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以前に修士課程で伊那でヘボの研究をしていたシャーロット ペインさん、今はブルキナファソをフィールドに博士課程をしているそうです。2019年の5月にとっても良い論文を出したので紹介しておきます。

狙いはシアワームと呼ばれるシアの木を食べる幼虫。Cirina butyrospermi という学名です。アフリカ産の食用ヤママユというとモパニワームが有名ですが、シアバターノキを食べるいくつかのヤママユも食用になっていて、以前にお土産でアフリカ産のCirina forda をいただいたことがあります。

野生の植物は基本的に葉を食害されてもなお、次世代を残すために冗長性を備えていて、多少食べられても収穫に影響しない許容値をもっている、と考えられます。このCirina butyrospermi が植物を食べ、フンをするとその周囲に有機物が還元されますので、落ち葉よりも良質な肥料源として、周囲のトウモロコシ畑にプラスの影響を与えている可能性がしめされたのです。

シアバターノキを食害するおいしいイモムシが知られていて、食べられた木はほとんど葉を落としてしまう。

一見深刻な食害にみえるけれども、シアナッツの収穫をみるとその食害との関連は見えませんでした。食害のあるなしにかかわらず、どちらもしっかり実をつけます。

またシアナッツの木の下ではトウモロコシが栽培されていて、毛虫が葉を落とすことでフンが落ち、そして日照も良好になります。そのため食害を受けたシアバターノキの近くではむしろトウモロコシの成長が促進する可能性がしめされました。

とのことです。

アグロフォレストリー(林産物と農産物の複合的な生産)の一貫として、一見深刻に見えてしまう虫による食害を公平に調査研究し、「生態系から持続可能な形で最大限に搾取しつづける」という功利主義的な昆虫利用、生態系利用の形として、これまで「お話」でしかなかった植物の冗長性と、昆虫への転換、そして日照の有効利用といった複雑な現象を解明したという意味で素晴らしい論文だと思います。これはあくまで自由発生した昆虫の利用ですが、これを完全養殖、半養殖しながら人間が介在することで、農地と森林からの最大効率利用、そして複合的なあたらしいシステムの導入によってこれまでにない持続可能な農業の形が見えてくる、と思います。

おもしろい論文が出ました。こちら。デング熱で先週やられていた身としてはタイムリーな蚊の論文です。

Adaptation to agricultural pesticides may allow mosquitoes to avoid predators and colonize novel ecosystems

農薬への適応は蚊が捕食者を避け、新しい生態系を植民地化することを可能にするかもしれない。

と直訳できます。may allow という、論文に使うにはかなり弱い示唆の用語が使われているので、そこまで強力な根拠ではないのですが、可能性を示したという意味で重要な論文になります。どういった可能性かと言うと

「殺虫剤による農業の増産が感染症リスクを上げるかもしれない」というルートの発見です。コスタリカなどの暑い地域の(比較的所得は高いですがまだまだ支援を受けている地域)開発途上国では、感染症の予防と農業の効率向上による栄養や所得の改善はそれぞれのセクターで別々に支援されてきた分野です。特に蚊による感染症は、わたしもかかりましたがつらくて消耗するだけのことが多く、栄養状態や健康状態の良好で、かつ適切な医療ケアを受けられるヒトではまず死にません。そのためワクチンの開発も後回しになり、栄養状態の悪い人、医療機関へのアクセスが悪いヒトへのトドメの一撃となってしまうのです。

こういった先進国のヒトにとっては致死的でない、熱帯の感染症を「「顧みられない熱帯病(Neglected Tropical Diseases)」と呼んだりします。これらの感染症は貧困とも、栄養状態とも関連するので、感染症、保健、栄養、農業といったセクターワイド(最近ではマルチステークホルダーともいいます)で分野横断的に対策する必要があることがわかってきたのです。

そんな中でのこの論文のインパクトは、殺虫剤による農業の増産といった「正義」が必ずしも住民の健康、感染症リスクと無関係ではなく、逆に悪影響をもたらしかねないことを示しています。

細かいところをみていきましょう。コスタリカのオレンジ農場の周囲の森林において、ブルメリアという着生植物に注目しています。これらは雨水をためた小さい水場を作ることがしられており、それをファイトテルマータ( phytotelmata)と呼びます。蚊は池で発生すると考えがちですが、大きな池は蚊を食べる捕食者も多く、リスクとしては人家で放置されたペットボトルの水とか竹を切ったあとの水たまりとか、小さな水たまりのほうが、蚊の発生源となりがちのようです。

今回は蚊の捕食者として、ファイトテルマータに住むイトトンボの幼虫を選びました。基本的に捕食者のほうが被食者よりもライフサイクルが長く、そのためライフサイクルが短いほど獲得の速度がはやい殺虫剤耐性においても、蚊とイトトンボに差があるのではないか、との仮説です。

実験室内では、農場近くの蚊は森の蚊にくらべて殺虫剤への耐性を獲得しており、イトトンボはいずれの場所でも殺虫剤への耐性は変化がなかった、とのことでした。そこから類推されることは、殺虫剤の散布によって蚊が耐性を獲得し、イトトンボの耐性獲得が遅れることでオレンジ農園の近くに蚊の天国が形成されている可能性があり、それが農地で働くヒト(基本的に貧困層)の蚊媒介性の感染症リスクを高めてしまっているのではないか、ということをにおわせています。

そのため、感染症に弱い貧困層のリスクを高めないためにも、殺虫剤を減らした農作物を積極的に採用し、それをアピールしてフェアトレードにつなげていくことがこれからの虫とヒトとの付き合い方なのではないでしょうか。

とはいっても、デングにかかったあとは個人的な恨みから蚊など死んでしまえ、と思いますね。なかなか恨みは深いです。

人家の水瓶などに発生する蚊を殺すため、このような羽化阻害剤をつかった蚊対策の実験も進んでいるようです。楽しみです。

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みなさま、祝ってください。長年応募してきたリバネス研究費に、とうとう採択されました。うれしいです。私がデングにかかっているうちにリリースがありまして、これは記事化しておかねばと。

私が今後ラオスで活動するためのJICA草の根パートナー型にも採択されましたので、とりあえず私はラオスに滞在し、少しの自分の裁量の実験ができるようになった、ということです。

とはいってもまだまだ資金は足りませんので私の動ける範囲と速度でこのプロジェクトを進めています。なぜいまのうちに助成金を獲得しておきたいのか、と申しますと、「監視の目」をきちんとつけておきたいからです。ここでいう監視の目というのは「昆虫食が世界を救う様子を共に見届けてくれる、信頼できる、かつ対立的に機能する目」です。

お恥ずかしいことなんですが、こちらラオスに来るまでに「昆虫食は栄養がある」「だから昆虫食は世界の食糧問題を救う」と、ピュアに信じて、そしてアピールしてきました。

昆虫に栄養があることと、各種の食糧問題の間にある大きな谷を埋めなくてはそんなことは言えないのはもちろんなんですが、そのアピールしやすい大きな谷を今すぐに埋められるかのような誇大な広告をしなくても、実直に、目の前に顕在化する小さな谷を埋めていくことで「昆虫食が世界を救うためのパワーと実績を蓄える活動」ができそうだ、とわかってきました。それがこれらの研究助成、活動助成で実施していくことです。今回のリバネス研究費でのテーマは「最適化」となっています。ここでの最適化は最高効率を目指すものではなくて、最大限村で手に入るバイオマスでもってどこまで効率を下げずに生産できるか、という部分に注目します。そして村で手に入るバイオマスを使って、やってみせ、そしてその情報を村人とシェアすることで、村人が自分たちの力で、自分たちで自給可能なバイオマスであることを自覚し、普及していくのです。この活動の中で、昆虫そのものの効率が「後回し」であって「優先度が低い」のがわかるでしょうか。昆虫そのものの効率を測定して、それがさも将来性かのようにアピールする研究やビジネスがあります。効率を高めたいのならば品種改良をすればいいのですが、このプロジェクトにおいては効率を高めることは必須ではないです。今の効率でも、試算すると十分に村人は栄養と現金をてにいれることができるからです。この試算が本当に村においても確からしいのか、村人と共有するための実験農園もセットしましたので、来年4月には、村での持続可能なシステムの全体像がはっきりできるかと思います。

とはいえ文献を調べても、いろいろと昆虫食は他の食材に比べてあまりにビハインドで、国際協力の分野において実績といえるものはほとんどありません。しかしここには文化がある。ラオスの文化に即した昆虫食が、我々の昆虫学の専門性と、彼らの主体性によって発展し、世界のスタンダードになっていく余地が多いにあるのです。

そしてもう1つの「目」は共同事業体となっている国際保健のNGO ISAPHです。ここでの3年に渡る食事調査によって、村に必要な栄養が何か、そして昆虫を養殖して現金収入を得ることがもたらす「栄養リスク」にも気づくことができました。(近いうち学会発表されます)はたして昆虫に限らず、「新しい食材で栄養改善」というプロジェクトが目を引く中、どれほどそこのマイナス面のリスクをモニターしながら進められているプロジェクトがあるでしょうか。目先の現金収入にとらわれて栄養状態が悪化する、というのはよくあることです。そして多くの場合、ソーシャルビジネスというガワをかぶることで、スタート時にその地域に与える負のインパクトは、将来性という未来のベネフィットにカモフラージュされていることが多いにあります。

ということでJICA、リバネス研究費、そしてISAPHと、ラオスの昆虫養殖は十分な「監視の目」を手に入れることができました。その目に私の活動を晒しながら、議論を深めながら、頑強な「昆虫食が地域を救う実例」を作っていきます。

これは先に説明した通り、村で手に入るバイオマスを使って、栄養と現金収入を手にし、そしてかつ、現金収入増加による栄養リスクの上昇すらもコントロールしていく、という地域に密着した総合パッケージとなっていくでしょう。この「持続可能な参加型開発」は、生産された昆虫のブランディングにも重要です。現在、先進国において売られている昆虫食のうち、本当に持続可能性に貢献できている生産体制を経由した昆虫はほとんどない、と言っていいでしょう。

そういったまだ実現できていない未熟な昆虫の生産体制を棚に上げて、あやふやな将来性のイメージの前借りをして商売することは、遅かれ早かれ昆虫食ブームの失速を招くと予言しておきます。今必要なのはオープンなイノベーションを下支えする事業者間の活発な相互批判です。

さて、私がこれからラオスに設置する生産システムをモデルケースにすることで、「昆虫食が地球を救うモデル」になるといえるのか、食の専門家との強い議論につなげることができるかと思います。

さて、7月中旬から8月初旬に関東に一時帰国の予定があります。ラオス事業についても活動報告をするセミ会になる予定ですので、ぜひきてください。詳細はまた案内します。

しんどかったです。

違和感に気づいたのが先週6月12日のお昼。なんかカラダがアツい。

急に発熱したことは何度かあったんですけど、その気配がしたので一度帰宅して体温計(という名のラインインつきの温度計)で測定。虫(この温度計はゾウムシ)にも使っているので若干の泥汚れがあるけれど気にしていられない。

このときは数日でおさまるだろうと高をくくっておりました。

二日後、ちょうどラオス人スタッフに余裕があったのでつきそってもらい検査へ。デングの抗体検査をやったんですが、残念ながら陰性。検査をまつまでがまたしんどい。全身の関節がむやみやたらに痛い。

このあたりから体温を測定するだけの生活。Twitter を見るのもつらくて、なんだか悪意の強い地獄を覗いているようで見る気もなくなってきました。言語能力が低くなるとストレスコーピングもヘタクソになる感じ。

ようやく治ってきました。みなさまデングにはお気をつけて。

我が家ではツムギアリを半養殖しています。彼らが巣を作るマンゴーの木に洗濯紐を結びつけ、そこから玄関のライトをブラックライトに置き換え、そこに集まる虫たちを彼らが夜中いっぱい集めるのです。彼らも慣れたもので、物怖じせずに利用しています。洗濯紐は格好の誘導路になっていて、出勤先のブラックライトの下で得た獲物はその紐をつたって、巣へと運ばれていきます。

同じ場所にハンモックも設置していまして、その網に、夜には珍しいアゲハチョウの仲間がとまっていました。絡まっているというよりはリラックスして寝ている様子だったので、その頭上にひっきりなしに行き来するツムギアリを尻目にゆっくりしている様子でした。そのギャップがおもしろく、動画を撮っていたら、ふと右上の方からツムギアリが画面に割り込んでくるではないですか。これはどうなる、食べられてしまうのか、とハラハラながら録画を続けたものがこれです。結論から言いますとアゲハは食べられました。

アゲハの死

最後にツムギアリに連れられて、洗濯紐をつたってひらりと一回転。もう頭のないアゲハの最後の舞いでした。

昨夜はこの顛末を見届けるために夜更かしをしてしまった。今回はiPad mini5 のiMovieで作成。なかなか簡単でよかったです。

第二弾です。主役はトラクター。すごい。

こちらは第一弾
そして今回公開された第二弾

今回の1月から5月までの取り組みは、雨季が迫っていることもあり、キャッサバの植え付け栽培を優先しました。

キャッサバはゾウムシ養殖の大切な基材であり、この村ではこれまでほとんど栽培されてこなかったバイオマスです。

また、雨季になると稲作のための準備が始まり、6月からは学校も休みになって全村、全家庭が7月までに田植えを完了させるべく、総力戦に入ります。それらをお邪魔することもできないので、5月までに植え付けを終えておきたかったのです。

それでも予約したトラクターの人が遥か遠くの村に出張してしまって戻れないので急遽変更したり、フェンスを作るための木材を予約したのに当日全部売れちゃったからもう在庫ない、と言われたりと、なかなかラオスの商習慣に合わせるのが難しかったのですが、優秀な若手スタッフのおかげと、農家さんのツテで色々と探してもらい、どうにか予定通り終えました。ひと段落。

こういった「順番」というのはどうしても人を見ながら決めなくては行けません。前回の動画でゾウムシ養殖を導入するときはキャッサバを街から持ち込んでいましたので、本来の「順番」からすると最初にキャッサバを育て、そしてその収穫を使ってゾウムシを育てる、という提案をしそうなものですが、今回は村人が実物を見て、昆虫が楽に育つこと、昆虫が美味しいこと、市場で高く売れることを実感した上でキャッサバの不足を考えられる「準備」が整ってから、農地の開墾を提案しました。

そういった現場レベルの判断を、昆虫の専門家がクイックにできるという意味でラオスという現場に入れてよかったと思います。

これが特定の昆虫ありき、研究ありき、順番ありきで大予算の暴力で村人に押し付けていたのでは、自発的に養殖を続けたり、養殖したものを売りにいったり、そしてキャッサバを植えるための農地を提供してくれたりはしなかったでしょう。ラオスの現場に来て、机上の空論だったものを地面にどっしり据え付けることの面白さを体感しています。おもしろいです。

新しいハリウッドのゴジラ、観てますか。こちらは観れませんのでTwitterを見ながら嫉妬しています。

うらやましいのでプライムビデオのゴジラ関連を観て、悔しさを紛らわしています。そしてひっそりと一年ほど前からウォッチリストに入れていたマイナー映画にプライムビデオのマークがついたので、早速観ました。オススメできる怪獣映画ではないのですが、おもしろい「怪獣の映画」でした。

ソウルに怪獣が出現、理不尽に街を破壊する。「怪獣は足元を見ない」「普通腰ぐらいのところにビルがあったら避けるか何かするだろう」「だからあれは生物ではなくて無生物とかロボットだ」などとこれまでの怪獣映画を若干ディスる発言もあり、なかなかおもしろいです。怪獣映画のフォーマットをしっかり踏まえた上で、インディーズ映画として(予算も節約しながら)どう解釈し、人物とストーリーに還元していくか、王道ではなく外道ですが、随分と考え練られた「怪獣の映画」です。

どうやら当初の企画段階ではソウルを東京に、怪獣がゴジラになるというプロットだったそうですが、もしこれが実現していたら異端のゴジラ映画として、マニアに名を残す存在になったことでしょう。東宝は懐が狭い。これはゴジラ映画に入れておくべきものだったと思いますよ。興行が振るわなくても後から再評価されるビオランテみたいな映画になったはず。

主人公グロリア(アンハサウェイ)はアルコール依存症のダメ人間として描写され、ネット炎上で休業状態。面倒見のいい彼氏からも見捨てられ、ニューヨークから誰も住まない田舎の実家に戻る。そこで小学生以来会っていなかったオスカーと再開し、彼のバーを手伝うことになるが、朝まで飲み明かすダメ生活に戻ってしまう。

ダメ人間、というのの掘り下げを怪獣を使って行うのがすごい巧みです。社会からの疎外と、報われない承認欲求が蓄積していくことで、一瞬定番のロマンス、あるいはそれからこじれたストーカーチックな気配は匂わせるものの、皆が孤独なモンスターを抱えており、加害と許容、という形でしか承認を満たせないかもしれない、という恐怖と戦い、そしてその具現化である怪獣を嫌悪し、畏怖しつつも少し憧れていることを隠しきれない。

つまり外道の怪獣映画ですが、観客を内包するという意味で王道の怪獣の映画なのです。ソフビ人形を持って砂場でドシャーンバキーンと無法を働くごっこ遊び。それが具現化し、遠くソウルの人たちを蹂躙していると知った時、人はどう動くか。

グロリアがオスカーの暴走を止められず、ソウルが蹂躙される様子を想像して地元の公園の砂場でガチ泣きするシーンが最高ですね。確かに昔のごっこ遊びはガチだった。

アンハサウェイが善人ではなくダメ人間として描かれ、そしてロマンスではなく性欲と承認欲求が素朴に描かれることで、男女というジェンダーから離れた、怪獣的な破壊衝動をうまいこと描いています。女性ジェンダーからの暴力衝動、というのは今後SFで盛んに描かれていくと思いますが、面白いです。アリータなどもそこらへん意識されていますね。そして怪獣デザインがうっすらプルガサリに似ていると思うのは気のせいでしょうか。

買えとオススメできないけれど、アマゾンプライムだからこそオススメしたくなる、そんな映画です。同じように買えとは言えないけど一度は見ておいたほうがいい、と言われて見たゴジラ映画がヘドラ。これもすごいです。ゴジラ以外全部おかしい。映像も音楽もヘドラも人間もサイケ。ゴジラだけが癒し。突然飛ぶのもご愛嬌にしか見えない。ありがとうゴジラ。信頼と実績のロマン輝くゴジラ。

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私がバイリンガルかどうかも怪しいですが、前回の帰国時に4月に収録して出演してきました。内容は最新のラオスでの活動から虫の好き嫌いまで多様に渡る2時間半!長い!たっぷり!

日本で大学院生をやっていた時、虫の部屋は空調が効き、断熱パネルで覆われていたことから電波は不通。ダウンロードしたポッドキャストを聴きあさる日々でした。よく夜更かしをして原稿を書いたり、バッタのお面を作ったりしていたので、パートの研究補助のみなさんと一緒に朝9時に始まるバッタのエサ交換はなかなかテンションが上がらず、面白いポッドキャストを聴きながらニヤニヤしつつ草を刈り、交換したものです。

そんなヘビーリスナーだったポッドキャストの一つ、バイリンガルニュースはその時にはラオスで英語で仕事をするなど思いもせず、ニュースとしての内容がおもしろいなーと聴き流していたものでした。

実際に出演してみて、バイリンガル会話形式難しい! 聴いている時はそこまで難しいと感じなかったのですが、頭に浮かぶ単語と、文法を組み合わせると大抵「ルー語」になってしまいますね。

シドロモドロで後半ほとんど日本語ですね。英語を勉強したかったリスナーの皆様すみません。バイリンガルニュースで昆虫食を発信するなら自分以外いないだろう!というファン心で出演してしまいました。そして事前打ち合わせ無しの一発勝負!これは緊張しましたが、多くの隠し球を用意しておきそこそこ臨機応変に対応できたと思います(バッタチョコや動画など)。

お二人の「自分にないものに対する敬意や姿勢」が素晴らしかったです。理解や共感に近づこうとする態度と同時に、完全には分かり合えないことのバランスをとてもよく配慮してくださっていて、共感できない部分に積極的に疑問を用意して踏み込んでくださるのはとても心強かったです。

さて、内容について少し補足しておきます。「400種類食べた」というのは、はい。盛りました。367種が今の所記録されている正しい味見した種数です。すみません。成長段階や性別を分けると570パターンでした。

もう一点、

「感謝して昆虫を殺す・食べる必要はない」という点。Twitterで少しざわついた方がいらっしゃったようです。これはもうちょっと私としてもしっかり論理を整理する必要がありますね。「基本的に人間は自由に虫を殺して良い」が私の考えです。その時に「殺すならば感謝すべし」というのは無益どころか、傲慢ですらあると思います。生き物好き、虫好きの方には少しざわつく感じがあると思います。

もうちょっと細かく言います。

こちらの「マンガで学ぶ動物倫理」の解説の中で、「感謝すれば許されるのか」という問いかけがあります。この文脈は肉を食べる時感謝することが大切、という登場人物の発言を受けての議論ですが、「感謝されて殺されるのと、感謝されずに殺されるのと、殺される側から見て何が違うのか」という問いかけです。

私は何も違わないと思います。それよりも殺す時に苦痛を与えない。人間にも動物にも事故が起こらない体制を「感謝しようがしまいが」作ることが大事だと思います。こういった「感謝の押し付け」が無害ならばまったく個人の自由なのですが、私はむしろ有害である可能性が高いと思っています。それは虫好きと虫嫌いの「分断」です。

昆虫愛好家のうち、昆虫をなんらかの理由で殺す人の中では「虫を殺す時は感謝して殺す方が良い」というマナーが働いているようです。必要以上に殺すことがないよう、殺したものを無駄にしないよう、精神的な規範を示すことで抑止力としたいようですが、それでは「不快や遊びで虫を殺す人」はマナー違反であると見なされてしまい、それによる偏見が起こってし待っていると思うのです。

食の倫理からすると、私のような食用に昆虫を殺す人は比較的攻撃されにくい傾向が強いです。なぜなら誰しも食べるためには生物を殺す必要があり、その中で昆虫は(好きな人も嫌いな人も)それほど殺すことに抵抗感がないからでしょう。

昆虫愛好家の中でも「ゴキブリは別」という人も多いかと思います。これが「殺すなら感謝すべし」に含まれない種差別であるとしたら、これはこれでまた問題です。私が養殖した清潔なゴキブリも、「ゴキブリだから食べたくない」という種差別を受けている、といえてしまいます。それよりも「自分が殺したい虫を殺す自由権を行使している」とした方が、現段階では説明しやすいと思います。

つまり私が提案したいのは「生態系に影響しない限りにおいて、個人が虫を殺す時にどんな気持ちであるかは自由である」ということです。遊びでもいいです。学術用途でもいいです。そして嫌悪でも、食用でも、生態系に悪影響を与えない範囲で、人は虫を殺す自由権(あるいは一種の愚行権)があると考えています。学術用途については特別に、生態系の保全に必要なデータを取ることがありますから優遇されるのは当然でしょう。

その中で、今の所種によって差別することも、昆虫に人権はなく、アニマルライツも設定されていないのですから人間側の自由権(愚行権)で包括することができるでしょう。

少し話は逸れますが、昆虫と食肉と菜食を含めた議論をする時に、昆虫の「苦痛」に関しては基礎研究レベルではかなりメカニズムがわかっている割にはその倫理についてはみなさん慎重です。

昆虫の神経系に特異的に作用する薬剤は殺虫剤の候補として人体に与える影響は少なく、薄い濃度で昆虫にだけ効くのでとても広く使われています。一方で漁業においては水に流すタイプの「毒漁」は資源保護の観点から禁止されており、農地用の殺虫剤だけが妙に「特別扱い」されているようにも見えます。殺虫剤の中には昆虫の神経を過剰に興奮させて死なせるタイプのものもあり、この先昆虫の苦痛を軽減する必要や、あるいは益虫として害虫を減らす役割のあるクモなどがとばっちりで殺される時の功利主義的な「倫理」においても考える必要があり、なかなか悩ましいものです。

話を戻します。

「昆虫を殺す時は感謝すべき」という押し付けは、昆虫を嫌悪(ストレスコーピング)で殺す人の罪悪感を増強させてしまいますし、虫好きから見ると、そういった人は無知で思いやりがなく、生態系保全に興味のない人だ、という偏見を持ちがちです。その気持ちの押し付けが社会を「虫好き」と「虫嫌い」に分断する要因になっているのではないでしょうか。

ともあれ、音声メディアであるバイリンガルニュースによって「映像はキツいけど音声なら大丈夫だった」とか「食べたくなってきた」といった、昆虫や昆虫食に無関心な方が少しばかり関心を持ち始めたようですので、虫の好き嫌いにかかわらず、誰しもが受け止めやすい情報発信ができたと思います。

この路線、しばらく追求してみます。