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読みはじめて休憩をはさみながら17時間ぐらいかかりましたが、ハードでヘビーな本です。

「未来の食」論において、なぜ地球全体のことを、先進国の賢い人が考えて、そしてみんなに広めるという植民地主義的な発想が拭えないのか、途上国のマイノリティは目に入らないのか、というラオスで感じた素朴な疑問について、フーディーという一種の社会的潮流が影響していることが示されていました。これは必読。

民主主義によって選ばれ、その他の民衆から一線を超えた「人気者」になりたいという卓越化の欲望が、更に社会格差を生み出しうる、あるいはもう生み出しているという現状まで、厳しく解析していきます。自称「フーディー」のヒトがこれを読んだら気を悪くするだろうな、という部分まで切り込んでいきます。こういったステークホルダーを「あえて配慮しない」ストイックな社会学的態度というのはすごいですね。

読後に私が感じたのが、これは「フーディー」に限った話なのだろうか、という部分です。

民主主義的な「フェアとされる」方法で資本主義的成功、つまりお金持ちになった有名人は、選ばれるまではおそらく格差に反発し、庶民に寄り添う姿勢を示しますが、次第に庶民では届かない富裕をアイコンとして「卓越化」してその影響力を、盤石なものにしていこうとします。

つまり新たな格差拡大の担い手となっただけで、格差是正に貢献したのかどうかすら、検証されていないのです。そしてこれがおそらく、多くの業界のスタンダードになっていますし、この風潮は続くでしょう。

さて、読書メモをもとにこの本を解読していきましょう。難解ですし、私がラオスで感じた疑問に答えるものでなかったら、読み終えることはできなかったでしょう。そんなハードな書籍が、翻訳で4000円という破格の安さで読めることに感謝です。

音楽の話は詳しくないんですが、ここからスタートします。なんとなく感覚はつかめますね。「音楽的雑食」と言われる場合、単純にどんな音楽もOKではなくって、本来「高尚」とされるもの、「低俗」とされるもの、「外」とされるものをあえて逸脱する、という評価があるんでしょうね。そして逸脱を評価の構造がないのに逸脱はしない。

「でたらめな味覚を持っているわけではなく、私は味覚の幅が広いのだ」いつか使おう。

非常に満足度の高い、情報密度の強い本でした。すごい。

昆虫食は未来の食糧問題を解決しない でも指摘したのですが、「未来の食糧問題」に関するテックがなぜ今の食糧問題と切断処理されているのか、未来の総量ばかりを気にして、現在の食料不均衡が悪化するのか改善するのかも曖昧にしてしまうのか。昆虫食でいうと昆虫の栄養を調べ、養殖に挑戦し、将来性を掲げる一方で、昆虫食文化のある地域の貧困と栄養不足に着目しないのか。

おそらく着目できているのは

社会学的背景のあるシャーロットさんアフトンハロランさんの二人ではないでしょうか。

学術的意義を社会の風潮にちょいと載せるときに、その風潮自体に偏見や差別が内包されていないか、吟味するための社会学的な批判は最初の課題設定のときに必要でしょう。なぜならその風潮に載せた「役に立つ」研究はそこに内包される偏見や差別の拡大再生産装置として機能してしまうからです。

自戒を込めてかなり注意。

そうすると私のこれまでやってきた昆虫の試食はフーディーの流れにある「文化的雑食」ではなく、「生物学的雑食」であり、社会から距離をとった孤独な時間が、この風潮に対する批判的な視点に気づくことができた、とまとめておきましょう。いやいやよかった。

ではこの先どうするか、という部分ですが、

「昆虫食を社会課題解決に利用できる技術をもつ集団」を作っていきます。

そして同時に、個別の社会課題解決の延長上に、未来に採用されるべきモデルが含まれている、と予言する仕事を同時にしていこうと思います。これを同時にしないと専門性にお金が落ちないからです。

逆に言うと、「今課題を抱えていない人」からは未来のソリューションなんて生まれないと強く言っておきましょう。

シビアさがないからです。未来の不確実性を自分のやりたいことをやるための資源として搾取してしまったほうが合理的です。そういう我田引水インセンティブが発生してしまいます。個別事例から精査して、拭い去るのはかなり難しいでしょう。

目の前の社会的弱者の課題解決が、未来の不確実性に対する備えになっていく、そんな好循環を作ろうとしています。「第一段階の成功」はすなわち目の前の社会的弱者「しか」救えないこと。これでも、もう十分です。国際協力としてこの部分を実装します。

さらに上乗せしたインパクトとして目指す「第二段階の成功」はそれだけでなく、社会全体の未来を提案する新たな選択肢が開発されること。でしょう。この部分に先進国が投資として実施すべきです。

昆虫食に対する知見や技術の不足は、昆虫食文化のあるラオスの足を引っ張っています。彼らの文化に応じた支援をするチャンスが失われています。しかし昆虫食文化をもたない先進国は、それに気づくチャンスすら失っています。

問題を問題と考えられない問題。これは深刻です。

そしてこの実装の現場は、私達先進国が、昆虫食というコンセプトを忘れてしまったことで失った選択肢の大きさをリマインドしてくれる現場なのです。

巨大な遺伝資源である昆虫について、食用になるというコンセプトが世界中に広まったら、生物多様性条約における「利益の配分」の概念すらひっくりかえってくるでしょう。薬用の遺伝資源はすでに考慮に入っていますが、

食用として育てやすく、美味しく、そして地域のバイオマスのディスアビリティを解消するような、そんな昆虫食の実装を各地域で実施し、そこで得られた知見を体系化していくことが、先進国フーディーの風潮に乗らない、文化の担い手をサポートしていく、真の意味での「昆虫食の参加型開発」となっていくのではないでしょうか。

この書籍のストイックさに影響されて、カタメ、キツメでまとめておきます。

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私は屋号として「適切なヒトに適切な虫をオススメする蟲ソムリエ」を名乗っているのですが、全然普及しないですし真似するヒトも出てこないので、積極的に「蟲ソムリエする」動詞形を使っていこうかと思います。
ちょっとかしこまって言うと、
「行動原理の異なる事業者同士を、虫でつなげて目的を同じくしたチームをつくる仕事」です。

合同会社TAKEOから情報公開の許可が下りましたので、ちょっと前の話ですが書いておきます。

タガメナイトに参加したときともつながるのですが、そもそもタイワンタガメの飲料を作ろうと始めたのはフェロモンデータベースを読みながら思いついた、2011年のタガメウォッカが最初です。引用されている論文は1950年代から60年代のもの。前後して油にとかしたラー油を作ってみたりしたのですが、ニオイは飛んでしまい、うまくいきませんでした。

分子構造からアルコールに溶けそうだなと、タイワンタガメのオスの性フェロモンの香りをアルコールに移すことで、誰にでも楽しめる飲料にならないか、と、開発しました。
焼酎とかジンも試したのですが、タガメの香りを邪魔しないウォッカベースに決定。

美味しくできたものの、虫フェスなどの集まりで改良を重ねたのですが、漬けたあと2週間ほどで泥臭さが出てしまい長期保存に難があることが問題でした。このときが2011年。

時は流れ2019年、TAKEOに入社した食用昆虫科学研究会の古参メンバー(といっても私より年下ですが)が前職の香料メーカーの専門性を発揮し、なんと特許技術まで開発してこの泥臭さ問題を解決し、長期保存できるタガメの香りを保ちつつ、泥臭くなく、そしてほんのちょっとのタガメのクセを残したサイダーができたのです。

その後、タガメLethocerus deyrollei(タイワンタガメではなく日本のタガメ)の商用販売禁止となる、特定第二種国内希少野生動植物種に指定されました。

「なんかタガメサイダーの売上から、日本のタガメ保全に還元できる仕組みって作れないですかね?」との相談をTAKEOから受け、収益から寄付をすることとして合意し、各方面に情報収集をしながらその「タガメ基金」の行き先を決めることになったのです。

そこで思い出したのは、タガメウォッカの思い出です。1950年代の、生化学によって様々な機能性の化学物質が抽出されていた時代、応用を前提としていない基礎研究の情報を読んだことが、タガメ飲料のきっかけとなったのですから、「基礎研究に還元する」という方向性で話し合いました。

幸いなことに、タガメの生態研究といえば、と複数の情報提供元から推薦があった、長崎大学の大庭准教授が、このタガメ基金の寄付先として、引き受けてくださいました。

少額ですが、使い勝手の良い研究費として活用してくださるとのことでした。

タガメの匂いがアリを撃退している、というニオイの関連する新しい成果もありましたし、我ながら上々のマッチングができたかと思います。

確かに検索するとタガメ放流といった、直接的な保全をうたうグループもありますが、タガメは農薬に激弱な性質から、生息地の分断されている現状をみると、もし地域外から種苗を移入していたら、放流はむしろ国内外来種の移入となり、地域個体群を破壊してしまうという、保全に逆行する行為かもしれないのです。

また正直なところ、ふさわしい活動団体を精査するほどのつながりがなかった、ということも今回の判断の理由です。

この「基礎研究に還元する」という方針について、もうちょっと社会的意義を考えてみましょう。

利用するにしても、保全するにしても、基礎的な知見を抜きに語れませんし、情報不足によって強行されてしまった取り返しのつかない環境破壊や、逆に保全に逆行するほどの過度の利用制限など、応用や保全の分野での残念な事案を見ることがあります。

基礎研究として発表・評価された論文は、利用や保全に大してウソをつくインセンティブが低いので、「保全する側」「利用する側」いずれにしても、議論における、信頼性の高い情報リソースになります。

この件で「公益性」について、あらためて考えることにもなりました。

寄付により直接的な保全活動の資金となることと、保全に使える知見の間接的な蓄積になることのどちらが公益性が高いのか。前者のほうが、直接的で歯車が噛み合っているようにも見えます。後者のほうがまどろっこしくて因果関係が遠いようにも見えます。

また一方で、製品にタイワンタガメを消耗する以上、企業の社会的責任が利益相反にも影響することになります。今回は全く少額ですが、将来的に、高い収益を上げる昆虫食企業が、その昆虫資源の研究に、巨額の研究費を出資していた場合、その信頼性について疑問を呈されてしまうのは当然でしょう。

寄付と結果が近いほど公益性が高い、というわけでもないのです。

学術と企業がほどよい距離感を保ちつつ、少額でも確実に未来のためになることを、と考えた時、「学術的意義」によってピアに評価されてきた基礎研究への寄付という選択肢は、企業にもっと活用されていいように思います。

企業にとって不利でも有利でも「事実」を明らかにする基礎研究に還元することで、利益誘導との疑念を最小限にできる社会貢献活動だと言いたいです。

また、「昆虫を食べる」というコンセプトがほとんどなかった先進国において、ここまで食用に利用できる基礎研究の蓄積があったということも驚くべきことです。「役に立つ」「役に立たない」を数年のトレンドで評価することのバイアスが、基礎研究を曲げてしまうことを懸念します。

利用するにしても、保全するにしても、昆虫基礎研究が充実してくれないことには議論も進みません。現在の「役に立つ」研究の流れとして、昆虫食にも声がかかる事が増えましたが、その前段階として、多様で裾野の広い基礎研究の状況が改善することを願って、「タガメ基金」の設立をお手伝いしました。

そしてこの活動のもう一つの面白さは、「タガメサイダーを買うことで応援ができる」という参加型であることです。クラウドファンディングのように期間限定でもありません。いつでも、今すぐにでも、これを飲むことで少額ながら確実に、タガメ基礎研究に届くという実感は、多くのタガメ愛好家にとって「おいしい」話ではないでしょうか。

ぜひぜひ、この暑い夏にタガメサイダーを飲みながら、タガメの基礎研究に思いを馳せてはいかがでしょう。