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ご無沙汰しております。原稿書きに追われていましたが、

東京日本橋で7月25日から開催中の「害虫展」、8月末まで開催するそうです。

「害虫をテーマにした作品」ということで、審査員が豪華!

丸山宗利氏(昆虫学者)、舘野鴻氏(昆虫画家)、満田晴穂氏(自在置物作家)

ですって。なにか審査員のみなさんに見てもらいたい、とコンセプト一点張りで写真作品を応募しました。そして108点の応募作品の中から17作品に入賞! 

入賞作家という得がたい称号を得た私は、いそいそと、みなさまにご挨拶をしにオープニングレセプションに参加してきたのです。

先着500名様は、図録を手に入れることができます。作品のコンセプトや自己紹介など、読めば理解も深まる冊子です。

この図録の仕様にもあるように、「害虫という概念をもういちどひっくり返す」という意図があります。害虫はいつになったら、どういう状態なら「ただの虫」に戻れるのか。私達社会が戻すことを決めるのか。そういった根源的な問いがあるからこそ、私の「雑な」作品を選んでくださったのでしょう。

審査員の一人、絵本作家の舘野鴻 さんにも久々にお会いして、「だってコレそのまんまじゃん!」とのコメントを頂きました。感無量です。そうなんです。私の写真は「作品」というよりは「コンセプトそのもの」なのです。ここになんらかの作家の営みが加わることで、初めて作品になるのだろう、と、このコメントで理解しました。それでも選んでくださった審査員のみなさんに感謝。

やはり多種多様な、技法も問わない作品に囲まれて、審査も難しかったそうです。「一つの作品としては優れているけれど害虫展というまとまりの中にはちょっと合わないかなと選外になってしまった作品もあった」とのことでした。

そしてせっかくなので入賞された作家のみなさんとお話。マスク越しでしたが作品の方を見ながら、換気の良い会話を心がけました。

大賞は矢野希美(やのきみの)さんの「密臭」これはけしからん密ですね。

マルカメムシたちの密

定形にも不定形にも見える、玉砂利のようなカメムシたちが密になっていてそれが斜めから見るとキラキラとしたパールで仕上げてあります。これはSNSでは見られない雰囲気。とても上品で絹織物のようなきらめきがあります。そして脚が描かれていない。バジルシードみたいで美味しそうにも見えます。

クズのツルのような毛の多いところにマルカメムシが密集(臭)していると、脚の存在感は消え、なにか果実のような、ふしぎな見え方をしてきます。そんなコンセプトを聞いて翌日、河川敷に行ってみると、

虫こぶのようにも見える。

確かに脚の存在感はなく、ぷるんとした実のようにも見えます。

「このパールの使い方が上品でいいですね」と声をかけてくださったのは、萩原和奈可さん。実は以前にヴァニラ画廊で作品を拝見していた作家さんです。解説が加わると、このテラテラしたマルカメムシが、パール顔料を使うことで生き生きとしていることも説明してもらいました。なんと贅沢な鑑賞体験。

描写がリアルで「死」を強く印象づけながら、枯れたような時の流れの上品さを感じるふしぎな雰囲気。

そしてショウジョウバエの神経科学、というかつての私の大学院のときの研究とめっちゃ近い背景をもつ兄弟ユニット、上岡雄太郎/直樹さんの作品。ゴキブリのアンテナの動きを論文から再現したら、嫌悪感が呼び起こされるのか。

こういう論文由来でありながら、論文じゃない表現物、大好物です。

まぁとにかく多種多様な表現が集まったという意味で、虫好き虫嫌い問わずオススメです。ニンゲンの脳内には昆虫の情報が生態系のようなものを形成していて、そこを引き出してきたり、ハックするような作品が並んでいます。

自分の先入観と向き合ってみるという意味で、すてきな「場」になっています。図録の文章も必読ですのでできるだけ早めに、密を避けて場の雰囲気をかんじてみてください。

昆虫標本でおなじみの福井さんともお会いできました。たしかに情報がなければキンバエはかなりの美麗昆虫。

作品を見たあと、野外に「確かめに行きたくなる」そんなパワーがあります。

そこに置かれたゾウムシ養殖の写真。技工はないけれどコンセプトはある。そしてリアリティよりもリアル、というパワフルさ。実際に他の作品と並ぶことで、ちょっと空回りしているようにも感じました。見に来る人に寄り添う様子がないので「遠くラオスの出来事」に感じられてしまう。

並びました。

 そう考えると、遠くラオスの出来事を「近く」感じさせるようなデザインの取り組みが必要なのだろうなと感じます。そんな「昆虫食展」東京でもやりたいですね。

最後にご挨拶した春日さんが、Twitterでよく見る「かすがぁ」さんだと知りびっくり!

出品していたのはハエに「小虫のように」むらがる人々の油彩作品。この作風の振れ幅。すごい。

予想外の出会いというのをどうやってこれから安全に作り出していくのか、表現物を介してなにかできるのか、とか色々考えていきたいですね。

今回、研究費から渡航費を捻出し、リバネス研究費日本ハム賞の助成をうけたことから超異分野学会で発表する予定でしたが、この学会が延期となり、4月から始まるJICA助成の安全講習も延期となり、研究費を使って帰る主な理由がなくなってしまったことが帰国キャンセルの原因です。キャンセル料120ドルは研究費から出しますが、これで買えたものを考えると(乾燥キャッサバが一年分買えます。)なかなかつらいです。ご支援くださる方はこちらを見てくださるとありがたいです。安いものはラオスでの必需品、高いものは私の夢です。

オフィシャルな寄付先はISAPH食用昆虫科学研究会にいただけると、領収書も発行できますし、助成金以外で自由に動かせるお金が増えることで、ちょっとした挑戦もでき、事務手続きの手間が減るので少額でも、とてもうれしいです。団体の実績にもなり、認定NPO法人(寄付により減税されます)にも近づきます。よろしくお願いいたします

このタイミングにあわせて打ち合わせとか、訪問とか、フェモラータオオモモブトハムシを食べる会への参加を予定していたのですが、私が参加できなくなっちゃいました。こちらは三重県の郊外の野外ですので、屋内で閉じこもって飽き飽きしている方や、お時間のある方はぜひご参加ください。

感染症対策として、ラオス政府も日本などの感染国との入国審査が厳しくなるとのことで、14日間の自主的、自宅健康観察の要請や、スタディツアー延期要請など、観光にはなかなか来にくい感じになってしまいました。週の前半にNGOの会合で首都のビエンチャンに言ってきましたが、タクシーやトゥクトゥクのドライバーがマスクをしていて、ほんのり影響を感じました。あからさまな差別にはさらされていなくて、世間話程度にドライバーと話すこともありました。流しのトゥクトゥクが持ちかけてくる料金が普段の倍ぐらいふっかけられて、交渉するとすぐに半額になり、なかなかお客がいなくて大変なんだろうなと思います。

いちおうクレジットカードの更新とか、JICAの安全講習とか、学会が4月に延期されたのでそこに対応とか、4月に帰国できたらいいなとは思いますが、こればっかりは感染症なので未定です。キャンセル料も痛いのでまた状況に応じて航空券をとろうとおもいます。

今週ビエンチャンでみた花。サガリバナ科ホウガンノキと教えていただきました。仏教にまつわる花かとおもったら熱帯アメリカ原産とのことでおどろき。

さて12月の帰国はこちらが本丸。交通費を出していただけたので、一時帰国して昆虫食の話をしてきました。第34回さんわかセミナー 

「タンパク質危機に挑む ~代替タンパク質の未来~」

とのことです。日本農芸化学会の産学官連携若手セミナー、さんわかセミナー。代替タンパク質としての昆虫の話。

代替タンパクの総論を、三井物産戦略研究所 の方がやってくれましたし、培養肉、藻類の有名な方がいらっしゃるので、昆虫食のほうは立派な「イロモノ」としてのびのびとやって来ようとおもいました。会場の反応も良好で、良いスパイスになれたかと思います。

おおまかなスライドを公開しておきます。(大事なデータは会場限定です。)

日本の昆虫食のデスバレー。多くのベンチャー企業が直面しますが、昆虫食は偏見が厳しいので状況は悪い。けれども頑張っている人がいるので徐々に変わりつつあります。

では「偏見があるかぎり昆虫食ではなにもできない」ではなくて、昆虫食文化のあるラオスで今すぐできることがしたい。せっかちなもので。

フードセキュリティはよく聞くけれども、その反対語であるフードインセキュリティって皆さん知りませんでした。ここをおさえたいのが理論編。

フードセキュリティを高めるポテンシャルは昆虫食も十分にもってます。

じゃあフードインセキュリティはどうか。「緑の革命」の成果物である農薬と高効率な種苗がまだ届いていないラオスにおいて、最新技術と効率化はいつになったら届くのか。それまで栄養不良にさらされなくてはいけないのか。

この事実を知ったときにわたしのあたまをよぎったのは以下の図。「昆虫を食べる地域ほど栄養状態が悪い」という疑似相関だったとしても寝覚めの悪い悪夢でした。

いまの活動は地域保健活動における潜在資源へのアクセス向上、という役割を担っています。潜在資源で先進国が技術を持たない昆虫について、ラオス発の技術を開発していくことが、途上国が他の国と渡り合える技術立国になる道として王道ではないでしょうか。

整ったインフラが前提となる「効率化技術」に比べると、インフラがないゆえに栄養不良にさらされている人たちにその技術が届くのは当分先になってしまいます。

じゃあ「最貧困層でも養殖できる」手軽さを持つ昆虫がソーシャルビジネスとしてスタートしたとき、2050年に昆虫を食べる人たちが、中間層になるのです。つまり大きなビジネスチャンス。

いまのところNGOの活動の枠組みですが、育てた昆虫を売る先は先進国のほうがいいです。高価格で買ってくれるので。品質を管理して、輸出して、ラオスに外貨をもたらす産業になってほしい、という意図でこちらに登壇してきました。お待ちしています!

会場で食べたもらったのは開発中のバッタ生キャラメル。おおむね好評でした。製品化は間近か!

最後、じかんがなくて表示できなかったんですが、セミナーの内容をみて寄付したくなったらこちらにどうぞ! 助成金獲得に割かれる様々な事務手続きを楽にしてくれる寄付は、かなり活動にとってありがたい存在です。よろしくおねがいします。

培養肉も藻類も、真面目に多くの研究者が参加していて、さまざまな裏話も聞けました。また「一般に向けて」どのようにアプローチしていくか、見慣れない食材としてどうやってアクションを起こしていくか、という話も盛り上がりました。昆虫食を日本でどう位置づけるか、ラオスでどう位置づけるか。

どうしてもラオスに滞在するとラオス的価値観になっていくので、いったん日本的価値観を再インストールして、バランスをチューニングしていこうと思います。

サイエンスアゴラに試食提供でお世話になった昆虫食のTAKEOさんが、タガメサイダー発売記念にイベント「タガメナイト」をしたいということで、私は外の人だか中の人だか微妙な立ち位置のまま参加してきました。

企業ですので彼らにも秘密保持契約があって、私も「オープンにしてもいい情報以外は(秘密におく時間がつらいので)話さないでほしい」とお願いしていた手前、タガメサイダーの開発の情報を知ったのは、発売の直前のことでした。

開発着手のだいぶ前、私がタガメで飲料を作ろうと思い立ったのは2011年ごろのことです。というのもタガメの香りのもととなるフェロモンの分子構造をみていたとき、両親媒性の様子をみて「これアルコールに溶けそうだな」と思いました。

 

虫フェスでタガメウォッカをふるまったあと、タガメがゆらめくウォッカの瓶から、うっすらと田んぼのニオイがしてきたのです。これによりタガメ飲料の可能性は「漬けたタガメは2週間で取り出す」もしくは「合成タガメ香料を使う」という2方向にわかれていきました。

多様なレシピが発展したのは昆虫料理研究会のオープンな土壌のおかげですし、タガメをつかったカサーシャソーダなど、色々なコラボによっても広がっていきました。すごいぞタガメ。

そして、満を持して開発されたのがタガメサイダー。食用昆虫科学研究会からの長い付き合いの三橋さんがTAKEOに入社し、様々な専門性を駆使して香りをコントロールした逸品。かなり技術的にもすごいですし、悩まされていた田んぼのニオイも解消され、長期保存も可能に。

タガメのいい香りも、ちょっと癖のある香りも残しつつ、美味しいサイダーの範囲にきちんと収めてくる。クセの強い変化球を投げているのにストライクゾーンに収まる感じ。初心者にはただただ美味しいサイダー。食べ慣れている人にはタガメの美味しさ、香りを十分に伝えてくれるサイダーになっています。そして製法に関して特許を取得。初めて飲んだときはヤバい、と思いました。

そしてタガメサイダーをふんだんに振る舞うイベント、タガメナイトが開催。

タガメサイダーを割り材にして、いろんなソフトドリンクやカクテルをつくることができるワークショップ形式になりました。メーカーすごい。

「キミだけのタガメサイダーを見つけよう!」

紅茶系はどうだとか、牛乳とあわせるととか、いろんなアイデアをわちゃわちゃ言い合いながらのカクテル作りと試飲。ひさびさに限界までのアルコールを摂取しました。そしてグランプリのレシピをまたどこかで使おうとか、よく考えている。

サイダーそのものができたあとで、この個性的なロゴ、トガシユウスケさんの清潔感のあるタガメのイラスト・デザイン、そしてキャッチフレーズ「好奇心を刺激する!」というところの

プロダクトデザインの流れも楽しく聞けました。うらやましい!

私と共同開発しているバッタ生キャラメルはソースにも展開しています。改善中ですので製品化は少々おまちください。

ひたすらにおいしい。そしてバニラアイスにも負けていない。すごいぞバッタソース。

そしておつまみとなる焼きそばやおにぎり、ピザなど。

おなかいっぱい、飲み放題という贅沢な時間を過ごすことができました。1参加者として満足です。

タガメチームの活動の後。よく飲んだ。

さて、ここで使ってきた香りの良いタガメは和名でタイワンタガメ Lethocerus indicusと呼ばれる種です。そして日本のタガメ Lethocerus deyrollei は環境省から特定第2種国内希少野生動植物種に指定されそう、とのこと。ニホンタガメを使った昆虫食品は、事実上不可能になりそうです。

「生物の資源としての利用」と「資源としての保全」は表裏一体です。そして地元のコンセンサスが重要になります。ノルウェーに侵入したタラバガニや、東京湾のホンビノス貝など、外来種でありながら資源である場合の舵取りはとても大変なものになりますが、うまくコントロールできればパワーにもなります。

私のタイワンタガメに対する態度も同様で、もしタガメの食品がきちんと産業化し、生息地が保全され、タガメの高すぎる農薬感受性に配慮した、流域全体の農薬コントロールができれば、タガメの資源保護をするための資金源にもなるでしょうし、今後絶滅が危惧されたときにもその養殖技術は保全の助けになるはずです。

ということで、ラオスでもタイワンタガメが飼育できないか、チャレンジしているところです。タガメサイダーの特許をとった加工法は死んで輸入されたあとに加工を加える「ポストプロセシング」ですが、こちらラオスが生産地になると、殺す前に加工する(調味する、という意味では養殖そのものや蓄養などもプロセシングと位置づけられます)という「プレ・プロセシング」となる部分も技術を探っていけるはずです。

なかなか食べ残しが多く、農薬にも弱い子ですがただひたすらにかっこいいこと、市場で安く買えることなどから、研究には適した場所だと思います。ラオスで一緒にタガメ研究しませんか?

去る2019年の11月22日、SDGsの次の社会、というテーマで慶應大学SFCのオープンリサーチフォーラムに行ってきました。これはオープンキャンパスと成果報告会が一緒になったようなもの。六本木という好立地での開催です。

コオロギ研究でお世話になっているオオニシ先生の研究室の展示を見に行き、少しコメントしてきました。とてもいい作品があったことを報告しておきます。

こちら、フードロスがどのようなカテゴリーがあって、それが各地域ごとにどのような割合で排出されているか。それを左右の「フロー」として示したものです。実際になにかが「流れて」いるわけではないのですが、異なるカテゴライズの左右を見比べるときの手法として面白いと思います。

これまでの人類のタンパク源の変遷を年表であらわし、そのなかに昆虫も含めて検討しています。ヒストリーから未来を想像するときに危険なのが、「単なる歴史的経緯」としてのバイアスを正しいかのように引き継いでしまうことです。昆虫「も」考慮にいれることで、未来予測をより確実にしようとする姿勢がみられますね。

今回関心したのがこの作品。都市、農地、森林の土地の広さを一覧として示しています。

特にいいメッセージがこちら。Farm is NOT green.

面積としては地球上の陸地の0.5%しかない都市に半数の人口が集中するという偏りのある人口分布をしている人類ですが、その中で「多数派」によって意思決定をしてしまうと、農地に対してなんだか「グリーン」な期待を寄せてしまいがちです。

都会の無機的・機械的・閉鎖的イメージの裏返しとして、農地への過度なキラキラ期待をした作品が、「未来と芸術展」にも多く見られました。ビルにコケをはやして食糧生産とか。わずか0.5%しかない都市に注ぐわずかな太陽光を「効率的」につかうための巨大な建築物とか、都市が田舎から搾取する構造を無視して、そこに住む人口を自給自足で支えられる未来の光合成に思いを馳せる勘違いが多いところ。

そこでリサーチをして、否定をしてみせる。多くの人がもつ勘違いに迎合せず、都合よく利用せず、否定して正す、というデザインが必要になってきます。

SDGsというアクションそのものが、ややっこしい各専門分野をひとくくりにして「わかりやすく簡略化」したものですので、あくまで一般向けに端折られてしまった部分が多くあります。そこでその次を「提案」するならば、やはり各分野の専門的な理解は必要ではないでしょうか。

研究者に限らず、アーティストやデザイナーにおいても、すべての表現社に「リサーチ能力」が試される時代がやってきた、と思います。研究者が監修した成果物、というよりは協業によって新しいものがうみだされることに興味をもっています。

自分の専門におけるリサーチと、他分野の専門家にリサーチを依頼するクライアントとしてのリベラルアーツなども大事になってくるでしょう。そして必要なリサーチに応じてチームを組み、対応するなど、いろいろと進めていきたいと思います。

TwitterとFacebookで何度かやり取りをしていただいた岩崎秀雄先生から 日本滞在中に招待をいただきました。

ひっそりと行われている(?)オープンセミナーとのことで、 アートは門外漢ですが時間がとれそうだったので、ぜひお会いしたいと突撃してきました。
久しぶりの再会をすることになったAI HASEGAWAさん、会場で挨拶をすると、「きっとおもしろいのでちょっとなにか喋ってもらえますか」 との無茶振り。

こ、、、これは。。。なんの準備もしてないですが、受けて立とうじゃありませんか。ラップバトルみたいになってきましたね。


セミナーの内容はすごくディープで、「発想し、つくる」という活動のサイクルの速さがものすごいと感じました。このようなタイムラグの短さはコンセプトデザイナーを思わせます。 特に生殖にまつわる作品が多く、作品を知った当時「僕にも子宮という臓器があれば出産についてこんなにも深く考えられたのだろうか」と嫉妬も覚えました。

私はアートの批評を勉強したわけではないので、アートという文脈での評価をすることはできないのですが、彼女に対して 私が尊敬する姿勢として「徹底したリサーチ」と「デメリットの開示」にあります。

これは科学者の倫理としても通じる姿勢なので、もしかしたらアート業界ではあまり見ない (リサーチが甘かったり、ウソ、おおげさまぎらわしい作品ですらアートとして評価されてしまった、GFPバニーという作品もあります。) のかもしれません。ひとまず業界を超えるパワーと技術と手法を持つ方だと考えています。

2013年の「私はイルカを生みたい」ではまだ見ぬ出産に関する自己決定権に関する遠い未来の技術を想定したものでした。 おそらくこの発想はズートピアにつながるものだ、と私は勝手に解釈しています。現行法によると、出産によって生まれた存在は「人権」をもつのです。 2015年の(Im)possible babyでは同性間カップルの子供を想定し、いくつかのフィクションを入れながら 未来の家族を描き出しました。ここで当事者である同性カップルの片方はポジティブな感想を、もう一方はネガティブな感想を述べていたのが印象的でした。

今回「未来と芸術展」で紹介されていたのは生殖医療の一種でありながら「最新テクノロジーをあえて抜く」という方法で考えられた 2011年の作品、Shared baby 。複数親のいるベビー。まず受精卵からES細胞を作成、そこから精子を作成し、他の卵子と受精させると3人親の子供が生まれます。ミトコンドリア病などの遺伝病の治療目的として「消極的な3人親」は見当されはじめましたが、産む権利としての積極的な出産のための議論はほとんどされてこなかったようです。そのときに「デメリット」について専門家に取材した動画が、まず流れていたのです。

この展示で想定された技術はもう技術的には利用可能で、法的な議論が届いていない状態です。 祖父母から突然孫が生まれるような、わりと「枯れた」テクノロジーのみで生まれることができるかもしれない ベビー。枯れているからこそリアルさが強く、反実仮想を「実装」するために契約書を交わし、 専門家に「まずデメリットについて」取材しながら意見を深めていきます。
セミナー会場から出てくる感想は「子供がいじめられるかもしれない(だからすべきでない)」とか、「出産される子供と同意がとれないから搾取的である」と言った意見も出ました。

私が聞いているうちに感じたのはすでに実装されている「養子」という制度の先進さと異質さです。 「DNAが共有されているからこそ責任をもてる」という複数親遺伝子の「意義」を語る参加者に対し、任意で、両者(と立ち会い人としての行政)の合意で親子関係を結ぶという「養子」の契約主義は、DNAと遺伝学によって図らずも強化されてしまった血統主義と真っ向から相反します。

そして「すべての赤子は親と契約してうまれてきたのではない」という慣例的な人権無視(そこからの反動として半出生主義に行きますか) に対しても違和感が増えていきます。 わたしは誰のDNAに寄るものか、ではなく本人の意志により親が決まる。そんな世界に憧れもありますし、全てが自己責任になる怖さもあります。 あとでTwitterで教えていただいたのですが、小さな農業共同体においては子育ては集団で行い労力を節約することで、「誰の子供」であるかは薄くなる ことがあるそうです。

セミナーの後の参加者の発言が非常に印象的でした。 「とても普通では開示できないような内心が漏れ出てきている」ような空気を感じたのです。 これがアートの「能力」といえるかもしれません。 倫理的なもの、非倫理的なもの、そして分類不明の不可思議な感情まで、漏らし出さずにはいられない。我慢ができない。たまたま、その場の状態によって ひどく非倫理的な結論を導き出してしまうかもしれない。それでも根本は「人は表現せずには生きられない」という社会的「表現欲」の概念です。

そして私は、オファーに応えて、最後に蛇足として昆虫食の話をします。論というよりは感想です。 POP ROACHの作品を森美術館で「観た」とき、以前からこの作品をしっておきながら非常に怒りが湧いてきたこと、 愛読書である火の鳥の太陽編でゴキブリが食べられている生原稿を観て、「怒り」が湧いてきたこと。アートの業界が高等教育を受けたハイソなお金持ちを対象とする「市場」に評価されることによって、アートが社会に向けて発信する意見が、顧客にならない貧乏なマイノリティを抑圧したり排除しているのではないか。 そして私の怒りそのものが、ラオス人を隠れ蓑にした私の独善的な怒りかもしれない、という気づき。 そしてそれを「言わずには我慢できなかった」のです。

そこからさらに拡大するとアートとして 虫をモチーフにした表現をしている作家さんにやってくる心無い言葉にもひとつの説明が付きます。 「キモ」「なんでわざわざ虫?」「これなら我慢できる」 などなど。

虫をモチーフにしない作品に対しては、とても言わない失礼な発言でしょう。これらは 「そのアートによって我慢できずに漏れ出してしまった内心」なのではないでしょうか。 つまり虫アートはまっとうに「アートとして」機能したのです。 すでに虫がアートじみた機能をもっているゆえに、アーティストが虫をモチーフとして使うことの「オリジナリティ」を発揮するのがむしろ難しいのではないでしょうか。

逆に言うと、内心と表現を「一致させても良い」ネコとかイヌなんかは、大衆娯楽としてのパワーがありますが、ネコが嫌いだったり、イヌに噛まれてトラウマだったりする人にとっては、なかなか内心を出すことが難しい状況を作り出してしまいます。 また「好き」とはいっても食材として好きな場合、イヌを食う話をイヌ好きとできる場所などないでしょう。

ところが、幸いなことに、 昆虫を食う話を、「昆虫好き」の人たちとできる現状があります。これはすごいことです。「昆虫好き」を公言すると「食うの?」とニヤニヤ聞かれることもあるそうで、私の責任ではないですが、昆虫食趣味が表に出ることによる迷惑も、もちろんかかっています。

しかし違っているからこそ、共感できないからこそ興味関心が互いに多様化し、無限の多様性をもつ昆虫という 、一人の人間の一生では到底カバーできない世界を、過去から未来まで、みんなで補完して少しずつ 説明できるようにしていこう、というのが「昆虫学」の営みです。

昆虫表現物は昆虫学をベースにしないととても困難ですし、 広がりや深みを得るためにも昆虫学との接点は必要に感じます。
しかし、大きな偏見により、その虫表現物の生産と開示を妨げるものがあります。「わざわざ」という言葉です。

昆虫食への批判としてもよく言われるのが「わざわざ見せる」というものです。 「私(社会)が嫌がることを知っているのに」と言ったニュアンスがあります。 あなたの感情はマイノリティ、私の感情はマジョリティという優越感もありますし 「マジョリティである私」がないと生まれない「わざわざ」という感情であるにも関わらず、 「虫好きから嫌がらせを受けている」といったマイノリティ的な立ち位置を利用しようともしてしまいます。

昆虫、そんなにわざわざ生きているものでしょうか。地上の覇者として、一般的にあまねく存在するものと私は認識しています。 彼らも私たちも、空はそれほど高く飛べないですし、自力で海に深く潜ることもできません。地上の狭くて薄い範囲に生息する、隣人として 「共感できないながらも存在することを認識する」というバランスをもっていきたいものです。

さて、またAIさんの作品について 「子宮という臓器をもつからいいアイデアにつながったのではないかという嫉妬」についても 失礼ながらぶつけさせていただきました。

お返事としては「確かに長い付き合いなので長い時間を生殖、出産といった思索につかうきっかけになったかもしれない。けれど『いいアイデア』に必ずしもつながるとは思えない」 とのことでした。ありがとうございます。

「長い付き合いだからといって「いいアイデア」になるとは限らない。」自戒していきたいと思うのと同時に やはり「いいアイデア」という時間空間を超える価値観についても、ずっと考えないといけないものだと思いました。
みなさんも、 「いいアイデア」ありますか? 誰に聞いてもらいますか?どこにぶつけますか? どうやって表現しますか?

そんな場を作りたい、としばし準備をしていきます。少々お待ち下さい。

中は撮影禁止です。

日本科学博物館でやっている企画展「ミイラ展」に行ってきました。ここで扱われるミイラは自然と人工の2タイプがあり、遺体が偶然によって長期間保存された状態の自然ミイラとは異なり、人為的な介在のある人工ミイラには本人もしくは他人の手が加わっており、そしてそこには後世の人間に伝えたいメッセージ性のある『表現物』とみることもできます。

今回は「遺体」というよりもある意味、「究極の表現物」としてのミイラについて考えたいと思い、観にきました。

昆虫のさみしさについて考察したこともありましたが、やはり身近な人の死別、というのは大きなストレスとなる経験です。「配偶者の死」をストレス度100、結婚を50として、ストレス指数を測定する、という「ライフイベント法」という尺度もありました。

葬送を目的としたミイラはいずれも「念」がこもっているように見えます。遺体という「場合によっては無価値にもなるもの」に貴重品や高い技術を用いた保存技術などで「装飾」することで、その価値の高さを示しているようにも見えます。一見して価値のわかるものにはむしろ装飾の意味はないのかもしれません。

特に自分に負荷が大きかったのは、「即身仏」といった自らの意志で生前から遺体を加工し、その遺体に込められた「念」を後世に伝えるものです。即身仏はどうしても移動したり外気に晒すと痛みますから、門外不出のものが多いように思います。その中でその保存と補修を目的として、「科学的に」調査を進めたのが小方保(おがたたもつ)博士だった、とのことです。即身仏という非常にナイーブな存在にたいして、それを保管する寺の価値観に寄り添い、「保存と修繕」を目的として学術調査までできるように交渉する。科学の及ばない範囲にある存在にたいする科学者のアプローチとは、このように相手方の価値観に沿う提案であってほしいものです。

科学者ということでもう一つ、江戸時代の本草学者によるものと伝えられるミイラ。宗教目的でない、自らの意思によるミイラはほとんどないとのこと。全体が茶色く変色した異質さと、死の間際に大量の柿の種を摂取してタンニン源とする元気さ、力のこもった(ようにみえる)ポーズも含めて、これはすごい「表現物」だと感じました。

さて、科学者が自らの命を削って表現物(論文)をつくるのはそれほどまれなことではありません。そういう意味で科学もまた宗教じみた信念といえるのかもしれませんが、ピロリ菌による胃潰瘍の発症は論文著者自身の「人体実験」が1984年に行われたとのことですし、表現者が自らの肉体を傷つけて行われる表現行為は、なかなか甘美な魅力があります。私の昆虫の「味見」も表現者が自らの肉体を傷つける表現行為、である可能性は残ったままです。

しかし、現代の「法」はそれを許していません。自殺の自由はあっても教唆・幇助は許されませんし、論文では倫理規定により掲載されなくなるでしょう。

そして表現者自らの「死」によって生み出される圧倒的な「やり逃げ感」は死後に作品の値段があがる、といったアートの風習も相まって、事故死があとから神聖化されることはっても、表現者自らが作品の価値を高めるために行った自傷行為は、おそらく普通のアート市場では取り扱いができないように思います。(アート業界の倫理について、芸術教育の倫理ぐらいしか見当がつかないんですが明文化された、あるいは評論されたなにかがあるのでしょうか。ご存知でしたら教えて下さい。)

自分は柿の種を飲み込んでミイラになろうとする二番煎じ自称草本学者なのではないか、と頭をよぎることはありますが、ひとまず健康に、そして学問に忠実に参りましょう。

この、死んでいる人の割合が極めて高い会場で唯一かつ絶対のいやし要因となっていたのがネコのミイラ。みなさんがふと足を止めて、体力回復ポイントのようにじっと観ていました。そばにあったはやぶさのミイラはあまり注目されず、ネコだけに注目が集まっていたのが印象的でした。

他の「事故により自然に保存された」ミイラ、あるいは人工的に本人が承認したと思われる文化的背景のある人工ミイラと比較すると、「ネコのミイラ」は副葬品ですので、ヒトのミイラへの装飾のために「殺された」と見るのが妥当でしょう。つまり「合意のない殺害があった」ことから、無念の気持ちは数あるミイラのなかで、かなり上位に位置するとは思うのです。しかし。

見る側の人間とは勝手なもので、やさしく布の巻かれたネコのミイラ。グッズとしてもいいですし、手も出しやすい。私も買いました。なんとも身勝手なものです。

そして日本館で行われていた「風景の科学」へ。風景写真家による作品に「科学的な解説」が加わると、解説を読む前と読んだあとで、その作品の見え方がどう異なるか。やっぱカキに引きずられますね。なかなか実験的な試みで、驚きもあり、どんどんやってほしいと思います。無料なので募金しました。

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さて、ラオスにいる時間が長いとTwitterに流れる日本での催し物に対して、とても「飢えた状態」になります。どれだけ行きたくとも、行けないという物理的制約です。「いきもにあ」に嫉妬してこんなことをしたこともありました。

そうすると日本に帰国した時に煽られていろんなイベントに参加したくなります。無理してでも。むしろ日本にいた時より年間の頻度は増してるかもしれないです。

最初に行ってきたのは、他の打ち合わせが早めに終わったので近場でこれ。

未来と芸術展

森美術館というオサレ空間を見てきました。やはり気になるのはこれら。なぜ建築家はビルにコケをはやしたがるのか。

なぜ建築家はビルにコケをはやしたがるのか。それで食糧生産、的なストーリーがついているのです。

都市、という不特定多数のニンゲンが密集する狭い狭い空間において、食糧の一次生産=光合成にするというのはなかなかナンセンスです。たとえ光合成効率100%というとんでもないものが生まれたとしても、そもそも利用可能な太陽光のうち、都市に降り注ぐのはわずかですし、都市、というのは田舎への依存によって成立する空間ですので、利用可能な土地全部が都市になってしまってはいけません。そして迷子がいるかもしれない都市で巨大な農業機械をぶん回すなど、危険すぎます。棲み分けがだいじです。というかこれらを考えている人と、評価する人、あなた都市にしか住んだことないですよね、と薄々見えてきます。

田舎はグリーンとかピュアとかナチュラルといった「都会の無機質・閉塞感」のアンチテーゼから想像されるお花畑ではないんです。

「都市」が様々な資源(電力・食料・人的リソース・そして価値観)をその周囲から搾取していることを強烈に意識しているのが会田誠のNEO出島。東京という「日本の大将」たる都市の上空に、「グローバルエリート」というコンプレックスを刺激しまくるさらなる搾取の上位存在を浮かばせる、という、なんと田舎根性の卑屈な作品が作れるんだろうか。たぶん都市に住んでるのに。田舎出身の私としてはひどくスッキリしたものです。

ネオ出島。アリータの世界観にも近い。

次に見たのがNASAの火星移住プロトタイプ。現地の土で簡便なシェルターをつくり紫外線を遮り、中にもちこんだ空気圧式の居住スペースを展開していく。「宇宙船地球号」と呼ばれる地球そのものも巨大な半閉鎖系なのですが、こういった宇宙開発というロマンと組み合わせると、閉鎖式の生態系模倣型農業も、閉塞的なストレスが減り魅力的に見えてきます。

そして見たかった「POP ROACH」

ゴキブリを遺伝子組換えをすることで新たなフレーバーをもたらした昆虫食の新しい形、の架空の広告という設定のAI Hasegawaさんの作品。

AI Hasegawaさんは以前から存じ上げていて、とてもリサーチが強い、専門家からの批評にも耐える強度の高い作品を作られる方です。もう2点、生殖医療をテーマにした作品も展示されています。この話は後で紹介しますが、この作品でも、アートの反実仮想によって想定された「複数の親がいる子供の可能性」について、「専門家」にデメリットから先に語らせるという動画が流れています。

このゴキブリ作品も以前から知っていたのですが、なぜか、妙に、唐突で強烈な「不快感」が出てきたのです。

「私たちはゴキブリを食べられるのでしょうか?」

「不快だ」だけは面白くないので、なぜそう感じたのか、読み解いていきましょう。

ゴキブリ、という都市で汚染されたミームを持つ存在を取り上げていますが、多くの昆虫食文化は都市以外、つまり田舎で育まれてきたので、ゴキブリを食べる文化はさほど多くありません。森に行かないとまとまって手に入りにくく、独特の集合フェロモン臭があるからです。そして家屋の周りをうろついているゴキブリは衛生上の問題があります。それは「ニンゲンの生息環境が汚い」だけで、ゴキブリのせいでもないのです。

つまり典型的な昆虫食文化を背景にすればゴキブリを代表として選出するとは考えにくく、「昆虫食文化の文脈を意図的か非意図的に無視している」という点です。

これが意図的でないことはあとから解説します。アート、および建築意匠にかかわる人材の都市集中による構造的な問題かと思います。

そして次に「遺伝子組み換えによる風味の改変」です。

ゴキブリに一年間チョコを食べさせると味が変化する という実験からもわかるように、遺伝子組換えをしなくとも、エサによってでも風味を変えることは可能で、遺伝子組換えを登場させる意義としては弱くなってしまいます。もともと遺伝子組み換えと昆虫の相性はよいので、例えば自然界にない物質への栄養要求性を付与し、脱走すると死ぬ安全な食用昆虫とか、甲殻類アレルギーを緩和する作用のある昆虫などなど、今後活用される場面は色々考えられると思いますが、「ゴキブリにフレーバーをつける目的で行う」のはかなり後回しでしょう。

ゴキブリはタンパク質をあまりふくまない廃棄バイオマスからも効率的にタンパク質を回収できる、という論文もあるので、もちろん都市に適応したゴキブリを、都市型の廃棄物再処理目的で飼うことは全く筋が通っています。

しかし、それを「昆虫食の第一歩」「果たしてあなたは食べられるか、という踏み絵と」して提示されていることに、一種のさみしさを感じたのです。

あぁ私たちは無視されていると。ラオスに滞在しているからって「私たち」と総称することもまたおこがましいですし、それをもって都市生活者を攻撃するのもナンセンスなんですが。率直な気持ちとして。

と同時に、2015年にはこの作品を知っていて、こんな不快感は全く沸き起こらなかったことを思い出します。つまり、「私の不快感」はラオスに行くことで大きく変わったといえるでしょう。

すると愛読していた火の鳥までもが、昆虫食への偏見(火の鳥太陽編でのシャドーの食生活の酷さを示すためにゴキブリやざざむしが使われる)にまみれていることにイラッと来ますし、森美術館という都市のまんなかで、都市生活者だけで食の未来を語れると素朴に思っていることこそがおこがましい、とまで怒りは膨らんでいきました。展示の場所にも影響されている気がします。

ある現代アートに対して、「スペキュラティブだ」と評価がつくことがあります。作家が意図的であることを前提として、社会に向けて問題提起するパワーが強いことを美術批評家が発します。日本は批評家やキュレーターが豊富とはいえないので、そのように評価されたことを、アーティスト自らが発信しなくてはいけない側面もあります。(本来はアーティストが自分への評価を広告するのはやらなくていいはずですが)

するとこういった「スペキュラティブさ」は

都市部の、お金持ちの、人口密集地の「社会」に対するメッセージ性で測定され

辺境の、貧乏の、過疎地の、もう一ついうとマイノリティの「社会」は見逃されがちであるという点に、多くの(貧乏な時代を過ごしたはずの)アーティストが自覚を失ってしまうことこそが、構造的な危険性をはらんでいるように見えてきました。

報われないアーティストが上流階級に入り込むため、同じような報われない境遇にある、非アーティストを踏みつけた作品を作るとしたら、それこそ表現の地獄というやつになると思います。そしてその多くは「非意図的に」「無自覚なリサーチ不足で」起こっている。

無自覚なリサーチ不足によって、アーティストが「お客さんとならない弱者」を採算から度外視することで、差別を再生産するとき、それに共感する「お客さん」の存在によって、アーティストの評価は決まってしまいます。

アウトサイダーである、ここでいうと昆虫を日常的に食べている人たちの声によって、アーティストの名声が落ちることは構造的にありません。アート・ワールドのこの構造を変えろということはないですし、コネと政治によって不当に高く評価されている論文(によって一般市民の健康が不当にバイアスがかかってしまう)が学術界は多々あるので、他山の石としたいものです。

他業界におけるアラが目についてしまうのは、お互いにないものねだりといえるでしょう。つまりこれから、どのような表現物に対しても「リサーチ不足」が致命的になりかねない、あるいはそうなるべきだとも思います。

幸いにも、この作者であるAI Hasegawaさんに、この疑問、不快感、問題を直接受け取めてもらうことができましたので、しばらくこの話は続きます。結論からいうと、コラボを企画することになりました。いつまでに、というものではないので気長に待ってください。いつかやりたい、とラブコールを改めて発しておきます。

次は人体を使った、ある意味「究極」の表現物、ミイラ展につづきます。

自己を犠牲にした究極の表現物「即身仏」はどのような「強さ」をもつのか。表現者がそれをやりたくなる衝動について、現代社会はそれを許容していいものか。

11月16日、17日に、毎年恒例のサイエンスアゴラ2019に出展してきました。今年からはISAPHとの共同事業体としてラオス事業を進めていきますので、今後の発展を願って、日本での研究会の活動とのコラボを強めていきます。ひとまずこの動画を御覧ください。雰囲気が伝わるかと思います。

ラオスで15年以上活動する保健のNGOである、ISAPHの事業の一つに、「本邦研修」というものがあります。これはラオスの協力者である保健人材を日本に招待し、保健医療の研修をうけてもらうものです。今回はそこに追加の助成金を応募して旅費を捻出し、東京のサイエンスアゴラまでご足労を願いました。なぜ呼んだかというと

「食の未来を日本人だけで相談することのナンセンス」を明らかにしたかったからです。どうしても日本人同士で昆虫食について話すと様々ある問題点や課題をすっとばして「心理的なハードル」に集中しがちです。

日本はこれから人口が減少し、アフリカとアジアの人口が増加します。

そしていますぐ、温室効果ガスをゼロにしたとしても、今後数十年間は温暖化が進むと予想されています。つまり。

「昆虫を食べる地域(熱帯や亜熱帯)の気候帯が広がる」

「昆虫を食べる地域(熱帯や亜熱帯)の人口が増える」

ということなのです。奇しくも伝統食材として、昆虫食が残っている日本が、「なんだか昆虫食へのイメージが良くない」ということで、将来性にフタをしたり、他の食材に比べて開発が遅れていることを理由に、採用を後回しにする、といった「遅れの再生産」を起こすことは、世界全体の損失となってしまうでしょう。

つまり、「昆虫食の伸びしろを確認すること」を目的とした研究は、偏見を手放して「公平に」やるべきなのです。本当は公的研究機関がやるべきところですが。

批判はさておき、今回は、わたしたちができうる限りの「昆虫食の未来を議論するに適したメンバー」を揃えた形になります。この5角形はサイエンスアゴラの理念を示すものですが、「アゴラ」という開かれた議論の場において、

研究会は科学者と事業者としての側面、

試食提供を支援いただいた昆虫食普及ネットワーク、株式会社TAKEOは事業者、市民として。

このとき通りかかって試食をしたり、聞いてくれた方々は市民、メディアとして、

そして今回ゲストであるラオス行政の公務員と、そこで一緒に働くNGOとしてのISAPH事務局長の佐藤さんも参加いただきました。

印象的な発言をピックアップしておきます。

「一番おいしい昆虫はなんですか」(こういうのをよく聞くのですが)

に対してラオス人医師は「昆虫にはそれぞれおいしさと食べ方があるからそんなのわからないよ」との答え。「一番美味しい脊椎動物は?」と聞かれて答えにくいようなものでしょう。豚の角煮と親子丼、ビーフステーキ、どれがおいしいですか? 難しいですね。期待通りです。

また、試食提供で私がTAKEOと開発している「バッタ生キャラメル」を食べてもらったところ「バッタ本来の味が死んでいる」という美味しんぼみたいなコメントをもらいました。とてもおもしろい。

今回のシンポジウムは「前に進む実感」というよりは、立ち止まって、あるいはむしろ少し後ずさって視野が広がる、そんな感覚をもらうことができました。

シンポジウムに参加してくれた人の多くは関係者でしたが、あらためて今の活動の意義や進捗を語らう場を設ける事ができてよかったかと思います。みなさまありがとうございました。そしてこの動画を撮影・編集してくださった、なおまるさんに感謝申し上げます。

11月の内容もまとまらないままもう12月も終わりですよ。なんですかこのスピードは。

11月

「サイエンスアゴラ2019に出展してきました」


「未来と芸術展」

「ミイラ展」

「オープンリサーチフォーラム」

「Ai Hasegawa さんセミナー」
ぐらいの順番でいきます。

12月

オオツバメガ Lyssa zampa 味見

タガメナイト

さんわかセミナー

あたりまで書きます。本当に書きます。宣言まで。

もうひとつ美味しい糞虫、Onthophagus mouhoti これの味見レポートを9月に書くべきだったのを忘れていたので書きます。

Onthophagus mouhoti