昆虫食の推進するにあたっての大きな壁となっている、「虫が嫌い」という概念を理解して、これからの「虫」の社会的位置づけを考えようとしています。しばらく試行錯誤していたのですが、少しばかり前進がありましたのでかるくまとめておきます。
キーとなるタイミングは「虫の死」ではないかと。そして虫が死ぬ際に生じる「さびしさ」こそがこのストレスの本丸なのではないか、と思い始めました。「嫌悪や怒り」を示しているのかと思っていたのですが、どうも雰囲気が異なる気がしてきたのです。
ヒトは多様ですし、虫はもっと多様です。そしてヒトと虫の相互作用によって行動はさらに可塑的になります(あなたが手を出すことで、虫が動くのです)。
膨大なパターンの「虫とヒトの出会い」があるでしょう。そして不幸な記憶、トラウマ記憶の恐ろしいところは、フラッシュバックという現象があることです。目の前に虫がいるだけでなく「トラウマ記憶を想起させる虫に関する断片的な情報」があるだけで、虫とヒトの不幸な遭遇体験がリアルに再現され、そのストレスがまた虫に対する拒否感を再生産するという悪循環をうみます。そしてその拒否感の再生産は事実かどうかを問わない(妄想によってすら加速する)のです。これはおそろしい。
そして「多様な虫に対する体験」は、多様すぎて一般化できない、そして多様すぎて体系化できない難点があります。
「人それぞれ、虫それぞれでなんとも言えない」というのが虫嫌いを克服したいと相談されたときの私の返答なのですが、当然ですが残念そうな顔をされます。
どうにか虫と人の関係性で、特に普遍的な、多くの人にとってキーポイントとなる切り口を考えたいと思っていました。そしてそれが、「虫の死」による「さびしさ」ではないかと考え始めています。
気づかせてくれたのはバイリンガルニュースでお会いしたMamiさん。
これは可愛い...!私の虫への苦手意識って、死骸ばかり遭遇してきたことが大きい気がする。桜並木に大量に落ちてる毛虫、ゴキブリが殺される様子、サラダの中で動かないイモムシ。カエルも全く同じ理由で苦手だった。出会う時は大体死んでてしかも毎回ドッキリ。魚や哺乳類でそんなことないもんな... https://t.co/pVfDWQRZFb
— バイリンガルニュース (@Bilingual_News) October 18, 2019
わたしは食用も含めて虫が色んな意味で「好き」になっちゃったので、共感的に理解することはできません。そのため、いわゆる虫を苦手とする人達に共感できず、いわゆる「センスがない」状態です。なんとも仕方がないことなので、言語化と推論でその全体像に迫っていこうと思います。
家庭用殺虫剤などを「虫ケア」で商標登録した会社がありました。
殺害を肯定するまでは人間倫理としてしょうがないと思うんだけど,殺虫剤の言い換えとして「虫ケア用品」という言い回しが出てきたときには「殺すだけでは飽き足らず,殺すという業を背負うことすら拒否したいんだな」みたいな欲望を勝手に読み取ってしまった
— スドー🍁 (@stdaux) October 17, 2019
あなたは虫が苦手で、生きた虫を殺さずにハンドリングする自信がない。そして分類の情報ももちあわせていない。そこに出てくる虫。分類するための記憶や情報もなく、虫から目を離して図鑑をしらべる余裕もない。生きたまま捕獲することもできない。
手にしたのは虫ケア用品、殺虫剤。
こう考えると、本当はたくさんの「虫と人の出会い(と別れ)」があったはずが、虫ケア用品によってそのほとんどを「死に別れ」という画一化した、そして決してハッピーではない結末へと誘導されてきたように見えます。
この感情は「さびしい」ではないでしょうか。怒りや嫌悪であれば、殺したことでもっとハッピーに(苦痛が取り除かれた状態に)なるのではないでしょうか。
「さびしさ」というのはなかなか不思議なストレスです。
さみしさ、疎外感、そしてノスタルジックといった様々な感情が混ざってる印象です。
「さみしさ」はたまに習った。決して悪い感情じゃなくて、スキルによってはとても楽しい時間にできる感じ。これはむずかしいな。さみしさの満喫方法。
— 蟲喰ロトワ プロ蟲ソムリエ @ラオス中部 次回帰国11月11日 (@Mushi_Kurotowa) October 17, 2019
<blockquote class="twitter-tweet"><p lang="ja" dir="ltr">「必ずしも解消がゴールではない」のがさみしさストレスの複雑なところ。さみしがる、というコーピングもまたある。究極的に死別もそうだろうなぁ。さみしさ。</p>— 蟲喰ロトワ プロ蟲ソムリエ @ラオス中部 次回帰国11月11日 (@Mushi_Kurotowa) <a href="https://twitter.com/Mushi_Kurotowa/status/1184712039081467904?ref_src=twsrc%5Etfw">October 17, 2019</a></blockquote> <script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
昆虫が苦手、という方の中には「生きている虫より死んでいる虫のほうが苦手」とか、「昆虫が自分に殺すことを選ばせるので苦手」という方もいました。
私も昆虫が死んだらさびしいです。愛着のある生物として、養殖できた収穫の喜びとして、新鮮な食材として、そして興味深い好奇心の先として。そして私の好奇心や食欲によって殺された結果、もはや生きているときには戻らない不可逆性について。
いろんなさびしさが「虫の死」によってやってきます。
「昆虫が死んでさびしい」というのは虫好きも虫嫌いも共通に持ちうる感情として、もしかしたらひろく一般に共感できるのではないでしょうか。
私は生食を推奨しませんので、「虫の死」は昆虫食の前提として、なくてはならないものです。そして「食べる」ということが「昆虫が死んでさびしい」という気持ちを和らげるような気もしています。
また「食べるなら虫を殺していい」ようなコメントをもらうこともあります。一種の慰霊(食べて供養)のような仕組みなのかとおもいましたが、今考えているのは「さびしさの緩和」です。ほとんどの宗教も、死に別れに対する対応が含まれていると思います。かなり普遍的なストレスではないかと思いました。
「必ずしも解消がゴールではない」のがさみしさストレスの複雑なところ。さみしがる、というコーピングもまたある。究極的に死別もそうだろうなぁ。さみしさ。
— 蟲喰ロトワ プロ蟲ソムリエ @ラオス中部 次回帰国11月11日 (@Mushi_Kurotowa) October 17, 2019
虫の「死」のタイミングに生じる「さびしさ」に注目して、しばらく考えてみようと思います。なにかエピソードがあったら教えて下さい。