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2017年に開業した本格昆虫食レストラン、Insects in the backyard. 予想以上にすごいレストランだったので感想を書きます。単純に「高級料理に昆虫をのっけただけ」にならないようになっています。そしてシェフが英語をしゃべれる人だったのと、空いている時間帯だったので色々話すことができました。まずは外観から。

ちょうどシェフとお話できて、彼が英語も喋れ、タイの伝統的な食材を国際的にアップデートしなくてはいけない、ということ。そしてタイにまだまだいる農村部の貧困家庭を助ける方法として、昆虫養殖は正しい産業として成長すべきだろう、という壮大なビジョンを聞かせていただきました。

まずは初心者を逃さない。そして上級者をうならせる、という一見相反する目標を両立するためにかなり料理の試作を繰り返し、レシピをしっかり設計している様子が伺えました。すごい。しっかりお金をとり、昆虫料理が「仕方なく食べるもの」ではなくて「しっかりお金を出して買うもの」という方向性を目指した最も先進的なレストランであると言えます。オススメです。そのうちラオスで養殖した美味しいゾウムシを彼に仕入れてもらいたいなぁと。

おしゃれなHPもすごい。予約もネットから簡単にできます。バンコク郊外なんですが、バンコク中心部からタクシーで200バーツぐらいでいけました。

村での活動中に見かけた、Callizygaena ada 最初は南国のウミウシに見えた。

このピロピロがすごい。

ラオス人は派手な虫、あるいは毛のある虫、食用とはっきりしない虫に関しては毒があると信じているようで、この虫も毒毛虫、と言われた。ベイツ型擬態という概念が導入されないと、その擬態の効果は人間にも及んでいるんだなぁ、と改めて昆虫分類学のパワーを実感。

昆虫分類学が導入され、擬態、という生態学的な概念を知って初めて「毒っぽいけど無毒な虫」というジャンルが目に見えるけれど、ラオスにはその概念がまだ入っていない。なので身をもって確かめるしかないのである。ラオス人にどう思われようとも。

腕のやらかい所に当てるだけの「簡単な実験」ではあるが、相当に心の準備が必要であった。痛いのはヤダ。ラオス人にバレたらバカだと思われるだろう。つらいけど知りたい。痛いのは嫌だけど知りたい。彼らが毒なのか知りたい。そして今回は、今回は。私の勝ちだ。

触れることがわかったら急に強気である。

モフれる、とわかったら次の難関が待っている。これだけ毒々しいカラーということは食べて毒なのではないか。触って毒ではないことを確かめてしまった以上、食べて毒である可能性はむしろそれを知る前よりも高くなったのではないか。モンティ・ホール問題ではないか(違います)

マダラガ科には体の内部に毒を貯めていることがあるので、食べるのはまた躊躇する。茹でただけで結構しっかりと美味しくなさそうな草の匂い。渋い雑草を煮詰めて缶詰にしたような匂い。

これも口に含むしかない。

はい。Callizygaena ada はモフれるくさくて苦い毛虫である。

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昆虫大学でお世話になっていた、とよさきかんじさんが新しい本を出すようです。なんとテーマは「手すり」

手すりといえば遊歩道、日本の話でここラオスでは特に手すりのようなバリアフリー設備なんてのもないので、興味はあったんですがラオスに持ってくることはないだろうな、と思っていました。しかし、著者からリプが。

いえいえ、これは柵です。柵がないとヤギが食うための弱肉強食の農業施設で、有刺鉄線で武装している世紀末ヒャッハーなもので、手すりなんてそんな歩行者をサポートするなんてやさしみのあるものではないんですが。

こんなお返事が。手すりの概念が拡張されました。

 

ということは、ラオスにものすごく「手すり」があることがわかります。柵だらけなので。そして素材も様々。

それでは国境なき手すり観察inラオス、続けていこうと思います。本も予約しました。日本に帰った時に読みます!(電子書籍も欲しい!)

みなさんエルメスって知ってますか。調べてみました!
Hermèsと書かれるーーーーー云々。いかがでしたか?

銀座はしんどいです。まず人が多すぎる。とは言えモノも多いので、なんやかんやで慣れていこうと思うのですが、木村屋のあんぱん、虎屋の羊羹、そしてアップルストアとフォーナインズ。それなりに憧れの店があるので仕方ないのです。

今回成田空港に降り立った時に、日本人顔認識がバグってしまったことがありました。すれ違う人がみんな高校時代の同級生に見えるのです。

人口が700万人。本州に埼玉県民を散りばめたような国ラオスと比較すると、日本は人が多すぎるのです。

とは言え、人が多いゆえにいろんなアイデアや表現物が出現します。こちらはエルメスの虫たち。おしゃれですね。かっこよい。そろそろ虫の時代です。人間の多様性などたかが知れているのです。虫の多様性が人間を飲み込んで、世界平和にゲフンゲフン。

おしマイケル。

アウトサイドジャパン展と同じ日、夜に少し時間が取れたので行ってきました。

装飾に用いられる穴の空いた自然物、という括りでのビーズ展。元々は2017年に国立民俗学博物館で行われたものに、科博とのコラボによって再編集されたものです。

特に好きなのがこれ。猿の歯として民博に収蔵されていたものが、科博によってイルカと同定されたもの。こういったコラボの醍醐味ですね。

ずっと見たかったのがこれ。オオスズメバチの顔の首飾り。存在は知っていたんですが展示がされていなかったので見れなかったものです。よく見るととても折れやすい触角が綺麗に残っており、いわゆる首飾り、ネックレスのような使用するものではなくて、お守りのような大事に繊細に扱うものであることがわかります。見れてよかった。

何も聞いていなければアウトサイダーアートではないかと思うこの緻密なビーズ。所変われば文脈も変わるわけで、全ての表現物のうちそのほとんどは今現在の市場価値だけで見るとアウトサイダーアートなのではないかと思います。専門家にしかわからない価値、というのもそれかと。

くやしかったのは同時開催の「大哺乳類展」に標本が取られてしまって実物展示のなかった剥製たち。くやしい。あっちは有料の企画展、こっちは常設展示の片隅。仕方ないとはいえ。私は日本館の渋い企画展を応援します。行こう。科博の日本館。

こうしてみると食べたものの残りを装飾に使う、というのは普通の感覚で、私が昔に作ったバッタのふんのマスクも民芸という意味では普通の表現活動なのではないかと思ったり。アウトサイドジャパンと同日に見れたことでなかなか広がりのある1日になりました。

アウトサイドジャパン展。櫛野展正さんというキュレーターが日本各地からアウトサイダーアートを集めて、一堂に展示する企画展です。アウトサイダーアートとは美術教育を受けていない人の芸術作品、と(この展覧会では)定義されています。

せっかく日本に帰っているので、実物を見ておこう、というものを重点的に見てきました。

昔から気になっていたのはこの昆虫標本を使った像。「ラベルのない標本は(学術的に)無価値だ」というのはよく言われますが、ではこの標本の集合体は無価値か、と問いかけられます。好きか嫌いかはさておき存在感がすごい。そして学術標本並みによく管理されている。ぞんざいに扱われたのではないことがしっかりわかります。

一番モヤモヤしたのはこの作品でした。写真を撮ることも何だかためらわれて残っていないこの方の作品。「普通の人が誰に見せるわけでもなく家族年賀状を妙に気合いを入れて20年作り続けている」ことが一つのアウトサイダーなんですが。

各家庭に潜んでいる、家族がノってきてしまったことでどうしようもなくなった謎ルールとか謎行事の一つを、つまみ出されて公衆の面前にさらされて「アートです!」と言われてしまった、プライバシーに守られた自由な表現空間だったものから「観覧者の欲望にさらされる」という、恥ずかしい日記を見られたような。強烈な羞恥心に襲われました。

アウトサイダーアートはもしかしたら自分が昔描いた誰に見せるでもない変なイラストが発掘され、ある人が「素晴らしい芸術だ」といい、またある人が「いや単なる駄作で見る価値もない」と言い合うのを見せつけられるということなのです。

これはかなり辛い。そしてその辛さを全ての表現者、つまり全ての生活者が持っている、ということを突きつけられた感じです。

受刑者の監獄の中での時間潰しとして、病気の中での平常心を保ち続けるため、何らかの人とのつながりを作るため、そう行った「必然」によって生まれた如何しようも無い表現の欲望を一方的に「鑑賞しにきた」つもりが、自分の人生や生活、そして(心当たりのある)数々の見せたくもない説明のしようもない表現物を、いきなりアートとして陳列されてしまうことの暴力性のようなものも感じました。

さらにいうと、このキュレーションにおいて彼ら美術教育を受けていない(つまり陳列されて評論を受ける準備のできていない)人に、この展覧会に出品させたその交渉そのものが見事なキュレーションのパワーだなと。もちろん中には頑なに拒否をして展示に至らなかった人もいるだろうと思いますし、私だったら最初は恥ずかしくて出せないと思います。そういったアートの教育を受けていない人が出品していること。そしてアートの教育を受けていない観覧者が、見にきたつもりがそこに巻き込まれると晒されかねないスリルを提供すること、そんな荒々しくエネルギッシュな空間を味わうことができました。

昆虫コンテンツを「テキストサイト」で、どこまでできるか考えているんですが、こんなのどうですか。









































日本からゲストが来ていたんです。彼らの希望で私が養殖したゾウムシを振る舞うことにしたんですが、あいにくの停電。乾季で電気の問題はあまりなかったのですが、雨季が近づくにつれてスコールが増えてくると、乾季の間に溜まっていたあれやこれやの電気的問題が噴出するイメージです。季節の変わり目の雨が降る日は停電に注意。

しかし、我が家のキッチンには炭火のコンロがついていたのだ。停電なんぞに負けるわけにはいかない。というかオーブントースターよりも炭火で焼いた方がどうやら美味しいぞ、ということも村での活動でわかってきました。前日にあるものを食べさせて、フン抜きをしておいたゾウムシを用意。

いつも使っている電気ポットも使えない。炭火をおこしたらまずは湯を沸かす。

手を入れて熱いぐらいのお湯をかけることで最後のフンがプリッとでることがわかったので毎回この方法を使っています。生きたまま竹に挟むと脱走する奴がいることもあって一旦殺してしまいます。

日本だとサラサラの塩を振るのもできるんですが、ラオスで売っている塩はザラザラしててこのまま振ったら塩辛いと言われてしまいました。なのでさきに塩水にしてからまぶすと良い。

さて、日本のゲストは美味しく食べてもらえました。作るたびに味が良くなっていきます。

このどんどん美味しくなる方法も活動から生まれてきたものです。さすがラオス人。美味しい方法をもっとずっと知っているので、勉強しようと思います。そして収入、最終的には栄養という形で還元できればようやく恩返しになるかなと。

これまでに第1巻第2巻と感想を書きまして、そしてなんと昆虫食回、13話に監修として参加させていただいたなんともありがたい今作、3巻にて物語が一旦幕を閉じました。西塚emさんはスターシステムのようなものを採用しているので、いろいろな背景を変えて、また別の作品で彼らに会うことができるでしょう。ひとまずお疲れ様でした、そして通して読んでも昆虫食回がまったく浮かない、凄まじいフェチの全力疾走を見せていただきました。すごい。

さみしい、のですが、なかなかこのマイノリティである、虫好きの心をえぐるというか、私にとってはヘビーな物語でした。何度か3巻を通読してようやく感想が書けるようになったのでここにまとめておきたいと思います。売上に貢献するには発売後すぐに公開すべきところなんですが、なかなかこれは一筋縄ではおわらねぇぞと。

蟲やクセの強い生き物を愛する、「虫塚」を主人公として女性ヒーローとしての「ねね」というこれまたクセの強い登場人物、それらを学園であったり学校もの、日常モノというある種のお約束に入れ込むことでなんとなくマンガ的なものになっていく。そしてお約束の水着回と、恋愛?要素。

かと思いきや、「アンタの普通はアンタの基準で作ればいい。他人の基準を使って自分だけ擬態しようなんて許さん」とライバルである園芸部の花崎から厳しい一言。

これまでの虫ものマンガを否定するわけではないんですが、虫や虫好きは大抵物語上、マイノリティとして登場します。その虐げられてきた虫に対する愛着や知識が、効果を発揮してストーリーを展開させ、一躍ヒーローになるどんでん返し、スカッと展開、という形が数多く見られましたが、この漫画はそれを「許してくれない」のです。これは大変だ。

普通に対する憧れ。人生で一度も普通になれたことがないけれど、もしそこに「戻れたら」そこから見られる景色はなんとも安心で生きやすいものなんだろうという憧憬。そういった普通に一歩近づけるためにマイノリティのために用意されてきた「スカッと展開」なんだろうと思います。みんなを救ったり窮地をしのいだり、それによって達成されるのは「マイノリティな自分の趣味がマジョリティに『普通に』受け入れられる瞬間」なのでしょう。

しかし、しかし。

この物語はそれを許してくれない。普通を達成する、という課題設定そのものが普通ではないし、他人の借り物である。たとえ自分が植物性愛、昆虫性愛であることを自認をせざるを得ない状況に追い込まれたとしても、そしてそれを自認した上で他人に隠す選択をしたとしても、自分で自分の基準で自分をつかむまでが青春なんだと。青春とは客観的に測定できる解決や達成ではなく主観的にヌルい寛容と受容と先延ばしなのかもしれない。

そして転校生の女性ヒーローは虫の世話を手伝うばかりで何もしない。普通に戻れない、普通などないという最初から存在した事実を改めて明るく照らしてくれるヒーローだった。

人生をこれから決して共にしないだろう、全く価値観の違う、相入れない人物たちと、たまたま未成年の制約で同じ空間を共有したあの「青春」はなんだったんだろうか。

自らの力で人間関係を構築するようになった「オトナ」にはもう現れない。思い出される彼らが私に寛容だったのか。それとも諦念だったのか。それはもう青春という蟲籠だか蟲塚の向こうに霞んでしまってもう見えない。

もしかしたらそれは一種の共有された悪夢だったのかもしれない。

以前に「外国製の日本語表現をたしなむ」ということで色々とこちらで見つけた日本語を収集していたのですが、先日それを #駄コラシール にしましたのでまとめておきます。

駄コラシールというのはTwitterで始まったコラージュの遊びで、昔流行したビックリマンシールみたいなのを、全く無関係な包装やチラシなどのゴミになってしまう「駄コラ素材」からコラージュしてみようという、一見、何が楽しいのかわからない遊びです。ですがやってみてください。キラシールを自作する、というのは変なスイッチが入ります。何を言っているかわからないと思うのですが恐ろしいものの片鱗を味わったのでぜひやってみてください。みているだけではふーん、と思うだけです。やってみると違います。

こちらにきて味わい深いキャラクターや変な日本語を駄コラシールのために収集してきたのですが、どうにも時間がなくて、手をつけられていませんでした。一念発起して(確定申告から逃避するために)作りました。とても楽しいものでしたが問題が一点。「どこまでがコラかわからなくなる」という現象に陥りました。例えばこの牛。適度に目つきが悪く、まつげが可愛いのですが裏のパッケージと表のパッケージで縦横の比率がおかしいです。、これは私の加工ではありません。

どこからが駄コラか分からない。

なので裏のパッケージからウシを切り出すと縦横比が変な感じに。次に真ん中「ンエポヨラタンナ。」カタカナのようですが読めない。

「ライム」と正しい日本語も書いてあるのでもしかしたらカタカナをオマージュにしたデザインかもしれない。そして正しいのか間違っているのかわからないファミリーの感じ。

そして切り出した方がむしろ駄コラ感が減ってしまう、謎のパッケージ。このキャラクターのデザインが上下すらわからない。顔はどこだ。これスズメガの幼虫だと思うんですがどうでしょうか。

そして機械翻訳だろうと思われるよくわからない表現。(最近は機械翻訳の精度が向上したせいか変な日本語が減ってきた気がします。)日本で売られているもののパッケージには誤字はまずありません。なのでそこがガバガバな日本語パッケージがむしろコラ感が増してしまっています。駄コラシールは「きちんとした目的と表現を持つパッケージ」を台無しにすることも一つの楽しみだったのに、もうパッケージ段階でパロディが始まっている感じです。なんとも気が早いぞ。

余分な強い
素材からすでに駄コラ感が強い。
そして誤字。惜しい!あと一息。

ということでリフレッシュできました。という話でした。