コンテンツへスキップ

1

ラオスに来て、見聞きするものを踏まえて、昆虫食の未来について考える日々なのですが
どうしても日本で昆虫食の未来、というと、昆虫を食べない人たちがマジョリティである社会の中で考えるしかありません。とても窮屈ですし、その窮屈という自覚がないと、自分の発想力の範囲で、未来を考えてしまうことの狭さにも気づくことができません。

最近ラオスに来る機会のない人たちとのコミュニケーションにおいて、「ピンときやすい」と感じられるのが、日本人にとってなじみの深い、魚食からの概念メタファーです。

メタファーというのは厳密な議論には向いてないので、こういった魚食からのメタファーを使うことで、昆虫と魚で異なる社会的背景、技術的背景を無視してしまう危険性があります。あくまで、「居心地の悪さを直感的に」共感してもらうためのツールで、そこに気づいてもらえたら、次の正確な議論に戻る必要があります。

ですが居心地の悪さ、というのを共感してもらえないまま進むと、他人事になってしまうので、「あちら側の問題」と認知されると、それはそれで議論が進みません。このへんはツールのきっぱりとした使い分けが必要になります。あくまでこれは共感のツール。ロジックの場面で使い続けるものではないです。

「昆虫食は見た目が問題だ」「すりつぶせばいいだろう」というアイデアの居心地の悪さを説明するときに使うのが、タコのメタファーです。

「いやいやそうではないだろう」と、たこ焼きに親しんだ私達は直感的にツッコめますし、このようなチームが魚食の未来を語ることに不安を覚えるのではないでしょうか。

ではなぜツッコめるのだろう、このチームにどうやったらこのツッコミが伝わるだろう?と考えると、そろそろロジックに戻ってきましょう。昆虫食に置き換えて、慣れ親しんだ人たちから、このチーム(つまり昆虫食の未来を考える私達)がどう見えるのでしょうか。

こういった比較のロジックは、昆虫食と他の食材の「安全」について考えるときにも役立ちます。
昆虫はダメ、なぜなら昆虫だから。ではトートロジーで何のロジックもないことはわかるかと思います。

その先に昆虫のどういった性質によるものなのか、という部分において、昆虫とその他の食材をフェアに比較する必要が出てきます。ところが、昆虫を日常的に食べない人たちだけのチームで物事を考えると、やはりバイアスがかかってしまい、そのバイアスのキャンセルは、究極的にはチーム編成を改善する以外に解決の方法はありません。

チーム編成を改善する下準備として、今のチームのバイアスを自覚するためのツールとして、限定的にこのメタファーによる説明を試みています。

「昆虫を食べたことがある人が少ないから」であれば種選別があいまいな「ちりめんじゃこ」も禁止にすべきではないか。(フグ混入のニュースがありました)

「採って食べる人たちと養殖は違う」のであれば、魚を買って食べたことのない漁村出身者は魚食文化から外していい?むしろ養殖技術の社会実装を目指すにあたって、豊かな魚食文化の先輩として教えを請うべきでは?

などなど、いろいろ一般向けのネタを仕込んでいます。