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今まで分散していました、昆虫食情報発信ブログ

蟲ソムリエへの道

蟲ソムリエの実践ですが

こちらにまとめることにしました。どうぞこれからもご贔屓にお願いいたします。今年は散らかっている情報をまとめて整理して発信していく年にしようと意気込んで、いや、ほどほどに思っているところです。

ラオスの国際保健の分野にいることで、色々と勉強をしてきたんですが、「タンパク質クライシス・タンパク質危機」と言う話を、とんと聞かないなと。確かにタンパク質は、重要な栄養素ではあるものの、世界的に、タンパク質を増産して、人々の栄養を支えよう、という旗振りをしている人が誰もいない。

昆虫食品の生産者、販売者、そして「代替肉」の議論でよく言われがちなのが、将来、人口増加によるタンパク質不足が起こるので、そのために安定生産をしなければならない、です。これもまた奇妙です。歴史的経緯をまとめた論文があったので、勉強しました。ちょっとまとめてみましょう。

1、栄養不良の人たちの一食と、栄養が足りている私たちの一食は同じ価値ではない。

「増産」が栄養に貢献する、と信じる背景には、栄養が公平に配られているはずだ(配られるべきだ)と言う価値判断があるでしょう。満腹なお腹に押し込む、シメのラーメン、スイーツは別腹、など、娯楽的に食べられる食事よりも、栄養が足りていない人たち、発育初期での成長が阻害されることでその後の人生にわたって何十年も、悪影響を受け続ける子供に届けるべき、と言うのは、直感的にも信じられるし、人類の最大幸福を目指す功利主義哲学とも一致するので、あまり論争はないでしょう。そうすると「栄養問題」の主人公は当然ながら「足りていない人たち」となります。

足りている私たちの食べ物を効率的に変えることが、回り回って誰かの栄養になる、というトリクルダウンを信じたいところですが、人類の食糧が十分以上生産されている現在ですら、10人に一人が栄養不良なのです。残念ながら、これが「ただ一つの何かの増産」によって解決する、と考えている国際保健の人たちは存在しません。なぜなら、栄養不良の原因と背景が多様で、その解決に至るアプローチも、同じように多様でなければ効かないからです。それが1970年代以降の「栄養」分野の蓄積でした。

2、「給食に脱脂粉乳」はあまりに鮮烈な「栄養介入」の印象を残しすぎた。

日本での「栄養介入」の鮮烈なイメージは、戦後給食による脱脂粉乳でしょう。飲んでいた世代も団塊世代以上になりますが、いまだに栄養介入といえば給食とタンパク質、というイメージはこの時の風景を引きずっています。当然ながらあれから50年以上経ちますし、研究は進み、介入アプローチは変わっています。生後1000日が、最も重要で、解決すべき栄養不良で、その投資効率は16倍に達する(この時期に1ドル栄養介入した時の長期的な経済効果は16ドル)となり、人類にとって最も投資効率が高い分野が栄養、とも言われています。たしかに給食アプローチは(子供が労働力である貧困地域においては)出席率の向上には効果がありますし、みんなに平等に配ることで、貧困世帯であっても気兼ねなく、栄養を補完することができますが、先進国では世帯ベースの支援が基本で、「給食で栄養を補っている子供」がいたとしたら、そこに集中して福祉が介入した方がむしろコスパが良い、と言う結論になっています。並行して、就学児以降に栄養を補完しても、ある意味手遅れで、生後1000日の間の栄養不良はリカバーできないこともわかってしまいましたので、途上国におけるアプローチとしても、印象の割に効率的な介入ではないことも判明しています。

3、The Rise and Fall of Protein Malnutrition in Global Health (国際保健におけるタンパク質栄養不良の盛衰)

それでは今回のキモ、総説に移りましょう。
「タンパク質危機」「タンパク質ギャップ」は国連が1950年代から70年代まで国連がえらく注目して警鐘を鳴らしていたが(日本の脱脂粉乳支援も同じ文脈)、今やそうでもない(タンパク質も含めて総合的に判断・介入せよ)という、まぁ普通な話です。地味な話ほど検索では引っかからないので、せめてここに残しておきます。

やはり研究の進捗により栄養における重要度ランキングは上下しています。1950年代から70年代まではタンパク質、その後長らく微量栄養素の隆盛があり、診断基準が整備され、その上で感染症対策におけるワクチンなどの効果が発揮され、2000年代に乳幼児死亡率の劇的な低下という、MDGsの大きな成果があった後に、2015年からの貧困対策、農業、環境、民間セクターを巻き込んだ統合的な介入を目指すSDGs、という話になってきます。つまり「SDGs」という文脈で、1950年代の話をしていては、チグハグになってしまうのです。

1930年代、劇的な発見がありました。劇的な発見は、国際社会を大きく変えるものです。アフリカで「クワシオルコル」というタンパク質不足を原因とする(らしい)疾患が発見されました。「お腹のぽっこりしたしんどそうな子供」の写真を見たことがあるでしょうか。外見的な特徴から診断されるのですが、その後の死亡率が高いことから、発症後の治療よりも原因究明と対策が必要でした。母乳栄養が中断した子供に起こりがちであること、肝油と牛乳の組み合わせで改善することから、トウモロコシなどの栄養バランスの悪い食物による非感染性疾患と考えられています。

1949年、FAOは発展途上国で全般的にクワシオルコルが広がっているのではないか、と調査を開始し、専門家委員会を結成しました。アフリカでは調査地全てで発見され、牛乳を飲む部族では見られないこと、中央アメリカやブラジルでも見られることなどを発見しました。

1952年の会議で「タンパク質栄養失調 protein malnutrition」という用語が導入され、母親、乳児、子供の栄養失調に特化して議論が進みました。その中でmarginal(ちょっとした)な、subclinical disease(医者にかかるほどでもない疾患状態)が慢性的に起こっていると指摘されました。

ちょっと解説しますが、これはグローバルヘルス(国際保健)が、病院にかかるまでを支援したり、病院の外での日々の生活向上に口を出すことの背景ともなっています。私たちは何か違和感があれば病院にかかりますし、出産はほぼ病院が定番ですが、ラオスでもよく見ますが自宅分娩であったり、何か違和感があったら病院の前に祈祷師に相談するなど、やはり「保健」病院にかかる前、病院の外の行動が、病院そのもののレベルアップにも必須ですし、彼らの生活をサポートするために必要だ、と言われています。

1955年の会議では、「欠けた桶」のイメージで知られる論点が示されました。つまりタンパク質の質(必須アミノ酸のバランス)と量とが、重要であるとの結論です。「かけた桶」のイメージは、例えばトウモロコシをたくさん食べることで、見かけ上のタンパク質をたくさん取れていたとしても、必須アミノ酸であるリジンが不足していると、リジンの最大値までしか、他のアミノ酸も利用されない、無駄になってしまう、というものです。

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そこで二つの戦略が示されました。地元で生産される「おかず」として、野菜や魚の生産と消費を推奨するアプローチと、安価で保管しやすい、補完的な栄養食品の生産と配布です。

一連の研究の中で、クワシオルコルの手前となる「低身長」が、重要な指標であることも示されました。年齢に対する身長の伸びの悪さ(Stunting)はラオスの農村部でもいまだに続く問題です。

1955年 国連タンパク質アドバイザリーグループ(PAG)が結成されました。PAGの目的は、WHO FAO UNICEFに、「タンパク質リッチな食料プログラムの提供」が目的とされました。

1960年には、異なる文化の食習慣を理解するために、社会科学の専門知識を取り入れました。(このアイデアは素晴らしく、ここで昆虫食も入るべきだったんですが、これは60年ほどしばらく後回しになるわけです)ここでは栄養教育、社会科学者の関与、食習慣を研究する方法、新しい食品を導入する方法を見つけることが目標とされました。ここでカロリー当たりのタンパク質、年齢・体重当たりの身長の伸びの悪さ、を指標とする「タンパク質カロリー栄養失調」という用語が定義されました。(後に、低身長の原因はタンパク質だけじゃないよと指摘されるわけですがこの時はそう指標が決まりました。)

1963年の会議では(給食ではカバーできない)就学前児童へリーチする方法が議論されました。1965年の会議では、牛乳、食用魚、穀類、リジン・メチオニンの生産、大豆、綿の種、紅花、トウモロコシのアミノ酸バランス向上がトピックとなりました。(ここでも昆虫は一切出てこないです。)
途上国の子供に脱脂粉乳を提供する(日本の脱脂粉乳給食もその一環ですね)アプローチはモーリス・パテが関与し、1965年、ユニセフはノーベル平和賞を受賞します。ノーベル賞をとってしまうとそこに異論を挟むのが難しくなるというのはまぁどこでもそうでしょうね。

1968年「タンパク質ギャップ」「タンパク質危機」という用語が登場します。即時の対応を必要とする、世界的な緊急事態である、という警鐘を鳴らすものでした。

タンパク質危機を回避するための国連の政策目標 1968
1、従来の人間が直接消費する、植物性・動物性タンパク質の増産の促進

2, 海洋漁業と淡水漁業の両方の効率と範囲の改善のための行動

3、農地・倉庫・輸送における不必要なロス(今ではフードロスと呼ばれますね)の低減

4、油用種子や油用種子タンパクの人への直接利用の促進

5、魚タンパク質の利用促進

6、合成アミノ酸の利用と穀物・野菜からのタンパク源の開発、合成栄養素の利用

7、単細胞生物由来のタンパク質の飼料用・人間用の利用

あれ、相変わらず昆虫食は蚊帳の外ですが、現在語られている「タンパク質危機」「食糧危機」の話と全く同じに見えますね。そうなんです。今の代替肉や培養肉で広告される「タンパク質危機」は、1968年のグローバルヘルスの議論から発しているものの、彼らはこれを引用しません。なぜかというと、この議論はだいぶ古いのと、「新しい」肉を売りたい企業が、1960年代の古いコンセプトで考えていることがバレてしまうと、企業価値を下げかねないからです。営利企業である彼らが、公平な議論を運営することの限界が、ここにあるでしょう。彼らを非難するつもりはないですし、私が雇用されたら、こういった議論を減らすかもしれません。総合的な議論をすべきや行政や大学の責任ですが、まぁそこら辺の批判は直接届けています。変わるかどうかは彼ら次第でしょう。

余談ですが、「石油タンパク」が大きな反発を受けたのもこの時代です。消費者団体が、酵母の培地の原料であるパラフィンに発がん性物質があるのではないか、と不信を募らせて、1973年に申立書を提出、大きな行動へと拡大しました。食品安全法に「新規開発食品」が定義され、実質的に販売不可となりました。
「食品と健康被害との因果関係が認められない段階で流通を禁止できる」ことと
禁止解除のためには「人の健康を損なう恐れがないことの確証」つまりリスクゼロの証明をしなくてはいけない、という無理ゲーが設定されたのです。

当然ですが、通常食品についてもリスクゼロのものなどありませんので、過度に厳しいルールが追加された、と言えます。

さて、この辺りの議論を読んでみると

(1)栄養とい うことに対す る教育問題
(2)製造原価の問題
(3)輸送問題
(4)保存貯蔵の問題
(5)社会習慣の問題
(6)宗教的信念の問題
(7)社会的地位、身分の問題
(8)味
(9)政治上の問題

おどろくほど、今の代替肉と「同じ議論」がされているのがわかるでしょうか。その後、石油価格の高騰(オイルショック)に伴い、立ち消えになったのですが、現在では石油から合成されたリジンが195万トンメチオニンなどの飼料用アミノ酸はすでに普及しています。その明暗を分けたのがなんなのか、正確にはわかりませんが、直接食用にする際のサイエンスコミュニケーションが十分でなかった可能性があり、これは昆虫食でも言えることです。過去をしっかり直視して、未来につなげていきましょう。

「食べている人がすでにいること」
「新しくないこと」
「強要するものではないこと」
「おいしいこと、楽しいこと」

この辺りが私の重視する戦略なのですが、「役に立つ昆虫食」「未来の昆虫食」として、これまでの歴史と切断処理をしてゴリ押すことで、陰謀論の温床になったり、技術一辺倒な税金投入が、かえってサイエンスコミュニケーションとのアンバランスを産んだりと、色々と心配しています。


話を戻します

1970年の報告では、1歳から9歳までの発展途上国の子供の2から10%に影響を及ぼし、1−5歳児の最大50%が影響を受けている、とし、発展途上国における乳幼児の死亡率、発育不良、寿命の低下の重要な原因と認識されました。

PAGはピーナッツ、ごま、ヒマワリ、藻類、合成アミノ酸を使用した食品の開発を進めていましたが、コスト・生産・受容性の問題で後退、補完的な食品の開発へとシフトしました。しかしPAGの「実用的な成果」がないことに不満が高まり、タンパク質ギャップへの支持が揺らぎ始めます。

1974年、「グレートプロテイン・フィアスコ(タンパク質の大失敗)」という批判記事がランセットという著名な医学誌に出されます。

この中で、国連によるあまりに過度な「タンパク質偏重」が、タンパク質だけに特化した介入が今ひとつ成果を上げなかったことや、先進国におけるタンパク質必要量がの下限が下がり、途上国はそこまで不足しているわけではない、と「ギャップ」が閉じられたこと。マラスムスのような、タンパク質以外、全般的な栄養不足による症状が多くあることも見逃したことして、批判しました。150万人が死亡した1974年のバングラディシュ飢饉を受けた世界食糧会議にはPAGはコンサルタントとして呼ばれず、タンパク質は議事録から一気に減ってしまった。
同年、世界食糧評議会が設立され、栄養と食糧生産、安全保障、貿易、援助に関する国連機関同士を連携することが使命とされました。ここでいわゆる「タンパク質偏重」はキャンセルされ、各機関の連携による「総合的な対応」へとシフトした、と言えます。PAGは1977年、解散します。これらを主導したウォーターローとペインは、1975年のネイチャーで、タンパク質危機はもはや支持されないとし、タンパク質以外からの栄養不良も起こること、感染症との相互作用もあると指摘しつつ、以下の言葉でまとめています。

“But perhaps the story of the protein gap shows the arrogance of supposing that we know the answers, and illustrates the need for a continuing critical examination of the premises on which action is based.”

私たちが答えを知っていると思い込むことの傲慢さを示し、行動を起こすための前提を批判的に検討し続ける必要性を示しているのかもしれない

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/810729/

ほんと、肝に銘じたいところです。

The overturning of false paradigms is a painful and costly business and lacks the glamor of making new discoveries 誤ったパラダイムを覆すことは痛みを伴い、コストが高い仕事で、新しい発見をすることの華やかさに欠けている。

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5114156/#R37

4,「タンパク質の大失敗」その後の動き。

さて、この後の動きをざっくりと、ですが、MDGsの成果を見るとよくわかります。微量栄養素の不足による疾患の診断、解明と、ヨウ素・ビタミンAなどの添加による改善、ワクチンなどの感染性疾患の対処など、複合的な要因による乳幼児死亡率の劇的な低下など、大きな成果を上げています。

そして2015年のSDGs「貧困の撲滅」を最大課題とし、「各ゴールは統合され不可分」と宣言し、環境や民間セクターを巻き込んで、持続可能なものにしていこう、との流れを作りました。それがうまくいっているかはさておき、理念としては、これまでのタンパク質偏重から、複合要因へのシフト、感染性疾患へのワクチン、微量栄養素補給などの「外からやってきて劇的な変化をもたらす」成果があったことで、隠れていた問題も明らかになってきました。

つまりタンパク質は相変わらず重要な栄養素であり、「外から持ってくる」だけでは賄いきれない、というものでもあるわけです。微量栄養素の欠乏は診断できますので、それらのない地域での、主要な栄養素、タンパク質・脂質・炭水化物について、バランスよく摂取できるよう、地域の社会に即した貧困改善をしながら、栄養も低下させないようにフードシステム全般を設計構築しよう、という壮大かつローカルな取り組みが必要になったのです。

この「壮大かつローカル」が、世界に何をもたらすのか、という点については、FAOが2021年から取り組んでいる、「先住民のフードシステム」にも現れていますが、持続可能性という点について、先進国のこれまでの技術開発では石油からの変換効率や、資本効率をに偏重してきたものの、最適化されたものではなく、むしろ小規模な先住民が、地域資源を利用しながら営んできた生活の中に、地球全体の持続可能性のヒントが隠されているのではないか、というものです。

そうすると「タンパク質の大失敗」のもう一つの面が見えてきます。「世界全体でチャンピオンの食べ物を食べる」という前提すらも、すでに崩れているのです。ローカルなフードシステムの、当事者による開発が各地で分散的に行われ、その中から他地域にもジャンプできる技術があれば共有し、「パッチワーク」のように、人と環境と文化の結果、ローカルなフードシステムが構築されていく、そんな「小農」が主役になる未来をFAOは描いているのですが、

果たしてFAOを引用する皆様、どこまで理解していただけているでしょうか。

それとも知りつつ、あえて無視しているのでしょうか。

昆虫食では2013年の報告書が注目されがちですが、FAOは2010年にも報告書を出しています。これは昆虫食に対するFAOの基本的なスタンスを示すもので、私は好きでよく引用するのですが、あまり有名ではないです。巷の昆虫食ビジネスは2013年の報告書の中の一つの論文(2010年温室効果ガス論文)の図、ただ一つだけに注目してしまっていて、どうにもFAOの文脈を捉えきれていないように思います。

「文脈を捉えきれない」と何が起こるかというと、FAOの主張に反したり、FAOがこれからやるべきと主張する方針と衝突するにもかかわらず、「FAOが言っているから正しい」かのような、存在しない権威を傘にきたような主張をしてしまう危険があります。FAOの役割は国際機関ですので、そこと反する主張をしながら昆虫食を推進するのはもちろんありうることなのですが、(私もFAOに100%同意ではないです)適切な引用は適切な文脈の解釈あってこそ、ですね。もちろん適切な翻訳も、適切な解釈あってこそ、です。

さて、2010年の報告書のメインテーマは「Edible forest insects 食べられる森林昆虫」です。森林から供給される昆虫などの採集食材は、現地住民の栄養を支えているのですが、森林を木材として現金化する、という目先の利益ばかりにとらわれると、現金を得たところで森林が破壊され、それまで得られていたインフォーマル(流通経済に乗っていない、自給自足や地域内の物々交換をインフォーマルといいます)な食材について、見過ごされてしまうし、かえって栄養を阻害するかもしれないから注意せよ、と警告するものです。

木材の現金化が、ほかの売り物とトレードオフになるのであれば、(たとえば売り物になる伝統薬や染料など)、ブレーキがかかるのですが、栄養となると、当事者もほとんど気にしていません。貧困地域においては現金の得られる手段というものはたいそう魅力的で、当然ながらそこには基本的な栄養教育も行き届いていないので、「栄養があるものを食べなくてはいけない」という発想がそもそもないです。

ちょっと話はそれますが、よく昆虫食を「貴重な栄養源」として表現されることがあります。その際に気をつけなくてはいけないのが、彼らは栄養があるという「動機」で食べているわけではない、ということです。美味しいから、そこにあるから食べています。栄養という「機能」があることと、彼らが栄養を動機として食べているかは別のことで、現地に栄養教育が普及していない以上、栄養教育をしても行動を変えられない状況があるならば、昆虫を食べている動機を栄養と断定するのは不適切、といえます。

話を戻しましょう。

FAOのスタンスはこのときも一貫して、途上国、小規模農家、先住民を重視して、一切ブレていません。2013年の報告書に際しても先進国「にも」食の選択肢になるのではないか、と問題提起をしたところ、先進国だけでバズってしまい、途上国の先住民は置き去りになっています。2021年からFAOの報告書は「先住民のフードシステム」として、生態系を持続可能な形で利用してきた(持続可能じゃない先住民はそこで途絶えてきたシビアな現実もあるわけですが)歴史のある生態系利用について、未来に必要になる、あたらしいフードシステムを提案するものになるだろう、と注目しています。もちろんそこに昆虫も含まれます。

ですが、スタートアップがアピールするのは消費者や投資家の注目である、地球温暖化対策、食品安全、効率化ですので、FAOの主張を十分に受け止められず、ややズレた解釈や広告をしてしまっているのが現状です。

このままズレが拡大すると、「先進国の資本による高効率、大規模でエシカルな工場」が建設され、その建設労働者や軽作業の単純労働者が、昆虫を食べてきた田舎出身者の出稼ぎだったりする事が起こりえます。

これはまさにFAO2010年が警告したとおり、「現金のために栄養が悪化する」あるいは「昆虫を食べてきた貧困地域から昆虫食をとりあげて、先進国向けの栄養をつくる」というたいそうよろしくない産業へと育ってしまいかねません。こういうのを生物学的盗賊行為(バイオパイラシー)といいます。

まとめの図です。

さて、これらを踏まえて本題に戻りましょう。「HUMANS BITE BACK!!」をどう訳すか?

このお題は内山さんから投げかけられたもので、それまで私自身は直訳が難しいため、ちょっと皮肉めいた意訳として「人類よ、食いあらためよ!」とたびたび訳していました。今回、翻訳者の友人に聞いてみたところ、悪くない意訳だ、とのコメントをもらったので、教えてもらったロジックを紹介しておきます。これは翻訳の勉強になりました。

一般的な話として、書籍や報告書の「題名・見出し」の意味するところは2つで
1,内容の予告 2,読者の興味を引く要素

内容を見てみると、Edible forest insects とHumans bite backは「人間が、昆虫を食べる」という意味で同じ内容を示している。つまりHumans bite backは 1,内容の予告という機能はほとんどもたず、2,読者の興味を引くためのフレーズが大部分と考えていい。じゃあどんな興味を引くためのものか。

bite backが句動詞で、単語の直訳では意味が通じない。「人類が噛み返す」ようなニュアンス、本当は虫が人を噛むものなのに、といった前提が読者に共有されていると想定すると「その逆」が読者をおどろかせ、興味を引くフレーズとして機能する。

ただ、報告書の内容を見ると、「先進国が見過ごしてきたインフォーマルな昆虫食を見直すべき」という反省の文脈が含まれているので、読者層を「昆虫が人間を噛むことがあっても、人間が昆虫をかむなんて?」とおどろくような、昆虫を食べない先進国だけに限定してしまうのは、それはそれで「これまで食べてきた人たち」に対して包摂的じゃない。

日本でもイナゴを普通に食べてきた人が、このフレーズにピンとこないものになってしまうだろう。なのでちょっと本意とズレてしまう。
そうするとキリスト教の和訳でよく使われる「悔改めよ」というフレーズをパロディにして、「食いあらためよ!」とし、これまでの先進国が途上国へ一方的に価値観を押し付けてしまった反省を踏まえ、人類全体に改めて提言するものとして「人類よ、食いあらためよ!」は悪くない意訳、となる。

とのことでした。翻訳っておもしろい!特に題名については映画なんかも原題と邦題が大きく違っていることもあり、直訳を含めて正解が無数に考えられる中で、説得力をもたせるここらのロジックはとても勉強になりました。

とてもいいものを買いました。まずはごらんください。


勝手に「壺(こ)vid-19」と名付けましたが、新型コロナウイルスをモチーフとした、壺です。ろくろでつくられた素焼きの、ふっくらと滑らかなツボの周囲に、執拗に取り付けられた「スパイクタンパク」は私たちの粘膜に食い込み、死を呼び寄せ、生活を邪魔し続けた憎き感染症を思い起こさせます。
日本で話題の、非常識に高価なご利益のある壺ではなく、日本円で1500円ほど。

ラオスの民芸品としてはだいぶ高価ですが、手間と焼成の難易度を考えれば安いぐらいでしょう。祈れば治る、といいった怪しげなものですらなく、語られるストーリーもとくになく、全くシンプルにお土産品、民芸品として「Covid-19」が壺になったのです。
この日の会場は県のODOP(1郡1品運動)展示会場。日本発祥の「一村一品運動」が、タイではOTOP、ラオスではODOPとして輸出され、各地の特産品の生産者たちが、出店し、地域の外へと売り先を模索する、という運動に発展しています。


ラオスでは各県の審査でODOPに認定されると、このようなスポンサーを集めて開催される合同展示会への出展が無料になるそうで、私たちが活動する郡からも、出展がありました。
しかし、首都があるビエンチャンに比べると出品物にバリエーションが少なく、ラオスの主要産業の一つである観光業に貢献できるような「売れ筋」を狙えているようにも見えません。つまりは生産者はいるものの、売るために必要な広告、営業、商品開発などの各種のコストが捻出できておらず、消費者からのフィードバックも受けられない状況にあるのです。
そうするとどうなるか、というと作り手側の事情だけで産品が決まるので、どうしても近い地域では「似たり寄ったり」になってしまうわけですね。ラオスの気候、民族、そして手に入る材料などが近いと、だいぶ離れた地域でも似た産品になってしまいます。これは日本の一村一品運動でも同じような問題がありました。こちらのほうは「1品だけ」ではなく同地域から何品も出せるようで、ゆるい方針がゆるい産品を生む余裕になっているようです。
8月に、ラオス第二の都市であるサワンナケート常設ODOPショップに行った時も似たような様子でした。

それぞれに磨かれた技術はあるものの、消費者ではなくて生産者側の都合が強い産品が並び、観光客のほとんどである「ライトな一見客」には今一つウケないものが並んでいます。私はラオスのためになれば、と思ってしまう身内マインドなので、ついつい買ってしまうわけですが、結局この後の発展が見込めない、という意味で、このままでは今一つ先がないわけです。
さて、このような背景を知ることで、このツボがいかに異質な輝きを放っているか、伝わるでしょうか。そう、ODOPにしては、「あまりにクリエイティブ」なのです。
会場の周囲の遊具には、どこかで見たようなアレなキャラクターが並び、非常にチープな雰囲気になっています。


ラオスでは「著作権」や「オリジナリティ」が尊重されたり尊敬されたりしない、まだまだの状況があります。オリジナルが公式にラオスに進出していないので仕方ないのですが、うまいこと先進国を真似られると成功者、ぐらいの感じです。
そして「やきもの」は、この地域でODOPに認定された伝統工芸。ラオスの粘土質の土はそのままレンガが焼けるほど陶芸に向いていて、そこから様々な民芸品がすでにあったのです。
しかし、、、壺vid-19以外の商品を見てください。わりとシュッとしてますね?トゲトゲもしていないです。

そう。これまでの民芸品のツボはもっとスムーズで、スリムな訳です。ここでラオス保健省が「脅し」のように使ってきた「新型コロナ怖いぞ通知」を思い出します。さっさとワクチンを打って、家で静かにしていろ、と、トゲトゲのコロナウイルスがやってくるぞ、と。


ロックダウンの通知、何回目のワクチンの通知、結婚式・祭りの中止、遊戯場の禁止、マスクの強制。
この壺の作者も、私たちと同じような状況だったのでしょう。家にいて、土はあって、ツボは作り放題、だけれど売りに行くこともできない。お客さんは来ない。
そんな閉塞的な状況の中「壺vid−19」は生まれたわけです。

恨みがあったのか、手持ち無沙汰だったのか、何かの遊びだったのか。作者はまだ追跡できていませんが、他の商品とは一線を画す、異常にクリエイティブで、手のかかる大型作品として、壺vid-19は生まれました。
聞いたところ2019年に第一号が製作され、これが2021年12月なので、おそらくこれ以前に1個か2個、年に1個ぐらいのペースで売れたものと考えられます。売れ筋ではない、との売り子の女性のいうことだったので、見せ物としてブースに人が集まる効果はあったっぽいとのことでした。そう、つまり「客寄せ」という「広告」として、初めてツボが機能した瞬間です。生産者が直接売りに来る、広告や営業という概念がほとんど見られないODOPにおいては大きな一歩です。
さて、私はこの壺を買ったわけですが、このラオスらしからぬ、突出したクリエイティビティを、言葉を尽くして高く評価したいわけです。
ふっくらと丸いシルエットの、スムーズな壺をろくろでまず作り、そこに接着のために深い傷をつけ、そして禍々しい手捻りの「スパイク」をつけていく。執念を感じます。そして私たちの粘膜に感じていた「ストレス」はきっとこんな形をしていたはずです。素朴な作風に普遍性を感じます。


それを独自の技法で塑像にした名も知らぬアーティストに、ラオスの現代アートの芽生えを感じるわけです。
逆に言うと、先進国のアーティストでは、ここまで普遍化したCovid-19そのものを素朴に表現することはもはや陳腐化してできないでしょう。ウイルスの実物が全世界中に届いたあとで、「普遍性」をもたせることには苦労しそうです。
しかしアートにおいても、もっとも強く、問題にさらされている現場から、好奇心に任せて新しいアイデアが湧いてくるようなそんなサポートができればいいなと、この壺を見ながら思います。
そうすると、本来の素朴な衝動としての「アート」に対して「アウトサイド」なのは、マーケットなのではないか?と思えてきます。アウトサイダー・アートとして区別を必要とするのは、アートを制作するしかなかった名もなきアーティストではなく、存命中に現金を手にしたいアートマーケットの方でしょう。「市場」は必ずしも正当性を担保しない、というのは残念ながら事実です。ラオスの田舎から、「つくりたかったアート」が素朴に出てきたことに対し、私は未来の希望を抱きました。

しかし未来の前に、わたしには直近の問題があります。「どうやって日本に持ち帰るのか?」トゲのある素焼きのデカイ壺、これは悩ましいです。アドバイスください。

ハライチのあの感じですね。

今回の話と関係ない画像。

近頃、自由研究や大学レポート、アイデアコンテストなどで昆虫食の情報収集を進めている若い人たちから相談に乗る事が増えてきました。小学生だったら「考えて、実際に昆虫を料理して食べてみた」という結論でじゅうぶんに大団円なのですが、真面目な高校生や、大学生になってくると、アレ、となにかに行き詰まってしまった生徒、学生さんからの相談が来ます。はい、正しいです。

そこで専門家として、なにか助け舟を出せればいいんですが、「専門家もいいと言ってくれました」みたいな自説を補強する無茶な大団円をもたらすのは教育に良くないですし、外部の専門家からお墨付きをとってこれたこと、そのものがレポートの評価を高めるような度胸試しに使われても不本意ですので、まぁ心を鬼にして「途中から昆虫食、関係なくなっちゃってない?」と脳内の澤部さんとともに、指摘するようにしているわけです。

よくあるやつを再編集しました。

「①昆虫は牛肉より環境負荷が低い
②昆虫をもっと食べれば世界が救われる。
③もっと食べるようになるべき。
④しかし見た目が悪いのでみんな食べない。
⑤すりつぶしたらいいだろう。
⑥すりつぶしてたべてみました。
⑦このレシピに専門家のコメントください!」

次は私の副音声とともにお送りします。

①昆虫は牛肉より環境負荷が低い(一部の昆虫について、事実)
②昆虫をもっと食べれば世界が救われる。(過度な推測)
③もっと食べるようになるべき。(推測から規範を導くには弱い。食の主権とぶつかる。)
④しかし見た目が悪いのでみんな食べない。(今食べている人たちを知らないか、仕方なく食べているだろうという偏見)
⑤すりつぶしたらいいだろう。(すりつぶした商品があるのを知らない?なぜ売れていない?調査不足)
⑥すりつぶしてたべてみました。(体験は重要だけど個人の感想と結論との関係が不明。それで何がわかる?)
⑦このレシピに専門家のコメントください!(え、お墨付きを出せと?ノーコメントじゃダメ?)」

この⑦だけに好意的に加担してしまうのは、①から⑥の「探求」の流れを肯定してしまうわけで、専門家としてどうにもアレなわけです。単純に文献調査として、昆虫食の背景が調査されていない、のです。ここで私は心の中の澤部さんと一緒にコメントします。

「これって、昆虫関係なくなっちゃってない?牛肉より環境負荷が低いマイナー食材、全部そうじゃない?」と。

「①〇〇は牛肉より環境負荷が低い②〇〇をもっと食べれば世界が救われる。③もっと食べるようになるべき。④しかし見た目が悪いのでみんな食べない。⑤すりつぶしたらいいだろう。⑥すりつぶしてたべてみました。⑦このレシピに専門家のコメントください!」

たとえば藻類、ウサギ、ティラピア、ダチョウ、なんかも当てはまるわけですね。
じゃあメジャーな大豆とニワトリでもいいじゃん、と。

昆虫食をテーマにしたはずなのに、ほかの食材を当てはめても同じになる結論が導かれる、とき、
気にしなくてはいけないのが「結論ありきでスタートしていないか」ということです。どんな情報も、結論を補強するためだけに調査をするのであれば、最初から調査しないほうがまだマシです。

昆虫が美味しそうだから食べてみたい。
これで十分な理由ですし、しっかり自分にとってのあたらしい食材として、取り組めばいいと思います。

「昆虫を食べる自分を肯定してほしい」だとすると、心細い気持ちはわかります。
食べているときに冷たい視線を投げかけられることも、キモいと否定されることもたくさんあるでしょう。そうすると「なぜ心細いか」「昆虫をこれまで食べてきた人たちに私達も冷たい視線をなげかけていないか」自己反省する必要があります。そのために後ろ盾がほしい、お墨付きがほしい、その気持は痛いほどわかりますが、だからこそ、自分の願望に沿うだけの情報では、何もいえないのです。

自分自身という主観的な体験はとても大事な1ケースです。それを等身大の1ケースとして、拡大解釈もせず、過小評価もせずに向き合うこと、については社会学が大きな蓄積があります。が、社会学って高校生までで手にする「社会」とは大きく違うので、これってどう伝えればいいんでしょうかね。

社会学の研究者、岸政彦先生が、「ゴシップ的消費」について、注意喚起をする一節があります。

調査の前から、調査者自身が「ものの捉え方」をバージョンアップする気がなく、結論が決まりきっている社会調査は、やらないほうがマシ、となってしまうわけです。

さて、結論ありきで自説を補強するための「調べ学習」をしている皆さん、行き詰まったら、チャンスです。自分自身の「ものの捉え方」が変わる瞬間は、私にとっても、これから昆虫食に関わる教育を考えたい私にとっても、大きなチャンスです。ぜひ「行き詰まったときこそ」相談してください。

最期にヒントです、「昆虫食ならではの状況」というのは、どこを探ると何が出てくるでしょうか。

昆虫は自然環境にたくさんいるということ、つまり昆虫学です。昆虫そのものの性質、生態系における昆虫の役割をもとに、未来の食糧生産を考えてみましょう。

昆虫を食べる文化は長い研究の蓄積があります。分野は人文地理学です。日本のような先進国で、なぜ手作業で手間のかかる昆虫食が、一部地域で残ってきたか、マイナーサブシステンスで検索してみましょう。

FAOの昆虫食「以外」の食糧問題についても読んでみましょう。どんな未来が必要だと言っているか、調べてみましょう。Google翻訳でいいので、FAOのサイトを読んでみてください。

「昆虫が置かれている状況」「昆虫食が置かれている状況」この2つをしっかり見つめることで、「昆虫食ならでは」の色んな発見があると思います。みなさんの柔軟な発想に期待します!

あの終わり方がハッピーエンドだと仮定した場合、

どう考えても食べてる。少なくとも間接的に利用している。と考えるしかないんですあの世界は。
さらにいうと、「昆虫食」という発想すらないかもしれない。「持続可能なカガステル農業」を考えたとき、すでに唯一の食料源がカガステルになっている可能性すらあります。

さて突然、無茶ぶりでトクロン先生から振られていたネタを、一年ぶりぐらいに回収します。頭の隅に引っかかっていたのが、ついに結論を得ました。

カガステルの考察の難しさは、公式設定としての「語り部」がいないことです。(進撃の巨人では現在公開可能な情報、という第4の壁を破るような公式設定が、読者を誘導する役割を果たしていましたが)
そして一見すると、ポストアポカリプス的な世界ゆえに、語られる状況がもうすぐ滅亡することを示しているのか、それとも再生の途上なのか、それとも持続可能な定常状態なのか、判断する要素が少ないことです。

またその原因が「大戦」と「カガステル」という2つの破局を経験した後なので、今の状況がどちらの破局の結果なのか、判別しにくい。さらにもう一つ、ラストまで「総括」がなかったことで、なんとなくいい雰囲気のラストシーンのあと、どんな未来が待っているのか、暗示されていないことです。コレは困った。

劇中のカガステルは、モンスター・パニックの要素と、ミリタリーアクションの要素、そして(人間がモンスターに変わるという意味での)ゾンビものの要素を併せ持つわけですが、そこに「食」と「生殖」がからまってくると、ジャンル別だったものが、全体のシステムの関係性や持続可能性について読者が気になってきてしまう、という状況にあります。私もフードシステムが気になってしまって、本命のストーリーが頭に入らなくなることがありました。

これはうまく整理しないと、モンスターの要素とゾンビの要素が文字通り「食い合って」しまうという意味で、どっちつかずになってしまう、やややこしい作劇の問題です。おそらく作中において、あえて濁すような言い回しもありますので、野暮に明快にしないほうがいいのかもしれません。しかしSDGsを定義した2030アジェンダにもこう書いてあるわけです。「すべてのゴールは統合され不可分」のです。せっかくですので、ハッピーエンドに終わるための持続可能なカガステル農業の未来に向けて、ここはSDGs的な最適解を目指しましょう。

カガステルが誰かにデザインされた、目的を持った生物であるかどうか、は結局濁されています。これもまためんどくさいです。しかしカガステル研究者だった親子、エメト・キーリオとフランツ・キーリオ父子が「人類の進化では」との仮説で20年以上、研究を進めてきたわけで、彼らの遺志をつぐことにしましょう。

カガステルは人類の進化であり、この物語はハッピーエンドである。と仮定します。

こういう先に未来(ゴール)を決めて、
今何すべきかを逆算していく、というのをフューチャーデザイン
、といったりしますね。
下の図はここから引用です。

さて、SF批評のマナーとして、最小の補助線でもって、この世界を解釈してみましょう。シンプルな仮説でよく説明できることが、解釈の正解かどうかは作者しかわかりませんが、それはそれとして良い考察である、とは言えるでしょう。

読後の雰囲気からしても、物語はハッピーエンドで終わってほしいものです。なのでラストシーンのあとは「持続可能なカガステル農業」がある、と願望をこめて想定してみます。

大フィクションとして
「カガステルは人体に窒素同化とリン回収濃縮、そしてセルフ防犯機能をもたせた農業のためのデザイナーズ感染症」という仮説をぶっこんでみます。つまり発症者は「農家へ強制的に転職させられた」のです。ウイルスによる染色体のリコンビナント、遺伝子導入、いろいろ想像できそうですが、「戦時下のため、カガステルへの発症リスク情報が粛清の対象になってきたことから、かなり情報の精度が低く、調査分析が荒い」ということが示されています。いろいろ考えつつも、作中で示される不確定な情報を鵜呑みにしすぎず、最小限の理解にしておきましょう。

性質の一部は(キーリオ父子研究者の予測に反して)遺伝するらしいということもふくめて、なんらかの変異原性をもつことが示されました。そして全員がカガステルになってしまえば(コルホーズやソフホーズのような?)それもまた一つのハッピーエンドなのですが、人間の遺伝子を再編・利用する性質から感染や発症に対してかなり個人差がある、と言えそうです。また「昆虫」とは無関係なこと。「野生」と「虫籠」の2パターンの生活史がありそう、とも語られています。

それでは参りましょう。まずはカガステルの生態について。

一読した当初、わたしは「人間はカガステルにとって遺伝資源」ではないかと考えていました。しかしデザイナーによって目的をもって作られたとすると、それは奇妙です。人間の不確かな遺伝資源をカガステルがわざわざ摂取し、利用する意義は見えません。もう一段階シンプルに考えましょう。人体は単純に、「リン資源」なのではないでしょうか。つまり劇中、かなり存在や描写が隠されていた「農業」および「弾薬」に、その理由を求めてみるのです。

壁で覆われた集落、集落間の移動に武装した隊列を組む、などなど、人口が密集した集落が点在していながら、農業、電気、上下水道など、インフラに関わる設定は、徹底的に情報が明かされませんでした。ポストアポカリプスもので、そのようなシステムが設定に明示され、ストーリー展開に利用されるのは、映画でいうとスノーピアサーブレードランナー2049マッドマックス怒りのデスロード(ここでは弾丸農場バレットファームで人間のウンコから弾薬を製造しているという公式設定がありました)など2010年代中盤から後半にかけてですので、2005年開始というカガステルにおいて、それを求めるのはズレてしまうかもしれません。オーバーテクノロジーになりすぎないよう、誠実に想像で補いましょう。

カガステルは人間を襲う、という設定から、すべての農業が無人ロボット化していた、と考えることができるかもしれません。そうすると古い兵器で戦闘していたり、コンピューターが古い、最先端なはずの研究所内があまりにアナログであることから、これは整合性が薄いと思われます。カガステルがいないにしても、人間が襲いに来てしまうでしょう。またアンチョビやサバなどの海産物らしきものが出てきていましたが、これが海が利用可能な状態にあるのか、それとも缶詰として備蓄されていたものを、人口が減った人類が掘り出して使っているのか、明確な描写はありませんでした。海の幸も期待しないでおきましょう。

また、カガステルが昆虫とは類縁関係がないとはいえ、「昆虫食」という言葉は劇中に出てきませんでした。あったのは第一巻106ページの商店街シーン、右下「BUG」という看板。これも昆虫食なのか、それとも虫対策用品店(つまり武器屋)なのか、わかりません。もう一つあったのは「ミートボールとヨーグルトソースと雑穀ピラフ」さて、何のミートでしょう。そうですね、カガステルです。「首の後ろに神経毒を打ち込む」と殺せるという意味でも、食利用のしやすい生物といえるでしょう。

そうすると単に人類同士が共食いするのと、どう違うのでしょうか。考えられるのは、何らかの付加的機能です。人類には到底できないことが、カガステルにはできる、ということです。「野良カガステル」の卵から孵った幼虫についても、人間より大きかったことから考えると、おそらく単なる従属栄養生物ではなく、独立栄養生物の側面も持ち合わせていた、と考えられないでしょうか。「発症」によって変形していった人間も、カガステルになるにつれ固く巨大になっていったように見えます。動物に必須で、硬い強靭な甲皮が必要で、その原料が環境中から得られる、つまり空気中の窒素から「ハーバーボッシュ法」を生体内で行って、人体に利用可能な窒素化合物を得ていた、と考えてみましょう。

窒素ではないですが、熱帯雨林におけるアリのバイオマスが、そこに住む哺乳類の合計より重い、という論文がありました。単なる捕食者ニッチではなく、農業やスカベンジャー(分解者)として、炭素循環の担い手としての役割があるだろう、との推測をしています。バイオマスや個体数でいうと人間を凌駕しているかもしれないので、カガステルには様々な生態系の機能を担ってもらいたいものです。

その中でも葉っぱを集め、キノコを栽培する農業を行うハキリアリについては、体内ではダメージの大きい、激しい化学反応を「体外」で行うことで、栽培したキノコに含まれるリグノセルロースを速やかに分解し、消化利用可能にしているそうです。カガステルは強靭な外皮の中でこのような「苛烈な化学反応を体内で」行える、画期的な家畜なのではないでしょうか。そうすると、あの資源が少ない世界で気兼ねなくドンパチ=火薬がふんだんにつかえることも理由がついてきます。火薬に利用する窒素化合物も、カガステル由来なのでしょう。虫籠に人間の軍が立てこもるのも納得です。

カガステルが昆虫と類縁関係がないことは明示されていましたが、その生態を考察する上で、アリはハチなどの社会性昆虫と比較して考察されていました。社会性昆虫にみられる「群知能」は、個体それぞれ単体では不合理な生理生態をしていても、群れとして適応度を高める行動をとるとき、群れにおいて最適な行動をとるよう個体の行動が調節されている、として分析します。カガステルの窒素同化の機能も、同様に考えてみましょう。

社会性「虫籠のカガステル」は、孤独性「野良カガステル」と異なり、女王からの「周波」でコントロールできていました。これが音波なのか電磁波なのか(つまり周波数)は明示されなかったものの、距離に従い減衰するところを考えると何らかの空間を伝わる波だったと思われます。

そうすると、待ち伏せタイプで飢えをしのぎ、散在する野良カガステルと違い、虫籠のカガステルの多くが、波の届く近くの人間という資源にたよりっきりになってしまうリスクがあります。これでは常に警戒行動をしている、群れのエサを賄うことが難しくなってしまいます。また、人類はカガステルの登場と同期して戦争状態になっており、人口の2/3が失われています。カガステルにとっても、減少しつづける人類だけをエサ資源としているわけにはいかないのです。また「虫籠」は構造物様のものも作っているようです。その強度が人類の鉄筋コンクリートに比べて強いわけでもなさそうなので、「戦争に勝てる構造物」を作るための分泌係としてのカガステル、というわけでもなさそうです。

また、完全な独立栄養生物であった、と考えてしまうと、人類を捕食する意義もなくなってしまいます。なので足りない栄養素を仮に「リン資源」としておきましょう。戦争によりリン鉱石は不足し、あるいは戦時中に資源国が海に流すなどの措置をして、地球上のリン資源は薄まり、利用困難な状態、と仮定してしまいましょう。カガステルの死体が蓄積している虫籠の地下は、肥料に適したグァノのような、蓄積したリン鉱石のようになっていることでしょう。カガステルのウンコの描写はありませんでしたので、人間を食べた後は虫籠に戻ってウンコをするのかもしれません。

そうすると「虫籠のカガステル」が行っている作業は「人間を苗床にした農業」に近いことがわかります。おぉ、再生中の森を守る番人としての蟲、と説明された風の谷のナウシカよりも「積極的に人間を狩りに行く」生態も説明できます。つまり人間と人間の感染者であるカガステルは、耐圧性の外皮で高温高圧の窒素同化を行い、「相互に狩り合う」ことで種内競争を行い、リン資源などの利用しにくくなった薄い元素を濃縮し虫籠に溜め込み、農業を発展させつつ、環境収容力の中に収まるよう、急速に個体数を間引きし、安定させようとしているのです。

ようやく全体像が見えてきました。

それでは「人類全体」ではなく個人として、独裁軍事政権の「都市」か、さっさとカガステルに発症してカガステル同士は戦わない「虫籠」か、それとも「野良カガステル」か。どれを選ぶのがいいんでしょうか。

カガステルになる資質のない主人公たちは人間のまま「野良」を選んだようですが、ハッピーエンドを狙うならば窒素化合物は弾薬にせずできるだけ肥料に、ウンコと死体は捨てずにリンを回収し、カガステルに狙われないよう自動化ロボット農業をどこかでスタートする、というのがよさそうです。

主人公たちの次のゴールは、都市間の人間同士の戦闘を(統一にせよ全滅にせよ)収束させ、火薬より肥料に窒素化合物を転用し、ウィズカガステルの未来を達成するためにも、「砂漠でも海でもない農耕適地を探すこと」と「兵器を改造した無人農業ロボットの開発」「都市間を移動する無人の肥溜め」ですね。「無人カガステル捕縛装置」なんかもいいかもしれない。そうすると、彼らカップルの仕事、役割は見えてきました。「無人ロボット農場の用心棒」です。無人となると戦時下ですからむしろ人間から狙われやすく、そこをさらにカガステルが襲いに来る事も考えられます。であればイリがカガステルを追い払うか、近所のカガステルを使役し、防御に利用する、キドウが作物泥棒を肥料に還元する。といった農地の用心棒職なら、食いっぱぐれることはないでしょう。

なかなかバイオレンスなカップルですが、紛争や収奪がまかりとっているあの時代の食糧生産は命がけなのです。カガステルも人間も、そろって畑の肥やしになってもらいましょう。環境収容力のみが、あの時代の生死を決めるのです。用心棒としての雇用を確保すれば、自分探しの旅をはじめていたアハトも定職につけそうです。

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ラオスに来て、見聞きするものを踏まえて、昆虫食の未来について考える日々なのですが
どうしても日本で昆虫食の未来、というと、昆虫を食べない人たちがマジョリティである社会の中で考えるしかありません。とても窮屈ですし、その窮屈という自覚がないと、自分の発想力の範囲で、未来を考えてしまうことの狭さにも気づくことができません。

最近ラオスに来る機会のない人たちとのコミュニケーションにおいて、「ピンときやすい」と感じられるのが、日本人にとってなじみの深い、魚食からの概念メタファーです。

メタファーというのは厳密な議論には向いてないので、こういった魚食からのメタファーを使うことで、昆虫と魚で異なる社会的背景、技術的背景を無視してしまう危険性があります。あくまで、「居心地の悪さを直感的に」共感してもらうためのツールで、そこに気づいてもらえたら、次の正確な議論に戻る必要があります。

ですが居心地の悪さ、というのを共感してもらえないまま進むと、他人事になってしまうので、「あちら側の問題」と認知されると、それはそれで議論が進みません。このへんはツールのきっぱりとした使い分けが必要になります。あくまでこれは共感のツール。ロジックの場面で使い続けるものではないです。

「昆虫食は見た目が問題だ」「すりつぶせばいいだろう」というアイデアの居心地の悪さを説明するときに使うのが、タコのメタファーです。

「いやいやそうではないだろう」と、たこ焼きに親しんだ私達は直感的にツッコめますし、このようなチームが魚食の未来を語ることに不安を覚えるのではないでしょうか。

ではなぜツッコめるのだろう、このチームにどうやったらこのツッコミが伝わるだろう?と考えると、そろそろロジックに戻ってきましょう。昆虫食に置き換えて、慣れ親しんだ人たちから、このチーム(つまり昆虫食の未来を考える私達)がどう見えるのでしょうか。

こういった比較のロジックは、昆虫食と他の食材の「安全」について考えるときにも役立ちます。
昆虫はダメ、なぜなら昆虫だから。ではトートロジーで何のロジックもないことはわかるかと思います。

その先に昆虫のどういった性質によるものなのか、という部分において、昆虫とその他の食材をフェアに比較する必要が出てきます。ところが、昆虫を日常的に食べない人たちだけのチームで物事を考えると、やはりバイアスがかかってしまい、そのバイアスのキャンセルは、究極的にはチーム編成を改善する以外に解決の方法はありません。

チーム編成を改善する下準備として、今のチームのバイアスを自覚するためのツールとして、限定的にこのメタファーによる説明を試みています。

「昆虫を食べたことがある人が少ないから」であれば種選別があいまいな「ちりめんじゃこ」も禁止にすべきではないか。(フグ混入のニュースがありました)

「採って食べる人たちと養殖は違う」のであれば、魚を買って食べたことのない漁村出身者は魚食文化から外していい?むしろ養殖技術の社会実装を目指すにあたって、豊かな魚食文化の先輩として教えを請うべきでは?

などなど、いろいろ一般向けのネタを仕込んでいます。

「命より大切なものがある」というのは生命倫理を学ぶ上で、なかなか直感にあわない難関でしょう。


ときに単なる延命より大事なものとして「保健」が挙げられます。
健康寿命、という言い方は聞いたことがあるのではないでしょうか。つまり苦痛の状態を長引かせず、健康に命を全うし、尊厳が保たれ、残された他者が後悔しないようにできれば、よりよいだろう、と。
他人の命を、その本人の意に反して短くすることはもちろんときに欲望をそそのかして延命することさえも、暴力になりうるのです。

しかしマイルドに、命を長くすることも、短くすることも私達は日々行っています。それは食事。
多くの人が、同じようで少し違う食事をそれぞれ行うおかげで様々な食事と健康の関係がデータとして蓄積し、統計学を駆使してその関係がわかってきました。

玄米などの未精製の穀物はいいらしい。牛肉や豚肉は食べ過ぎたらダメっぽい。酒は結局少量でもいいことがないらしい。野菜や果物はたべたほうがいい。コーヒーは適度に飲むとよい。


などなど。しかしその学術的な結論とは裏腹に、個人の食事の「成果」が個人の命の長短と直結するわけではないのが人生の、そして統計学の悩ましいところです。
どれだけ食生活を整えても、人は死ぬときは死ぬし病気になるときはなるというものです。こればっかりは仕方がない。後悔のないように生きましょう。


とはいえ、さも「正しい生活」のような体で行動を押し付けられると、自由を求める個人としては反発もしたくなるものです。体に毒であるとわかってもタバコを吸いたくなるし、酒も飲みたくなる。スナック菓子を食べながら映画を見たくなる。人間に許された自由のうち、愚行権もまた、答えの出ないものです。しかしその葛藤を「コメディ」として、説教臭くなく、沁みるように届けられたら。これはすごい。


ということで前置きが長くなりました。ダンジョン飯です。コメディ、RPGのパロディとして、一話目はスタートしています。

https://comic-walker.com/viewer/?tw=2&dlcl=ja&cid=KDCW_EB06000001010001_68


冒険者がダンジョンに潜るとき、食事(やウンコ)はどうしてるのだろう?HPやMPといったパラメーターは表示されているが食事ではなく魔法や(少しの薬草的な)アイテムで回復するし、宿屋に戻って一晩寝れば全回復。
そういったRPGの定番に対して、無粋なリアリティを押し付けてパロディ化する。そんな出オチの設定かのように、「ダンジョン飯」はスタートしました。

大サソリの水炊き」を作ったり、コイン虫によく似た虫を食べたり、連載当初からダンジョン飯とは長い付き合いですが、ダンジョンの生態系を最大限利用するにあたって昆虫食「も」当たり前に食材候補になる、という意味で象徴的な使われ方をしています。とはいえ人間に近い由来や姿をした魔物もいますので、そっちのタブーに比べると昆虫系はマイルドですね。


主人公パーティーはダンジョン攻略の中でレッドドラゴンに遭遇し空腹のため勝てないまま苦戦します。主人公の妹がドラゴンに食べられる寸前、最後の魔法でダンジョンの外へと逃されます。
残金も少なく、メンバーも抜ける中、「ダンジョンのモンスターを食べながら進もう」と主人公は突拍子もないことを言い出し、ダンジョンに住む変人、センシをダンジョン食の先人として新たな仲間に加え、死んだ妹を回収すべく、進むことにします。
ダンジョンの中で死んだ人の魂はその場に留まり、蘇生魔法があれば生き返すことができるからです。ここまでは、RPGのパロディといえるでしょう。


しかし途中から、ダンジョンの攻略が進むにつれ話の本筋はパロディどころではなく、本筋である「命と食」そして「欲望」の話であることが「攻略」されていきます。
あとから第一話を振り返ってみると、これまでのRPGの設定には「食」の要素がなかったために、生命の本質を既存のダンジョンだけで表現するには力不足だった、というわけです。そして話も佳境になってきました。

(以下最新単行本のネタバレをします)


「ダンジョンの主」が現れます。
当初、ラスボスらしき存在として登場したのは「狂乱の魔術師」でしたが、更に裏ボス「悪魔」の存在が明かされます。悪魔は人間の欲望を食べる存在で、ダンジョンを通じて異世界からはみ出し、人間の欲望をかなえ、現実世界を飲み込むことを欲望しています。
悪魔の目的達成のため、ダンジョン内では人間は「死ぬことができず」蘇生魔法によってまた生き返ることができてしまうのです。
悪魔とは無関係に、種族的に「しばらく死ねない存在」も明らかになりました。第一話ではエルフとして登場した、マルシルです。マルシルは人間とエルフの子供、ハーフエルフとして生まれたために成長が安定せず、子孫を残せない代わりに、1000年というエルフよりも長寿命が運命づけられています。
ラスボスらしき「狂乱の魔術師」を無力化した主人公、ダンジョン飯の発案者ライオスが悪魔にそそのかされて次世代のダンジョン主になるか、と思われたとき
悪魔はマルシルを選びます。そしてマルシルの欲望とは「みんなと一緒に長生きしたい」というものでした。マルシルの欲望がダンジョンの外へと漏れ出すとき、悪魔は世界を飲み込みます。
しかし1000年という長寿命に人間や多種族がさらされる世界はどういうものか、その「欲望」は度が過ぎたものではないか、とマルシルが仲間たちに諭されるシーンが、単行本11巻のクライマックスです。


俺たちはもうずっと前から寿命を延ばせる方法を知っているだろう?
バランスのとれた食生活。
生活リズムの見直し
そして適切な運動この3点に気をつければ、自ずと強い体はつくられる!!


これは別れの言葉です。
種族ごとの寿命の差を肯定し、超長寿命・子孫を残せないハーフエルフであるマルシルに寄り添い
そして全力で健康を保ち、寿命を全うして別れを告げる、やさしくて残酷な、最期の言葉なのです。

種族として寿命を全うし、100年後に、孤独に900年残される「仲間」に対する言葉。精一杯自由に、かつ健康に生き、残された仲間と笑って別れる最期の理想が語られているのです。
これこそが「保健」の理念であり真髄でしょう。「それ以上」を求める、あるいは他者に押し付けるのはもう「欲望」の領域になってしまう、と。

単行本ではここまでなので、じゃあ最初の目的だった妹の蘇生はどうすんだ、とかなかなかヘビーな展開は続きそうですが、単純で、アタリマエだけど、ちょっと窮屈で、直感に反することを、異世界でユーモアとともに伝える、という保健の語りの新しい展開をみることができました。今後も楽しみです。

そろそろ出国です。ひさびさの日本に帰国します。だいぶ国境の制限は緩和されたものの、まだちょっと面倒がのこっていて、ラオスから日本に入国する際、PCR検査の陰性証明書が必要になります。

ということで、メコン川の下流の方、車で移動して検査会場にいきますと、途中でふと見慣れないものが。

この形、給水塔ですね。上に草生えてても機能するもんなんでしょうか。ちょっと日射が遮られて涼しそう。

検査を受けた夕方、レンタカーは返却してしまったので、タクシーで行こうかと思っていたら、ホテルの近所でレンタサイクルが。たしかに行けない距離じゃないので、検査結果をもらいにチャリで行くことに。

無事陰性でした。では心置きなく給水塔へ。場所はここ。何らかの観光地かな、ともおもったんですが。

https://goo.gl/maps/zD8h848VdpM3VMTw7

ほんとうにただの廃墟。なんの看板もなく、カギがかかっていて中は見えない。

裏側に回ると、、、最近草刈りしたっぽいけどただそれは通路だからっぽい。ほんとこの給水塔についての情報がゼロ。

ん?

よくみると、、、?

蜂の巣だっ!オオミツバチでしょうか。かなりでかい。

大きめのミツバチがわらわらしています。かっこいい。いいものをみた。

ストリートビューで確認すると、2014年の写真にも、裏側にミツバチの巣っぽいシルエットがあるんですよね。いい場所だ。

やっぱり大きい構造物が日常の中にあるのはいいですね。混み合った電線も勢いがあって、サイズの対比になるので好きです。

久々の更新です。

最近は外に出せないタイプの問い合わせ対応がふえ、ラオスにいながら、ラオスに来たことがない相手に伝わる表現をいろいろと開発しています。その一方で、これまでのような自分が好きなように書きなぐり、書きっぱなしのブログを書く機会が薄くなっていました。

さて書いておきましょう。「銅鉄研究を超えていけ」という若い人へのエールです。

昆虫食がこれからの食料としても、有力な候補じゃないかと世界的に注目されたのがわずか9年前。2013年のことですが、それ以前からずっと、さかのぼると1890年ごろから「可能性」は指摘されつつ、本格的に養殖をベースに技術開発しようという機運になったのはごくごく最近のことです。なので「他の食材でやられてきたけど、昆虫でやられていないこと」がたくさんあります。まずはその差を埋めていこう、というだけでも今は、十分な研究になります。

「銅でやられていた研究を、鉄でもやってみよう」という態度を銅鉄研究と呼びます。アイデアとしては素材を変えただけで、研究としての発想の新しさはあまりない、という軽いディスりの意味で使われることが多いですが、とはいえ一つ一つの研究は軽んじられても、分野全体の体系化、網羅性にとって一つ一つの銅鉄研究の積み重ねは重要です。

「銅鉄研究」は実験作業の内容が同じでも、視点を変えるとその位置づけは大きく変わります。

「昆虫Aでやられていた生活史研究を、昆虫Bでもやる」という基礎昆虫学の論文に、昆虫食という新しいコンセプトを吹き込んだとたん、とても頑強な養殖基礎研究になるのです。ゾウムシの養殖がうまくいかなかったときも、その生活史研究の論文がとても役に立ちましたし、書かれた当初は産業化を全く意識していないわけですから、その論文において、都合のいいウソを書く必要がないわけです。安心してその記述が本当だろう、と鵜呑みにできる上質な情報になります。(もちろん再現できましたし、養殖マニュアル開発の役に立ちました)

つまり基礎研究という視点からは、銅鉄研究らしい網羅性が大事で、利害関係がなく誠実であるほうが好ましく、その効果は数十年後、へたすると数百年後に効いてくるので、公共性が高く、逆に言えば短期の収益化とは相性が悪いのです。

逆に、銅鉄研究的な視点から抜け出せないと、視野が狭くなり研究が苦しくなります。

他の食材でもやられてきたことを昆虫でも、というのはもちろん大事なのですが、そのような「昆虫でもやってみた」という研究をする中で、別のマイナーミート、たとえばダチョウ肉や植物タンパク、培養肉でも同じになってしまったり、比較してみると昆虫以外のほうがいいスコアを出していたりすると、結局「昆虫食の」研究の意味合いが薄まってしまうことがあります。

「それ昆虫じゃなくても言えることじゃない?」という疑念がわきおこると、あえて昆虫を題材にする必要があるのか、素材としては昆虫だけれど、追求したいテーマは「昆虫食」じゃないのではないか、と研究中に迷子になってしまう場面をよく見るようになりました。つまりは「視点」が不足しているのです。

私が今、挑戦している「視点」は、「なぜ昆虫が、昆虫食がいままで置き去りにされてきたか」という社会的背景です。分野としては開発学>国際保健学>国際栄養学>昆虫食という入れ子構造になります。

先進国である私たちは、より貧困な国に商売をふっかけ、土地や賃金を安く買い叩くことで、大きな富を得てきました。しかしこの格差がひどくなると、第二次世界大戦に代表されるような巨大な紛争や、そして今まさに進行中のウクライナやミャンマーといった、住民の人権を台無しにする紛争地帯を生み出します。すべての人権が守られることが理想なのですが、できるかぎり強い人権侵害を避けていこう、と作られた国際的な枠組みが国連で、その試行錯誤の中で体系化されたノウハウが開発学になります。

もちろん失敗もあります。支援すべき、という合意の中で「どうやって」支援できるのか、やるからには、同じ予算でより効率がよくするのはもちろんのこと、「Do no harm(せめ害悪は及ぼしてはならない)」という規範が、国際協力における原則となっています。

開発学の分野ではNGO(非政府組織)も重要な役割を果たします。「政府じゃない組織」なんて山ほどあるわけですが、ここでのNGOは政府の機能を補完する民間の立場のことです。たとえば2国間、多国間での政府開発援助(ODA)では、政府同士の合意によって大きな予算が動きます。それらが政府の別の思惑のために使われたり、予算は降りたものの現場の困っている人に届いていなかったりするときに、現場まで赴いて、その問題をあきらかにし、改善を提言するのが、NGOの役割です。

そして今、私はNGOの活動として、ラオスで昆虫養殖を進めています。これまでODAにおいても、もちろんNGOの活動でも、昆虫食はほとんど支援されてきませんでした。なぜなら先進国側が、支援できる食文化や技術をもたなかったからです。しかしその一方で、ラオスで活動する政府職員やNGOのスタッフに話を聞くと「たしかに昆虫をよく食べている」というのです。つまりNGOの立場から、ODAではピックアップできなかった「草の根」の技術開発を提案しているのです。

また栄養分野では、「食習慣をかえさせるのは大変だ」という話も聞きます。国際保健学において、栄養は近年可視化されてきたホットな領域です。2000年からのMDGs(ミレニアム開発目標)では、ワクチンなどの感染症対策がめざましい成果を挙げ、ラオスの田舎にも津々浦々まで、乳幼児の基礎的なワクチンが行き届いています。その結果、乳幼児死亡率は世界全体で劇的に低下しました。一方で、ワクチンだけでは予防しきれない、NCD(非感染性疾患)の影響力が見えるようにもなってきました。農村部の低身長、栄養不良はラオスでは長年解決されず、栄養教育などで「栄養をとろう、食べよう」と声かけをしても「お金がない、時間もない」と、定番の言い訳をされてしまい、行動変容に至らないのです。

「じゃあすでにみんなが食べているものをもっと食べられたらいいだろう」という素朴な視点が、昆虫食プロジェクトの基本アイデアです。採集してまでとりにいく、おいしくて希少な食材が、子育て中でも、妊娠中でも安定して食べられる、売れるのであれば、彼らの生活をほとんど変えることなく、乳幼児の栄養へのアクセスをより高めることができるだろう、と。幸いなことに、昆虫は彼らの採って食べる日常食のひとつで、売ると豚肉より高い高級食材でもありました。そこでマッチングしたのが、不足しがちな油、ミネラルを多く含む、ゾウムシだったのです。

もちろん困難は続きます。ラオスにも、日本にもスペシャリストがいなくて孤独です。タイ語で出版されている教科書もいまひとつ信用できないので、養殖技術をあらためて検証しつつ、効果のはっきりした技術をピックアップしました。また販売実験もしていますが、都市部の住民はもう昆虫を食べなくなってきているようで、ゾウムシを気持ち悪い、というひともいるようです。

とはいえ、この困難が「先進国が、途上国の伝統文化を劣ったものとしてプロモーションした結果の状況」と考えると、困難を理由にこの活動を止めるわけにはいかないでしょう。彼らの伝統文化が、一躍最先端の食材として認知されるチャンスなわけですから。このチャンスを「後進性の利益」といいます。

たとえばラオスでは固定電話の普及の前に、携帯電話の普及が進みました。なので固定電話網のコストが掛からず、田舎まで携帯が使える状態になりました。遅れているならば、遅れているからこそ、最短で先頭に出られる機会があるなら、利用したいものです。

さて、社会的背景をみる視点ができることで、昆虫食に関わる技術がどのように使われるべきか、「倫理」の枠組みがはっきりしてきます。彼らの栄養状態は両親が出稼ぎに出ると、悪化してしまうので、養殖は田舎で分散的に行われた方がいいでしょう。田舎の自給自足の飼料を使い、都市部とのアクセス格差に負けないような、農業組合ができていくといいでしょう。

逆に、はっきりとしたディストピアの未来も見えてきます。考えてみましょう。

効率のいい自動化の進んだ昆虫工場を、消費地である都市近郊や、先進国に輸出するための貿易港の近くに建設します。その建設に関わる作業員は、ラオスの田舎からの出稼ぎ労働者です。労働者本人だけでなく、村に残された子どもたちの栄養も悪化することが知られています。昆虫工場は、出稼ぎ労働者のような低スキル労働者だけで回せるよう、半自動化が進んでいましたが、今年はより自動化を進め、全ての労働者を解雇し、完全自動化を達成しました。「生産過程において労働者を搾取することなく、効率よく、完全自動で、栄養豊富で安価な昆虫」だと。多国籍企業の代表は宣言し、ESG投資の格付けがアップしました。

安価な昆虫は、農村部の市場をも侵食していきます。採りにいくより安い値段で、パッキングされた昆虫スナックは田舎にひろがってきました。その多国籍企業は「慈善活動」として、貧困地域に無料で昆虫を配り始めました。そうすると田舎の不衛生な昆虫は売れません。売れないのならばと、この地域では殺虫剤を買い求める農家が増え、収量はアップし、昆虫は減り、殺虫剤耐性昆虫だけは増え、新製品の殺虫剤は売れに売れ、環境への負荷は増大しました。もちろん殺虫剤を買えない世帯の人達は、これまで採れていた野生食材が減った、となげいていますが、貧困から抜け出せないほど怠惰だから、彼らは栄養が足りていないのです。自業自得でしょう。

といった感じです。(配合飼料やファストファッション古着でこういったことはすでに起こっているわけですが、それはそれとして)

ツムギアリの幼虫と成虫をわけるライフハック。蚊帳のきれはしをぐるぐる回すと、爪のある成虫が分離される。

さてそうすると、生物多様性条約、ABS条項との衝突が想定されてきます。生物多様性条約における「遺伝資源」には伝統知識も含まれますので、伝統的に昆虫を食べてきた人たちが昆虫食の継続や主体的な発展から追い出され、衛生的で効率的に、都市部や工業地域で養殖された昆虫に置き換わるとしたら、これまで伝統医薬が先進国製薬会社にフリーライドされたように、昆虫食も「文化の盗用」をされてしまうでしょう。

さて、じゃあどうすればいいのか、というのはもうFAOが前から言っています。とくに私から新しいアイデアを出すものではなくて、「先住民のフードシステム」が未来の食糧生産のモデルを提示するだろう、と見通しを立てています。

先住民の生活のうち、持続可能でなかった集落は滅びたわけですから、「利用の権利と責任が融合している」と評されています。いままで持続してきた生活の中から、これから未来に渡っても利用可能な賢い生態系利用、ワイズユースを見つけていこう、と。

そうすると、
いまの先進国の「効率化された農業」は、必ずしもエネルギー効率が高くないこともわかってきます。

資本効率、つまり資本を投入すると、確実に儲かる方向に技術を磨いてきた、これまでの農学のコンセプトでは、環境問題に対して効果的な技術とは言い切れません。もちろんその中から、ワイズユースとしてピックアップできるものもあるでしょうが、それは「その地域に住む人」が選べるようになるのがいいでしょう。つまり先進国が溜め込んだ、様々な自然科学の基礎研究や農学の応用研究の中から、「何を利用して生活するか」を、田舎にいる彼ら自身で選び、発展させていくのが、これからの「開発」なのです。これは「参加型開発」と呼ばれ、その中で研究が必要であれば、そこが研究現場になるのです。

熱帯感染症研究の中心地が途上国に移動したように、農学の研究の中心地も途上国へ移動する、と予言しておきましょう。温帯の先進国はこれから当分は温暖化するわけですから、プロトタイプは暑い地域で進めたほうが、未来のためでしょう。そしてもちろん、その恩恵をいち早く手にすべきは、「後進性の利益」を享受する、途上国になったほうが、世界全体の幸福を底上げするイノベーションになるのではないでしょうか。

最後に、話を銅鉄研究の話に戻しましょう。他の食材でやられてきたことを昆虫でもやる、という「銅鉄研究」をしながらも、新しいコンセプト、アイデア、そして時代背景を踏まえた理解と説明があれば、新しい視点の研究は、もはや銅鉄研究とは呼ばれないのです。つまり銅鉄研究を乗り越えると、その先にあたらしい研究の形が見えてきます。

そしてそのコンセプトやアイデアの源泉は、高等教育に恵まれた「困ってない」私達ではなく、「今、困っている人たち=マイノリティ」が持っています。彼らと一緒に地域課題解決を繰り返す中で、未来のための生態系利用「ワイズユース」の選択肢が開発されていくでしょう。そこに昆虫が使われる地域もあれば、使われない地域もあるでしょう。SDGsでも宣言されるように、社会、経済、文化、環境、それらが調和する形で、住民目線から多様な農業の開発と、地域最適化が行われていくことを期待します。

実はこれは、ラオスだけのことではなくて、日本の地域課題解決と昆虫研究とを組み合わせることで、新しいコンセプトで問題解決にチャレンジすることができるようになります。これまで「役に立たない研究」と大学からディスられてきた昆虫学研究者を巻き込むことで、見逃されてきた地域資源を見出すことができれば、もはや昆虫学は「役に立たない研究」ですらなくなってしまうのです。

いつか来るとは思っていましたが、まさかこのタイミングで来るとは、年度の変わり目の忙しい時期に、ヤツは来てしまったのです。医療情報の発信をするつもりはないので、あんまり名前を出さないように書いていきます。

発端は3月26日月曜日の朝、ラオス人スタッフからのslackへの投稿。「風邪症状があったので簡易キットで調べたら陽性だった。」とのこと。この迅速な判断、グッジョブです。翌日以降の村への出張をキャンセルし、事務所への出勤を避け、各自確認することに。最寄りの薬局にCovid-19(コヴィッドシップガーオ)テストがないか、と薬局で2つ購入し、テストしました。すると、、、

この時はうっすら陽性。自覚症状ほぼなし。

最近は夜間早朝が冷え込み、湿度も下がるので、寝起きらしい軽い喉の違和感があったものの、自覚症状はほぼなし。家禽学会のシンポジウムなどを聞きながら、原稿がかけるほどだったので無症状で終わるかな、と思っていたら徐々に咳と鼻水が出てきて、夜間には37℃ちょっとの発熱。タイレノールを飲むと寝つきが良くなる。ダルさは続く。

はっきりと症状が出始めたので3月29日に近くの県病院でPCR検査。陽性だと翌日に電話がかかってくるとのこと。

午後の検査開始は13時半とのことだが、14時過ぎになってようやく職員が到着。以前にちょっと見かけたブース式の検体採取装置も使われてない模様。塩ビパイプを組み合わせてラップを貼ったパーテーション。とても簡易。さすがラオス。パスポート見せたり電話番号を教えたり、パーテーションの横からやりとりしたりして、すでになんだか緩い。

3月30日、夜になっても電話がかかってこないのでこちらから電話をし、「電話が来なければ陰性」との話。本当に陰性?かと思い、買っておいたもう一つのキットを使って2回目のテスト。

その後夜中に電話があり、「やっぱ陽性だったわメンゴ」とのこと。このゆるさよ。

PCR検査と電話連絡までは無料だけど、診断書の発行にはお金がかかるという仕組み。これはいい仕組み。

31日までに発熱は終わり、その後のだるさも多少あったものの収束。発症後、13日隔離期間があるので4月第一週までは自宅隔離です。元気になってからの隔離がしんどい。

陰性だったスタッフに色々と買い物をお願いして、自炊生活をしていますが、前回のロックダウンの経験からかなり洗練されたものの、精神的な負荷が大きいですね。オンラインで日本としか繋がっていないので、この「現場」にいる意味とか意義みたいなのが十分に発揮できているか、不安になります。

ともあれ世界的パンデミックとはいえ、「医療資本」が少ない地域ほど、その影響を強く受けてしまう、という状況を肌身に感じています。日本とラオスで受けられたmRNA ワクチンのおかげか風邪症状以上の悪化はなく、 mRNAワクチンを受けていないラオス人スタッフの方が症状は重そうでしたので、ほんと守られているなと。