネグレクト」されていることを明らかにし、「ネグレクトされてきた昆虫食農倫理学」を改めて組み直し、ではどうしたらいいのか、「開発昆虫学」あたりで、応用昆虫学・民族昆虫学・文化昆虫学を統合して再構築するような形を、悶々と考えています。