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いい論文を教えていただきました。国際協力の倫理で言うとまぁ当たり前だろうなと思えることですが、その問題提起が生態学者の間から出てきた、と言う意味で、いいタイミングだと思います。

あくまで「整理」が目的ですので、政治的な提言は弱めですが、タイミングが大事。

地元の生態系を保全するような、優れた生態学的知識について、保全生態学者は高く評価しますが、地元の彼ら自身に「生態系に価値がある」という考えが普及しているから守られているのではなく、貧困や、選べる選択肢が奪われていたりといった痛みの伴う状況がある。そのとき「部外者」である先進国の研究者は、手放しで褒めたり、知見を論文で公開するだけで「全人類に貢献」したような気分になって、現地の貧困を温存するような態度でいいのか、それがフェアか、と言う批判的な視点が展開されていきます。

少し話はそれますが

ラオスにいても思うのですが、学会発表したり論文発表しただけでは、「フェアな貢献」にはなっていないのを実感してしまうわけです。高等教育はおろか、小学校はとりあえず卒業し、読み書きや簡単な計算も十分でない村人が多く、スマホも持たず、ネットにアクセスするにはその日の稼ぎの大きな割合を消耗しないといけない人たちが住む地域。

彼らから聞き取って得られた野生食材利用の伝統知識や、彼らが温存してきた食習慣にマッチさせることでモチベーションを保ってきた昆虫養殖普及プロジェクトの「成果」を、英語で「全世界」に公開したとしても、その情報にアクセスできたり、正しい情報とフェイクを見分けたり、それを理解した上で応用できるようになるには、先進国の高等教育を受けられる環境が必要なわけです。その環境がない人たちに「公開」された情報が公平に届いているか。

このバイアスによって、研究者の仕事が、「役に立つ」ものであればあるほど、貧困地域の知見を吸い上げて、エリート層の強化に使われる、単なる格差拡大のポンプになってしまいます。こういったことは「現場の実感」がないと、ここらへんの加害者感、無知ゆえに加害者になってしまう恐怖感、不公平感はピンとこないでしょうから、どうにか、昆虫食活動家としての立ち位置から、伝わりそうな表現を開発していこうと思います。

貧困と栄養に対する農業的介入の概念図

昆虫食=つまり豊かな自然を背景とする多様な野生食材利用すらも、貧困が温存している、と言えてしまうわけです。彼らには所得向上への欲求がありますので、現金の得られる商品作物や、都市部や隣国タイへの出稼ぎなどの行動の変化は起こりやすいですが、所得と栄養をバランスさせる発想がないので、私達の農業支援が、かえって栄養状態が悪化させてしまう、ということが起こりえます。

あらゆる問題に貧困が影響を与えている時、そしてその貧困が国際的に作り出され、力関係によって固定されている時、そこに何らかの立場=ステートメントを表明しないとSDGs=貧困撲滅を最大課題とした統合的な取り組みに対して、何か貢献するとは言えないんですが、「〇〇番に貢献するかもしれないからSDGs」といった、安易なキャッチフレーズとしての利用が多いだけでなく、そしてそこに批判的になるべき大学が、キャッチフレーズだけに乗っかって、何のアクションもしないのも気になります。

グリーンウォッシュの分類。

話を戻しましょう。

生態学者は、これまで伝統知識を素晴らしい、社会・生態系システムの未来の選択肢を示すものだと賞賛してきたのです。この論文による批判は、「何にもとらわれない、自由な発想」と自認してきた研究者のコミュニティに反省を迫るものでもあります。高等教育を受けた人たちだけの集団ゆえに、現地の彼らの貧困や困難な状況に気づけなかった、つまり(本来学問が目指すべき)総合的な理解を後回しにして、偏った集団が巨大なセキュリティホール=貧困の影響や、脱出に利用されるべき基礎的な知識の蓄積、を見逃してきたのでは、との指摘です。

このような研究者コミュニティにとって「居心地の悪い」ことをあえて指摘し、方針転換を促す、というのは新発見のような華やかさに欠け、コストの高い、その割に評価されにくい行為ですが、その居心地の悪さを飲み込んでこそ、その先の「バグを直した」研究分野の発展と、それを支える研究倫理が見えてくるだろう、というのがこの論文の方針です。

ある地域にとって、生態系というのは共有財ですので、個々人が最適に振る舞うことで、かえって共有財としての機能が失われてしまう「共有地の悲劇」という現象が(なにもしなければ自然と)起こると想定されます。世界的な社会問題、環境問題も、各国がそれぞれ、互いの調整をしないまま最適化を推進しすぎた結果、とも言えます。

多くの伝統的な生態学的知識(Traditional ecologial knowledge)は、共有地の悲劇を防止するための強力なフィードバックがあり、それらが伝統的に維持されるための要因を3つのジャンル(知識・社会・生態系)で整理できます。それぞれのジャンルにはシステムレベルによってパラメーター、フィードバック、デザイン(戦略?)、インテント(動機?)の4つのレバレッジに分けられる、とのことです。上に行くほど測定しやすく、下に行くほど測定しづらい深い階層、だそうです。それらのレベルに対して、TEKが「侵食」される状況についても整理しています。
Fig1-Aを日本語訳したのが下の図です。

FIg1Aの翻訳

TEKの知識そのものは個人に記憶されているものですが、それが失われないためにはフィードバックがあるはずでで、それらが存続していくための戦略的デザインや、内発的な動機も存在するだろう、と理解できます。
隣のジャンル、社会としてみると、文化の伝承という形で知識は温存され、地域における情報伝達様式(口伝や文字・図など)によって知識の散逸がおさえられ、社会関係によって持続可能な土地利用が保たれ、それらに対する願望があるゆえに、その行動が維持される、となります。

3番目、生態系の視点から見ると、高い生物多様性が保たれれていることが指標となり、自然資源利用が持続可能になることで、その集落は結果として長い歴史をもつことになり、これらの行動の変化は、生態系と社会の共進化によって緩やかに変化してきただろう、と考えられます。そのとき、自然のダイナミクスは、その地域の人間が生きるためのあらゆる選択肢を参照させてくれる存在といえるでしょう。

一番右の列、これらTEKが侵食される要因についても、同じくレバレッジで整理できます。人口動態の変化は知識や文化、生態系の安定性を崩すでしょうし、資源環境の危機、現代的な政策・制度の拡大はこれまでの生活を買えてしまうでしょう。そして何の防御もないまま資本主義が導入されると、生態系には手段敵価値しか認められなくなり(今すぐ役に立つものだけを評価する)長期的ではなく短期的な現金に注力してしまいがちです。

このような時間的変化は図Bで説明されます。

生きているTEKは現地の生活と生態系利用が統合され不可分ですが、それらが「開発」によって徐々に離れてしまい、最終的にはその地域の経済的な農業、あるいは産業化によって関係性が希薄になり、知識が失われると、最悪生態系そのものが破壊されてしまいます。

これらの整理から、著者らは4つの仮説(論点)を提案しています。
1,階層のミスマッチ

指標やフィードバックなどの、測定しやすい浅い階層と、戦略や動機といった深いレベルに不一致がある場合、一見TEKが守られているように見えても、彼らの行動がTEKを壊してしまうことがあります。(ラオスだと現金収入を求めて伝統的な農業を放棄する、母乳育児を諦める、などです)

2,外部からのルールやパラダイム

高いレベルの社会政治的文脈は地域の社会生態学系システムやTEKに悪影響を与えうるインセンティブやアイデアを押し付ける可能性があります。そうすると彼らは知識があるにもかかわらず、行動はそれとは異なる状況になります。例えばコミュニティが生態系と強く結びついていたとしても、個人が外的要因によって奨励された行動は生物多様性に害を及ぼすかもしれません。このような状況では、地元の人々が環境に有害であることがわかっている農業を使用する可能性があり、とくに経済的インセンティブがあれば、その変化をいとわないでしょう。地域コミュニティがTEKを維持するためには、(外部からのルールを排除するような)政策決定をすべきか、明らかにできるでしょう。(ラオスの農村部が、土地が痩せるとわかっていてキャッサバ栽培が猛烈に広がっている、という状況をみるとこんなかんじです。作れば作っただけ売れる、海外に買い取られる、という状況はある種のバブルみたいになっています。当然ですが、数年後に大不作が来るでしょうし、それを彼らも知りつつ、現金というインセンティブのために、そうしない、という選択肢が事実上、ありません。)

3,腐敗した動機

腐敗した政治体制は硬直化の罠(誰もが間違っているとわかりながら前例踏襲しかできない)に陥りやすく、人間の主体性と社会資本を劇的に損なわせる可能性がある。この仮設(視点)からの研究を行うことで、社会的イノベーションが地域社会の地kらを高め、人と自然、人と人のつながりを再構築するのに役立つ方法を引き出す。(強権的な政府では、立ち退きさせたい反政府的な地域や民族のいる土地にダムをつくったり植林をしたり、といった腐敗的な手法が使われることがあります。そのとき彼らの地域とのつながりを切断することに、何らかの政治腐敗を嗅ぎつけないといけないのでしょう。)

4,文化の希薄化

地元以外からの新しいコミュニティメンバーの移民、移動は地元のTEKを希薄化させることで、伝承に必要な文化的基盤を弱める可能性があります。この仮説(視点)によって伝統的な自然と人間のつながりや、TEKの伝承を失うことなく、革新と更新を可能にする方法を探る事が可能になります。

結論
TEKは生物多様性の保全と地元の生活の療法にとって高い価値がありますが、伝統的な知識の存在そのものをミームとしてロマンティックに美化するべきではない。なぜなら持続可能性ではなく、貧困の特徴である可能性があるからだ。上記の4つの仮説・論点は、TEKを持続可能な未来のために存続させる、公平な方法を見つけるための出発点となるかもしれない。

ということです。

ラオスにいると、うなずくことばかりなんですが、このようにロジックに強い研究者へ、居心地の悪い提言をするためのロジカルな仕事、というのは本当に大事です。研究者も含め、先進国の多くの人は自分より低待遇な人たちに関する、不都合な事実に目をつぶることへのインセンティブがあるからです。

逆に言うと、研究者は自身の研究分野を属人的なものではなく、総合的・体系的な知識へと発展するインセンティブがあるわけですから、格差や差別の解消を高いモチベーションとともに取り組めるはずです。やろう。

TEKを称賛する研究者たちが、その持ち主が、その知識を、将来に渡って間違って使わないよう、実践的な知識へと「開発」できるような継続的なサポートになっていくことで初めて「普遍的な知識」を「世界に貢献」する、と言えるでしょう。

逆に言うと、素朴にその知識を浅い階層で観察し、称賛して、「発見」しただけでは、そこに横たわる深刻な貧困に、気づかないインセンティブが働いてしまうのです。

ハライチのあの感じですね。

今回の話と関係ない画像。

近頃、自由研究や大学レポート、アイデアコンテストなどで昆虫食の情報収集を進めている若い人たちから相談に乗る事が増えてきました。小学生だったら「考えて、実際に昆虫を料理して食べてみた」という結論でじゅうぶんに大団円なのですが、真面目な高校生や、大学生になってくると、アレ、となにかに行き詰まってしまった生徒、学生さんからの相談が来ます。はい、正しいです。

そこで専門家として、なにか助け舟を出せればいいんですが、「専門家もいいと言ってくれました」みたいな自説を補強する無茶な大団円をもたらすのは教育に良くないですし、外部の専門家からお墨付きをとってこれたこと、そのものがレポートの評価を高めるような度胸試しに使われても不本意ですので、まぁ心を鬼にして「途中から昆虫食、関係なくなっちゃってない?」と脳内の澤部さんとともに、指摘するようにしているわけです。

よくあるやつを再編集しました。

「①昆虫は牛肉より環境負荷が低い
②昆虫をもっと食べれば世界が救われる。
③もっと食べるようになるべき。
④しかし見た目が悪いのでみんな食べない。
⑤すりつぶしたらいいだろう。
⑥すりつぶしてたべてみました。
⑦このレシピに専門家のコメントください!」

次は私の副音声とともにお送りします。

①昆虫は牛肉より環境負荷が低い(一部の昆虫について、事実)
②昆虫をもっと食べれば世界が救われる。(過度な推測)
③もっと食べるようになるべき。(推測から規範を導くには弱い。食の主権とぶつかる。)
④しかし見た目が悪いのでみんな食べない。(今食べている人たちを知らないか、仕方なく食べているだろうという偏見)
⑤すりつぶしたらいいだろう。(すりつぶした商品があるのを知らない?なぜ売れていない?調査不足)
⑥すりつぶしてたべてみました。(体験は重要だけど個人の感想と結論との関係が不明。それで何がわかる?)
⑦このレシピに専門家のコメントください!(え、お墨付きを出せと?ノーコメントじゃダメ?)」

この⑦だけに好意的に加担してしまうのは、①から⑥の「探求」の流れを肯定してしまうわけで、専門家としてどうにもアレなわけです。単純に文献調査として、昆虫食の背景が調査されていない、のです。ここで私は心の中の澤部さんと一緒にコメントします。

「これって、昆虫関係なくなっちゃってない?牛肉より環境負荷が低いマイナー食材、全部そうじゃない?」と。

「①〇〇は牛肉より環境負荷が低い②〇〇をもっと食べれば世界が救われる。③もっと食べるようになるべき。④しかし見た目が悪いのでみんな食べない。⑤すりつぶしたらいいだろう。⑥すりつぶしてたべてみました。⑦このレシピに専門家のコメントください!」

たとえば藻類、ウサギ、ティラピア、ダチョウ、なんかも当てはまるわけですね。
じゃあメジャーな大豆とニワトリでもいいじゃん、と。

昆虫食をテーマにしたはずなのに、ほかの食材を当てはめても同じになる結論が導かれる、とき、
気にしなくてはいけないのが「結論ありきでスタートしていないか」ということです。どんな情報も、結論を補強するためだけに調査をするのであれば、最初から調査しないほうがまだマシです。

昆虫が美味しそうだから食べてみたい。
これで十分な理由ですし、しっかり自分にとってのあたらしい食材として、取り組めばいいと思います。

「昆虫を食べる自分を肯定してほしい」だとすると、心細い気持ちはわかります。
食べているときに冷たい視線を投げかけられることも、キモいと否定されることもたくさんあるでしょう。そうすると「なぜ心細いか」「昆虫をこれまで食べてきた人たちに私達も冷たい視線をなげかけていないか」自己反省する必要があります。そのために後ろ盾がほしい、お墨付きがほしい、その気持は痛いほどわかりますが、だからこそ、自分の願望に沿うだけの情報では、何もいえないのです。

自分自身という主観的な体験はとても大事な1ケースです。それを等身大の1ケースとして、拡大解釈もせず、過小評価もせずに向き合うこと、については社会学が大きな蓄積があります。が、社会学って高校生までで手にする「社会」とは大きく違うので、これってどう伝えればいいんでしょうかね。

社会学の研究者、岸政彦先生が、「ゴシップ的消費」について、注意喚起をする一節があります。

調査の前から、調査者自身が「ものの捉え方」をバージョンアップする気がなく、結論が決まりきっている社会調査は、やらないほうがマシ、となってしまうわけです。

さて、結論ありきで自説を補強するための「調べ学習」をしている皆さん、行き詰まったら、チャンスです。自分自身の「ものの捉え方」が変わる瞬間は、私にとっても、これから昆虫食に関わる教育を考えたい私にとっても、大きなチャンスです。ぜひ「行き詰まったときこそ」相談してください。

最期にヒントです、「昆虫食ならではの状況」というのは、どこを探ると何が出てくるでしょうか。

昆虫は自然環境にたくさんいるということ、つまり昆虫学です。昆虫そのものの性質、生態系における昆虫の役割をもとに、未来の食糧生産を考えてみましょう。

昆虫を食べる文化は長い研究の蓄積があります。分野は人文地理学です。日本のような先進国で、なぜ手作業で手間のかかる昆虫食が、一部地域で残ってきたか、マイナーサブシステンスで検索してみましょう。

FAOの昆虫食「以外」の食糧問題についても読んでみましょう。どんな未来が必要だと言っているか、調べてみましょう。Google翻訳でいいので、FAOのサイトを読んでみてください。

「昆虫が置かれている状況」「昆虫食が置かれている状況」この2つをしっかり見つめることで、「昆虫食ならでは」の色んな発見があると思います。みなさんの柔軟な発想に期待します!

あの終わり方がハッピーエンドだと仮定した場合、

どう考えても食べてる。少なくとも間接的に利用している。と考えるしかないんですあの世界は。
さらにいうと、「昆虫食」という発想すらないかもしれない。「持続可能なカガステル農業」を考えたとき、すでに唯一の食料源がカガステルになっている可能性すらあります。

さて突然、無茶ぶりでトクロン先生から振られていたネタを、一年ぶりぐらいに回収します。頭の隅に引っかかっていたのが、ついに結論を得ました。

カガステルの考察の難しさは、公式設定としての「語り部」がいないことです。(進撃の巨人では現在公開可能な情報、という第4の壁を破るような公式設定が、読者を誘導する役割を果たしていましたが)
そして一見すると、ポストアポカリプス的な世界ゆえに、語られる状況がもうすぐ滅亡することを示しているのか、それとも再生の途上なのか、それとも持続可能な定常状態なのか、判断する要素が少ないことです。

またその原因が「大戦」と「カガステル」という2つの破局を経験した後なので、今の状況がどちらの破局の結果なのか、判別しにくい。さらにもう一つ、ラストまで「総括」がなかったことで、なんとなくいい雰囲気のラストシーンのあと、どんな未来が待っているのか、暗示されていないことです。コレは困った。

劇中のカガステルは、モンスター・パニックの要素と、ミリタリーアクションの要素、そして(人間がモンスターに変わるという意味での)ゾンビものの要素を併せ持つわけですが、そこに「食」と「生殖」がからまってくると、ジャンル別だったものが、全体のシステムの関係性や持続可能性について読者が気になってきてしまう、という状況にあります。私もフードシステムが気になってしまって、本命のストーリーが頭に入らなくなることがありました。

これはうまく整理しないと、モンスターの要素とゾンビの要素が文字通り「食い合って」しまうという意味で、どっちつかずになってしまう、やややこしい作劇の問題です。おそらく作中において、あえて濁すような言い回しもありますので、野暮に明快にしないほうがいいのかもしれません。しかしSDGsを定義した2030アジェンダにもこう書いてあるわけです。「すべてのゴールは統合され不可分」のです。せっかくですので、ハッピーエンドに終わるための持続可能なカガステル農業の未来に向けて、ここはSDGs的な最適解を目指しましょう。

カガステルが誰かにデザインされた、目的を持った生物であるかどうか、は結局濁されています。これもまためんどくさいです。しかしカガステル研究者だった親子、エメト・キーリオとフランツ・キーリオ父子が「人類の進化では」との仮説で20年以上、研究を進めてきたわけで、彼らの遺志をつぐことにしましょう。

カガステルは人類の進化であり、この物語はハッピーエンドである。と仮定します。

こういう先に未来(ゴール)を決めて、
今何すべきかを逆算していく、というのをフューチャーデザイン
、といったりしますね。
下の図はここから引用です。

さて、SF批評のマナーとして、最小の補助線でもって、この世界を解釈してみましょう。シンプルな仮説でよく説明できることが、解釈の正解かどうかは作者しかわかりませんが、それはそれとして良い考察である、とは言えるでしょう。

読後の雰囲気からしても、物語はハッピーエンドで終わってほしいものです。なのでラストシーンのあとは「持続可能なカガステル農業」がある、と願望をこめて想定してみます。

大フィクションとして
「カガステルは人体に窒素同化とリン回収濃縮、そしてセルフ防犯機能をもたせた農業のためのデザイナーズ感染症」という仮説をぶっこんでみます。つまり発症者は「農家へ強制的に転職させられた」のです。ウイルスによる染色体のリコンビナント、遺伝子導入、いろいろ想像できそうですが、「戦時下のため、カガステルへの発症リスク情報が粛清の対象になってきたことから、かなり情報の精度が低く、調査分析が荒い」ということが示されています。いろいろ考えつつも、作中で示される不確定な情報を鵜呑みにしすぎず、最小限の理解にしておきましょう。

性質の一部は(キーリオ父子研究者の予測に反して)遺伝するらしいということもふくめて、なんらかの変異原性をもつことが示されました。そして全員がカガステルになってしまえば(コルホーズやソフホーズのような?)それもまた一つのハッピーエンドなのですが、人間の遺伝子を再編・利用する性質から感染や発症に対してかなり個人差がある、と言えそうです。また「昆虫」とは無関係なこと。「野生」と「虫籠」の2パターンの生活史がありそう、とも語られています。

それでは参りましょう。まずはカガステルの生態について。

一読した当初、わたしは「人間はカガステルにとって遺伝資源」ではないかと考えていました。しかしデザイナーによって目的をもって作られたとすると、それは奇妙です。人間の不確かな遺伝資源をカガステルがわざわざ摂取し、利用する意義は見えません。もう一段階シンプルに考えましょう。人体は単純に、「リン資源」なのではないでしょうか。つまり劇中、かなり存在や描写が隠されていた「農業」および「弾薬」に、その理由を求めてみるのです。

壁で覆われた集落、集落間の移動に武装した隊列を組む、などなど、人口が密集した集落が点在していながら、農業、電気、上下水道など、インフラに関わる設定は、徹底的に情報が明かされませんでした。ポストアポカリプスもので、そのようなシステムが設定に明示され、ストーリー展開に利用されるのは、映画でいうとスノーピアサーブレードランナー2049マッドマックス怒りのデスロード(ここでは弾丸農場バレットファームで人間のウンコから弾薬を製造しているという公式設定がありました)など2010年代中盤から後半にかけてですので、2005年開始というカガステルにおいて、それを求めるのはズレてしまうかもしれません。オーバーテクノロジーになりすぎないよう、誠実に想像で補いましょう。

カガステルは人間を襲う、という設定から、すべての農業が無人ロボット化していた、と考えることができるかもしれません。そうすると古い兵器で戦闘していたり、コンピューターが古い、最先端なはずの研究所内があまりにアナログであることから、これは整合性が薄いと思われます。カガステルがいないにしても、人間が襲いに来てしまうでしょう。またアンチョビやサバなどの海産物らしきものが出てきていましたが、これが海が利用可能な状態にあるのか、それとも缶詰として備蓄されていたものを、人口が減った人類が掘り出して使っているのか、明確な描写はありませんでした。海の幸も期待しないでおきましょう。

また、カガステルが昆虫とは類縁関係がないとはいえ、「昆虫食」という言葉は劇中に出てきませんでした。あったのは第一巻106ページの商店街シーン、右下「BUG」という看板。これも昆虫食なのか、それとも虫対策用品店(つまり武器屋)なのか、わかりません。もう一つあったのは「ミートボールとヨーグルトソースと雑穀ピラフ」さて、何のミートでしょう。そうですね、カガステルです。「首の後ろに神経毒を打ち込む」と殺せるという意味でも、食利用のしやすい生物といえるでしょう。

そうすると単に人類同士が共食いするのと、どう違うのでしょうか。考えられるのは、何らかの付加的機能です。人類には到底できないことが、カガステルにはできる、ということです。「野良カガステル」の卵から孵った幼虫についても、人間より大きかったことから考えると、おそらく単なる従属栄養生物ではなく、独立栄養生物の側面も持ち合わせていた、と考えられないでしょうか。「発症」によって変形していった人間も、カガステルになるにつれ固く巨大になっていったように見えます。動物に必須で、硬い強靭な甲皮が必要で、その原料が環境中から得られる、つまり空気中の窒素から「ハーバーボッシュ法」を生体内で行って、人体に利用可能な窒素化合物を得ていた、と考えてみましょう。

窒素ではないですが、熱帯雨林におけるアリのバイオマスが、そこに住む哺乳類の合計より重い、という論文がありました。単なる捕食者ニッチではなく、農業やスカベンジャー(分解者)として、炭素循環の担い手としての役割があるだろう、との推測をしています。バイオマスや個体数でいうと人間を凌駕しているかもしれないので、カガステルには様々な生態系の機能を担ってもらいたいものです。

その中でも葉っぱを集め、キノコを栽培する農業を行うハキリアリについては、体内ではダメージの大きい、激しい化学反応を「体外」で行うことで、栽培したキノコに含まれるリグノセルロースを速やかに分解し、消化利用可能にしているそうです。カガステルは強靭な外皮の中でこのような「苛烈な化学反応を体内で」行える、画期的な家畜なのではないでしょうか。そうすると、あの資源が少ない世界で気兼ねなくドンパチ=火薬がふんだんにつかえることも理由がついてきます。火薬に利用する窒素化合物も、カガステル由来なのでしょう。虫籠に人間の軍が立てこもるのも納得です。

カガステルが昆虫と類縁関係がないことは明示されていましたが、その生態を考察する上で、アリはハチなどの社会性昆虫と比較して考察されていました。社会性昆虫にみられる「群知能」は、個体それぞれ単体では不合理な生理生態をしていても、群れとして適応度を高める行動をとるとき、群れにおいて最適な行動をとるよう個体の行動が調節されている、として分析します。カガステルの窒素同化の機能も、同様に考えてみましょう。

社会性「虫籠のカガステル」は、孤独性「野良カガステル」と異なり、女王からの「周波」でコントロールできていました。これが音波なのか電磁波なのか(つまり周波数)は明示されなかったものの、距離に従い減衰するところを考えると何らかの空間を伝わる波だったと思われます。

そうすると、待ち伏せタイプで飢えをしのぎ、散在する野良カガステルと違い、虫籠のカガステルの多くが、波の届く近くの人間という資源にたよりっきりになってしまうリスクがあります。これでは常に警戒行動をしている、群れのエサを賄うことが難しくなってしまいます。また、人類はカガステルの登場と同期して戦争状態になっており、人口の2/3が失われています。カガステルにとっても、減少しつづける人類だけをエサ資源としているわけにはいかないのです。また「虫籠」は構造物様のものも作っているようです。その強度が人類の鉄筋コンクリートに比べて強いわけでもなさそうなので、「戦争に勝てる構造物」を作るための分泌係としてのカガステル、というわけでもなさそうです。

また、完全な独立栄養生物であった、と考えてしまうと、人類を捕食する意義もなくなってしまいます。なので足りない栄養素を仮に「リン資源」としておきましょう。戦争によりリン鉱石は不足し、あるいは戦時中に資源国が海に流すなどの措置をして、地球上のリン資源は薄まり、利用困難な状態、と仮定してしまいましょう。カガステルの死体が蓄積している虫籠の地下は、肥料に適したグァノのような、蓄積したリン鉱石のようになっていることでしょう。カガステルのウンコの描写はありませんでしたので、人間を食べた後は虫籠に戻ってウンコをするのかもしれません。

そうすると「虫籠のカガステル」が行っている作業は「人間を苗床にした農業」に近いことがわかります。おぉ、再生中の森を守る番人としての蟲、と説明された風の谷のナウシカよりも「積極的に人間を狩りに行く」生態も説明できます。つまり人間と人間の感染者であるカガステルは、耐圧性の外皮で高温高圧の窒素同化を行い、「相互に狩り合う」ことで種内競争を行い、リン資源などの利用しにくくなった薄い元素を濃縮し虫籠に溜め込み、農業を発展させつつ、環境収容力の中に収まるよう、急速に個体数を間引きし、安定させようとしているのです。

ようやく全体像が見えてきました。

それでは「人類全体」ではなく個人として、独裁軍事政権の「都市」か、さっさとカガステルに発症してカガステル同士は戦わない「虫籠」か、それとも「野良カガステル」か。どれを選ぶのがいいんでしょうか。

カガステルになる資質のない主人公たちは人間のまま「野良」を選んだようですが、ハッピーエンドを狙うならば窒素化合物は弾薬にせずできるだけ肥料に、ウンコと死体は捨てずにリンを回収し、カガステルに狙われないよう自動化ロボット農業をどこかでスタートする、というのがよさそうです。

主人公たちの次のゴールは、都市間の人間同士の戦闘を(統一にせよ全滅にせよ)収束させ、火薬より肥料に窒素化合物を転用し、ウィズカガステルの未来を達成するためにも、「砂漠でも海でもない農耕適地を探すこと」と「兵器を改造した無人農業ロボットの開発」「都市間を移動する無人の肥溜め」ですね。「無人カガステル捕縛装置」なんかもいいかもしれない。そうすると、彼らカップルの仕事、役割は見えてきました。「無人ロボット農場の用心棒」です。無人となると戦時下ですからむしろ人間から狙われやすく、そこをさらにカガステルが襲いに来る事も考えられます。であればイリがカガステルを追い払うか、近所のカガステルを使役し、防御に利用する、キドウが作物泥棒を肥料に還元する。といった農地の用心棒職なら、食いっぱぐれることはないでしょう。

なかなかバイオレンスなカップルですが、紛争や収奪がまかりとっているあの時代の食糧生産は命がけなのです。カガステルも人間も、そろって畑の肥やしになってもらいましょう。環境収容力のみが、あの時代の生死を決めるのです。用心棒としての雇用を確保すれば、自分探しの旅をはじめていたアハトも定職につけそうです。

そろそろ出国です。ひさびさの日本に帰国します。だいぶ国境の制限は緩和されたものの、まだちょっと面倒がのこっていて、ラオスから日本に入国する際、PCR検査の陰性証明書が必要になります。

ということで、メコン川の下流の方、車で移動して検査会場にいきますと、途中でふと見慣れないものが。

この形、給水塔ですね。上に草生えてても機能するもんなんでしょうか。ちょっと日射が遮られて涼しそう。

検査を受けた夕方、レンタカーは返却してしまったので、タクシーで行こうかと思っていたら、ホテルの近所でレンタサイクルが。たしかに行けない距離じゃないので、検査結果をもらいにチャリで行くことに。

無事陰性でした。では心置きなく給水塔へ。場所はここ。何らかの観光地かな、ともおもったんですが。

https://goo.gl/maps/zD8h848VdpM3VMTw7

ほんとうにただの廃墟。なんの看板もなく、カギがかかっていて中は見えない。

裏側に回ると、、、最近草刈りしたっぽいけどただそれは通路だからっぽい。ほんとこの給水塔についての情報がゼロ。

ん?

よくみると、、、?

蜂の巣だっ!オオミツバチでしょうか。かなりでかい。

大きめのミツバチがわらわらしています。かっこいい。いいものをみた。

ストリートビューで確認すると、2014年の写真にも、裏側にミツバチの巣っぽいシルエットがあるんですよね。いい場所だ。

やっぱり大きい構造物が日常の中にあるのはいいですね。混み合った電線も勢いがあって、サイズの対比になるので好きです。

久々の更新です。

最近は外に出せないタイプの問い合わせ対応がふえ、ラオスにいながら、ラオスに来たことがない相手に伝わる表現をいろいろと開発しています。その一方で、これまでのような自分が好きなように書きなぐり、書きっぱなしのブログを書く機会が薄くなっていました。

さて書いておきましょう。「銅鉄研究を超えていけ」という若い人へのエールです。

昆虫食がこれからの食料としても、有力な候補じゃないかと世界的に注目されたのがわずか9年前。2013年のことですが、それ以前からずっと、さかのぼると1890年ごろから「可能性」は指摘されつつ、本格的に養殖をベースに技術開発しようという機運になったのはごくごく最近のことです。なので「他の食材でやられてきたけど、昆虫でやられていないこと」がたくさんあります。まずはその差を埋めていこう、というだけでも今は、十分な研究になります。

「銅でやられていた研究を、鉄でもやってみよう」という態度を銅鉄研究と呼びます。アイデアとしては素材を変えただけで、研究としての発想の新しさはあまりない、という軽いディスりの意味で使われることが多いですが、とはいえ一つ一つの研究は軽んじられても、分野全体の体系化、網羅性にとって一つ一つの銅鉄研究の積み重ねは重要です。

「銅鉄研究」は実験作業の内容が同じでも、視点を変えるとその位置づけは大きく変わります。

「昆虫Aでやられていた生活史研究を、昆虫Bでもやる」という基礎昆虫学の論文に、昆虫食という新しいコンセプトを吹き込んだとたん、とても頑強な養殖基礎研究になるのです。ゾウムシの養殖がうまくいかなかったときも、その生活史研究の論文がとても役に立ちましたし、書かれた当初は産業化を全く意識していないわけですから、その論文において、都合のいいウソを書く必要がないわけです。安心してその記述が本当だろう、と鵜呑みにできる上質な情報になります。(もちろん再現できましたし、養殖マニュアル開発の役に立ちました)

つまり基礎研究という視点からは、銅鉄研究らしい網羅性が大事で、利害関係がなく誠実であるほうが好ましく、その効果は数十年後、へたすると数百年後に効いてくるので、公共性が高く、逆に言えば短期の収益化とは相性が悪いのです。

逆に、銅鉄研究的な視点から抜け出せないと、視野が狭くなり研究が苦しくなります。

他の食材でもやられてきたことを昆虫でも、というのはもちろん大事なのですが、そのような「昆虫でもやってみた」という研究をする中で、別のマイナーミート、たとえばダチョウ肉や植物タンパク、培養肉でも同じになってしまったり、比較してみると昆虫以外のほうがいいスコアを出していたりすると、結局「昆虫食の」研究の意味合いが薄まってしまうことがあります。

「それ昆虫じゃなくても言えることじゃない?」という疑念がわきおこると、あえて昆虫を題材にする必要があるのか、素材としては昆虫だけれど、追求したいテーマは「昆虫食」じゃないのではないか、と研究中に迷子になってしまう場面をよく見るようになりました。つまりは「視点」が不足しているのです。

私が今、挑戦している「視点」は、「なぜ昆虫が、昆虫食がいままで置き去りにされてきたか」という社会的背景です。分野としては開発学>国際保健学>国際栄養学>昆虫食という入れ子構造になります。

先進国である私たちは、より貧困な国に商売をふっかけ、土地や賃金を安く買い叩くことで、大きな富を得てきました。しかしこの格差がひどくなると、第二次世界大戦に代表されるような巨大な紛争や、そして今まさに進行中のウクライナやミャンマーといった、住民の人権を台無しにする紛争地帯を生み出します。すべての人権が守られることが理想なのですが、できるかぎり強い人権侵害を避けていこう、と作られた国際的な枠組みが国連で、その試行錯誤の中で体系化されたノウハウが開発学になります。

もちろん失敗もあります。支援すべき、という合意の中で「どうやって」支援できるのか、やるからには、同じ予算でより効率がよくするのはもちろんのこと、「Do no harm(せめ害悪は及ぼしてはならない)」という規範が、国際協力における原則となっています。

開発学の分野ではNGO(非政府組織)も重要な役割を果たします。「政府じゃない組織」なんて山ほどあるわけですが、ここでのNGOは政府の機能を補完する民間の立場のことです。たとえば2国間、多国間での政府開発援助(ODA)では、政府同士の合意によって大きな予算が動きます。それらが政府の別の思惑のために使われたり、予算は降りたものの現場の困っている人に届いていなかったりするときに、現場まで赴いて、その問題をあきらかにし、改善を提言するのが、NGOの役割です。

そして今、私はNGOの活動として、ラオスで昆虫養殖を進めています。これまでODAにおいても、もちろんNGOの活動でも、昆虫食はほとんど支援されてきませんでした。なぜなら先進国側が、支援できる食文化や技術をもたなかったからです。しかしその一方で、ラオスで活動する政府職員やNGOのスタッフに話を聞くと「たしかに昆虫をよく食べている」というのです。つまりNGOの立場から、ODAではピックアップできなかった「草の根」の技術開発を提案しているのです。

また栄養分野では、「食習慣をかえさせるのは大変だ」という話も聞きます。国際保健学において、栄養は近年可視化されてきたホットな領域です。2000年からのMDGs(ミレニアム開発目標)では、ワクチンなどの感染症対策がめざましい成果を挙げ、ラオスの田舎にも津々浦々まで、乳幼児の基礎的なワクチンが行き届いています。その結果、乳幼児死亡率は世界全体で劇的に低下しました。一方で、ワクチンだけでは予防しきれない、NCD(非感染性疾患)の影響力が見えるようにもなってきました。農村部の低身長、栄養不良はラオスでは長年解決されず、栄養教育などで「栄養をとろう、食べよう」と声かけをしても「お金がない、時間もない」と、定番の言い訳をされてしまい、行動変容に至らないのです。

「じゃあすでにみんなが食べているものをもっと食べられたらいいだろう」という素朴な視点が、昆虫食プロジェクトの基本アイデアです。採集してまでとりにいく、おいしくて希少な食材が、子育て中でも、妊娠中でも安定して食べられる、売れるのであれば、彼らの生活をほとんど変えることなく、乳幼児の栄養へのアクセスをより高めることができるだろう、と。幸いなことに、昆虫は彼らの採って食べる日常食のひとつで、売ると豚肉より高い高級食材でもありました。そこでマッチングしたのが、不足しがちな油、ミネラルを多く含む、ゾウムシだったのです。

もちろん困難は続きます。ラオスにも、日本にもスペシャリストがいなくて孤独です。タイ語で出版されている教科書もいまひとつ信用できないので、養殖技術をあらためて検証しつつ、効果のはっきりした技術をピックアップしました。また販売実験もしていますが、都市部の住民はもう昆虫を食べなくなってきているようで、ゾウムシを気持ち悪い、というひともいるようです。

とはいえ、この困難が「先進国が、途上国の伝統文化を劣ったものとしてプロモーションした結果の状況」と考えると、困難を理由にこの活動を止めるわけにはいかないでしょう。彼らの伝統文化が、一躍最先端の食材として認知されるチャンスなわけですから。このチャンスを「後進性の利益」といいます。

たとえばラオスでは固定電話の普及の前に、携帯電話の普及が進みました。なので固定電話網のコストが掛からず、田舎まで携帯が使える状態になりました。遅れているならば、遅れているからこそ、最短で先頭に出られる機会があるなら、利用したいものです。

さて、社会的背景をみる視点ができることで、昆虫食に関わる技術がどのように使われるべきか、「倫理」の枠組みがはっきりしてきます。彼らの栄養状態は両親が出稼ぎに出ると、悪化してしまうので、養殖は田舎で分散的に行われた方がいいでしょう。田舎の自給自足の飼料を使い、都市部とのアクセス格差に負けないような、農業組合ができていくといいでしょう。

逆に、はっきりとしたディストピアの未来も見えてきます。考えてみましょう。

効率のいい自動化の進んだ昆虫工場を、消費地である都市近郊や、先進国に輸出するための貿易港の近くに建設します。その建設に関わる作業員は、ラオスの田舎からの出稼ぎ労働者です。労働者本人だけでなく、村に残された子どもたちの栄養も悪化することが知られています。昆虫工場は、出稼ぎ労働者のような低スキル労働者だけで回せるよう、半自動化が進んでいましたが、今年はより自動化を進め、全ての労働者を解雇し、完全自動化を達成しました。「生産過程において労働者を搾取することなく、効率よく、完全自動で、栄養豊富で安価な昆虫」だと。多国籍企業の代表は宣言し、ESG投資の格付けがアップしました。

安価な昆虫は、農村部の市場をも侵食していきます。採りにいくより安い値段で、パッキングされた昆虫スナックは田舎にひろがってきました。その多国籍企業は「慈善活動」として、貧困地域に無料で昆虫を配り始めました。そうすると田舎の不衛生な昆虫は売れません。売れないのならばと、この地域では殺虫剤を買い求める農家が増え、収量はアップし、昆虫は減り、殺虫剤耐性昆虫だけは増え、新製品の殺虫剤は売れに売れ、環境への負荷は増大しました。もちろん殺虫剤を買えない世帯の人達は、これまで採れていた野生食材が減った、となげいていますが、貧困から抜け出せないほど怠惰だから、彼らは栄養が足りていないのです。自業自得でしょう。

といった感じです。(配合飼料やファストファッション古着でこういったことはすでに起こっているわけですが、それはそれとして)

ツムギアリの幼虫と成虫をわけるライフハック。蚊帳のきれはしをぐるぐる回すと、爪のある成虫が分離される。

さてそうすると、生物多様性条約、ABS条項との衝突が想定されてきます。生物多様性条約における「遺伝資源」には伝統知識も含まれますので、伝統的に昆虫を食べてきた人たちが昆虫食の継続や主体的な発展から追い出され、衛生的で効率的に、都市部や工業地域で養殖された昆虫に置き換わるとしたら、これまで伝統医薬が先進国製薬会社にフリーライドされたように、昆虫食も「文化の盗用」をされてしまうでしょう。

さて、じゃあどうすればいいのか、というのはもうFAOが前から言っています。とくに私から新しいアイデアを出すものではなくて、「先住民のフードシステム」が未来の食糧生産のモデルを提示するだろう、と見通しを立てています。

先住民の生活のうち、持続可能でなかった集落は滅びたわけですから、「利用の権利と責任が融合している」と評されています。いままで持続してきた生活の中から、これから未来に渡っても利用可能な賢い生態系利用、ワイズユースを見つけていこう、と。

そうすると、
いまの先進国の「効率化された農業」は、必ずしもエネルギー効率が高くないこともわかってきます。

資本効率、つまり資本を投入すると、確実に儲かる方向に技術を磨いてきた、これまでの農学のコンセプトでは、環境問題に対して効果的な技術とは言い切れません。もちろんその中から、ワイズユースとしてピックアップできるものもあるでしょうが、それは「その地域に住む人」が選べるようになるのがいいでしょう。つまり先進国が溜め込んだ、様々な自然科学の基礎研究や農学の応用研究の中から、「何を利用して生活するか」を、田舎にいる彼ら自身で選び、発展させていくのが、これからの「開発」なのです。これは「参加型開発」と呼ばれ、その中で研究が必要であれば、そこが研究現場になるのです。

熱帯感染症研究の中心地が途上国に移動したように、農学の研究の中心地も途上国へ移動する、と予言しておきましょう。温帯の先進国はこれから当分は温暖化するわけですから、プロトタイプは暑い地域で進めたほうが、未来のためでしょう。そしてもちろん、その恩恵をいち早く手にすべきは、「後進性の利益」を享受する、途上国になったほうが、世界全体の幸福を底上げするイノベーションになるのではないでしょうか。

最後に、話を銅鉄研究の話に戻しましょう。他の食材でやられてきたことを昆虫でもやる、という「銅鉄研究」をしながらも、新しいコンセプト、アイデア、そして時代背景を踏まえた理解と説明があれば、新しい視点の研究は、もはや銅鉄研究とは呼ばれないのです。つまり銅鉄研究を乗り越えると、その先にあたらしい研究の形が見えてきます。

そしてそのコンセプトやアイデアの源泉は、高等教育に恵まれた「困ってない」私達ではなく、「今、困っている人たち=マイノリティ」が持っています。彼らと一緒に地域課題解決を繰り返す中で、未来のための生態系利用「ワイズユース」の選択肢が開発されていくでしょう。そこに昆虫が使われる地域もあれば、使われない地域もあるでしょう。SDGsでも宣言されるように、社会、経済、文化、環境、それらが調和する形で、住民目線から多様な農業の開発と、地域最適化が行われていくことを期待します。

実はこれは、ラオスだけのことではなくて、日本の地域課題解決と昆虫研究とを組み合わせることで、新しいコンセプトで問題解決にチャレンジすることができるようになります。これまで「役に立たない研究」と大学からディスられてきた昆虫学研究者を巻き込むことで、見逃されてきた地域資源を見出すことができれば、もはや昆虫学は「役に立たない研究」ですらなくなってしまうのです。