「おいしい昆虫記」発売一ヶ月が過ぎました。
みなさまのお手元に届いているでしょうか。
某所でコラボを始めようとしている企業の方が、「おいしい昆虫記」を読みはじめてくださったとの報告をいただきました。また別のラオス関係の方から、本を熟読してくださり、信用を頂いたとのことでいろんな方をご紹介いただきました。
やはり、ひとまず信用を勝ち取るにはエモい部分が必要なんだろうと思います。その後にまでエモさで押し切るのはプロとしてよろしくなくて、私の手に余ることについては適切な専門家へと橋渡しをして、ビジネスとして成立するよう後押しするのが、蟲ソムリエの役割でしょう。
だいぶ前になってしまいました。
私のたっての希望で、AI HASEGAWAさんとトークイベントをできることになりました。同時に代官山蔦屋書店で昆虫食本のフェアもしてくださるとのことです。
非常に濃い時間になりました。ご覧いただいたみなさま、ついてきていただけたでしょうか。ここではもうちょっと補足を入れつつ、振り返ってみましょう。私とこのあたりの分野との、はじめの出会いはここらへんの書籍から。
最初は反発から入りました。「スペキュラティヴ・デザイン」問題を解決ではなく問題提起をするデザイン。
問題をほじくり出して、解決しようとしない。なんと無責任なことだろう!
このスペキュラティヴ・デザインの流れでバイオアートも説明されることが多くあります。バイオロジーを背景とする表現物でありながら、論文ではなく専門家による査読もない。評論は美術畑の人からはあるのに生物学からはほとんどない。反発そして嫉妬ですね。当時は私が論文がかけずに苦悩していた時期でしたので、余計に憎悪が募ったと思います。最近これを読み返すと、「思ったことをプロトタイプの状態で世間に出せるというのはなんと自由なんだろう!」というまた違った感情もわきあがってきました。ヒトの情動とは変化するものです。
そして、未来と芸術展での「POP ROACH」の展示。
こちらも以前から知っていた作品なのに、六本木という土地柄もあり、「都市」に寄り添うものの、昆虫食文化をもつラオスには縁遠い、と感じるようになりました。少しの寂しさと、フェアネスについて物申したい感じ。そして「おいしい昆虫記」を出したこともあり、日本の出版においてラオスの昆虫食の「リアル」を日本にただ、そのままを持って帰っても、「遠く異国の昆虫食」と、リアリティの薄い、地続きで見てくれない、という反応も気になってきました。
ラオス産の昆虫を日本に持ち込んだときに、「遠く異国の昆虫食」では売れないでしょう。そこにラオスと日本を共有する、リアルではなく「リアリティ」のスペキュラティヴなデザインを仕掛けないといけないのでは、と考えたのです。
そしてイベント直前、流れがまとまらずウンウンうなっていたとき、愛さんから送られてきた参考文献の中に、こんな本が出てるではないですか!
ラオスでバタバタしていて、帰国後はおいしい昆虫記を書いていたので、お恥ずかしいことにまったく気づいていませんでした。さっそく購入して、授業を受けてみることに。
PPPP図という、ピコ太郎みたいな図から入ります。現在から未来に向かって、可能性は円錐状に広がっていると考えてみると、人間の想像の限界によって、あるいは資本主義的な投資、投機のバイアスによって、どうしても今の構成員による「望ましい」未来しか想定されなくなってしまう。すごくよくわかります。昆虫食とほかの食資源の将来性を「直感に従えばフェアに比較できるとピュアに思いこんでいる」という場面によく出くわします。
縄文時代に昆虫食があったのか、証拠は見つかりにくいときに、「あっただろうと想像する」ことができなくなっている。
未来を考えるときに、昆虫を食品レベルの値段で養殖する技術はあるのに、その技術がまだない培養肉のほうが「望ましい」ので「起こりそう」と思われてしまっている。
おいしい昆虫記についても、前半は個人的な話ですが、後半はスペキュラティヴ、つまり社会的動機から問題提起をしたい、という構造になっています。
最後にワークシートがついています。この「スペキュラティヴ・デザイン」というのは対話型専門知の一つ、と言い換えられるかな、と思いました。
実際に空欄に入れていく、という行為によって、どっちつかずだったものを「とりあえず当てはめてみる」という思考の整理が進んでいきます。それが自分のモヤモヤのすべてを表すものではなくても、「選んで当てはめる」ということが大事。目指したいのはラオス発の昆虫養殖技術が世界に広がり、各地から多様な昆虫食材が貿易されて、みんなが食べたい昆虫を食える未来。
そして大資本が富裕層向けに昆虫を売り、ラオスの貧困層は労働搾取される、これが最悪のシナリオでしょうね。
やっぱり不思議だったのはこれまで書いてきた計画書との違いですね。「え、自分の痛みって必要なの?」と面食らいました。しかしNGOや研究者も、様々な個人的な背景から、熱意を継続している方が多くいます。なるほど、痛みか。。。。
私にとって「痛み」とは「自分が変人に見られたくない」ということでした。昆虫を食材として扱う、というまったくおかしくないことが、「奇妙キテレツ」に見られてしまうことで、これから昆虫食が取り組むべき技術的課題ではなく、見た目の問題に矮小化されてしまうのを見てきたからです。フェアに議論したい。そのときに偏見は大きく邪魔をしてきます。それが今は痛い。
さて、今回はあえて「おいしい昆虫記をスペキュラティヴ・デザインから解剖する」ということを愛さんと一緒にやってみました。
対談の中でいろいろとアイデアが湧いてきて、「演じてみる」ということが私のこれからの余白だろうなと思えてきました。自分じゃない人だったらどうするか。イーロン・マスクだったら昆虫を宇宙に打ち上げるだろうし、クリストファー・ノーランだったら緊張感が3時間つづく映画を作るだろう。
そしてやはり、昆虫は「悪目立ち」してしまう。先の森美術館の展示でも、poproachよりもアートとして高く評価されている作品、Shared baby やImpossible babyよりも、SNSでつぶやかれたのはPoproachのほうが多かったそうなのです。そして色を変えてゴキブリを食べやすくするという発想自身が「ルッキズム」ではないかという指摘をされて驚いた、とおっしゃっていました。
ゴキブリには人権がないので、この作品そのものはルッキズムにはあたらないのですが、その茶色い見た目が嫌悪されている構造から、肌の色を理由とする差別のような、ある種のルッキズムを連想させてしまったようなのです。これは驚いた。
以前に別の作家さんから「昆虫は無価値であることが社会的に共有されている」という話をもらったことを思い出しました。無価値だからこそ、食べない愛好家と、私のような食べる人が一緒に話ができる。
また無価値だからこそ、ある種のミームのように、自分の思い入れが自由に投影されてしまう。のでしょう。
昆虫食の見た目解決として、「すりつぶす」というのはルッキズムの度外視、とは言えそうですが、果たしてルッキズムからの解放、といえるのか、むしろ「すりつぶせば食える」ことこそルッキズムに縛られていないか。
ここらへんも新しい切り口です。ルッキズムと昆虫を、あえて近づけたり遠ざけたりして教材にしていくような、そんな攻め方ができそう、という、私にとっても非常にスペキュラティヴな経験でした。長谷川愛さん、ありがとうございました。
愛さんからも、「苦手な昆虫と向き合ってみる」という宣言をいただきました。アーティストが本気で昆虫と向き合っていく先に、どんな挑発的なデザインが生まれてくるか、とても楽しみです。