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ラオス発のアート「壺vid-19(コヴィッド19)」の良さを語りたい。

とてもいいものを買いました。まずはごらんください。


勝手に「壺(こ)vid-19」と名付けましたが、新型コロナウイルスをモチーフとした、壺です。ろくろでつくられた素焼きの、ふっくらと滑らかなツボの周囲に、執拗に取り付けられた「スパイクタンパク」は私たちの粘膜に食い込み、死を呼び寄せ、生活を邪魔し続けた憎き感染症を思い起こさせます。
日本で話題の、非常識に高価なご利益のある壺ではなく、日本円で1500円ほど。

ラオスの民芸品としてはだいぶ高価ですが、手間と焼成の難易度を考えれば安いぐらいでしょう。祈れば治る、といいった怪しげなものですらなく、語られるストーリーもとくになく、全くシンプルにお土産品、民芸品として「Covid-19」が壺になったのです。
この日の会場は県のODOP(1郡1品運動)展示会場。日本発祥の「一村一品運動」が、タイではOTOP、ラオスではODOPとして輸出され、各地の特産品の生産者たちが、出店し、地域の外へと売り先を模索する、という運動に発展しています。


ラオスでは各県の審査でODOPに認定されると、このようなスポンサーを集めて開催される合同展示会への出展が無料になるそうで、私たちが活動する郡からも、出展がありました。
しかし、首都があるビエンチャンに比べると出品物にバリエーションが少なく、ラオスの主要産業の一つである観光業に貢献できるような「売れ筋」を狙えているようにも見えません。つまりは生産者はいるものの、売るために必要な広告、営業、商品開発などの各種のコストが捻出できておらず、消費者からのフィードバックも受けられない状況にあるのです。
そうするとどうなるか、というと作り手側の事情だけで産品が決まるので、どうしても近い地域では「似たり寄ったり」になってしまうわけですね。ラオスの気候、民族、そして手に入る材料などが近いと、だいぶ離れた地域でも似た産品になってしまいます。これは日本の一村一品運動でも同じような問題がありました。こちらのほうは「1品だけ」ではなく同地域から何品も出せるようで、ゆるい方針がゆるい産品を生む余裕になっているようです。
8月に、ラオス第二の都市であるサワンナケート常設ODOPショップに行った時も似たような様子でした。

それぞれに磨かれた技術はあるものの、消費者ではなくて生産者側の都合が強い産品が並び、観光客のほとんどである「ライトな一見客」には今一つウケないものが並んでいます。私はラオスのためになれば、と思ってしまう身内マインドなので、ついつい買ってしまうわけですが、結局この後の発展が見込めない、という意味で、このままでは今一つ先がないわけです。
さて、このような背景を知ることで、このツボがいかに異質な輝きを放っているか、伝わるでしょうか。そう、ODOPにしては、「あまりにクリエイティブ」なのです。
会場の周囲の遊具には、どこかで見たようなアレなキャラクターが並び、非常にチープな雰囲気になっています。


ラオスでは「著作権」や「オリジナリティ」が尊重されたり尊敬されたりしない、まだまだの状況があります。オリジナルが公式にラオスに進出していないので仕方ないのですが、うまいこと先進国を真似られると成功者、ぐらいの感じです。
そして「やきもの」は、この地域でODOPに認定された伝統工芸。ラオスの粘土質の土はそのままレンガが焼けるほど陶芸に向いていて、そこから様々な民芸品がすでにあったのです。
しかし、、、壺vid-19以外の商品を見てください。わりとシュッとしてますね?トゲトゲもしていないです。

そう。これまでの民芸品のツボはもっとスムーズで、スリムな訳です。ここでラオス保健省が「脅し」のように使ってきた「新型コロナ怖いぞ通知」を思い出します。さっさとワクチンを打って、家で静かにしていろ、と、トゲトゲのコロナウイルスがやってくるぞ、と。


ロックダウンの通知、何回目のワクチンの通知、結婚式・祭りの中止、遊戯場の禁止、マスクの強制。
この壺の作者も、私たちと同じような状況だったのでしょう。家にいて、土はあって、ツボは作り放題、だけれど売りに行くこともできない。お客さんは来ない。
そんな閉塞的な状況の中「壺vid−19」は生まれたわけです。

恨みがあったのか、手持ち無沙汰だったのか、何かの遊びだったのか。作者はまだ追跡できていませんが、他の商品とは一線を画す、異常にクリエイティブで、手のかかる大型作品として、壺vid-19は生まれました。
聞いたところ2019年に第一号が製作され、これが2021年12月なので、おそらくこれ以前に1個か2個、年に1個ぐらいのペースで売れたものと考えられます。売れ筋ではない、との売り子の女性のいうことだったので、見せ物としてブースに人が集まる効果はあったっぽいとのことでした。そう、つまり「客寄せ」という「広告」として、初めてツボが機能した瞬間です。生産者が直接売りに来る、広告や営業という概念がほとんど見られないODOPにおいては大きな一歩です。
さて、私はこの壺を買ったわけですが、このラオスらしからぬ、突出したクリエイティビティを、言葉を尽くして高く評価したいわけです。
ふっくらと丸いシルエットの、スムーズな壺をろくろでまず作り、そこに接着のために深い傷をつけ、そして禍々しい手捻りの「スパイク」をつけていく。執念を感じます。そして私たちの粘膜に感じていた「ストレス」はきっとこんな形をしていたはずです。素朴な作風に普遍性を感じます。


それを独自の技法で塑像にした名も知らぬアーティストに、ラオスの現代アートの芽生えを感じるわけです。
逆に言うと、先進国のアーティストでは、ここまで普遍化したCovid-19そのものを素朴に表現することはもはや陳腐化してできないでしょう。ウイルスの実物が全世界中に届いたあとで、「普遍性」をもたせることには苦労しそうです。
しかしアートにおいても、もっとも強く、問題にさらされている現場から、好奇心に任せて新しいアイデアが湧いてくるようなそんなサポートができればいいなと、この壺を見ながら思います。
そうすると、本来の素朴な衝動としての「アート」に対して「アウトサイド」なのは、マーケットなのではないか?と思えてきます。アウトサイダー・アートとして区別を必要とするのは、アートを制作するしかなかった名もなきアーティストではなく、存命中に現金を手にしたいアートマーケットの方でしょう。「市場」は必ずしも正当性を担保しない、というのは残念ながら事実です。ラオスの田舎から、「つくりたかったアート」が素朴に出てきたことに対し、私は未来の希望を抱きました。

しかし未来の前に、わたしには直近の問題があります。「どうやって日本に持ち帰るのか?」トゲのある素焼きのデカイ壺、これは悩ましいです。アドバイスください。

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