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アウトサイド・ジャパン展にいってきました。

アウトサイドジャパン展。櫛野展正さんというキュレーターが日本各地からアウトサイダーアートを集めて、一堂に展示する企画展です。アウトサイダーアートとは美術教育を受けていない人の芸術作品、と(この展覧会では)定義されています。

せっかく日本に帰っているので、実物を見ておこう、というものを重点的に見てきました。

昔から気になっていたのはこの昆虫標本を使った像。「ラベルのない標本は(学術的に)無価値だ」というのはよく言われますが、ではこの標本の集合体は無価値か、と問いかけられます。好きか嫌いかはさておき存在感がすごい。そして学術標本並みによく管理されている。ぞんざいに扱われたのではないことがしっかりわかります。

一番モヤモヤしたのはこの作品でした。写真を撮ることも何だかためらわれて残っていないこの方の作品。「普通の人が誰に見せるわけでもなく家族年賀状を妙に気合いを入れて20年作り続けている」ことが一つのアウトサイダーなんですが。

各家庭に潜んでいる、家族がノってきてしまったことでどうしようもなくなった謎ルールとか謎行事の一つを、つまみ出されて公衆の面前にさらされて「アートです!」と言われてしまった、プライバシーに守られた自由な表現空間だったものから「観覧者の欲望にさらされる」という、恥ずかしい日記を見られたような。強烈な羞恥心に襲われました。

アウトサイダーアートはもしかしたら自分が昔描いた誰に見せるでもない変なイラストが発掘され、ある人が「素晴らしい芸術だ」といい、またある人が「いや単なる駄作で見る価値もない」と言い合うのを見せつけられるということなのです。

これはかなり辛い。そしてその辛さを全ての表現者、つまり全ての生活者が持っている、ということを突きつけられた感じです。

受刑者の監獄の中での時間潰しとして、病気の中での平常心を保ち続けるため、何らかの人とのつながりを作るため、そう行った「必然」によって生まれた如何しようも無い表現の欲望を一方的に「鑑賞しにきた」つもりが、自分の人生や生活、そして(心当たりのある)数々の見せたくもない説明のしようもない表現物を、いきなりアートとして陳列されてしまうことの暴力性のようなものも感じました。

さらにいうと、このキュレーションにおいて彼ら美術教育を受けていない(つまり陳列されて評論を受ける準備のできていない)人に、この展覧会に出品させたその交渉そのものが見事なキュレーションのパワーだなと。もちろん中には頑なに拒否をして展示に至らなかった人もいるだろうと思いますし、私だったら最初は恥ずかしくて出せないと思います。そういったアートの教育を受けていない人が出品していること。そしてアートの教育を受けていない観覧者が、見にきたつもりがそこに巻き込まれると晒されかねないスリルを提供すること、そんな荒々しくエネルギッシュな空間を味わうことができました。

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