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なんと早くも第2巻。私が監修した13話も掲載されており、あとがきには、ありがたくも名指しでお礼の言葉まで!
昆虫食研究者冥利に尽きます。彼らの食と昆虫に対する真摯な姿勢と、作っているうちに不思議と湧いてくる食欲、そして「かわいいこが昆虫を食べ始めるのはなんと美しいのだろう」というフェチ心まで、見事に描写されていたと思うのですが、この作品に、少しでも貢献できたらいいな、とおもいます。

さて、この漫画は「昆虫食漫画」ではないですので、昆虫食が登場するのは1話かぎり、ですがそこに至るいろいろな生物に対する「愛で方」が様々な個性的な登場人物によって語られていき、そして時に(いや頻繁に!)対立します。
それは大きく変化し、立場によって変わり、そしてあやふやなものです。しかしこんな個性全開な人は日本にはあまり見かけませんので、現実世界の日本の「普通」は固着しているように見えます。もしかしたら西塚emさんがこの漫画でも、この漫画以外の作品でも常に訴えているのは「普通」というテーマかもしれません。

「普通」は日本においてはすごく重いことばです。普通じゃないことをメタ的に認知することで、あたかも普通かのように振る舞うことを強要された、普通じゃない人たちがいっぱいいます。というかそういう人だけで日本は構成されているかもしれません。なぜならすべてのパラメーターにおいて「ふつう」を叩き出す人間というのは確率的にありえないからですし、ある一定以上のパラメーターで「普通じゃない」スコアを取ってしまった人は排除されるからです。

数々のハイコンテクストなパラメーターを読み取り、その構造を理解し、自分の行動へと反映させることを、「ふつうのひと」は学校ではこなしてきました。私は幸いなことに生粋の変人という扱いを得られていたので、いつか普通の人になれる自分を想像しつつ、変人として振る舞うことでとりあえず社会の端っこで生きていくことを許されてきたように思います。ただの一度も「普通の人」であった経験はありませんので無理だとわかっていながらそういう生き方に憧れや嫉妬はあります。

そういった後ろ暗い過去のない人に、変人に扮して欲しくはないですし、そういった歴史のない「自称変人」に対して、私は厳しく当たります。
主人公のように、天真爛漫に明るいところで生きてきた人は明るく生きていって欲しいと思うのです。こっち来るなと。

こちらが一方的に見て愛でるためだけに、こっちに近寄りもせず、遠ざかって逃げていかない、そんな都合のいい「ふつう」を提供してくれるのが、この作品で大きく扱われている「標本」という言葉なのかもしれません。対照的に食べて消費してしまう、というのは標本からはかなり遠い愛で方といえるでしょう。しばしば対立します。元の形が残らない場合もありますし、風味や味付けでその生物への印象は変わります。食べる時の体調によっても味が変わるでしょう。そんな不定形な、それでも「一体となる」ことで距離がゼロを下回る、そんな甘い誘惑もあったりします。

さて、収拾がつかないので強引にラオスの話になって終わらせようと思うのですが、ラオスでは採集された昆虫を食べるのが「普通」です。お祝いのときはアヒルやヤギをその場で屠殺するのが「普通」ですし、「普通」の社会人ならばこの程度の知識や技能は本やネットを見なくても「普通」にできます。犬や猫は「普通」に放し飼いですし、「普通」に食べます。手癖の悪い犬は飼い主の「普通の」責任として食肉にしてしまうそうです。

そして市場で食品を買って食べるのはあまり「普通」ではありませんので、1度や2度市場をみたところで、彼らの食生活の「普通」は見えてきません。
日本では「普通は時代とともに変わる」といわれますが、現在においても、たんに座標を移動するだけで、これだけ普通が変わっています。

私は昆虫に詳しい外国人で、「日本人らしくなく」昆虫を食べる人なだけです。「普通」食べない大型のフンコロガシ(メン ドゥッチィ)を食べ、

「普通」触らないイナズマチョウの幼虫をモフり、

私はここでも、普通の人ではありませんが、まぁこれでいいだろうと思います。
私は普通の人を演じませんし、その努力もしませんが、ラオスの「普通の人」に貢献するために、しばらく頑張ろうと思います。蟲籠奇譚2応援、作品に出てきた虫たち。Twitterがモーメントを終了したので、ここでまとめておきます。

セスジスズメ