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久々の更新です。

最近は外に出せないタイプの問い合わせ対応がふえ、ラオスにいながら、ラオスに来たことがない相手に伝わる表現をいろいろと開発しています。その一方で、これまでのような自分が好きなように書きなぐり、書きっぱなしのブログを書く機会が薄くなっていました。

さて書いておきましょう。「銅鉄研究を超えていけ」という若い人へのエールです。

昆虫食がこれからの食料としても、有力な候補じゃないかと世界的に注目されたのがわずか9年前。2013年のことですが、それ以前からずっと、さかのぼると1890年ごろから「可能性」は指摘されつつ、本格的に養殖をベースに技術開発しようという機運になったのはごくごく最近のことです。なので「他の食材でやられてきたけど、昆虫でやられていないこと」がたくさんあります。まずはその差を埋めていこう、というだけでも今は、十分な研究になります。

「銅でやられていた研究を、鉄でもやってみよう」という態度を銅鉄研究と呼びます。アイデアとしては素材を変えただけで、研究としての発想の新しさはあまりない、という軽いディスりの意味で使われることが多いですが、とはいえ一つ一つの研究は軽んじられても、分野全体の体系化、網羅性にとって一つ一つの銅鉄研究の積み重ねは重要です。

「銅鉄研究」は実験作業の内容が同じでも、視点を変えるとその位置づけは大きく変わります。

「昆虫Aでやられていた生活史研究を、昆虫Bでもやる」という基礎昆虫学の論文に、昆虫食という新しいコンセプトを吹き込んだとたん、とても頑強な養殖基礎研究になるのです。ゾウムシの養殖がうまくいかなかったときも、その生活史研究の論文がとても役に立ちましたし、書かれた当初は産業化を全く意識していないわけですから、その論文において、都合のいいウソを書く必要がないわけです。安心してその記述が本当だろう、と鵜呑みにできる上質な情報になります。(もちろん再現できましたし、養殖マニュアル開発の役に立ちました)

つまり基礎研究という視点からは、銅鉄研究らしい網羅性が大事で、利害関係がなく誠実であるほうが好ましく、その効果は数十年後、へたすると数百年後に効いてくるので、公共性が高く、逆に言えば短期の収益化とは相性が悪いのです。

逆に、銅鉄研究的な視点から抜け出せないと、視野が狭くなり研究が苦しくなります。

他の食材でもやられてきたことを昆虫でも、というのはもちろん大事なのですが、そのような「昆虫でもやってみた」という研究をする中で、別のマイナーミート、たとえばダチョウ肉や植物タンパク、培養肉でも同じになってしまったり、比較してみると昆虫以外のほうがいいスコアを出していたりすると、結局「昆虫食の」研究の意味合いが薄まってしまうことがあります。

「それ昆虫じゃなくても言えることじゃない?」という疑念がわきおこると、あえて昆虫を題材にする必要があるのか、素材としては昆虫だけれど、追求したいテーマは「昆虫食」じゃないのではないか、と研究中に迷子になってしまう場面をよく見るようになりました。つまりは「視点」が不足しているのです。

私が今、挑戦している「視点」は、「なぜ昆虫が、昆虫食がいままで置き去りにされてきたか」という社会的背景です。分野としては開発学>国際保健学>国際栄養学>昆虫食という入れ子構造になります。

先進国である私たちは、より貧困な国に商売をふっかけ、土地や賃金を安く買い叩くことで、大きな富を得てきました。しかしこの格差がひどくなると、第二次世界大戦に代表されるような巨大な紛争や、そして今まさに進行中のウクライナやミャンマーといった、住民の人権を台無しにする紛争地帯を生み出します。すべての人権が守られることが理想なのですが、できるかぎり強い人権侵害を避けていこう、と作られた国際的な枠組みが国連で、その試行錯誤の中で体系化されたノウハウが開発学になります。

もちろん失敗もあります。支援すべき、という合意の中で「どうやって」支援できるのか、やるからには、同じ予算でより効率がよくするのはもちろんのこと、「Do no harm(せめ害悪は及ぼしてはならない)」という規範が、国際協力における原則となっています。

開発学の分野ではNGO(非政府組織)も重要な役割を果たします。「政府じゃない組織」なんて山ほどあるわけですが、ここでのNGOは政府の機能を補完する民間の立場のことです。たとえば2国間、多国間での政府開発援助(ODA)では、政府同士の合意によって大きな予算が動きます。それらが政府の別の思惑のために使われたり、予算は降りたものの現場の困っている人に届いていなかったりするときに、現場まで赴いて、その問題をあきらかにし、改善を提言するのが、NGOの役割です。

そして今、私はNGOの活動として、ラオスで昆虫養殖を進めています。これまでODAにおいても、もちろんNGOの活動でも、昆虫食はほとんど支援されてきませんでした。なぜなら先進国側が、支援できる食文化や技術をもたなかったからです。しかしその一方で、ラオスで活動する政府職員やNGOのスタッフに話を聞くと「たしかに昆虫をよく食べている」というのです。つまりNGOの立場から、ODAではピックアップできなかった「草の根」の技術開発を提案しているのです。

また栄養分野では、「食習慣をかえさせるのは大変だ」という話も聞きます。国際保健学において、栄養は近年可視化されてきたホットな領域です。2000年からのMDGs(ミレニアム開発目標)では、ワクチンなどの感染症対策がめざましい成果を挙げ、ラオスの田舎にも津々浦々まで、乳幼児の基礎的なワクチンが行き届いています。その結果、乳幼児死亡率は世界全体で劇的に低下しました。一方で、ワクチンだけでは予防しきれない、NCD(非感染性疾患)の影響力が見えるようにもなってきました。農村部の低身長、栄養不良はラオスでは長年解決されず、栄養教育などで「栄養をとろう、食べよう」と声かけをしても「お金がない、時間もない」と、定番の言い訳をされてしまい、行動変容に至らないのです。

「じゃあすでにみんなが食べているものをもっと食べられたらいいだろう」という素朴な視点が、昆虫食プロジェクトの基本アイデアです。採集してまでとりにいく、おいしくて希少な食材が、子育て中でも、妊娠中でも安定して食べられる、売れるのであれば、彼らの生活をほとんど変えることなく、乳幼児の栄養へのアクセスをより高めることができるだろう、と。幸いなことに、昆虫は彼らの採って食べる日常食のひとつで、売ると豚肉より高い高級食材でもありました。そこでマッチングしたのが、不足しがちな油、ミネラルを多く含む、ゾウムシだったのです。

もちろん困難は続きます。ラオスにも、日本にもスペシャリストがいなくて孤独です。タイ語で出版されている教科書もいまひとつ信用できないので、養殖技術をあらためて検証しつつ、効果のはっきりした技術をピックアップしました。また販売実験もしていますが、都市部の住民はもう昆虫を食べなくなってきているようで、ゾウムシを気持ち悪い、というひともいるようです。

とはいえ、この困難が「先進国が、途上国の伝統文化を劣ったものとしてプロモーションした結果の状況」と考えると、困難を理由にこの活動を止めるわけにはいかないでしょう。彼らの伝統文化が、一躍最先端の食材として認知されるチャンスなわけですから。このチャンスを「後進性の利益」といいます。

たとえばラオスでは固定電話の普及の前に、携帯電話の普及が進みました。なので固定電話網のコストが掛からず、田舎まで携帯が使える状態になりました。遅れているならば、遅れているからこそ、最短で先頭に出られる機会があるなら、利用したいものです。

さて、社会的背景をみる視点ができることで、昆虫食に関わる技術がどのように使われるべきか、「倫理」の枠組みがはっきりしてきます。彼らの栄養状態は両親が出稼ぎに出ると、悪化してしまうので、養殖は田舎で分散的に行われた方がいいでしょう。田舎の自給自足の飼料を使い、都市部とのアクセス格差に負けないような、農業組合ができていくといいでしょう。

逆に、はっきりとしたディストピアの未来も見えてきます。考えてみましょう。

効率のいい自動化の進んだ昆虫工場を、消費地である都市近郊や、先進国に輸出するための貿易港の近くに建設します。その建設に関わる作業員は、ラオスの田舎からの出稼ぎ労働者です。労働者本人だけでなく、村に残された子どもたちの栄養も悪化することが知られています。昆虫工場は、出稼ぎ労働者のような低スキル労働者だけで回せるよう、半自動化が進んでいましたが、今年はより自動化を進め、全ての労働者を解雇し、完全自動化を達成しました。「生産過程において労働者を搾取することなく、効率よく、完全自動で、栄養豊富で安価な昆虫」だと。多国籍企業の代表は宣言し、ESG投資の格付けがアップしました。

安価な昆虫は、農村部の市場をも侵食していきます。採りにいくより安い値段で、パッキングされた昆虫スナックは田舎にひろがってきました。その多国籍企業は「慈善活動」として、貧困地域に無料で昆虫を配り始めました。そうすると田舎の不衛生な昆虫は売れません。売れないのならばと、この地域では殺虫剤を買い求める農家が増え、収量はアップし、昆虫は減り、殺虫剤耐性昆虫だけは増え、新製品の殺虫剤は売れに売れ、環境への負荷は増大しました。もちろん殺虫剤を買えない世帯の人達は、これまで採れていた野生食材が減った、となげいていますが、貧困から抜け出せないほど怠惰だから、彼らは栄養が足りていないのです。自業自得でしょう。

といった感じです。(配合飼料やファストファッション古着でこういったことはすでに起こっているわけですが、それはそれとして)

ツムギアリの幼虫と成虫をわけるライフハック。蚊帳のきれはしをぐるぐる回すと、爪のある成虫が分離される。

さてそうすると、生物多様性条約、ABS条項との衝突が想定されてきます。生物多様性条約における「遺伝資源」には伝統知識も含まれますので、伝統的に昆虫を食べてきた人たちが昆虫食の継続や主体的な発展から追い出され、衛生的で効率的に、都市部や工業地域で養殖された昆虫に置き換わるとしたら、これまで伝統医薬が先進国製薬会社にフリーライドされたように、昆虫食も「文化の盗用」をされてしまうでしょう。

さて、じゃあどうすればいいのか、というのはもうFAOが前から言っています。とくに私から新しいアイデアを出すものではなくて、「先住民のフードシステム」が未来の食糧生産のモデルを提示するだろう、と見通しを立てています。

先住民の生活のうち、持続可能でなかった集落は滅びたわけですから、「利用の権利と責任が融合している」と評されています。いままで持続してきた生活の中から、これから未来に渡っても利用可能な賢い生態系利用、ワイズユースを見つけていこう、と。

そうすると、
いまの先進国の「効率化された農業」は、必ずしもエネルギー効率が高くないこともわかってきます。

資本効率、つまり資本を投入すると、確実に儲かる方向に技術を磨いてきた、これまでの農学のコンセプトでは、環境問題に対して効果的な技術とは言い切れません。もちろんその中から、ワイズユースとしてピックアップできるものもあるでしょうが、それは「その地域に住む人」が選べるようになるのがいいでしょう。つまり先進国が溜め込んだ、様々な自然科学の基礎研究や農学の応用研究の中から、「何を利用して生活するか」を、田舎にいる彼ら自身で選び、発展させていくのが、これからの「開発」なのです。これは「参加型開発」と呼ばれ、その中で研究が必要であれば、そこが研究現場になるのです。

熱帯感染症研究の中心地が途上国に移動したように、農学の研究の中心地も途上国へ移動する、と予言しておきましょう。温帯の先進国はこれから当分は温暖化するわけですから、プロトタイプは暑い地域で進めたほうが、未来のためでしょう。そしてもちろん、その恩恵をいち早く手にすべきは、「後進性の利益」を享受する、途上国になったほうが、世界全体の幸福を底上げするイノベーションになるのではないでしょうか。

最後に、話を銅鉄研究の話に戻しましょう。他の食材でやられてきたことを昆虫でもやる、という「銅鉄研究」をしながらも、新しいコンセプト、アイデア、そして時代背景を踏まえた理解と説明があれば、新しい視点の研究は、もはや銅鉄研究とは呼ばれないのです。つまり銅鉄研究を乗り越えると、その先にあたらしい研究の形が見えてきます。

そしてそのコンセプトやアイデアの源泉は、高等教育に恵まれた「困ってない」私達ではなく、「今、困っている人たち=マイノリティ」が持っています。彼らと一緒に地域課題解決を繰り返す中で、未来のための生態系利用「ワイズユース」の選択肢が開発されていくでしょう。そこに昆虫が使われる地域もあれば、使われない地域もあるでしょう。SDGsでも宣言されるように、社会、経済、文化、環境、それらが調和する形で、住民目線から多様な農業の開発と、地域最適化が行われていくことを期待します。

実はこれは、ラオスだけのことではなくて、日本の地域課題解決と昆虫研究とを組み合わせることで、新しいコンセプトで問題解決にチャレンジすることができるようになります。これまで「役に立たない研究」と大学からディスられてきた昆虫学研究者を巻き込むことで、見逃されてきた地域資源を見出すことができれば、もはや昆虫学は「役に立たない研究」ですらなくなってしまうのです。