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久々の更新です。

最近は外に出せないタイプの問い合わせ対応がふえ、ラオスにいながら、ラオスに来たことがない相手に伝わる表現をいろいろと開発しています。その一方で、これまでのような自分が好きなように書きなぐり、書きっぱなしのブログを書く機会が薄くなっていました。

さて書いておきましょう。「銅鉄研究を超えていけ」という若い人へのエールです。

昆虫食がこれからの食料としても、有力な候補じゃないかと世界的に注目されたのがわずか9年前。2013年のことですが、それ以前からずっと、さかのぼると1890年ごろから「可能性」は指摘されつつ、本格的に養殖をベースに技術開発しようという機運になったのはごくごく最近のことです。なので「他の食材でやられてきたけど、昆虫でやられていないこと」がたくさんあります。まずはその差を埋めていこう、というだけでも今は、十分な研究になります。

「銅でやられていた研究を、鉄でもやってみよう」という態度を銅鉄研究と呼びます。アイデアとしては素材を変えただけで、研究としての発想の新しさはあまりない、という軽いディスりの意味で使われることが多いですが、とはいえ一つ一つの研究は軽んじられても、分野全体の体系化、網羅性にとって一つ一つの銅鉄研究の積み重ねは重要です。

「銅鉄研究」は実験作業の内容が同じでも、視点を変えるとその位置づけは大きく変わります。

「昆虫Aでやられていた生活史研究を、昆虫Bでもやる」という基礎昆虫学の論文に、昆虫食という新しいコンセプトを吹き込んだとたん、とても頑強な養殖基礎研究になるのです。ゾウムシの養殖がうまくいかなかったときも、その生活史研究の論文がとても役に立ちましたし、書かれた当初は産業化を全く意識していないわけですから、その論文において、都合のいいウソを書く必要がないわけです。安心してその記述が本当だろう、と鵜呑みにできる上質な情報になります。(もちろん再現できましたし、養殖マニュアル開発の役に立ちました)

つまり基礎研究という視点からは、銅鉄研究らしい網羅性が大事で、利害関係がなく誠実であるほうが好ましく、その効果は数十年後、へたすると数百年後に効いてくるので、公共性が高く、逆に言えば短期の収益化とは相性が悪いのです。

逆に、銅鉄研究的な視点から抜け出せないと、視野が狭くなり研究が苦しくなります。

他の食材でもやられてきたことを昆虫でも、というのはもちろん大事なのですが、そのような「昆虫でもやってみた」という研究をする中で、別のマイナーミート、たとえばダチョウ肉や植物タンパク、培養肉でも同じになってしまったり、比較してみると昆虫以外のほうがいいスコアを出していたりすると、結局「昆虫食の」研究の意味合いが薄まってしまうことがあります。

「それ昆虫じゃなくても言えることじゃない?」という疑念がわきおこると、あえて昆虫を題材にする必要があるのか、素材としては昆虫だけれど、追求したいテーマは「昆虫食」じゃないのではないか、と研究中に迷子になってしまう場面をよく見るようになりました。つまりは「視点」が不足しているのです。

私が今、挑戦している「視点」は、「なぜ昆虫が、昆虫食がいままで置き去りにされてきたか」という社会的背景です。分野としては開発学>国際保健学>国際栄養学>昆虫食という入れ子構造になります。

先進国である私たちは、より貧困な国に商売をふっかけ、土地や賃金を安く買い叩くことで、大きな富を得てきました。しかしこの格差がひどくなると、第二次世界大戦に代表されるような巨大な紛争や、そして今まさに進行中のウクライナやミャンマーといった、住民の人権を台無しにする紛争地帯を生み出します。すべての人権が守られることが理想なのですが、できるかぎり強い人権侵害を避けていこう、と作られた国際的な枠組みが国連で、その試行錯誤の中で体系化されたノウハウが開発学になります。

もちろん失敗もあります。支援すべき、という合意の中で「どうやって」支援できるのか、やるからには、同じ予算でより効率がよくするのはもちろんのこと、「Do no harm(せめ害悪は及ぼしてはならない)」という規範が、国際協力における原則となっています。

開発学の分野ではNGO(非政府組織)も重要な役割を果たします。「政府じゃない組織」なんて山ほどあるわけですが、ここでのNGOは政府の機能を補完する民間の立場のことです。たとえば2国間、多国間での政府開発援助(ODA)では、政府同士の合意によって大きな予算が動きます。それらが政府の別の思惑のために使われたり、予算は降りたものの現場の困っている人に届いていなかったりするときに、現場まで赴いて、その問題をあきらかにし、改善を提言するのが、NGOの役割です。

そして今、私はNGOの活動として、ラオスで昆虫養殖を進めています。これまでODAにおいても、もちろんNGOの活動でも、昆虫食はほとんど支援されてきませんでした。なぜなら先進国側が、支援できる食文化や技術をもたなかったからです。しかしその一方で、ラオスで活動する政府職員やNGOのスタッフに話を聞くと「たしかに昆虫をよく食べている」というのです。つまりNGOの立場から、ODAではピックアップできなかった「草の根」の技術開発を提案しているのです。

また栄養分野では、「食習慣をかえさせるのは大変だ」という話も聞きます。国際保健学において、栄養は近年可視化されてきたホットな領域です。2000年からのMDGs(ミレニアム開発目標)では、ワクチンなどの感染症対策がめざましい成果を挙げ、ラオスの田舎にも津々浦々まで、乳幼児の基礎的なワクチンが行き届いています。その結果、乳幼児死亡率は世界全体で劇的に低下しました。一方で、ワクチンだけでは予防しきれない、NCD(非感染性疾患)の影響力が見えるようにもなってきました。農村部の低身長、栄養不良はラオスでは長年解決されず、栄養教育などで「栄養をとろう、食べよう」と声かけをしても「お金がない、時間もない」と、定番の言い訳をされてしまい、行動変容に至らないのです。

「じゃあすでにみんなが食べているものをもっと食べられたらいいだろう」という素朴な視点が、昆虫食プロジェクトの基本アイデアです。採集してまでとりにいく、おいしくて希少な食材が、子育て中でも、妊娠中でも安定して食べられる、売れるのであれば、彼らの生活をほとんど変えることなく、乳幼児の栄養へのアクセスをより高めることができるだろう、と。幸いなことに、昆虫は彼らの採って食べる日常食のひとつで、売ると豚肉より高い高級食材でもありました。そこでマッチングしたのが、不足しがちな油、ミネラルを多く含む、ゾウムシだったのです。

もちろん困難は続きます。ラオスにも、日本にもスペシャリストがいなくて孤独です。タイ語で出版されている教科書もいまひとつ信用できないので、養殖技術をあらためて検証しつつ、効果のはっきりした技術をピックアップしました。また販売実験もしていますが、都市部の住民はもう昆虫を食べなくなってきているようで、ゾウムシを気持ち悪い、というひともいるようです。

とはいえ、この困難が「先進国が、途上国の伝統文化を劣ったものとしてプロモーションした結果の状況」と考えると、困難を理由にこの活動を止めるわけにはいかないでしょう。彼らの伝統文化が、一躍最先端の食材として認知されるチャンスなわけですから。このチャンスを「後進性の利益」といいます。

たとえばラオスでは固定電話の普及の前に、携帯電話の普及が進みました。なので固定電話網のコストが掛からず、田舎まで携帯が使える状態になりました。遅れているならば、遅れているからこそ、最短で先頭に出られる機会があるなら、利用したいものです。

さて、社会的背景をみる視点ができることで、昆虫食に関わる技術がどのように使われるべきか、「倫理」の枠組みがはっきりしてきます。彼らの栄養状態は両親が出稼ぎに出ると、悪化してしまうので、養殖は田舎で分散的に行われた方がいいでしょう。田舎の自給自足の飼料を使い、都市部とのアクセス格差に負けないような、農業組合ができていくといいでしょう。

逆に、はっきりとしたディストピアの未来も見えてきます。考えてみましょう。

効率のいい自動化の進んだ昆虫工場を、消費地である都市近郊や、先進国に輸出するための貿易港の近くに建設します。その建設に関わる作業員は、ラオスの田舎からの出稼ぎ労働者です。労働者本人だけでなく、村に残された子どもたちの栄養も悪化することが知られています。昆虫工場は、出稼ぎ労働者のような低スキル労働者だけで回せるよう、半自動化が進んでいましたが、今年はより自動化を進め、全ての労働者を解雇し、完全自動化を達成しました。「生産過程において労働者を搾取することなく、効率よく、完全自動で、栄養豊富で安価な昆虫」だと。多国籍企業の代表は宣言し、ESG投資の格付けがアップしました。

安価な昆虫は、農村部の市場をも侵食していきます。採りにいくより安い値段で、パッキングされた昆虫スナックは田舎にひろがってきました。その多国籍企業は「慈善活動」として、貧困地域に無料で昆虫を配り始めました。そうすると田舎の不衛生な昆虫は売れません。売れないのならばと、この地域では殺虫剤を買い求める農家が増え、収量はアップし、昆虫は減り、殺虫剤耐性昆虫だけは増え、新製品の殺虫剤は売れに売れ、環境への負荷は増大しました。もちろん殺虫剤を買えない世帯の人達は、これまで採れていた野生食材が減った、となげいていますが、貧困から抜け出せないほど怠惰だから、彼らは栄養が足りていないのです。自業自得でしょう。

といった感じです。(配合飼料やファストファッション古着でこういったことはすでに起こっているわけですが、それはそれとして)

ツムギアリの幼虫と成虫をわけるライフハック。蚊帳のきれはしをぐるぐる回すと、爪のある成虫が分離される。

さてそうすると、生物多様性条約、ABS条項との衝突が想定されてきます。生物多様性条約における「遺伝資源」には伝統知識も含まれますので、伝統的に昆虫を食べてきた人たちが昆虫食の継続や主体的な発展から追い出され、衛生的で効率的に、都市部や工業地域で養殖された昆虫に置き換わるとしたら、これまで伝統医薬が先進国製薬会社にフリーライドされたように、昆虫食も「文化の盗用」をされてしまうでしょう。

さて、じゃあどうすればいいのか、というのはもうFAOが前から言っています。とくに私から新しいアイデアを出すものではなくて、「先住民のフードシステム」が未来の食糧生産のモデルを提示するだろう、と見通しを立てています。

先住民の生活のうち、持続可能でなかった集落は滅びたわけですから、「利用の権利と責任が融合している」と評されています。いままで持続してきた生活の中から、これから未来に渡っても利用可能な賢い生態系利用、ワイズユースを見つけていこう、と。

そうすると、
いまの先進国の「効率化された農業」は、必ずしもエネルギー効率が高くないこともわかってきます。

資本効率、つまり資本を投入すると、確実に儲かる方向に技術を磨いてきた、これまでの農学のコンセプトでは、環境問題に対して効果的な技術とは言い切れません。もちろんその中から、ワイズユースとしてピックアップできるものもあるでしょうが、それは「その地域に住む人」が選べるようになるのがいいでしょう。つまり先進国が溜め込んだ、様々な自然科学の基礎研究や農学の応用研究の中から、「何を利用して生活するか」を、田舎にいる彼ら自身で選び、発展させていくのが、これからの「開発」なのです。これは「参加型開発」と呼ばれ、その中で研究が必要であれば、そこが研究現場になるのです。

熱帯感染症研究の中心地が途上国に移動したように、農学の研究の中心地も途上国へ移動する、と予言しておきましょう。温帯の先進国はこれから当分は温暖化するわけですから、プロトタイプは暑い地域で進めたほうが、未来のためでしょう。そしてもちろん、その恩恵をいち早く手にすべきは、「後進性の利益」を享受する、途上国になったほうが、世界全体の幸福を底上げするイノベーションになるのではないでしょうか。

最後に、話を銅鉄研究の話に戻しましょう。他の食材でやられてきたことを昆虫でもやる、という「銅鉄研究」をしながらも、新しいコンセプト、アイデア、そして時代背景を踏まえた理解と説明があれば、新しい視点の研究は、もはや銅鉄研究とは呼ばれないのです。つまり銅鉄研究を乗り越えると、その先にあたらしい研究の形が見えてきます。

そしてそのコンセプトやアイデアの源泉は、高等教育に恵まれた「困ってない」私達ではなく、「今、困っている人たち=マイノリティ」が持っています。彼らと一緒に地域課題解決を繰り返す中で、未来のための生態系利用「ワイズユース」の選択肢が開発されていくでしょう。そこに昆虫が使われる地域もあれば、使われない地域もあるでしょう。SDGsでも宣言されるように、社会、経済、文化、環境、それらが調和する形で、住民目線から多様な農業の開発と、地域最適化が行われていくことを期待します。

実はこれは、ラオスだけのことではなくて、日本の地域課題解決と昆虫研究とを組み合わせることで、新しいコンセプトで問題解決にチャレンジすることができるようになります。これまで「役に立たない研究」と大学からディスられてきた昆虫学研究者を巻き込むことで、見逃されてきた地域資源を見出すことができれば、もはや昆虫学は「役に立たない研究」ですらなくなってしまうのです。

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出国前にようやっと、完成しまして、害虫展season2 への応募が完了しました。これから一次審査、二次審査へと進み、落選しなければ、落選しなければ、ですが、足立区生物園、箕面昆虫館でそれぞれ展示されます。TwitterでRTいいねをしていただくと残れる確率が高まりますので、応援よろしくおねがいします。

Insect "Cooked" Specimens 昆虫”調理”標本

害蟲展は第一回、昨年2020年の応募が初めてで、入選をいただくことができました。だれが害虫、という線引をするのか、そしてそれを更改するのはだれか。(それがラオス人であってほしい、という願望も含めて)ヤシオオオサゾウムシを題材に、写真作品を応募しました。

審査員の館野鴻さんから、「そのままじゃん!」と講評をいただきましたので、今度は「表現」を噛ませたものを作ろうと、立体作品にしました。手法は「液浸標本」です。

「昆虫標本ってうまそうじゃないな、、、」がきっかけです。昆虫は外形の特徴をかんたんに、そして長期に保存できることから、乾燥標本が主流です。バッタなどの一部の昆虫は退色してしまい、生きているときの彩りを残すことができません。凍結乾燥などの高価な機材が必要な方法も普及に困難があります。

またトノサマバッタは茹でると、含まれるアスタキサンチンがエビのように赤く色づき、その後茶色く退色してしまいます。佃煮などの保存食にする頃には茶色いのです。茹でたあと、冷凍してもしばらくすると退色してしまいます。エビぐらい赤くおいしそうなまま、保存できる方法はないか。

ということで海産無脊椎動物の液浸標本の方法を教えていただき、茹でたバッタの赤を保存する方法を模索しました。ようやく、まだまだ完成ではないですが、各調理法に応じて、退色脱色を最小限にした保存方法ができたので、既存の乾燥標本と並べ、「茹で」「揚げ」「混和」「成形」の4種の調理歴をもつ「昆虫”調理”標本」ができたのです。

これが昆虫の乾燥標本と生体が並ぶ昆虫館に展示されることで、乾燥標本が美味しそうに見えない、ということと「昆虫が美味しそうに見えない」ということは、必ずしも同一とは言えない、という新たな軸がみえることを期待します。

今回は「混和」「成形」という本来の標本、つまり外形の情報が残らないものも、あえて「標本」と称して並べました。果たしてあなたが食材として口にするのはどういう調理法なのか、乾燥標本の軸から少し外れて、昆虫調理標本を目の前に(審査が通過すれば、ですが)考えてみてはいかがでしょうか。

ようやく発売することになった「おいしい昆虫記」ですが、当初の予定ですと9月頃、発売日にはラオスに戻っているだろうと思っていました。

しかし、国境ルールは緩和されず、ラオス行きの経由便もなかなか見つからない。ラオス政府との調印式をオンライン開催することで、10月後半の渡航を目指しています。まさにニューノーマルです。

さて、そうしますと本の売上を伸ばす営業活動をしないといけません。オンラインイベントが1件、リアルイベントがもう1件、決まりましたのでお知らせします。

まず最速は9月12日昼から、リアルイベントの開催として
「飲食店のテイクアウトコーナーを借りる」という形をチャレンジします。

決済も時間指定もオンラインで事前にお願いすることで、混雑を緩和してリスクを下げていきます。私はマスクを着用し、手洗いを行います。お一人10分程度でしたらお話も可能ですし、TAKEOの店頭ですので、そのまま昆虫食品を購入して持ち帰ることもできます。ぜひぜひお立ち寄りください。

もうひとつはロフトプラスワンウエスト、平日夜19時半からのオンライン開催です。私とムシモアゼルギリコさんは東京会場で、配信は大阪から行いますが、オンラインですので世界中どこからでも参加いただけます。遠方の方、感染がやはり心配な方はこちらの完全オンラインもどうぞ。書籍が少しお得に買えるチケットもあります!こちらは宅配で書籍が手元に届きます。

告知ばかりですみませんが、著者としてできることを尽くすのみです。私だけでは決して完成しなかったものですので、手を貸してくれた方々へのお礼として、しっかり売れてくれることが恩返しになると思います。ぜひお力添えをよろしくお願いいたします。

読みはじめて休憩をはさみながら17時間ぐらいかかりましたが、ハードでヘビーな本です。

「未来の食」論において、なぜ地球全体のことを、先進国の賢い人が考えて、そしてみんなに広めるという植民地主義的な発想が拭えないのか、途上国のマイノリティは目に入らないのか、というラオスで感じた素朴な疑問について、フーディーという一種の社会的潮流が影響していることが示されていました。これは必読。

民主主義によって選ばれ、その他の民衆から一線を超えた「人気者」になりたいという卓越化の欲望が、更に社会格差を生み出しうる、あるいはもう生み出しているという現状まで、厳しく解析していきます。自称「フーディー」のヒトがこれを読んだら気を悪くするだろうな、という部分まで切り込んでいきます。こういったステークホルダーを「あえて配慮しない」ストイックな社会学的態度というのはすごいですね。

読後に私が感じたのが、これは「フーディー」に限った話なのだろうか、という部分です。

民主主義的な「フェアとされる」方法で資本主義的成功、つまりお金持ちになった有名人は、選ばれるまではおそらく格差に反発し、庶民に寄り添う姿勢を示しますが、次第に庶民では届かない富裕をアイコンとして「卓越化」してその影響力を、盤石なものにしていこうとします。

つまり新たな格差拡大の担い手となっただけで、格差是正に貢献したのかどうかすら、検証されていないのです。そしてこれがおそらく、多くの業界のスタンダードになっていますし、この風潮は続くでしょう。

さて、読書メモをもとにこの本を解読していきましょう。難解ですし、私がラオスで感じた疑問に答えるものでなかったら、読み終えることはできなかったでしょう。そんなハードな書籍が、翻訳で4000円という破格の安さで読めることに感謝です。

音楽の話は詳しくないんですが、ここからスタートします。なんとなく感覚はつかめますね。「音楽的雑食」と言われる場合、単純にどんな音楽もOKではなくって、本来「高尚」とされるもの、「低俗」とされるもの、「外」とされるものをあえて逸脱する、という評価があるんでしょうね。そして逸脱を評価の構造がないのに逸脱はしない。

「でたらめな味覚を持っているわけではなく、私は味覚の幅が広いのだ」いつか使おう。

非常に満足度の高い、情報密度の強い本でした。すごい。

昆虫食は未来の食糧問題を解決しない でも指摘したのですが、「未来の食糧問題」に関するテックがなぜ今の食糧問題と切断処理されているのか、未来の総量ばかりを気にして、現在の食料不均衡が悪化するのか改善するのかも曖昧にしてしまうのか。昆虫食でいうと昆虫の栄養を調べ、養殖に挑戦し、将来性を掲げる一方で、昆虫食文化のある地域の貧困と栄養不足に着目しないのか。

おそらく着目できているのは

社会学的背景のあるシャーロットさんアフトンハロランさんの二人ではないでしょうか。

学術的意義を社会の風潮にちょいと載せるときに、その風潮自体に偏見や差別が内包されていないか、吟味するための社会学的な批判は最初の課題設定のときに必要でしょう。なぜならその風潮に載せた「役に立つ」研究はそこに内包される偏見や差別の拡大再生産装置として機能してしまうからです。

自戒を込めてかなり注意。

そうすると私のこれまでやってきた昆虫の試食はフーディーの流れにある「文化的雑食」ではなく、「生物学的雑食」であり、社会から距離をとった孤独な時間が、この風潮に対する批判的な視点に気づくことができた、とまとめておきましょう。いやいやよかった。

ではこの先どうするか、という部分ですが、

「昆虫食を社会課題解決に利用できる技術をもつ集団」を作っていきます。

そして同時に、個別の社会課題解決の延長上に、未来に採用されるべきモデルが含まれている、と予言する仕事を同時にしていこうと思います。これを同時にしないと専門性にお金が落ちないからです。

逆に言うと、「今課題を抱えていない人」からは未来のソリューションなんて生まれないと強く言っておきましょう。

シビアさがないからです。未来の不確実性を自分のやりたいことをやるための資源として搾取してしまったほうが合理的です。そういう我田引水インセンティブが発生してしまいます。個別事例から精査して、拭い去るのはかなり難しいでしょう。

目の前の社会的弱者の課題解決が、未来の不確実性に対する備えになっていく、そんな好循環を作ろうとしています。「第一段階の成功」はすなわち目の前の社会的弱者「しか」救えないこと。これでも、もう十分です。国際協力としてこの部分を実装します。

さらに上乗せしたインパクトとして目指す「第二段階の成功」はそれだけでなく、社会全体の未来を提案する新たな選択肢が開発されること。でしょう。この部分に先進国が投資として実施すべきです。

昆虫食に対する知見や技術の不足は、昆虫食文化のあるラオスの足を引っ張っています。彼らの文化に応じた支援をするチャンスが失われています。しかし昆虫食文化をもたない先進国は、それに気づくチャンスすら失っています。

問題を問題と考えられない問題。これは深刻です。

そしてこの実装の現場は、私達先進国が、昆虫食というコンセプトを忘れてしまったことで失った選択肢の大きさをリマインドしてくれる現場なのです。

巨大な遺伝資源である昆虫について、食用になるというコンセプトが世界中に広まったら、生物多様性条約における「利益の配分」の概念すらひっくりかえってくるでしょう。薬用の遺伝資源はすでに考慮に入っていますが、

食用として育てやすく、美味しく、そして地域のバイオマスのディスアビリティを解消するような、そんな昆虫食の実装を各地域で実施し、そこで得られた知見を体系化していくことが、先進国フーディーの風潮に乗らない、文化の担い手をサポートしていく、真の意味での「昆虫食の参加型開発」となっていくのではないでしょうか。

この書籍のストイックさに影響されて、カタメ、キツメでまとめておきます。

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日本に戻ってラオスに行けないうちに、本が出ることになりました。
近頃ブログ更新が告知ばかりだったのはこの原稿を書いていたからです。

これまでいろんな昆虫食本の手伝いをしてきましたが、単著は初めて。

どうぞご予約を。

「ブログで書いた文字数に比べたら10万字なんて」と思って引き受けたことですが、めちゃめちゃつらかった、、、

一つの書籍として整合性を持たせるためには、数千字の「記事」を100個並べたところで本にはならないんです。(連載をまとめた書籍という体裁はありますが)そのため以前に指摘したことをあとから言及したり、まだ説明していないことを先に出してはいけなかったり、時系列をあえて逆順にすることで理解をなめらかにしたり、と今まで使ったことのない脳の部分を酷使する経験でした。

情報の整合性をとるため、ブログの記事単位で勘違いしていた過去のことを掘り返し、時系列を整理した年表を作り、そしてラオス編を放置していた味見スコアリングを整理し直し、それまで380種までまとめていた味見が、結局419種まで味見していたことが判明。その中から厳選10種を紹介しています。
(今回は図鑑ではないので、味見の全情報はまた別の機会に。)

締め切りも自分で設定することが難しく、一日何文字、という見積もりも当てにならず、編集の方々に尻を叩いてもらいながら、えんやこらせと書き続けました。こんな地獄を本を書いたみなさんは超えてきたのか、、、

そして本として仕上げるために、どうしても避けられなかったのが

「ブログで書いてこなかったこと」です。

このブログは私が書きたいこと、書いて楽しいことを垂れ流すことで、私の気分を良くすることが目的の文章たちです。そのため「何やってるかわからないヒト」と言われていました。昆虫食以外、何をやっているか。まぁ何もやっていなかったわけです。恥ずかしいのでそれを隠してきました。

大学院でのドロップアウト、就職の失敗、論文にならないだろう衝動的な昆虫食の試行錯誤、いろいろな理由でラオスに行くまでがなかなかしんどくて、思い出すことすらつらくて、書き続けることが大変でした。

そして私の喜怒哀楽。「興奮」と「好奇心」ぐらいしか認知できる感情がないもので、その時の情景を描写しても、いっこうに私の感情が思い出せないのです。なかなか困った性質をもっていることが、いまさらわかってきました。

しかし一般書ですから、著者の失敗、喜怒哀楽こそが物語のエッセンスです。ですが「ついに大成功」というカタルシスは、この本にはあまりないです。

12年、まるまる20代と30代のちょっとをかけてようやく、私に居場所のようなものが、徐々にできたかもしれないぞ、というささやかな変人の社会復帰のお話です。

2020年当初、書籍のお話をいただくちょっと前、こんな目標を掲げました。

「弱さを表明する」

今年前半、この書籍によって、やりきったとおもいます。

あつ森の記事でも、その「弱さの表明」の部分は意識して書いたつもりです。

玉置標本さんのインタビューでも。

やはり弱さを表明するには、失敗を表明しないといけない。弱さを表明できることがすなわち社会的強者の証明、みたいな使い方もしたくない。そのため弱さの表明が成功への「前フリ」ではなくて、人生そのものは、どちらかというと失敗のほうにある、ということが伝わればと思います。

私自身は結果的にヒトに恵まれたのでこの書籍ができたのですが、才能があったわけではなく、ただやり続けて止めるタイミングがなかっただけです。

あまり、みなさんに成功のカタルシスを届けることはできないのですが、失敗の続くほの暗い人生を続けるに当たって、

「よくわからないけれどやめそびれたこと」が、弱い依存先の一つになるかもしれない、という話になっているかと思います。

当初の初稿はあまりに卑屈で暗すぎて、編集のみなさんによって読みやすく、薄曇りぐらいの明るさに調整していただきました。そういう意味で「単著」といいながら私はあくまで責任著者であって、様々なクレジットによってこの本が完成したことを強調しておきたいと思います。

おもしろかったらクレジットのみなさんのおかげ、つまらなかったら私のせいです。

そしてなんと、イラストにじゅえき太郎さんが参加してくださいました。まだ直接お会いできていないのですが、生粋の虫好きで、昆虫食もOK、そしてリアルよりの虫も描きつつ、「ゆるふわ昆虫図鑑」という作風もできちゃうという、多才な方です。

ぜひまたお会いできることを楽しみにしつつ、ひとまず入稿が終わりました。実は結構前に予約できる状態だったのですが、入稿するまで自分自身が信じられず、告知をする勇気がありませんでした。

3月の帰国時は、7月にはもうラオスに帰っていると思っていたのですが、ラオスの国境制限と、次のJICAプロジェクトの開始の遅れから、8月後半から9月以降になってしまうのではないか!と戦々恐々としながら日本での時間を過ごしています。

発売日を日本で迎えることになるかもしれません。販促イベントなどへのお誘い、お待ちしております。

ラオスのほうも、今後のプロジェクトのあと、私がいなくてもシステムが回ることを目標の一つとしていたのですが、プロジェクト開始前に私の不在の数ヶ月が挟み込まれることになり、いろいろと不具合が見えてきました。

ラオスに戻れたら、ラオス人スタッフを育てつつ、そして外から新たな人材を取り入れながら、オンラインとオフラインのメリハリのついたプロジェクトに仕上げていこうと思います。

予約してください! おそらく当分の間、電子書籍化の予定はありません!

書籍の予約、というのは「商品である文章を読む前に買うことを決める」という意味でギャンブルでもあります。

Twitterで「予約しました!」とリプライがあるたびに、おもしろくない文章を売りつける詐欺を働いてしまうのではないか、とお礼を言いながらヒザがガクガク来ています。

そうか書籍を出すヒトはこんな気持ちなのか、と、新しいタイプのストレスを味わうことができました。

心の平穏はまだまだ先ですが、自ら招いたいろんなストレスを、自分なりにじっくりと味わい、おいしく人生をすすめる準備は、20代のころより整ってきたように思います。

先の害虫展のレセプションで、おそらく4年ぶりぐらいに絵本作家の舘野さんにお会いしたのですが、「なんか雰囲気がよくなった」と言われました。

昔はもっと張り詰めていたとのことです。自分では変化したつもりはないのですが、周囲が存在を認めつづけてくれたおかげかもしれない、と思っています。

ブログ共々、私の文章を今後ともよろしくお願いいたします。

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不動産サイトであることをすっかり忘れるほどの濃いインタビューです。文字数も画像も内容もてんこもり。そして最後に玉置さん製麺の、昆虫手料理パスタをいただきます。

製麺したパスタを送り、私が茹でて仕上げ、スカイプでその感想を語り合うというソーシャルディスタンス手料理、というのを実践してみました。コレがなかなか良い。パスタの詳しい話はこちらの記事も。

濃度と昆虫と製法を変えた玉置さん自家製パスタ。

バーチャルな関係性のスカイプに、共通となるリアルが一品追加されるだけで、リアリティがぐっと増すんですね。オンライン飲み会で同じコンビニの同じ商品をそれぞれ買うとシェア感が高まるのと同じだと思います。これはあたらしいオンラインの形。「お通し」的なものをシェアしてから通話に挑みましょう。

今回、依頼をいただいたとき、念頭にあったのは、ざざむしさんのこちらの濃いインタビュー。

こんなにやってくれる媒体があるのか!と驚き、私もやって欲しいと思っていたところなのでインタビューをお引き受けし、遠慮なくかなり濃い話をお願いしました。ガッツリ向き合ってくださった玉置さん、さすがです。ありがとうございます。

思い切り出し切った濃さなので大満足ですが、最近情報発信の濃度というものを、改めて考えさせられたので並べておきます。

1つ前の記事、あつ森の文春オンラインの記事は遺伝学部分の大幅なカットをすることで、ライトな層にも読まれたようです。

そのあと、好評とのことで、CREAという女性誌ウェブ記事にも転載することになりました。浮いてませんか?大丈夫ですか?

この記事のリサーチにかかった時間と労力はほんの一言、

「青のバラの遺伝型は、ゲーム内の混色と抑制のルールに則ると、黒と予測される遺伝型です」

CREA

に集約されています。リサーチの時間と記事の内容は比例しない。

おそらくですが、こうやって「薄めた」表現も大事なんだろうと思いますし、原液のままの「濃い」記事は全力疾走したような開放感があって私にとって気持ちよく、それもまた必要なのでしょうが、遠くまでリーチするのは薄めたほうがいいだろうというのもわかります。

原液の濃さには自信がありますが、その濃さは薄め方のバリエーションが豊富である、ということへの利点として、編集の方に注目してもらえるのかもしれない、と気づきはじめました。そうすると濃すぎるコンテンツでも適切に薄めたバリエーションを整えることで、社会に向けてアピールできていくのだろうなと。

あえて、何かの要素を封印して、それでも漏れ出してくるクセのある部分にエッセンスが宿るのではないかと。

もちろん体系的に全てのエッセンスをかき集め、学問として成立させたい気持ちではいるのですが、濃度を適切に選んでしてさまざま射程で届ける方法、私は苦手ですが、今回はさまざまな編集者に恵まれました。この濃淡の差をじっくり比較してもらえたらと思います。

単純に原液の濃さを競ったり誇ったりするのではなくて、薄め方のバリエーションとして適切な出力ができるよう、私の苦手な部分も含めた、新しいチャレンジがいくつか進んでいますので、またの機会に宣伝させてください。

要・急の情報があふれている昨今のネット社会において、不要不急の情報に飢えているみなさま、おまたせしました。

以前2017年に1から100までを作成しておいた、#いいねされた数だけ推し虫を発表する の続編をまとめました。101から200まで、完全ラオス編です。学名を間違えていたあの子も、訂正してくださった方がいたのに修正しきれずにいたあの子も、調べずに放置していたあの子も再度文献をあさり、まとめておきました。しっかり読めば140字×100ですのでそこそこの文字数楽しめます。また1から読むと日本での味見とラオスでの味見の意味合いの違いもわかってきますので、1から200まで、改めて再読をオススメしておきます。

101はやはりインパクトの大きかったキョジンツユムシからスタート。

ふんばりがすごい。

それではどうぞ! いいねが700ついてしまったので、律儀にやるならもっと味見をせねばいかんところですが。。。ひとまず今回のアップデートはここまでとします。

さて、バッタ博士、研究に邁進するため取材を断っていたとのことですが、久々のメディア登場です。解説は専門家におまかせするとして、「バッタの大発生を昆虫食で解決できないか?」といういくつかの問い合わせと、いくつかの質の低い似た主旨のクソウェブ記事(できないか?きっとできないでしょう。いかがでしたか?みたいなやつ)を見かけたので、私からは昆虫食のほうをフォローアップさせていただきます。

バッタ博士の先生にあたる田中誠二博士の解説に、私も一言だけ参戦させていただきました。有料記事ですがこちら。

基本的には「フードセキュリティの4要素+サステナビリティ」で説明できます。大発生したバッタはその地域の食料安全保障を低めてしまい、そのバッタの群れ自体も、食用としての魅力が乏しいことを説明していきます。

フードセキュリティの逆、フードインセキュリティはこのような状態と説明できます。

さて、バッタの大発生、

「被害地域では誰でも手軽にかんたんにバッタを手に入れられる」

「バッタは食用にもなり栄養もある」

という2つの事実から、「食べて解決できないか?」と推測するのは当然といえるでしょう。

しかし無からバッタは生まれません。バッタの大発生状態、というのは通常の食糧生産システムのバランスが崩れた状態を意味します。

大きな変化が起こっているのは、草本バイオマスと捕食者です。ここからリプで書きなぐったものを、あらためて整理しましょう。

私達の周りにも、そして大発生が起こっている現地でも、平時は陸上には野生種、栽培種ともにイネ科の草本がたくさんあり、バッタはそれをいつでも食べられるように見える状態です。バッタは草だけを食べて成長し、1頭のメスは飼育下で調子がいいと400個ほど卵を生みます。

ではなぜバッタの大発生がすぐにおこらないか、というと、バッタは自然界では人気の食材で捕食者が常に食べているからです。

カエル、鳥、トカゲ、クモ、その他様々な生物が食べまくるので、期待値でいうと1頭のメスから生まれた卵が次世代の卵を生むメスになるのは1頭、つまりほとんどの子供が食べられることを前提にメスは産卵しています。バッタの現存量は草の生産スピードよりも、捕食者による被食スピードで強く制限されています。

私達から見える草地は草が生い茂り、バッタはぼちぼちいるぐらい。虫取り網をもってお腹いっぱい食べるにはそのカロリー以上の運動をしないと、なかなか集まりません。

しかし、大発生のときはこのバランスが崩れます。(ここのデータが不足しているので、発生予察がうまくいっていないのです。バッタ博士などの基礎研究者が必要なのも大発生前のデータをとるためです)

何らかの理由によって捕食者が少なくなったり、草が急に増えたりすることが影響すると言われていますが、内戦などの影響もあり情報の精度にもムラがあり、日本の天気予報のように高精度の予測はまだできていないようです。

その結果、どこかの地域で小規模な集団が発生します。その時、その地域の捕食者は「腹いっぱい状態」になって、バッタは被食スピードよりも増殖スピードが上回っています。そのため捕食者が遅れて増殖するまでは、バッタはそこにある草を食い尽くすことができます。

この状態のバッタは仲間と会う頻度の高まりから密度を察知し、「相変異」という生理機能によって色と行動と形が変化していきます。これにより一度できた小さな群れを維持するため、通常の孤独な状態では不利益になるような集合性や、目立つ姿を獲得します。(相変異は密度上昇の結果として起こるため、バッタの大発生そのものは相変異を起こさないバッタでも起こります)

この相変異の不思議なところは、密度に応じて徐々に変化することです。逆に密度を下げると、徐々に緑のバッタに戻っていきます。この「変化することが(進化的に)保存されている」という部分が基礎研究的にめちゃめちゃおもしろいところですが、これもまたバッタ博士におまかせしましょう。

左が飼育下で高密度飼育したサバクトビバッタ。右が孤独状態で飼育したもの。

さて、昆虫食の話に戻りましょう。

発生予察をくぐり抜け、残念ながらバッタの大発生が起こってしまいました。いま、この地域の食糧生産はどのような状態でしょうか。

頼みの綱であった捕食者はおなかいっぱいです。そして大抵の捕食者はバッタよりも大型で、増殖の速度も遅いことが一般的です。そしてこのバッタは一日100km以上も移動していきます。つまり移動先の捕食者をも「おなかいっぱい」にして、その地域の草を食いつくせるようになってしまうのです。

飼育下で見た限りですが、サバクトビバッタは群生相でもあいかわらずおいしい草が好きです。まずい草にはほとんど口をつけません。

大発生した野生のサバクトビバッタの消化管内からは、毒植物が検出されています。これは「大発生で相変異として毒化する」という積極的な性質なのか、それとも「エサが足りないのでしゃーなしで食べている」消極的な性質なのか、2つの可能性が考えられますが、おそらく後者でしょう。

もし毒を溜め込んで捕食を回避する性質に変化するならば、大発生して捕食者がおなかいっぱいになっているその時よりも、お腹をすかせた捕食者から隠れてこっそり暮らす孤独な期間のほうが意義がある性質と考えられるからです。

そこから、大発生したバッタも、自由にエサを選択できる条件では相変わらずおいしい無毒な草が好き、と考えられますので、蓄養すればその毒をへらすこともできるでしょう。やってみたい。アフリカに行って蓄養の効果を食べ比べてみたい。おいしくなるのだろうか。

これらの蓄養バッタを食利用するには、毒抜きの効果を調べる品質検査、フン抜きによる食味の向上や脚にあるトゲの除去といったプロセシング、加工流通、保存の技術がまだまだ不十分です。昆虫食の技術開発は遅れていますので、これらの技術的な不十分を理由に、大発生バッタの食利用も難しい、という結論を導いた記事がほとんどですが、

これらはあくまで「技術」なので、バッタの基礎研究が必要なように、公的資金でバッタの利用技術が技術開発ができれば解決可能かとおもいます。なので、ここではもう一歩、未来に踏み込んでみましょう。

ICIPEではそのようなプロジェクトが2018年に始まったようですが、目立った続報があまり聞こえてきません。情報が入ったらまた報告します。

この先、公的研究機関への投資によって、大発生したバッタを蓄養し、毒抜きや品質検査をし、保存、流通する技術が整ったとします。それでも大発生の「解決」にはなりません。残念。

現場では何が起こっているか。

バッタによって引き起こされている、食糧生産システムのバランスの崩れが最大の問題です。食べられた草と、それによって育ったバッタはその地域では等価ではないのです。

一番深刻なのが「草の不足」です。現地の一般農家にとって、ウシやヤギは家畜でありながら「増える資産」です。売れば確実に現金に変えられ、そしてうまく育てば自動的に増えるので、貯金するよりも資産としての価値が高いようです。私達にはイメージしにくいのですが、「資産が餓死」します。すると経済的に破産してしまう個人も出てきます。(ちなみにですが、反芻動物に高タンパク質を食べさせると消化不良をおこしてしまいます)

そして農作物の「市場」にも大きなダメージが起こります。野菜や農作物も食べ、完食されないまでも傷つき、商品価値を下げていきます。そしてイネ科の主食も含めてその地域の植物を「すべてをバッタに変える」のです。住民はバッタを売ってバッタを買う経済しか許されず、「平等に」自然界からバッタを与えられた地域の市場は、はたしてその経済は回るでしょうか。

この「市場が回らなくなる」ことが、ウシやヤギのような家畜資産のない、より貧しい農家にとっても、大きな経済的ダメージになります。

当然経済状況の悪化は栄養状態にも直結します。そしてバッタ以外を食べられない状態というのは栄養のバランスが崩れがちです。バッタというタンパク源だけが過剰にある状態により、バッタに含まれない他の必須栄養素、脂質や炭水化物、ミネラルといった栄養素へのアビリティ(量)、アクセス(手に入りやすさ)、ユーティライゼーション(その場にあるバイオマスの有効利用)が圧迫されていきます。

そして大発生した群れそのものもまた、不安定です。すぐに移動し、いつかはどこかで収束します。つまりバッタの群れも食料として利用価値が低いのです。

大発生したバッタの群れは、食料安全保障でいうところのアビリティ(量)もアクセス(手に入りやすさ)も高いのですが、一方でスタビリティ(安定性)もありませんしサステナビリティ(持続可能性)も期待できません。周期性がなく、規模も予測できず、今回は70年に一度という大発生です。そして国境を無視し、一日100km以上も移動します。

「バッタによって無職になった人をバッタ採集に再就職させよう」というアイデアも、ここで頓挫してしまいます。いつ終わるかわからず、次は来年かも70年後かもしれず、そして国境を超えて移動する職場。就職したい人はいないでしょう。(研究者以外は。)

これにより、大発生バッタを安全に食べる技術がない現在でも、その技術が開発されたかもしれない未来においても、

一度大発生してしまうと手遅れで、「昆虫食はバッタの大発生を解決しない」という残念な結論になるのです。

ですが、ここは昆虫食ブログですので、どんどん蛇足をしていきましょう。

大発生バッタの弱点であった、スタビリティとサステナビリティを確保した状態の「管理された局所的な大発生」つまり養殖利用がバッタ問題を予防しうるかもしれないという、私の楽天的なもう一つの未来の話をしておきましょう。

ICIPEで動き始めている先のプロジェクトの概念図にもあったように、野生のバッタは不安定で周期性のないバイオマスです。台風や竜巻のように、強すぎて安定性のないエネルギーというのは、その総量が膨大でも使いみちがありません。そして食料というのはエネルギーよりも保存に向きません。

台風や竜巻は小規模で再現しても安定しませんが、バッタならば、その大発生を真似た「管理された小さい大発生」を利用することで、野生個体群の大発生にも貢献できる経済的な仕組みをつくれるのではないか、と想像しています。

実際に実験室で飼育してみると群生相のバッタは互いに寄り添い、しずかで、そして安定してよく増えます。家畜に適しているなぁと感心するほどです。実運用から考えると、インフラの整っていない、田舎の小規模農家に適していると考えています。つまりバッタの大発生で最も影響を受けてしまう層です。

大家畜のように一度解体すると食べきるか冷蔵庫にいれないと保存できなくなるデメリットもなく、一口サイズで草さえあれば常温で維持でき、毎日少しずつ食べることもできます。養殖により、安定性が確保できる余地があるのです。

今回大発生したバッタは1000億から2000億頭と言われています。ざっと20万トンぐらいでしょうか。一年あたりの世界のニワトリ生産量は7800万トンです。もしバッタを食べる習慣がニワトリ程度までグローバルになれば、このぐらいを国際市場が吸収するのも無理ではなさそうです。

ただ、大発生は価格の混乱をもたらすので、バッタ養殖企業にとっての商売敵とも言えます。

そこでバッタ養殖企業が基礎研究者を雇い、もっと初期の段階で、企業のCSRとして、養殖のために確立された技術を使って野外のジビエであるバッタを買取り、殺虫剤と毒の検査をし、養殖のために開発した技術を転用することで、野生バッタを蓄養して販売するシステムを運用するのはどうでしょうか。住民は研究のために雇われた存在ではなく、「現金を得るために」野生のバッタを持ち込みます。そこに群生相の兆候があればやっと、基礎研究者を大発生の「前」に送り込むことができるのでは、と。

この企業により、これまで大発生のほとぼりが冷めるたびに公的研究機関から予算をカットされてきたバッタの基礎研究が安定し、持続可能になるのではないか、と妄想しています。

まとめましょう。

大発生してしまったバッタの群れは、バッタを食利用する技術が高まったとしても手遅れで、国際協力としての対応は、一般的な災害対応と同じで、被災者の生活再建を支援することが必要になります。

野生のバッタの群れを食利用するにしても、スタビリティとサステナビリティが低いことからバイオマスとしての利用価値が低く、野生の群れの食用化を、大発生収束の手段とするには至らないでしょう。

今後、バッタの養殖利用と産業化の運用次第で、バッタの大発生を予防するための持続可能なソーシャルビジネスに育つかもしれない、という将来の楽観論を個人的には期待したいところですが、

現状、大発生を予防するための能力と技術を昆虫食をまだもっていません。バッタを予測し、コントロールするには大発生の「前」の基礎研究が足りていないのです。

養殖利用するにしても、大発生予防のためにも、バッタ博士などの昆虫基礎研究者が長期に渡り、安定して研究できる環境をつくりましょう、とまとめておきましょう。

ラオスの村で食べさせてもらった野生バッタの串焼き、生態系の恵みですね。

ツマベニチョウ、Hebomoia glaucippe ラオスでもよく見るチョウなのですが。借家の庭で幼虫を初めてみました。以前にどこかの昆虫館で飼育されている幼虫をみて、この青い目付きの悪い眼状紋にときめいた記憶があります。

ラピスラズリのような眼状紋が美しい。

そして食べていたのが庭に生えていた木。ホストであるギョボクであることもわかりました。ラオスの亜熱帯の植物は私にとって分類が難しく、花がつく、実がつく、そして鱗翅目の昆虫が食うことで、かなり絞れるようになるので嬉しい発見です。しかしコガネムシ、お前は何でも食う悪食なので全然参考にならぬ。

そういえばツマベニチョウって毒があったような、と検索すると、猛毒イモガイと同じ神経毒を、幼虫の表皮と成虫の翅にもち、成虫の体には存在しない、という面白い論文がありました

気になるのは、やはり「茹でれば失活するのか」というところでしょうか。

低分子のペプチドは温度を上げても失活しにくい、と一般的に言われていますが、こちらはペプチドといえどもそこそこ大きそうですし、ウェスタンブロットで泳動できているのですから界面活性剤で失活しているのでしょう。イモガイの用途は「刺して」使うタイプですが、こちらは「食べられて」何らかの影響を及ぼすタイプなので、注意が必要です。とはいえヤモリとか普通に食べてるようですが。

こちらに来ると「何らかの毒は持っているけれどそれが効く濃度か」という部分が意識されます。なんらかの防御システムをもっていない植物、動物などない、という感じです。厳しい生存競争だ。

低温調理などで「75℃1分相当」を計算する式が公開されていましたが、界面活性剤による失活なども茹で時間とか温度で計算できないものでしょうか。

チラリと見える青い目。

さて、、、、食べてみようと思ったのですが、、、、死にました。

葉脈に沿って隠れている。

糸を吐き始めたので蛹化するのかと思い、様子をみてきたのですが、蛹化することなく死にました。幼虫の体表と、成虫の(体でなく)翅にのみ局在するのですから、蛹が最も安全なのでは?との期待がありました。しかし。

次回ツマベニチョウを見つけたら迷わず味見すると心に誓いました。早く来い来いツマベニチョウ。

 

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ブルキナファソで研究中のシャーロットさん、新しい論文をだしました。すばらしい。そして私達の活動とも関連するものです。食用昆虫が、「栄養」だけでなく「収入」の面からもフードセキュリティに貢献していることを鮮やかに示しています。本当にこの方はすばらしく賢い研究者だなぁ。

前作は同じ地域のこの研究。農地に着目して、シアの葉は芋虫に食べられる冗長性をもつことから食べられても収量は減少せず、そのぶん日光が樹の下に届くのとフンが落ちるのでそこで栽培されている主食のトウモロコシがより育ちやすくなる、というもの。

農業生態系に昆虫が入ることが、必ずしも悪ではない、というコンセプトは、殺虫剤を使うことを前提とした慣行農業と、殺虫剤をあえて使わない(旧来の)有機農業の概念をゆさぶります。これまで、農薬の使用と収量はトレードオフであり、有機農業は収量の低下を招くので、トータルの環境影響評価をすると、むしろ慣行農業のほうが低環境負荷だ、という結果になってしまっています。

この論文は偶発的に発生する昆虫をも含めた上で「最大効率」になるポイントがあるかもしれない、という文化に根ざした新しい農業モデルを提案しています。もっと有名になってほしい論文。

今回はフードセキュリティの季節的変化を測定する方法として、「アクセス」について重点的に評価をする指標を使っています。名前はHFIAS Household Food Insecurity Access Scale (HFIAS) for Measurement of Food Access 

主観的に本人が感じている変化をインタビューするという形式上、そもそもが「緊急時の」フードインセキュリティを測定する方法で、通常時と比較して食材へのアクセスが変化したかどうかを質問紙調査で評価できます。とてもいい指標なのですが、これが私の活動するラオスでどうか、そしてこの現場であるブルキナファソでも本当にそれでいいのか、といった指標と現場のマッチングについての考察の話はあとの方でしましょう。

そして、フードインセキュリティのうち、昆虫が貢献しうるのは「アクセス」なのか。それとも。という話も後半でしましょう。

こちらが質問の内容。

Feelings of uncertainty or anxiety over food (situation, resources, or supply);
▪ Perceptions that food is of insufficient quantity (for adults and children);
▪ Perceptions that food is of insufficient quality (includes aspects of dietary diversity, nutritional adequacy, preference);
▪ Reported reductions of food intake (for adults and children);
▪ Reported consequences of reduced food intake (for adults and children); and
▪ Feelings of shame for resorting to socially unacceptable means to obtain food resources

http://www.fao.org/fileadmin/user_upload/eufao-fsi4dm/doc-training/hfias.pdf

訳しますと

  • 食物への不確実性や不安(状況・リソース・供給)食物が量的に不十分であるという認識 (大人と子供向け)。
  • 食品が質的に不十分であるという認識 (食事の多様性、栄養の妥当性、嗜好性)
  • 食物摂取量の減少の証言(大人と子供向け)。
  • 食物摂取量の減少の影響の証言(大人と子供向け)。および
  • 社会的に容認されない手段に訴えて食料資源を取得することに対する恥の感情

すると「不足の感情・認識」が存在することが前提になりますね。

まずはイントロから。「世界の半分以上のカロリーがグローバルサウス(南半球から中緯度の途上国)の小規模農家から生産されている」とのこと。しらなかった。ラオスだけでなく自給自足で現金収入がない農家、というのは同緯度帯に世界中にいるんですね。彼らをターゲットにするビジネスがBOPビジネスと言われて注目されているのも納得です。この小規模自給自足農家をどうやって「よく」できるかが今後の世界の動向を握っているといえるでしょう。彼らの価値観に沿う形でありながら、資本を集中させている「グローバルノース」からの投資を引き出すために。

「フードインセキュリティは様々な要素の複合であり、食の主権、教育、および女性や少数民族のエンパワーメントが重要であろうと指摘されている。」うん。やれている。

「隠れた飢餓」カロリー以外の栄養素の不足から栄養不良の状態にあり、20億人が今でも影響をうけている。「病的な低体重」の解消はずいぶんと進んだ印象ですね。

そこで昆虫食は女性の貢献が大きく、栄養的にも優れていて、高単価で収入にもなる。今回のシアの葉を食べる毛虫Cirina butyrospermi は9ヶ月の休眠(!)でしょうね)があるがそれをホルモンの注射や薬剤を溶かした水へ浸すことで打破する方法が見つかったが、商業的な養殖方法は確立されていない。

話はそれますが、この論文いいですね。掲載されたのは2015年に創刊された昆虫の食利用・飼料利用をテーマにした専門誌で、昆虫学的には、「この昆虫でやった」以外に新しい知見はないです。他の昆虫で確認できていた方法で、同じような方法で休眠打破が確認されたという銅鉄研究です。しかし、「この昆虫が広く利用されている文化があり、この地域の栄養不良と戦う栄養源として有用である」という背景をもつことで、これが銅鉄研究であっても価値の高い論文となります。ホルモンの直接注射だけではなく、薬剤を溶かした水に浸すというやり方まで試したことは、商業ベースの大量養殖を見越してのことでしょう。

「これまでの学問分野では評価しずらかったこと」を積極的に評価するという専門誌としての矜持を感じる掲載です。すばらしい。

話を戻しましょう。

この論文以前の2018年の論文で、この毛虫を含む食卓のほうがカルシウムとタンパクが優位に増加することが検証されています。(論文を取り寄せているので、彼らに不足するのが本当にカルシウムとタンパクなのか、というプロファイルが今後わかると思います)これも私達のラオスの方法論と一緒ですね。ラオスの場合、脂質、ミネラル、ビタミンAとなりました。アフリカとアジアで食文化が違うので、栄養不良の改善のために推奨される栄養素も、それに対応する昆虫も変わることが当然だ、と考えて良さそうです。ここのマッチングシステムそのものが、新しい体系的知識となるでしょう、と予言しておきます。そしてそのマッチング次第によっては、「昆虫でない」結論に至ったとしても問題ありません。

雨季(毛虫のシーズン)よりも乾季のほうが、食物への不足感(アクセス)が遠ざかる実感があることが示され、同時に収入における毛虫の役割も大きいこと、また販売量と民族性に関連はなかったが、家庭における消費量と民族性に関連があったことを示しています。

結論としては「毛虫がなければ、この地域の食料安全保障は低下してしまうだろう」とくくられています。

さて、読み解けたところで、こちらのラオスの状況に沿わせて比較してみましょう。

彼女らとの比較は私が「NGOとして」現地にいることです。つまり介入が前提。「なくなると困るだろう」という論文の結論とは異なり「介入するとよくなるだろう」という見積もりが必要です。

そういう意味で「ラオスの昆虫食文化にないことを作り出そうとしている」という点で、今やっていることは研究者とは言えません。証拠の捏造、とまではいかないですが、ラオスの昆虫食文化に栄養に貢献する要素があったとしても(これまでの栄養調査の結果からそれは言えそうですが)、まだまだ低身長を解消するまでには力不足である、この昆虫食文化をエンパワーする、という戦略になっています。

彼女らの論文は「なくなったら困るだろう」という方式で昆虫食文化の栄養と収入の両面から評価していますが、逆に言うと「どう介入すべきか」という結論をもたらすものではありません。この毛虫の養殖技術はまだまだ未確立であり、もし休眠打破をしたとしてもシアの葉がなければ成立しません。そしてシアの木が十分に育つには多くの時間が必要でしょう。また、シアの木と実、そしてイモムシの所有権は土地の所有者にある、という点で、貧富の格差を解消するにあたって障壁があるといえます。

また、ラオスの栄養状況で言うと、「栄養が不足すると感じていないことが問題」というなかなか困難な状況にあります。おそらく先の指標では、彼らがフードインセキュリティにさらされている、という自覚がない限り検出されないように思います。低身長について話を聞くと、(栄養ではなく)家系的に身長が低い、とか、栄養のある食材を採ったり買いに行く時間がない、お金がないから買えない、と言われます。

村の中でも比較的ビジネスに成功してもスナックや清涼飲料水を買い与えて子供が喜ぶからいい親だ、といった、栄養への意識の低さが大きな障壁となっています。今後、昆虫養殖を所得向上の動機でスタートする人が、栄養を一層ないがしろにしてしまう、というリスクをどうコントロールするかが求められています。

具体的には栄養教育とセットで養殖普及をしていく、という点と、この論文が注目している「アクセス」ではなく「ユーティライゼーション」(村に「ある」のに利用されていない、利用しにくいバイオマスをバイオコンバーターとしての昆虫が転換する)に着目している点で少しの戦略の違いがあります。

南北問題と言われる貧富の格差は、今後しばらく続く地球温暖化によって将来的に、「南の農業を北が逆輸入する」未来が見えています。しかし現状の途上国の農業は、労働搾取が横行しており、殺虫剤の使用も多く、とても現状の先進国に逆輸入できるクオリティではないでしょう。そこで、「北」の先進国の市場や文化ではなく「南」の彼らの文化をもとに技術を開発し、先進国にない食糧生産の新しいシステムを開発することは、将来の地球全体への恩恵へとつながり、そしてここで開発された知的財産を「南」が「北」に提供するという形は、先進国が途上国の遺伝資源を搾取してきたこれまでの反省を踏まえた生物多様性条約の理念にのっとるものになるだろう、と予測しておきます。

この論文をみて、私が今やっているのは「活動家」であって、かつてあこがれた「研究者」ではないんだろうな、と改めて思えました。適切な人に適切な虫をオススメする「蟲ソムリエ」として、誰に何をどうやってオススメするのか、日々考えて実践していきたいと思います。