大阪府箕面公園昆虫館の館長、こぶ屋博士がいきなり、こんな問題提起をしてくださいました。
いきなり何ですが、「不快害虫」という概念が成立してそれに沿う昆虫が存在するのであれば「愉快益虫」とか「癒し益虫」という概念が成立しても良さそうな気がするけど、どうなんだろう…。まぁこういう「社会昆虫学」みたいな分野は専門外すぎるので深く考えるのはやめておこう。
— こぶ屋 (@kobuyahazu) 2018年11月15日
これに対する私のアンサーはこちらです。
殺虫剤と法の関係だとおもいます。本来は「害」のある虫でないと駆除のために薬を使えないので、具体的な害が想定される農業害虫は農薬取締法、衛生害虫は薬事法で用法用途が縛られます。不快害虫を殺す家庭用殺虫剤は薬ではなく家庭で個人の好みにより使われる化学物質です。https://t.co/eqT7hKrV4M pic.twitter.com/1gylml86vn
— 蟲喰ロトワ 昆虫農家 蟲ソムリエ 6月からラオス (@Mushi_Kurotowa) 2018年11月15日
なるほど!何らかのリプをいただけるものと思っていましたが、これは勉強になります。
— こぶ屋 (@kobuyahazu) 2018年11月15日
サポートできてよかったです。「不快害」は当事者のお気持ちなので、農業害や衛生害と同列にはできないですね。では不快を感じていない人と感じている人の間で、殺虫するかどうかを交渉できるか、というとそうでないことが多いですので「愉快益虫」を泣く泣く見殺しにした事案がいくつも生まれます。
— 蟲喰ロトワ 昆虫農家 蟲ソムリエ 6月からラオス (@Mushi_Kurotowa) 2018年11月16日
「愉快益虫」「癒し益虫」の周りには必然的に悲しいストーリーが多いですね。農業害や衛生害は可視化できるので交渉可能ですが、不可視な概念で測定できないほど個人的な「不快害」が交渉不可能、というのはその害の大きさを比較してちぐはぐに感じてしまいます。
— 蟲喰ロトワ 昆虫農家 蟲ソムリエ 6月からラオス (@Mushi_Kurotowa) 2018年11月16日
害虫に対する基礎知識は「害虫の誕生」をお読みください。すごく面白いっす。
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さて、改めて考えてみましょう。
よく聞く名称である「不快害虫」というのは「愉快益虫」の対義語なのでしょうか。
快不快、というのは個人のお気持ちです。
益虫、害虫というのは先の「害虫の誕生」にもありますように、社会の判断です。
害虫の誕生は殺虫剤の誕生と強く関連します。殺虫剤によって取り除ける「害」であることが認識される前は、虫の害は風水害のような天災の一種でした。
農学研究においては「害虫化する」あるいは「潜在的害虫」と呼ばれるように、地球に生活している昆虫たちの多くは無益無害です。
また、害虫という虫がいるのではありません。害をもたらしたことでその虫を害虫と呼ぶ、つまり害虫は事後的に決まるものなのです。
事前に決まるのは「害虫可能性」といった確率的パラメーターぐらいでしょうか。基本的に、潜在的害虫も生態系の一員ですので、いくら害虫可能性が高くとも、
予防的に殺虫することはほとんどできません。
例外的に、衛生害が極めて大きいマラリア感染地域における蚊や、農業的に被害の大きいウリミバエなどの、侵入して間もない侵略的外来種などは予防的に不妊虫放詞などで選択的な個体数抑制が行われます。
さて、独立するパラメーター「快不快」「有害無害」「有益無益」を以下のように分類しましたが、これはどうにも「不快害虫」の一般的な用法と一致しません。
この分類では不快、でかつ有害なものが「不快害虫」と呼ばれるはずなのですが、そのような用法は見たことがないです。これらは単に害虫と呼ばれます。
「不快益虫」「不快無益虫」「不快無害虫」といった、社会的に有害有益と判断されていない、あるいは有益と判断された虫が「不快害虫」と紛らわしい名前をつけられて総称されているのです。
ちなみに「害」を想定しない「不快虫」は「Nuisance」という用語があります。個人のお気持ちとして不快に感じる虫、なので不快虫に対して散布される殺虫剤はプライベートな空間での使用を目的とした「家庭用品」なのです。
ようやく見えてきました。「不快虫」を「不快害虫」と読んでしまうことで、この用語に混乱が生じているのです。
つまりこぶ屋博士のいう「不快害虫」は「不快虫」と読み替えるべきで、「愉快虫」が対義語になります。
形容詞としての快不快は、個人のお気持ちに属しますので、虫そのものを不快をひきおこす、愉快を引き起こす、と形容するのはあまり普遍性がありません。
ある人にとっては愉快な、またある人にとっては不快な、あるいは時と場合と場所によって、愉快になったり不快になったり。虫と人との関係は一定ではありません。
「おいしい牛乳」みたいなものと考えていいかと思います。
あなたにとってのおいしい牛乳があるように、あなたの心の中に愉快な虫、不快な虫が住んでいるのです。
また、農業には農薬取締法、衛生害虫などの殺虫には薬事法が使われ、明らかな被害と、それに対する効果がはっきりしているものしか使えません。
殺虫剤は耐性昆虫を生みますので、メリットとデメリットをきちんと検証せずに、お気持ちだけで好き勝手に野外に撒くことは、「殺虫剤の効かない虫」という虫嫌いにとっては恐怖の昆虫を生み出すことに加担してしまうのです。
一方で、「不快害虫用殺虫剤」の法律上の区分は化審法ですので、
「農薬や殺虫薬品と同じ殺虫成分を含む家庭用品」です。「今日の髪型を保つためのヘアスプレー」と同じ扱いになります。つまりプライベートで楽しむぶんには家庭用殺虫剤を使っても構わないですが、それが社会の常識といいはったり、野外や農地で噴霧するのはよろしいことではありません。
ヘアスプレーで例えてみると
「他人の家に来てヘアスプレーを散布する」とか「他人にヘアスプレーの使用を強要する」というと、そのパーソナルな用途がわかりやすくなるかと思います。
さて、家庭における殺虫をプライベートな事案として押し込めてしまったことで、殺虫せざるを得ない、虫が苦手で、虫の情報も、虫の対処法も、ググることすら不快が強すぎてできない、という情報の少ない人達が生まれた、と考えられます。彼らは自らの不快を虫からの「被害」とすり替えてしまうことで、勇気を奮い立たせて「私刑/死刑」をしているのでしょう。
しかし、そのような私刑の後に残るのは、虫の死体です。「死体の方が怖い」もしくは「生き返ってしまうのでは」という恐怖にも襲われ続けます。それにより、家庭用にはより強く、より素早く動きを止め、神経に作用するタイプの強い薬剤が好まれていくのでしょう。いつまでもエスカレートし続けることでしょう。私たちも彼らも生きているだけで、遭遇は互いにとっての不幸な事故で、人間側が「なれる」ことでしか、この事故のダメージを減らすことはできないからです。
さて、今こそ、虫に対する法的な議論を始めるときです。
好き嫌いに関わらず、そろそろ昆虫は食用になります。
ラオスではすでに食用です。最先端です。
昆虫に対する人類の社会的態度とはどうあるべきか。
「不快に感じる人もいるんだから殺虫すべき」なのか
「ペットや食用にする人もいるんだから殺虫剤は公害」なのか。
「愉快に感じる人の目の前で昆虫を殺すことは嫌がらせ」なのか。
「飲食店で食用の昆虫を逃してしまったときは威力業務妨害」なのか。
いろんな事例で考えられますね。
いまこそ。昆虫の社会的扱いについて、家庭用殺虫剤メーカーに任せずに、虫好きも、虫嫌いも一緒に始める時でしょう。
では、「虫が苦手で画像すら見たくない」という人に、このブログをみてくださいといえるか。
NOですね。風の噂ではだいぶキツイそうです。
「虫ユニバーサルデザイン」というものも考えていきたいと思います。
ピンバック: 「未来と芸術展」を見てきました。 | 蟲ソムリエ.net