コンテンツへスキップ

久々の更新です。6月24日に渡航許可がおりましたので、正式にラオスに行けることになりました。

依頼の原稿をこなしていると、無料でブログを書くことがなんだか億劫になってしまいがちですが、好き放題書けるこの空間を大事にしていきましょう。いちおう独自ドメインでやっている以上、プラットフォーマーからはそこそこ自由でいられる、はず。

以前の「専門知を再考する」から引き継いでいる問題です。

昆虫食に一言も触れていない書籍を買って、昆虫食「で」批判的に読み込む。

こういう読書の方法を「コンセプチュアリゼーション=文脈化」と指摘していただきました。先の専門知の中には、そのコミュニティに属しているから得られる文章化できない暗黙知が含まれているので、専門分野ごとの「文脈」があります。

構築された文脈に対して、まったく言及されない昆虫食を「あてこんで」意地悪く読み解くことで、分野横断的な対話を発生させたり、脱文脈化、再文脈化を繰り返して、異分野同士に糸を渡していくイメージでしょうか。

さて、この論文も「昆虫食で」読んでみましょう。

地域の哺乳類や鳥の行動と収斂する傾向が、となったときに、わたしはいちはやく「昆虫食ってるな」と読みたくなるものですが、この著者はデータすらとっていません。これは怠惰なのか、それとも、、偏見と解釈していくほうがいいかもしれません。「昆虫を食べてない地域で高等教育を受けた研究者の割合が高すぎる」という貧困格差からくる、教育機会の不均衡の問題へとつながっていきます。

じゃあさらに、農地に殺虫剤を撒いて害虫と益虫を消費する食生活は、昆虫食の哺乳類や鳥と「収斂」しているのか?とまで考えると、殺虫剤式の農業が、野生動物と同じように昆虫を食べる食文化を維持することを困難にしてきたことまで、推測できます。殺虫剤は社会を豊かにしたことは確かですが、昆虫食というマイナーな文化を継続したまま、豊かになる道を閉ざしてしまった。つまり昆虫を食べない、殺虫剤を使う農業にコミットしたほうが高等教育にありつけるのです。

ジェンダーの問題でも、狩猟は男の仕事、採集や家事は女の仕事、というのが偏見から見逃されていたことが指摘され始めました。3割から最大5割は狩猟者は女性で、これまで男性研究者が多い分野だったことから、そこに懐疑的になる研究者がいなかったのでは、という指摘です。

私が妄想するのが、30年後、ラオス出身の食の哲学者が、私がラオスでやっている昆虫養殖事業の暴力性を批判する未来です。採集食という地域の生態系の様子を直感的に会得する機会を奪い、農地を広げ、ビジネスの材料へとした行為は、おそらく責められることになるでしょう。なってほしい。

そのときに、当時選択できた他の選択肢よりかはいくらかマシ、と言えるぐらいの理論武装はしておきたいものです。

この高等教育の不均衡の問題は、現行の資本主義を批判する文脈での弱々しさへとつながってしまいます。

都市生活者で高等教育を受けた、先進国の若者が批判した先には、彼らよりずっと困難にさらされている途上国の田舎を救うアイデアが出せませんし、彼らは批判者として先進国で「仕事」をしていますので、世界の田舎を救うインセンティブがないのです。これはいけない。上手に批判はできるけれど、代替案は出せない。そして今まさに作り出そうとしている昆虫食についても、批判者になってくれない。不耕起栽培や有機農業の弱々しさも、

有機作物の市場を背景とする温帯の農業の逆張りの一つ、として、慣行農業を批判することはできても、じゃあ昆虫が豊富で温かいラオスでも同じことできるの、という代替としての頑強さはありません。そしてそれを検証しようともしていないし、あったとしても新しい有機農業が誕生するのではなくて温帯での農法を移転するだけ。

そういう意味で、昆虫食を切り口にした、既存の学問分野、業界における「脱文脈化」と「再文脈化」が、これからの対話型専門知の構築を目指したい、昆虫食の役割だろうなと思っています。既存の学問分野において昆虫食を切り口に考えることで厚みが生まれ、頑強さが出るような「利点」が見えてくれれば、おもしろいのではないかと。

ということでまた読書に戻ります。