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8月9日、もう一ヶ月前になりますか。とある大学のつながりで、バンコクのトークイベントに参加すると旅費をいただけるというので行ってきました。なかなか厳しい台所事情ですが、それなりに楽しみつつ、研究費や経費を確保していこうと思います。

バンコクと日本のデザイナー、建築家の方々が集まる、だいぶアウェイなかんじがしましたが、とりあえず今回のテーマ「Exixtence=実在」 について、語りました。昆虫という「実在」によって、人がどう変化し、全体のプロジェクトのデザインがどう影響されていったのか、とか言う話をしたかと思います。観覧者にはバンコクの学生さんらもいて、昆虫食に対するバンコクの若者の印象も聞いてきました。

デザインという空論であり、実現していない以上「茶番」であることを、どこまで大事にし、深く、そして自由に発想できるかというのはとても重要な営みだと思います。そしてそこに「昆虫」が参加することはこれまでまずなかった。なので一種のスパイスとか「意図的なバグ」として、私が乱数発生器のように乱入して、かき回してみようかと思いました。デザインの世界のみなさんに投げ込んだ「実在の虫」のパワーはすごく、それでいて新しい概念を自分のデザインに反映させ、咀嚼していこうという適応力もすさまじく、スパークジョイな感じでした。

タイ東北部では昆虫食が普通なので、私の昆虫の話もさほど驚かれないかな、と心配したのですが、みなさん無事驚いてくれて、学生さんも女性の一人はロットドゥアン(タケムシ)だけ食べられるけどコオロギやバッタは脚があって無理、もうひとりの女性は全部無理、男性のひとりはサソリにチャレンジしたことはあるけれど。もうひとりはレシピ次第じゃないかなという消極的な感じ。いずれもバンコクの意識の高い、そして野心も高いデザインの学生なのでバイアスはあるかと思いますが、十分に「昆虫を食べる」というアイデアが敏感な若い世代にとって斬新に映るという手応えがあったので、ここバンコクも未来的昆虫食の展開のいい拠点になるだろうなと感じました。

またいっぽうで、ベテランのバンコク在住の先生方は伝統食として普通に食べていた時代を経験していて、ひと世代のあいだにジェネレーションギャップがギュッと詰まっていていい感じです。その年配の先生がこのようなスライドを用意してくださいました。

UNJUNK THE WORLD

Un-junkというのは検索してみると脱ジャンクフード的な書籍に使われたワードのようですが、この「ジャンク=役に立たない、安っぽい、価値が低い」といったものを価値観が同じママの社会で「役に立つもの」に変えていくリサイクルの発想ではなくて、その「役に立たないものという発想そのもの」をキャンセルしていこうという発想です。社会が変わることで、そのものが変わらなくてもコンセプトが変わる。これほど省エネなことはないでしょう。つまり昆虫にも同じことが言えます。ジャンクフードの代替として、安い、コスパのいい食べ物ではなくて、文化的な、先進的な、そして人の役に立つことのできる膨大なキャパシティをもつ尊敬すべきバイオマス。

そんな「UN-JUNKE THE INSECS」をこの世代で達成してしまわないと、バンコクの若者が昆虫食をジャンクな食べ物と誤認したまま次世代をつくってしまう。赤ん坊のころに植え付けられた食の価値観を変えるのは難しいですので、この世代のうちに、変えていきましょう。みなさま、ありがとうございました!

バンコク、今回は時間が少し余裕があったので色々見てきました。ミズオオトカゲが歩いていたり、スラムと高層ビルが対比されたり、他の都市と同じように、色んな面のある街なんだろうなと。

2018年に食べていたのですが、Twitterで報告したっきりブログに書いていませんでした。キョジンツユムシ Pseudophyllus titan です。

キョジンツユムシ Pseudophyllus titan

ちょうど一年ほど前ですね。ヨツモンヒラタツユムシ と同じように、昆虫採集目的でない日常生活でこのぐらいの驚きの昆虫に出会うと脳が気持ちのいいパニックになります。すごくメリハリがいい。以前にサソリを見つけて舞い上がって自転車をパクられたときもこんな感じなので身の回りには気をつけようと思います。

さて、養殖昆虫というと「大きな昆虫を食べたい」と思う人が多いようなのです。大きい方が効率的とか食べごたえとか。確かに大きなエビカニは高級品ですし、タカアシガニは大味、とかいう話もあるのである程度の味とのトレードオフはありそうです。

以前に5.4gの巨大トノサマバッタ系統の味見をしましたが、養殖がとても難しい系統でした。つまり大きいとしても養殖がしやすいとは限らないのです。また、昆虫は成虫になるともう2度と脱皮しないので、そこら辺のコントロールがむずかしいかと。しかし、徳島大学がそこら辺をハックする論文を出しました。

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この論文の巨大幼虫、夢がありますね。

しかしその夢、キョジンツユムシを見るとあまりうまくいかなそうです。

なんだか、巨大な昆虫はパサつくのです。味気ないというかなんというか。密度が足りない感じ。まだ数頭しか味見していないのでなんとも言えないですが、こんな論文を思い出します。

ツユムシも同様かどうかは言えないですが、巨大なほど解放血管系にたよっている昆虫の循環系の効率の低さが負担になっていきます。大きくなるほど呼吸系、循環系の占める割合が大きくなると予想されます。つまりスカスカ、パサつくという感じでしょうか。また過去の酸素濃度が高い石炭紀の昆虫は巨大だったことも知られていますので、人工的に酸素濃度が高い、たとえば水素ステーション(水分解のシステムが採用されればですが)の副産物の酸素を与えて巨大昆虫を、ということまで妄想が膨らみます。

さらにいうと、大きさはともかく高酸素濃度により気管系の空間をさほど必要としない、「身の詰まった昆虫」なんかも作れるのではないかと思います。夢が膨らみますね。プリップリの身詰まりのいい昆虫。食べたいです。

虫展、まだやってますね。日本帰国時に行ってきたレポートです。

ハムシがトップを飾る。カブトムシ、クワガタが定番のなか攻めている。
最初の概説パネル。うるさすぎず、シンプルにデザインされている。
多様性の極みともいうべき標本群。あえて分類群をまとめず、対比的に多様性を見せる並べ方をしている。
ラオスで竹の子イモムシ、と呼ばれている大型のゾウムシ。いつか食べたい。
巨大なゾウムシの脚。びっくりさせる、ギョッとさせる目的でエントランス付近においてある。 逆に言うと、ギョッとさせる目的ではない場所で巨大な拡大模型は「過剰」なんだと思う普通の人にとっては。
ロクロクビオトシブミ。かなり小さい。深度合成写真のレベルが上ったので写真を見ると巨大な昆虫のように見えてしまうが 重力加速度の影響が少ない小さい昆虫のほうが人間が理解できない姿をしている。
カブトムシの飛翔筋の模型。
はにわや工房さんのマンマルコガネ。バンダイから出ましたがこちらが元祖ですよ。
広々とした大展示。
トビケラの巣からインスパイアされたといういくつかの作品。巨大化することで設計コンセプトが変わるだろうに、 そのまま相似拡大して「新しさ」を出しているように見える。うーん。華奢な構造のモジュール構造は人間用の建築には向かないだろう。
有名な建築家が参加。 デザインの「お手本」とするときに工学的な要素はあんまりいらないんだろうか。 バイオミミクリーというよりはインスパイアという感じ。
どれもキレイにしか見えなかったのでまぁ。メインターゲットではないんだろうなとあらためて思う。
和名のいろいろを組み合わせて新しい昆虫をつくる

話はそれますが、台湾が日本統治下にあった影響か、亜熱帯に広く住む昆虫の和名が「タイワンーーー」であることが多いように思います。 ラオスで見つけた昆虫がそのパターンである場合が多く、タイワン固有種と誤解を生みかねない不適切な和名ではないかと。実際私は誤解していました。
今後和名のルール化が目指される中で、地名が含まれるべきなのはその地域の固有種である場合ではないだろうかと思います。 (そういえば北海道にのみ生息するトウキョウトガリネズミなんてのも思い出しますね。)

昆虫食も売られてるやん!このスペースで将来、大昆虫食展を開きたいなぁとおもった。

さて、見に行く前から、うすうす気づいていましたが、そしてこの文章を読んだ方も気づいてきたかもしれないですが 、
この虫展は私はストライクゾーンに入っていません。外れ値だ。 もちろんブワーッと昆虫あふれる大昆虫展のほうがお気に入りだけれども、だがしかし。
気に入るということと、展示として興味深いことは別なのです。おそらく 展示学的にすごい判断が行われていたのではないか、と読み解きたい。それでは参りましょう。


はじめに提示するのは「世界一美しい昆虫図鑑」 クリストファーマーレー

レビューも投稿しました。そしてこちらが原著。

これは原著はアートワークなのですが、写真がたくさん入って情報が入っている分厚い本を「世界一美しい〇〇図鑑」と 名付けて売ることが一時的に流行したことを受けてのことでしょう。翻訳版が原著よりも安い、ということはそれだけ印刷したということで、一般向けに売れる方針をとらなければならないのでしょう。それは仕方ない。はたしてこれを学術的な文脈をもつ「図鑑」と位置づけていいものでしょうか。

だいたい昆虫の社会的位置づけが揺らぐと見に行くのは丸山先生、こんなことをおっしゃってました。

なるほど。学術の文脈を借りるのであれば、その文脈に対して侵害的であるのはマナーが悪い。
いくつかのアートワークでは折りたたみ、隠されている脚がいくつかの作品では取り除かれてしまっている。
丸山先生はただ批判だけして終わらない。(批判することはもちろん大事なのだが、そればかりでは外野から見ると息苦しくなってしまう) そのアンサーとして美しい書籍を送り出した。

その名もきらめく甲虫。
撮影技術、標本のクオリティ、そして角度を変えることで初めて「きらめく」はずの昆虫が 白い紙に平面に印刷されているのに、「きらめく」というそのすごさ。 大きい虫も、小さいむしもおなじぐらいに「きらめいて」いる撮影技術の一貫性 (同じように撮ってしまうと、サイズによってバラバラな写真になってしまうはずだが、そこが注意深く揃えられている。)
そして 次作

「とんでもない昆虫」
からの、共著者である東京芸大の福井さん作製のこの展示台につながるわけです。

多様性の極みともいうべき標本群。あえて分類群をまとめず、対比的に多様性を見せる並べ方をしている。
おわかりいただけただろうか。
ハムシの下の台紙の下になにかあるのを。

あえて昆虫の名前を隠すことで姿かたち、多様性に注目させ、ホワイトのバックにより清潔感をもたらす。 そしてラベルを「取り除く」という事もできたが今回は取り除かず、体の下に隠す、という方法をとった。
つまりこれは 学術標本の価値を全く損なうことなく、展示用に転用してみせたという意味ですごいのです。
更にいうと、ラベルを見せた展示もできたでしょう。 しかし見てわかるようにラベルというのは 採集当時に作られたもので、標本によっては黄ばみ、これまでの多様な昆虫標本では様々な時代、様々な人の字のクセが前に出てしまう。 このようなノイズを丹念に取り除く過程で、「ラベルを取り除く」のではなくて隠す、という選択をしたのでしょう。


この展示に敬意を送りたい。すごい。
しかし、生きた虫がいてほしかった。と「いろんな床材に苦しむカブトムシの映像展示」に釘付けになっている男の子をみて 思うのだった。生きた虫はすごい。強すぎて他の創作物を邪魔しかねない可能性を考えて、あえてここに置かなかったんだろうと思う。 生きた虫はラオスで楽しもう。そうラオスで。

ヨツボシヒラタツユムシ

以前にTwitterでテングビワハゴロモを評して「色彩構成でゼロ点」とコメントを頂いたけれど、これもまたそう。すごい。キャッサバの栽培状況を見に行っていきなりこれが現れるとインパクトがすごい。

人間の創造物だとしたら悪趣味で売り物にならない、と言われそうなデザインセンスを 「このデザインで生き残っている」という圧倒的存在感でねじ伏せる生き様!かっこいい! この虫の話もまた後でしましょう。

アウトサイドジャパン展と同じ日、夜に少し時間が取れたので行ってきました。

装飾に用いられる穴の空いた自然物、という括りでのビーズ展。元々は2017年に国立民俗学博物館で行われたものに、科博とのコラボによって再編集されたものです。

特に好きなのがこれ。猿の歯として民博に収蔵されていたものが、科博によってイルカと同定されたもの。こういったコラボの醍醐味ですね。

ずっと見たかったのがこれ。オオスズメバチの顔の首飾り。存在は知っていたんですが展示がされていなかったので見れなかったものです。よく見るととても折れやすい触角が綺麗に残っており、いわゆる首飾り、ネックレスのような使用するものではなくて、お守りのような大事に繊細に扱うものであることがわかります。見れてよかった。

何も聞いていなければアウトサイダーアートではないかと思うこの緻密なビーズ。所変われば文脈も変わるわけで、全ての表現物のうちそのほとんどは今現在の市場価値だけで見るとアウトサイダーアートなのではないかと思います。専門家にしかわからない価値、というのもそれかと。

くやしかったのは同時開催の「大哺乳類展」に標本が取られてしまって実物展示のなかった剥製たち。くやしい。あっちは有料の企画展、こっちは常設展示の片隅。仕方ないとはいえ。私は日本館の渋い企画展を応援します。行こう。科博の日本館。

こうしてみると食べたものの残りを装飾に使う、というのは普通の感覚で、私が昔に作ったバッタのふんのマスクも民芸という意味では普通の表現活動なのではないかと思ったり。アウトサイドジャパンと同日に見れたことでなかなか広がりのある1日になりました。

Twitterでクローズアップ現代+の感想が流れてきました。

ここでカワウソの密輸について論じるつもりはありません。またの機会にしましょう。ふと「本当に産んだらどうなるのか」と私の想像は進んでいきました。

「分娩主義」という法律用語があります。昔は親子関係を推定する方法がほとんどないことから、「母から分娩された」という事実を持って、母子関係を認定していました。ところが受精卵を使った代理母出産などでは、遺伝的な親子関係を持たない「母」が生まれることでその制度の限界が指摘されています。

代理出産における母子関係 : 分娩主義の限界

さて、今回はこの限界についても論じません。制度は変更される必要があるのですが、私の想像は「本当に産んだらどうなるのか」です。そうするとある一つの作品が頭に浮かびました。

AI hasegawa さんの「私はイルカを産みたい」です。

子宮という女体を持って生まれた人しか持たない臓器を、主体的に用途を決める、という発想の延長でしょう。残念ながら私はその臓器を持たずに生まれたことから、これまでいまひとつピンとこない作品でした。

ところが、他哺乳類の、あるいは多脊椎動物の「分娩」が行える技術ができてしまったら。それこそ先の事件のカワウソを「産んだ」と言い張ってしまえる技術レベルに達したら。

アニマルライツの世界は大きく変革するしかありません。「実子」なのです。つまり分娩主義、という時代遅れの法律と、時代の最先端の技術が融合することで、アニマルライツを大きく破壊する存在が生まれてしまうのです。

すると、アニマルライツが大きく変革した先の未来、という映画があったことを思い出します。ズートピアです。

ズートピアに昆虫食は出てこない、で考察しましたが、ズートピアが出来上がるためには、動物園にいる動物たちに大きなアニマルライツの変化があったことが想像されました。これでようやくその謎が解けました。二足歩行で頭が大きく、人間に近いプロポーションは、つまりは人間に分娩されやすくなるためのものだったのです。そして分娩主義の法律によって人間の「実子」として二足歩行で人語を解する哺乳類が生み出されたのでしょう。つまり卵生の鳥がおらず、昆虫に人権がなさそうなのも、「分娩」されなかったからです! うーむこれは新しい発見だ。そしてさらにこの作品が思い出されました。分娩(出産)を暴力として使う女性の話。

昆虫食が絡むSF、というのは男女問わず様々な著者が書かれていて、「殺人出産」もとてもいいものですね。これまでSF作家というグループが男性に占められていたせいで失われてしまった、多様な発想があったのだろう、ということを想像させてくれます。ジェンダーイコーリティが達成されることで死なずに済むアイデアが増えていくことを私は期待します。

監修したと思ったらあっという間に発売されました。連載なしのいきなり単行本!

ムシグルメン !

こちらは私の著書ではなくて、昆虫食に関する部分を、昆虫食仲間のムシモアゼルギリコさんと一緒にヘルプする形で監修したわけです。私の著書ではないので無理して宣伝しても何か印税があるわけではないのです。

ですが、構想の初期段階からリサーチが徹底しており、これはおもしろい書籍になるぞと気づいて参加したところ、出来上がってみるとなんとも不思議で予想をはるかに上回る出来栄えの本だったので是非ともみなさんに読んで欲しい、と思って勝手に広報します。

主役となる漫画のテイストは往年のコロコロコミックのような趣を持つ、まっすぐアツくてある意味バカバカしい、王道の燃える展開の漫画です。子供にも楽しんでもらえるわかりやすい話だと思います。そして絵柄。マンガ家古本ゆうやさんの見事な手腕により、文字情報の脚本段階ではうーん?どうかな?と思っていた話の流れが、マンガになってしまうととってもいい感じの疾走感や納得感が生まれて、イリュージョンを見た気分でした。「メディア」そのものが持つパワーを感じました。メディアとしてのマンガのパワーはすごいですね。とはいえ、そのパワーに頼り切ってしまうのも監修者としてよくありません。納得させた気になり、見逃してしまいがちな無理のある論理や、文化や地域への偏見、差別になりかねないセンシティブな表現にはかなり慎重に表現を検討して、校正をお願いしました。

「世界虫食フェスティバル」の設定を作るために各国のキャラクターとその代表料理を考える!といった謎のクリエイティビティを発揮したのもいい思い出です。各国で活動する昆虫食有名人をこっそりモチーフにしたりもしていますので、元ネタになった人を探してみるのも楽しいと思います。

そしてコラムの量と質。ここに全てを注ぎ込みました。本編の漫画のテイストに比べるとこのコラムたちは硬派です。ガチでその昆虫の美味しさを引き出す料理レシピから、ここ数年に起こった昆虫食の最新情報までをきっちり更新して、参考文献リストも作れるぐらいにしっかり取材して作りました。かなりこの風味の違いに驚かれるとは思いますが、そのギャップがなんだかおもしろい雰囲気を生み出しているように見えます。

写真提供などでお世話になった「ざざむしの人」からこんな素晴らしいコメントもいただきました。ありがとうございます!

理と愛。大事ですね。

愛するからこそ理をかなぐりすてる、というメロドラマ的表現もありますが、愛するからこそ、理を詰める。そういった愛もあっていいと思います。

先のファクトフルネスを読みました でも書いたように、専門家と、非専門家がタッグを組むことで生まれる「新しい価値」を大事にしたいと、改めて思わせてくれる名著でした。私からのイチャモン、無理難題におつきあいいただき、大変ありがとうございました。

そして帯に注目! 昆虫を食べるにあたっての大事で簡単な心構えを書いています。これを読んだキッズの皆さん、自分のキッズ心を刺激されたかつてのキッズの皆さん、まずはこの心構えを読んで安全に注意をしてから、この本を読みきり、そして昆虫を改めて観察することで、どのような昆虫食の未来が見えてくるでしょうか。

昆虫食を始める前のはじめの一歩として、保護者の方にも安心してお勧めできる本になっていると思います。いい本を完成させてくださりありがとうございました!なんだかファンだか著者だかよくわからない言い方で申し訳ないですが、監修者の喜びを表現しています。ぜひ買ってください!

玉置標本さんにも写真提供で協力していただき、書評も書いていただきました。ありがとうございます!

これまでに第1巻第2巻と感想を書きまして、そしてなんと昆虫食回、13話に監修として参加させていただいたなんともありがたい今作、3巻にて物語が一旦幕を閉じました。西塚emさんはスターシステムのようなものを採用しているので、いろいろな背景を変えて、また別の作品で彼らに会うことができるでしょう。ひとまずお疲れ様でした、そして通して読んでも昆虫食回がまったく浮かない、凄まじいフェチの全力疾走を見せていただきました。すごい。

さみしい、のですが、なかなかこのマイノリティである、虫好きの心をえぐるというか、私にとってはヘビーな物語でした。何度か3巻を通読してようやく感想が書けるようになったのでここにまとめておきたいと思います。売上に貢献するには発売後すぐに公開すべきところなんですが、なかなかこれは一筋縄ではおわらねぇぞと。

蟲やクセの強い生き物を愛する、「虫塚」を主人公として女性ヒーローとしての「ねね」というこれまたクセの強い登場人物、それらを学園であったり学校もの、日常モノというある種のお約束に入れ込むことでなんとなくマンガ的なものになっていく。そしてお約束の水着回と、恋愛?要素。

かと思いきや、「アンタの普通はアンタの基準で作ればいい。他人の基準を使って自分だけ擬態しようなんて許さん」とライバルである園芸部の花崎から厳しい一言。

これまでの虫ものマンガを否定するわけではないんですが、虫や虫好きは大抵物語上、マイノリティとして登場します。その虐げられてきた虫に対する愛着や知識が、効果を発揮してストーリーを展開させ、一躍ヒーローになるどんでん返し、スカッと展開、という形が数多く見られましたが、この漫画はそれを「許してくれない」のです。これは大変だ。

普通に対する憧れ。人生で一度も普通になれたことがないけれど、もしそこに「戻れたら」そこから見られる景色はなんとも安心で生きやすいものなんだろうという憧憬。そういった普通に一歩近づけるためにマイノリティのために用意されてきた「スカッと展開」なんだろうと思います。みんなを救ったり窮地をしのいだり、それによって達成されるのは「マイノリティな自分の趣味がマジョリティに『普通に』受け入れられる瞬間」なのでしょう。

しかし、しかし。

この物語はそれを許してくれない。普通を達成する、という課題設定そのものが普通ではないし、他人の借り物である。たとえ自分が植物性愛、昆虫性愛であることを自認をせざるを得ない状況に追い込まれたとしても、そしてそれを自認した上で他人に隠す選択をしたとしても、自分で自分の基準で自分をつかむまでが青春なんだと。青春とは客観的に測定できる解決や達成ではなく主観的にヌルい寛容と受容と先延ばしなのかもしれない。

そして転校生の女性ヒーローは虫の世話を手伝うばかりで何もしない。普通に戻れない、普通などないという最初から存在した事実を改めて明るく照らしてくれるヒーローだった。

人生をこれから決して共にしないだろう、全く価値観の違う、相入れない人物たちと、たまたま未成年の制約で同じ空間を共有したあの「青春」はなんだったんだろうか。

自らの力で人間関係を構築するようになった「オトナ」にはもう現れない。思い出される彼らが私に寛容だったのか。それとも諦念だったのか。それはもう青春という蟲籠だか蟲塚の向こうに霞んでしまってもう見えない。

もしかしたらそれは一種の共有された悪夢だったのかもしれない。

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なんと早くも第2巻。私が監修した13話も掲載されており、あとがきには、ありがたくも名指しでお礼の言葉まで!
昆虫食研究者冥利に尽きます。彼らの食と昆虫に対する真摯な姿勢と、作っているうちに不思議と湧いてくる食欲、そして「かわいいこが昆虫を食べ始めるのはなんと美しいのだろう」というフェチ心まで、見事に描写されていたと思うのですが、この作品に、少しでも貢献できたらいいな、とおもいます。

さて、この漫画は「昆虫食漫画」ではないですので、昆虫食が登場するのは1話かぎり、ですがそこに至るいろいろな生物に対する「愛で方」が様々な個性的な登場人物によって語られていき、そして時に(いや頻繁に!)対立します。
それは大きく変化し、立場によって変わり、そしてあやふやなものです。しかしこんな個性全開な人は日本にはあまり見かけませんので、現実世界の日本の「普通」は固着しているように見えます。もしかしたら西塚emさんがこの漫画でも、この漫画以外の作品でも常に訴えているのは「普通」というテーマかもしれません。

「普通」は日本においてはすごく重いことばです。普通じゃないことをメタ的に認知することで、あたかも普通かのように振る舞うことを強要された、普通じゃない人たちがいっぱいいます。というかそういう人だけで日本は構成されているかもしれません。なぜならすべてのパラメーターにおいて「ふつう」を叩き出す人間というのは確率的にありえないからですし、ある一定以上のパラメーターで「普通じゃない」スコアを取ってしまった人は排除されるからです。

数々のハイコンテクストなパラメーターを読み取り、その構造を理解し、自分の行動へと反映させることを、「ふつうのひと」は学校ではこなしてきました。私は幸いなことに生粋の変人という扱いを得られていたので、いつか普通の人になれる自分を想像しつつ、変人として振る舞うことでとりあえず社会の端っこで生きていくことを許されてきたように思います。ただの一度も「普通の人」であった経験はありませんので無理だとわかっていながらそういう生き方に憧れや嫉妬はあります。

そういった後ろ暗い過去のない人に、変人に扮して欲しくはないですし、そういった歴史のない「自称変人」に対して、私は厳しく当たります。
主人公のように、天真爛漫に明るいところで生きてきた人は明るく生きていって欲しいと思うのです。こっち来るなと。

こちらが一方的に見て愛でるためだけに、こっちに近寄りもせず、遠ざかって逃げていかない、そんな都合のいい「ふつう」を提供してくれるのが、この作品で大きく扱われている「標本」という言葉なのかもしれません。対照的に食べて消費してしまう、というのは標本からはかなり遠い愛で方といえるでしょう。しばしば対立します。元の形が残らない場合もありますし、風味や味付けでその生物への印象は変わります。食べる時の体調によっても味が変わるでしょう。そんな不定形な、それでも「一体となる」ことで距離がゼロを下回る、そんな甘い誘惑もあったりします。

さて、収拾がつかないので強引にラオスの話になって終わらせようと思うのですが、ラオスでは採集された昆虫を食べるのが「普通」です。お祝いのときはアヒルやヤギをその場で屠殺するのが「普通」ですし、「普通」の社会人ならばこの程度の知識や技能は本やネットを見なくても「普通」にできます。犬や猫は「普通」に放し飼いですし、「普通」に食べます。手癖の悪い犬は飼い主の「普通の」責任として食肉にしてしまうそうです。

そして市場で食品を買って食べるのはあまり「普通」ではありませんので、1度や2度市場をみたところで、彼らの食生活の「普通」は見えてきません。
日本では「普通は時代とともに変わる」といわれますが、現在においても、たんに座標を移動するだけで、これだけ普通が変わっています。

私は昆虫に詳しい外国人で、「日本人らしくなく」昆虫を食べる人なだけです。「普通」食べない大型のフンコロガシ(メン ドゥッチィ)を食べ、

「普通」触らないイナズマチョウの幼虫をモフり、

私はここでも、普通の人ではありませんが、まぁこれでいいだろうと思います。
私は普通の人を演じませんし、その努力もしませんが、ラオスの「普通の人」に貢献するために、しばらく頑張ろうと思います。蟲籠奇譚2応援、作品に出てきた虫たち。Twitterがモーメントを終了したので、ここでまとめておきます。

セスジスズメ

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昆虫食展でも大変お世話になった 西塚emさんの単行本「蟲籠奇譚」

を読みまして、

蟲籠奇譚(1)を読みました。という記事を書きました。

第二巻か三巻あたりでは「昆虫料理部」とかと生物部が戦ってほしいなぁ。

と書いていたのです。するとそのあと、メッセージをいただきまして

「蟲籠奇譚13話が昆虫食回なので監修してほしい」

とのこと!

なんともまぁ!なんともまぁ。 本当に2巻に昆虫料理が登場することになってしまいました。嬉しい。

昆虫食創作のレベルアップのために、私は尽力しますので、創作の皆様、気軽に声をかけてください。全力で監修します。

そして今だけ無料公開中!「むしばむ愛

昆虫食回だけテイストが浮いてしまわないか心配したのですが、きっちり他の話の流れに沿っていて、さすがストーリーテラーとしての漫画家はすごいなと。

可愛い女の子に昆虫を食べさせたい。可愛くてかっこいい昆虫の味も知ってしまいたい。という後ろ暗いフェチ心も描かれていて、

私にもそう言ったフェチに心当たりがありますので、私のドロドロとした深層心理を暴かれたようで、恥ずかしくもありますが。素晴らしいです。

「食べちゃいたいほど可愛いが実践できるのが昆虫」と、昆虫料理仲間のムシモアゼルギリコさんもおっしゃっていましたし

虫を喰う人と、虫を愛でる人が同じ場所で情報交換できる、というのもとても楽しいものです。犬とか猫、クジラやイルカだとこうはいかないと思います。

そんな、昆虫を介したいろんな楽しみの広がりを妄想しつつ、また昆虫食回来ないかな、とか、他の漫画家さんも昆虫食漫画描いてくれないかな、とか

ここラオスから考えています。いっぱいネタありますよ!

アイデアはあるんです。それを形にする手が不足していて、私の頭はアイデアでパンクしそうなのです。優先順位をつけて今ラオスにいるんですが、日本でやっておきたい事もたくさんあります。

そしてアイデアを貯蔵しておくだけじゃオリジナリティは守られないので、形にして著作物にしてしまいたいです。

なので形にしたい、という方、どっかにいいアイデア落ちてないかな、という創作の方。お待ちしております!

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こんなニュースをみかけました。

引用します。

市によると、複数の市民からセミの幼虫を大量に捕っているという苦情を受け、6月に設置したものだ。

とのこと。苦情?

「やめさせてほしい」が苦情でしょう。
大量に捕っているというのは目撃情報です。そして彼らの用途が食用であるとの勝手な断定をして、このような看板を出したのでしょうか。
十分な説明とは言えないと思います。

噂レベルですが、関東でも関西でも、昆虫食文化をもつ外国人(であろう集団)が、
自分用か飲食店用かはわかりませんが捕っているという話はセミ食愛好家から伝え聞いています。

さて、ここで追記しておくのですが、
「食用に大量のセミを取る方法」が意外と皆さん知らないことをTwitterで知りました。

「土をほって植物や景観を破壊する」
という話を聞いてあれ?と思ったのです

セミ会のガイドラインにも書きましたが、

基本的に羽化のため登ってくるセミを10分サイクルでとる、というものです。
看板が夏限定というのもその反映です。

通報があったということは、その通報をした人を含めて
これらの看板製作に関わった人は「食用に」「見慣れない量の」セミが採られていることに驚いたのでしょう。
そこからあまり深く考えずに作ってしまったものと思われます。

セミの独占を防ぎたいのであれば「大量の採集を禁止」すればいいのであって、用途を限って禁止する理由に合理性はあるでしょうか。

また、食用にすることと、子供が採って遊ぶことのどちらが「守られるべき文化」でしょうか。

いま私はラオスにいますが、日本の都市公園ほどセミが大量に乱舞している場所はこちらにはないです。
落ち葉が取り除かれ、土が乾燥し、硬い土を掘り進むことができるセミだけが、都市公園に優占していると思われます。
それが「守るべき生態系」でしょうか。

さらにいうと、樹木は資産です。自治体の公園ですと樹木を破壊すると器物損壊になります。
大量のセミによってそれらの樹木が弱体化することがあるかもしれません。それらを採って食べることは
自治体にとって喜ばしいことであったとしても、禁止すべきことでしょうか。

というか生態系を意識して公園なんか作ってないですよね。

さて、なぜこんなにヒートアップしているのかというと
「食文化への差別的扱い」になっている危険性があることと、そうでないことを説明する責任が自治体にはあると考えるからです。
現在の説明では合理的でも十分でもないと思います。

例えば
ある生魚をたべない外国で「生魚を店で出すことを禁止」したときに、日本食を楽しみたい日本人に抑圧的なルールでしょう。
生魚による食中毒の発生があるなど、文化の制限には合理的な理由が必要になります。

法的には、食用にセミを採ることを許可するルールもないですし、禁止できるルールもないです。
なので、好ましいのは地元の合意を得ることです。地元の人たちがこの土地をどうやって活用していきたいのか。
保全生態学の作法にのっとって、セミとのあり方を考えていくことが望ましいでしょう。

少数の苦情?というか目撃情報によって自治体が勝手に決めてしまうのは、その土地に軋轢を残します。

少数の人による大量のセミの独占を防ぎたいのであれば、潮干狩りのように遊漁料をとる、量の制限をするなどの
建設的な方法もあります。街路樹は健康になり、自治体には収入が入り、いいことだらけではないでしょうか。

研究会が主催するセミ会では、毎度数を数えて、「数年以上にわたって減少傾向がある場合はその場でのセミ採集を中止する」
という方針です。

今後はデータが集まってきたら、参加者数、年、天気によるバラツキや、その土地から一年にどの程度のセミが発生しているのか
どの程度であれば問題ないといえるのか、調査できたらと思います。

調査にもなって、おなかもふくらんで、生態系も学べて、そして地元の交流になる。
セミ会から派生して「セミ祭り」のような地元の集まりをつくりませんか。お手伝いします。

さて、

セミ禁止令という語感の面白さが気に入ったので、SFを書いてみました。