2ヶ月前になってしまいますが、3月10日、お誘いいただいたので要旨を書いて応募して、発表してきました。英語発表めっちゃ緊張しますね。なんでこんな異分野に踏み入れたのかといいますと、2年前、読書をしていたからです。
そしてTwitterでつぶやいていたところ
読んでわからんわからん、、と、うんうんとうなっていたところ、訳者の太田先生からメッセージが届き、やりとりしていたら「発表してみませんか?」とのこと。
いやーとっても良かった。「日頃、重要に思っていたけどこれってなんて名前で呼んだらいいだろう?」みたいに思っていた概念がバチッバチッと用語を得て脳内でハマっていって、とても刺激的な体験でした。
やはり問題は一緒で、研究者が、貧困の現場に来れないことで、網羅的、体系的に物事をとらえるべき研究分野全体が偏り、学問の進歩が大きく遅れているだろう、ということをあらためて理解できましたし、
研究者が現場に行って、当事者の困難と直面したテーマの研究のほうが、既存研究、先進国のこれまでの態度に対する批判の切れ味が鋭くなっていました。では昆虫食でも「同じような問題」が起こっている、というべきか「違う問題が起こっている」というべきか、どうにか魅力的なロジックに起こしていきたいところですが、今回の学会発表ではまだ、事例紹介が主になってしまいました。察しのいい研究者のみなさんは、そこに倫理学上の本質的な問題があるぞ、ということはあっという間に感づいてくれたようです。が、私のまだまだ力不足。
次の課題は、食農倫理学の研究者が、昆虫食で成果を出したり、論文を書いたりするようにできるにはどう介入できるか、というところでしょうか。(私が書くことも含めて)
今日、深刻化している様々な問題は「厄介な問題」(wicked problems)と呼ばれており、残念ながら明快な解決策があるわけではありません。これらの問題に対処するためには、フードシステムの多様性と、経済、産業、文化、健康、生活、自然といった他のシステムとの複雑で精緻な相互作用に、注意深く目を向け、読み解いていく必要があります
https://www.apsafe.online/apsafe2023/apsafe2023-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/
いやほんとそう。しかしさ、なんで昆虫食の発表がこんなに少ないの?と思ってしまうほど、ラオスで私達が典型的な問題に直面しているものの、書籍でも、学会でも、昆虫食が題材に扱われない点について、やはりうがった見方をしてしまうわけです。「この食農倫理学という分野全体が、昆虫を食べない人たち=つまり先進国エリートだけの「群盲、象を評す」によるものではないか?」と。
また一方で、「彼らが触れている典型的な食の問題が、昆虫食でも顕著に起こっているということは、食材の事情によらない、普遍的な知(問題提起)がここに存在するのではないか?」ということも同時に感じるわけです。
まだ私の中に答えはないです。大前提として、「厄介な問題」を説明するだけの絶対数としての研究者が足りない。そして足りない中、個々人の研究者の「好奇心」にその分散を頼っている、ということは、国際協力における優先順位の付け方との競合が起こりうるのではないか、とも思うわけです。その一方で、好奇心が有限な資源であることも理解していて、「有限な資源である好奇心をどのように社会課題に向けて分配しうるか」あたりも、考えています。
現状、研究者の好奇心にナワをつけるわけにはいかないので、自由な好奇心に任せているわけですが、そうするとアクセスの悪い昆虫食は後回しになってしまっているわけです。
感染症研究におけるデング熱のような、途上国の人たちの命だけを奪う「NTDs ネグレクテッド トロピカル ディジーズ(無視されてきた熱帯病)」では、名前がつくことで、ようやくその遅れが認識され国際プロジェクトが組まれた、という経緯があります。
しっかり昆虫食が「ネグレクト」されていることを明らかにし、「ネグレクトされてきた昆虫食農倫理学」を改めて組み直し、ではどうしたらいいのか、「開発昆虫学」あたりで、応用昆虫学・民族昆虫学・文化昆虫学を統合して再構築するような形を、悶々と考えています。