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いい論文を教えていただきました。国際協力の倫理で言うとまぁ当たり前だろうなと思えることですが、その問題提起が生態学者の間から出てきた、と言う意味で、いいタイミングだと思います。

あくまで「整理」が目的ですので、政治的な提言は弱めですが、タイミングが大事。

地元の生態系を保全するような、優れた生態学的知識について、保全生態学者は高く評価しますが、地元の彼ら自身に「生態系に価値がある」という考えが普及しているから守られているのではなく、貧困や、選べる選択肢が奪われていたりといった痛みの伴う状況がある。そのとき「部外者」である先進国の研究者は、手放しで褒めたり、知見を論文で公開するだけで「全人類に貢献」したような気分になって、現地の貧困を温存するような態度でいいのか、それがフェアか、と言う批判的な視点が展開されていきます。

少し話はそれますが

ラオスにいても思うのですが、学会発表したり論文発表しただけでは、「フェアな貢献」にはなっていないのを実感してしまうわけです。高等教育はおろか、小学校はとりあえず卒業し、読み書きや簡単な計算も十分でない村人が多く、スマホも持たず、ネットにアクセスするにはその日の稼ぎの大きな割合を消耗しないといけない人たちが住む地域。

彼らから聞き取って得られた野生食材利用の伝統知識や、彼らが温存してきた食習慣にマッチさせることでモチベーションを保ってきた昆虫養殖普及プロジェクトの「成果」を、英語で「全世界」に公開したとしても、その情報にアクセスできたり、正しい情報とフェイクを見分けたり、それを理解した上で応用できるようになるには、先進国の高等教育を受けられる環境が必要なわけです。その環境がない人たちに「公開」された情報が公平に届いているか。

このバイアスによって、研究者の仕事が、「役に立つ」ものであればあるほど、貧困地域の知見を吸い上げて、エリート層の強化に使われる、単なる格差拡大のポンプになってしまいます。こういったことは「現場の実感」がないと、ここらへんの加害者感、無知ゆえに加害者になってしまう恐怖感、不公平感はピンとこないでしょうから、どうにか、昆虫食活動家としての立ち位置から、伝わりそうな表現を開発していこうと思います。

貧困と栄養に対する農業的介入の概念図

昆虫食=つまり豊かな自然を背景とする多様な野生食材利用すらも、貧困が温存している、と言えてしまうわけです。彼らには所得向上への欲求がありますので、現金の得られる商品作物や、都市部や隣国タイへの出稼ぎなどの行動の変化は起こりやすいですが、所得と栄養をバランスさせる発想がないので、私達の農業支援が、かえって栄養状態が悪化させてしまう、ということが起こりえます。

あらゆる問題に貧困が影響を与えている時、そしてその貧困が国際的に作り出され、力関係によって固定されている時、そこに何らかの立場=ステートメントを表明しないとSDGs=貧困撲滅を最大課題とした統合的な取り組みに対して、何か貢献するとは言えないんですが、「〇〇番に貢献するかもしれないからSDGs」といった、安易なキャッチフレーズとしての利用が多いだけでなく、そしてそこに批判的になるべき大学が、キャッチフレーズだけに乗っかって、何のアクションもしないのも気になります。

グリーンウォッシュの分類。

話を戻しましょう。

生態学者は、これまで伝統知識を素晴らしい、社会・生態系システムの未来の選択肢を示すものだと賞賛してきたのです。この論文による批判は、「何にもとらわれない、自由な発想」と自認してきた研究者のコミュニティに反省を迫るものでもあります。高等教育を受けた人たちだけの集団ゆえに、現地の彼らの貧困や困難な状況に気づけなかった、つまり(本来学問が目指すべき)総合的な理解を後回しにして、偏った集団が巨大なセキュリティホール=貧困の影響や、脱出に利用されるべき基礎的な知識の蓄積、を見逃してきたのでは、との指摘です。

このような研究者コミュニティにとって「居心地の悪い」ことをあえて指摘し、方針転換を促す、というのは新発見のような華やかさに欠け、コストの高い、その割に評価されにくい行為ですが、その居心地の悪さを飲み込んでこそ、その先の「バグを直した」研究分野の発展と、それを支える研究倫理が見えてくるだろう、というのがこの論文の方針です。

ある地域にとって、生態系というのは共有財ですので、個々人が最適に振る舞うことで、かえって共有財としての機能が失われてしまう「共有地の悲劇」という現象が(なにもしなければ自然と)起こると想定されます。世界的な社会問題、環境問題も、各国がそれぞれ、互いの調整をしないまま最適化を推進しすぎた結果、とも言えます。

多くの伝統的な生態学的知識(Traditional ecologial knowledge)は、共有地の悲劇を防止するための強力なフィードバックがあり、それらが伝統的に維持されるための要因を3つのジャンル(知識・社会・生態系)で整理できます。それぞれのジャンルにはシステムレベルによってパラメーター、フィードバック、デザイン(戦略?)、インテント(動機?)の4つのレバレッジに分けられる、とのことです。上に行くほど測定しやすく、下に行くほど測定しづらい深い階層、だそうです。それらのレベルに対して、TEKが「侵食」される状況についても整理しています。
Fig1-Aを日本語訳したのが下の図です。

FIg1Aの翻訳

TEKの知識そのものは個人に記憶されているものですが、それが失われないためにはフィードバックがあるはずでで、それらが存続していくための戦略的デザインや、内発的な動機も存在するだろう、と理解できます。
隣のジャンル、社会としてみると、文化の伝承という形で知識は温存され、地域における情報伝達様式(口伝や文字・図など)によって知識の散逸がおさえられ、社会関係によって持続可能な土地利用が保たれ、それらに対する願望があるゆえに、その行動が維持される、となります。

3番目、生態系の視点から見ると、高い生物多様性が保たれれていることが指標となり、自然資源利用が持続可能になることで、その集落は結果として長い歴史をもつことになり、これらの行動の変化は、生態系と社会の共進化によって緩やかに変化してきただろう、と考えられます。そのとき、自然のダイナミクスは、その地域の人間が生きるためのあらゆる選択肢を参照させてくれる存在といえるでしょう。

一番右の列、これらTEKが侵食される要因についても、同じくレバレッジで整理できます。人口動態の変化は知識や文化、生態系の安定性を崩すでしょうし、資源環境の危機、現代的な政策・制度の拡大はこれまでの生活を買えてしまうでしょう。そして何の防御もないまま資本主義が導入されると、生態系には手段敵価値しか認められなくなり(今すぐ役に立つものだけを評価する)長期的ではなく短期的な現金に注力してしまいがちです。

このような時間的変化は図Bで説明されます。

生きているTEKは現地の生活と生態系利用が統合され不可分ですが、それらが「開発」によって徐々に離れてしまい、最終的にはその地域の経済的な農業、あるいは産業化によって関係性が希薄になり、知識が失われると、最悪生態系そのものが破壊されてしまいます。

これらの整理から、著者らは4つの仮説(論点)を提案しています。
1,階層のミスマッチ

指標やフィードバックなどの、測定しやすい浅い階層と、戦略や動機といった深いレベルに不一致がある場合、一見TEKが守られているように見えても、彼らの行動がTEKを壊してしまうことがあります。(ラオスだと現金収入を求めて伝統的な農業を放棄する、母乳育児を諦める、などです)

2,外部からのルールやパラダイム

高いレベルの社会政治的文脈は地域の社会生態学系システムやTEKに悪影響を与えうるインセンティブやアイデアを押し付ける可能性があります。そうすると彼らは知識があるにもかかわらず、行動はそれとは異なる状況になります。例えばコミュニティが生態系と強く結びついていたとしても、個人が外的要因によって奨励された行動は生物多様性に害を及ぼすかもしれません。このような状況では、地元の人々が環境に有害であることがわかっている農業を使用する可能性があり、とくに経済的インセンティブがあれば、その変化をいとわないでしょう。地域コミュニティがTEKを維持するためには、(外部からのルールを排除するような)政策決定をすべきか、明らかにできるでしょう。(ラオスの農村部が、土地が痩せるとわかっていてキャッサバ栽培が猛烈に広がっている、という状況をみるとこんなかんじです。作れば作っただけ売れる、海外に買い取られる、という状況はある種のバブルみたいになっています。当然ですが、数年後に大不作が来るでしょうし、それを彼らも知りつつ、現金というインセンティブのために、そうしない、という選択肢が事実上、ありません。)

3,腐敗した動機

腐敗した政治体制は硬直化の罠(誰もが間違っているとわかりながら前例踏襲しかできない)に陥りやすく、人間の主体性と社会資本を劇的に損なわせる可能性がある。この仮設(視点)からの研究を行うことで、社会的イノベーションが地域社会の地kらを高め、人と自然、人と人のつながりを再構築するのに役立つ方法を引き出す。(強権的な政府では、立ち退きさせたい反政府的な地域や民族のいる土地にダムをつくったり植林をしたり、といった腐敗的な手法が使われることがあります。そのとき彼らの地域とのつながりを切断することに、何らかの政治腐敗を嗅ぎつけないといけないのでしょう。)

4,文化の希薄化

地元以外からの新しいコミュニティメンバーの移民、移動は地元のTEKを希薄化させることで、伝承に必要な文化的基盤を弱める可能性があります。この仮説(視点)によって伝統的な自然と人間のつながりや、TEKの伝承を失うことなく、革新と更新を可能にする方法を探る事が可能になります。

結論
TEKは生物多様性の保全と地元の生活の療法にとって高い価値がありますが、伝統的な知識の存在そのものをミームとしてロマンティックに美化するべきではない。なぜなら持続可能性ではなく、貧困の特徴である可能性があるからだ。上記の4つの仮説・論点は、TEKを持続可能な未来のために存続させる、公平な方法を見つけるための出発点となるかもしれない。

ということです。

ラオスにいると、うなずくことばかりなんですが、このようにロジックに強い研究者へ、居心地の悪い提言をするためのロジカルな仕事、というのは本当に大事です。研究者も含め、先進国の多くの人は自分より低待遇な人たちに関する、不都合な事実に目をつぶることへのインセンティブがあるからです。

逆に言うと、研究者は自身の研究分野を属人的なものではなく、総合的・体系的な知識へと発展するインセンティブがあるわけですから、格差や差別の解消を高いモチベーションとともに取り組めるはずです。やろう。

TEKを称賛する研究者たちが、その持ち主が、その知識を、将来に渡って間違って使わないよう、実践的な知識へと「開発」できるような継続的なサポートになっていくことで初めて「普遍的な知識」を「世界に貢献」する、と言えるでしょう。

逆に言うと、素朴にその知識を浅い階層で観察し、称賛して、「発見」しただけでは、そこに横たわる深刻な貧困に、気づかないインセンティブが働いてしまうのです。