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ご報告です。まずはこちらをご覧ください。



ラオスでのプロジェクトがひと段落して、行き先が決まらずウロウロしていたのですが

以前から技術顧問としてライトに参加していたTAKEO株式会社から、声がかかりまして、「CSOチーフ・サステナビリティ・オフィサー」という役職で、昆虫食企業がサステナビリティを武器にしていくための戦略を立案すべく、しっかり参加することになりました。

蟲ソムリエとして、やるべきことはこれまで通りです。むしろ加速していきます。

2023年、いろいろなことがありました。
印象的なのがコオロギ炎上事件でしょう。不適切な昆虫食品の提供が行われたわけでもなく、不本意な形でコオロギを食べさせられた被害者がいるわけでもない、にもかかわらず、というか、だからこそ、なのかもしれません。ネットで誤読が広がり、我こそはと名乗りをあげる「不安の声」がこれまでも、そしてこれからも昆虫を食べないであろう人たちから立ち上がり、それを煽ることで、ネットで稼ぐ人やbotたちが大きな祭りを引き起こしました。そしてその中で、弱々しいながら発信を続けた人たちと、貝のように黙り込んだ人たちがいました。それぞれの判断の合理性について、解析していきます。

昆虫食業界はコオロギへの2020年ごろからの期待感がさらっと消え失せ、次の大胆な一手をなかなか打てない状況が続いています。また、とある界隈で「反コオロギ」が格好の商材として使われ、自説を補強するために都合のいいサンドバックのように叩かれ続け、これまでひっそりと昆虫を食べてきた人たちの肩身の狭い状況がつづいています。

一方で、私は2023年までのプロジェクトで、すでに社会受容が完了している国、ラオスにいました。では社会受容さえあれば、昆虫食ビジネスは軌道に乗るのでしょうか?そんなことはありませんでした。少なくとも昆虫食文化の中心である、ラオスの農村部の人たちが、農家として技術を習得し、昆虫養殖ができる、というところまでは確認しました。

次のステップとして、ビジネスとして流通を確保し、生産管理をするとなるともう一段階、高度な人材を雇う必要がありました。その人たちが、ラオスの農村部にどんな形で、何を期待して生活しているのか、どうすればこちらのビジネスに参画してくれそうか、というところまで、実態を把握してきました。それはこれまでのNGOやODAの活動で手が出されてこなかった人たちであり、新たな展開ができそうです。

次のステップは、ラオスの近隣国との連携を強化し、日本との商流をつなげるための関係性づくりです。それは日本の昆虫食業界を持続可能にするだけでなく、食文化としての未来のビジョンを、地続きで体感するための架け橋になるでしょう。

また、この「炎上」は、本当に昆虫食だけのものでしょうか?様々な政治的対立の「商材」として、これまでもいろんな象徴的な食材が消費されてきました。富裕層が「肉」を食べ、その副産物や廃棄物を貧乏人が食べさせられる、というフードシステムは、持続可能でしょうか?
ある食材を食べると健康になる、というエビデンスが得られたとして、その食材が貧困国で生産され、生産者の口には入らず、富裕国の健康な人たちに輸入される時、このフードシステムは、人々の幸福の総量を増やしていますか?

そしてこれらのような企業倫理の軽視は、その企業に対してどのような事業リスクをもたらすのでしょうか?専業の中小企業はどうでしょう?そしてコモディティ食品を生産している、大企業は?

まだまだ誰も見ていない、不透明でセンシティブな部分にあえて分け入り、火中の栗を拾いにきました。

年末年始の映画、ゴジラ-1.0にあるような「誰かが貧乏クジを引かなきゃなんない」のかもしれませんが、

蟲ソムリエという実務者として、そして当事者として、ガッツリ取り組んでいこうと思います。日本の皆さんをこれまで以上に巻き込んで、問題提起し、挑発していきますので、好奇心と共に見守ってくださるとありがたいです。

「ラオスにいるうちにセキショクヤケイを食べよう」と思いたち、私は村のニワトリをより凝視するようになりました。どこかにセキショクヤケイの遺伝子があるのではないか。彼らニワトリをニワトリたらしめているのはなにか?

書籍「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」においても、

セキショクヤケイの形質はゆれがあり、家畜化されたニワトリとも遺伝的交流があるとのことです。最近100年ほどでニワトリが愛玩動物、経済動物として期待され、ものすごいスピードで選抜されたときにも、遺伝子プールの多様性がその極度な合理化に、よくも悪くもついていけてしまった、と考えられます。

逆に言うと、別の要因で、遺伝的多様性がすでに失われてしまった野生生物は、すでに家畜化に適した遺伝子を失ってしまっていて、人類の歴史上、メジャーな家畜はもう二度と生まれないかもしれません。

ニワトリとセキショクヤケイはなんらかの単一形質や遺伝子マーカーでくっきり分けられることはないけれど、セキショクヤケイの性質のとことん濃いものを選んでいくことで、十分にニワトリと区別できるセキショクヤケイの形質が揃っていればOKだろう、と、この本になぞって自分の中で決めました。

5月の出張の日。午前中のオフィシャルな会議のため、村への出張で前泊しています。泊まりの出張では早起きして朝市にいくのが恒例になっていました。朝市といっても、彼らの本業は農業ですので、まだ暗い4時頃から開始します。

ラオス時間で5時半、これより早いと村の犬たちが警戒モードなので、めっちゃ追っかけてきて怖いです。

うん?これは?

ふつうニワトリはこのように死んだ状態で売られることはまずありません。傷んでしまうからです。この様子はたしかに奇妙。

こんな感じで、ふつうはカゴの中で生きたまま売られたり、
足を縛られて動けないようにして運ばれ、売られるのが、ラオススタイル。売れ残っても持ち帰れますしね。

すでに死んでいる、という売られ方は、ニワトリだとしたらすごく奇妙なのです。猟銃で獲られたときのスタイルに見えます。聴いてみました。「これは野生のニワトリか?」そうとの返事。値段は7万キープと確かにやや高めだけど、まぁ普通の値段。蹴爪が細く鋭く、さっくりと刺さりそうなのが特徴的ですね。書籍に識別情報のあったオスだけを買います。正直、メスを購入したところで識別する自信はないです。

そして一緒に売られていたものも、とても興味深いです。

養殖ヨーロッパイエコオロギの解凍(ラオスにはここまでの生産流通の仕組みがないことから、おそらくタイ産と思われます)養殖カエル、天然のキノコ、そして天然のセキショクヤケイ。

つまり養殖だから効率的、狩猟採集だから割に合わない、という単純な区別ではなく、彼らの合理性の中で、それぞれの事情をふまえて選択されている、と考えるのがいいでしょう。それぐらい自然が豊かで、人間が貧しいのがラオスの特徴です。日本の常識や、わかりやすく単純化したストーリーで語れるものはほとんどないです。

村で氷を購入し、会議の間、氷漬けで保管して、解体することにしました。ニワトリを解体した経験があるとはいえ、これは野生動物(である可能性が高い)ので、衛生管理にはめっちゃ気を使います。ダニがポツポツ見えますね、、、おそるおそる観察しつつ、、、、、

外形的な特徴をチェックしていきます。

「白い耳たぶ」と呼ばれる形質。これはセキショクヤケイの性質と呼ばれたこともあるものの、ラオスの家畜ニワトリにも見られるので、これだけで判断はできないとのことです。

グリーンに輝く黒い羽。これも死んだり乾燥したりすると失われてしまうらしく、繁殖期なのでこの美しさなのか、ニワトリとの違いははっきりわかりませんでした。

体重は測定したのですが、氷漬けの水がしみてしまい、正確ではないです。1164グラム。

羽をむしると1036g これを基準としましょうか。

消化管をチェックしていきます。そ嚢(上)と筋胃(下 砂肝ですね)に入っていたのはアリばかり。砂肝の中には、丸っこく角がけずれた石も見えました。ここまで完全にアリ食だと、短期間でも飼育されていた可能性は低いです。そしてツムギアリのような樹上のアリではないので、丹念につついて食べていたと考えられます。つまり狩猟されるまでは野生下にいた、と言えそうです。

胸肉とささみを見てみましょう。セキショクヤケイであれば飛べますから、ニワトリに比べて比率が高いはずです。

取り出してみるとふつうの胸肉、ささみに見えますが、
元々の体重が1kgと考えると、かなり割合が高いです。
書籍によると体重の15%の胸肉、5%のささみだそうで、とくにササミについて、ニワトリはそこまで大きくならないそうで、これはセキショクヤケイと判断していいでしょう。

細く長い蹴爪
白い耳たぶ
高いササミ比率
胃内容物のアリ

以上の形質から、晴れてセキショクヤケイ、と判断できました。それではこれを焼き鳥にしていきましょう。

あくまでこれは野鳥であり、鮮度その他、食中毒になっても責任はとれないと念押しした上で
食べてみました。
……硬い、、、、

野鳥なのですから当然です。以前にロードキルのキジを食べたときを思い起こします。2014年にさばいて食べた老鶏も同じような感じでした。

血抜きをしていないので血の匂いは強く、中から散弾のかけらが出てきましたし、お世辞にも「おいしい」焼鳥といえる味ではなかったのですが、これが原種の味か、、、と「おいしい経験」になりました。

最後にムリヤリに昆虫の話に戻しますが、いつでも家畜化(=目的に応じた形質を取り出すこと)ができるほどの、遺伝子プールの多様性を保つことが、まず大前提であって、ひとつの生物を家畜化するたびに、その他大勢の生物の多様性を遺伝子ごと全滅させるようなことは、遺伝子の濫獲であって、それでは今後、多様化する世界の気候やニーズに対してセキショクヤケイのようなスターはもう二度と現れないのではないかと思います。

「昆虫の家畜化プロセスにおいて、どう可逆性を担保するか」この遺伝資源の中には昆虫をおいしくたべる伝統知識も含まれます。これまで食べてきた人たちと一緒になにができるのか、
これまで食べてきた人たちを「やむをえず」置き去りにするならば、どんな問題を私達は抱えているのか。

そのような包括的な議論をしないと、効率が低い、地味なキジ科であったセキショクヤケイが世界的な家禽として君臨するようなことは怒らなかったと思われます。

今後鳥インフルエンザなどの猛威により、よりインフルエンザに耐性のある遺伝子が必要とされるかもしれません。ゲームチェンジはいきなり来る、というのは私達もコロナで体感したことです。そのときに、野生個体群が温存されているというのは、すでに絶滅してしまったオーロックスよりもずっとアドバンテージがあります。同じように、「今の価値観で役に立つ昆虫を取り出す」という近視眼的なものではなく「永続的に家畜候補遺伝子を自然界から取り出せるようにする」貯蔵庫としての自然界の必要性を、しっかり考えた上で未来を描いてもいいように思います。

こちらは村で飼われているニワトリ。

2014年の1月のブログで「逆にニワトリを食べてみる」という記事を書いてから9年。ラオスで進展があったのでまとめておきます。

家畜化前のニワトリの原種、セキショクヤケイGallus gallusを食べることができました。食べて考えたのは、今のわたしたちから「家畜化」とイメージできるものって、今の社会の価値観しか反映していない、ということです。わたしたちがいま、利用している家畜を見るとき、経済的価値をもたらす形質だけをピックアップし、そこに機能があるはずだ、という前提で正当化し、機能が見えないものを愛玩動物として切断処理してしまう。そして歴史的に失われた家畜は「淘汰された」とゴミ箱に入れスッキリ。

ヒトと家畜化動物との長い関係の中で、当時の人間がどう行動したのか、そこにどんな合理性があったのか、彼らの得たもの、失ったものが、現代からの視点では、かえって見えにくくなってしまうでしょう。歴史的な時系列を踏まえ、当時の価値観を復元し、そのプラスとマイナスの両側面を見ることが、まず大事です。

家畜化を安易に否定せず、美化もせず、今の価値観にとらわれず、正面から統合的にとらえることで、未来に向けた、家畜のビジョンを描けるようになるでしょう。それでは始めます。

ニワトリは原種が絶滅していない、生物としての源流を辿ることができる、ありがたい家畜です。ウシは原種、オーロックスが失われてしまったので、現代の家畜種の近親交配による遺伝病の回復方法がわからず、産業的に苦しんでいるそうです。冷凍精液が開発された1970年代以前の遺伝子型が追跡できないので、遺伝学的なルーツを探る古代牛復活プロジェクトなんかもあるとか。

2014年の「逆にニワトリを食べる」際のテーマは、昆虫試食会で参加者から言われた「昆虫を食べるなんてかわいそう」でした。動物倫理の意味合いでも重要なテーマでありつつ、昆虫が身近な人にとって、殺すべき、殺したくない、殺したくないのに殺してしまった事故の経験はあたりまえにあるでしょうから、素朴に感じやすいことです。じゃあ逆に考えてみよう。ニワトリはかわいそうじゃないのか?

このときは卵を産まなくなった老鶏をゆずってもらい、しばらくトノサマバッタで飼育したあと、自分で解体して食べました。労働として衛生面、安全面に気を使うだけでなく、血が出ること、苦しそうな呼吸、暴れる動きなど、心理的な疲労も大きいので、どちらも食べてみると、ニワトリの方がかわいそうに感じた、というのが私の主観的な体験です。

2017年からラオスに関わるようになり、多様な脊椎動物の屠殺に立ち会い、それが飲み会やお祭りのいち風景として目に入ったり、夜明け前の村の朝市で野生動物が売られ、次々と買われていく様子を見るうちに、次第に抵抗感がなくなってきた自分がいます。

生活の中で動物を利用することは、彼らにとって必要な生活スキルであり、昆虫食もその中にいます。たとえば犬やネコなど、去勢や避妊が一般的でないラオスにおいては、だれかが個体数を調整しないといけません。人間が動物を管理する手段の一つとして、当たり前に屠殺があること、その生活感になじみつつあるようです。

少し話がそれました。ニワトリに戻しましょう。ラオスでは村でも街でも、ニワトリはいたるところに自由に歩いていて、ときにヒヨコを連れています。2023年1月のある日、とある雄鶏が目に入りました。自由がなく、つながれていたのです。

これがその写真。

ヒモにゆわえられていて竹を掴んでいます。これはなんだろう?とラオス人スタッフに聞くと

なるほど。その後のリプライをいただいて良い書籍にめぐりあえました。

ここからはこの書籍「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」を読みながら勉強する形で、ラオスのニワトリの全貌をみていきます。この本はストーリーの語り口がダイナミックで引き込まれます。大きな流れとして、第一章に「経済動物として圧倒的なニワトリ」の話から入ります。

産卵鶏の年間産卵数は290個、寿命は産卵数が減り始める、700日。本来のニワトリの寿命は15年なのに、殺され廃棄される。
ブロイラー(肉用鶏)は50日で2.8kgまで育ち、そして殺される。その種苗は大企業が牛耳る。
産業として卵と肉の鶏はくっきり分けられ、兼用鶏という歴史的にメジャーだった利用は消滅。
当然だが、産業レベルの「効率のいい」ニワトリの恩恵は、貧困国には届かない。手作業・低効率で育てた地鶏は、商業レベルのニワトリと同程度の価格をつけられ、その労働は安く買い叩かれてしまう。

そして第二章、少なくとも9000年前、「家畜化初期」にだれが何をしたのか、筆者はラオスの現場に出向くことで、その謎を紐解いていきます。前半の「超効率」なニワトリの姿とは打って変わり、そこには面倒で臆病で、森の片隅にひっそりと住む、地味なキジ科の野鳥がいたのです。その名もセキショクヤケイ。

セキショクヤケイを家畜化したらしい、ここのタイ・ラオスの人たちは、とても現代の脅威の経済性を見越して、この鳥を飼い始めた、とはとても思えないのです。おおらかであそびがあって、恵まれた自然を背景に、夜明けとともに働き、昼前には休憩する。こんな気候から、なぜ家畜化をしたのか。「遊び」としか言いようがない。

この本を読み終え、私は思います。「ラオスにいるうちにセキショクヤケイを食べたい」と。

後半に続きます。

2ヶ月前になってしまいますが、3月10日、お誘いいただいたので要旨を書いて応募して、発表してきました。英語発表めっちゃ緊張しますね。なんでこんな異分野に踏み入れたのかといいますと、2年前、読書をしていたからです。

そしてTwitterでつぶやいていたところ

読んでわからんわからん、、と、うんうんとうなっていたところ、訳者の太田先生からメッセージが届き、やりとりしていたら「発表してみませんか?」とのこと。

いやーとっても良かった。「日頃、重要に思っていたけどこれってなんて名前で呼んだらいいだろう?」みたいに思っていた概念がバチッバチッと用語を得て脳内でハマっていって、とても刺激的な体験でした。

やはり問題は一緒で、研究者が、貧困の現場に来れないことで、網羅的、体系的に物事をとらえるべき研究分野全体が偏り、学問の進歩が大きく遅れているだろう、ということをあらためて理解できましたし、

研究者が現場に行って、当事者の困難と直面したテーマの研究のほうが、既存研究、先進国のこれまでの態度に対する批判の切れ味が鋭くなっていました。では昆虫食でも「同じような問題」が起こっている、というべきか「違う問題が起こっている」というべきか、どうにか魅力的なロジックに起こしていきたいところですが、今回の学会発表ではまだ、事例紹介が主になってしまいました。察しのいい研究者のみなさんは、そこに倫理学上の本質的な問題があるぞ、ということはあっという間に感づいてくれたようです。が、私のまだまだ力不足。

次の課題は、食農倫理学の研究者が、昆虫食で成果を出したり、論文を書いたりするようにできるにはどう介入できるか、というところでしょうか。(私が書くことも含めて)

今日、深刻化している様々な問題は「厄介な問題」(wicked problems)と呼ばれており、残念ながら明快な解決策があるわけではありません。これらの問題に対処するためには、フードシステムの多様性と、経済、産業、文化、健康、生活、自然といった他のシステムとの複雑で精緻な相互作用に、注意深く目を向け、読み解いていく必要があります

https://www.apsafe.online/apsafe2023/apsafe2023-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/

いやほんとそう。しかしさ、なんで昆虫食の発表がこんなに少ないの?と思ってしまうほど、ラオスで私達が典型的な問題に直面しているものの、書籍でも、学会でも、昆虫食が題材に扱われない点について、やはりうがった見方をしてしまうわけです。「この食農倫理学という分野全体が、昆虫を食べない人たち=つまり先進国エリートだけの「群盲、象を評す」によるものではないか?」と。

また一方で、「彼らが触れている典型的な食の問題が、昆虫食でも顕著に起こっているということは、食材の事情によらない、普遍的な知(問題提起)がここに存在するのではないか?」ということも同時に感じるわけです。

まだ私の中に答えはないです。大前提として、「厄介な問題」を説明するだけの絶対数としての研究者が足りない。そして足りない中、個々人の研究者の「好奇心」にその分散を頼っている、ということは、国際協力における優先順位の付け方との競合が起こりうるのではないか、とも思うわけです。その一方で、好奇心が有限な資源であることも理解していて、「有限な資源である好奇心をどのように社会課題に向けて分配しうるか」あたりも、考えています。

現状、研究者の好奇心にナワをつけるわけにはいかないので、自由な好奇心に任せているわけですが、そうするとアクセスの悪い昆虫食は後回しになってしまっているわけです。

感染症研究におけるデング熱のような、途上国の人たちの命だけを奪う「NTDs ネグレクテッド トロピカル ディジーズ(無視されてきた熱帯病)」では、名前がつくことで、ようやくその遅れが認識され国際プロジェクトが組まれた、という経緯があります。

しっかり昆虫食が「ネグレクト」されていることを明らかにし、「ネグレクトされてきた昆虫食農倫理学」を改めて組み直し、ではどうしたらいいのか、「開発昆虫学」あたりで、応用昆虫学・民族昆虫学・文化昆虫学を統合して再構築するような形を、悶々と考えています。

昆虫食では2013年の報告書が注目されがちですが、FAOは2010年にも報告書を出しています。これは昆虫食に対するFAOの基本的なスタンスを示すもので、私は好きでよく引用するのですが、あまり有名ではないです。巷の昆虫食ビジネスは2013年の報告書の中の一つの論文(2010年温室効果ガス論文)の図、ただ一つだけに注目してしまっていて、どうにもFAOの文脈を捉えきれていないように思います。

「文脈を捉えきれない」と何が起こるかというと、FAOの主張に反したり、FAOがこれからやるべきと主張する方針と衝突するにもかかわらず、「FAOが言っているから正しい」かのような、存在しない権威を傘にきたような主張をしてしまう危険があります。FAOの役割は国際機関ですので、そこと反する主張をしながら昆虫食を推進するのはもちろんありうることなのですが、(私もFAOに100%同意ではないです)適切な引用は適切な文脈の解釈あってこそ、ですね。もちろん適切な翻訳も、適切な解釈あってこそ、です。

さて、2010年の報告書のメインテーマは「Edible forest insects 食べられる森林昆虫」です。森林から供給される昆虫などの採集食材は、現地住民の栄養を支えているのですが、森林を木材として現金化する、という目先の利益ばかりにとらわれると、現金を得たところで森林が破壊され、それまで得られていたインフォーマル(流通経済に乗っていない、自給自足や地域内の物々交換をインフォーマルといいます)な食材について、見過ごされてしまうし、かえって栄養を阻害するかもしれないから注意せよ、と警告するものです。

木材の現金化が、ほかの売り物とトレードオフになるのであれば、(たとえば売り物になる伝統薬や染料など)、ブレーキがかかるのですが、栄養となると、当事者もほとんど気にしていません。貧困地域においては現金の得られる手段というものはたいそう魅力的で、当然ながらそこには基本的な栄養教育も行き届いていないので、「栄養があるものを食べなくてはいけない」という発想がそもそもないです。

ちょっと話はそれますが、よく昆虫食を「貴重な栄養源」として表現されることがあります。その際に気をつけなくてはいけないのが、彼らは栄養があるという「動機」で食べているわけではない、ということです。美味しいから、そこにあるから食べています。栄養という「機能」があることと、彼らが栄養を動機として食べているかは別のことで、現地に栄養教育が普及していない以上、栄養教育をしても行動を変えられない状況があるならば、昆虫を食べている動機を栄養と断定するのは不適切、といえます。

話を戻しましょう。

FAOのスタンスはこのときも一貫して、途上国、小規模農家、先住民を重視して、一切ブレていません。2013年の報告書に際しても先進国「にも」食の選択肢になるのではないか、と問題提起をしたところ、先進国だけでバズってしまい、途上国の先住民は置き去りになっています。2021年からFAOの報告書は「先住民のフードシステム」として、生態系を持続可能な形で利用してきた(持続可能じゃない先住民はそこで途絶えてきたシビアな現実もあるわけですが)歴史のある生態系利用について、未来に必要になる、あたらしいフードシステムを提案するものになるだろう、と注目しています。もちろんそこに昆虫も含まれます。

ですが、スタートアップがアピールするのは消費者や投資家の注目である、地球温暖化対策、食品安全、効率化ですので、FAOの主張を十分に受け止められず、ややズレた解釈や広告をしてしまっているのが現状です。

このままズレが拡大すると、「先進国の資本による高効率、大規模でエシカルな工場」が建設され、その建設労働者や軽作業の単純労働者が、昆虫を食べてきた田舎出身者の出稼ぎだったりする事が起こりえます。

これはまさにFAO2010年が警告したとおり、「現金のために栄養が悪化する」あるいは「昆虫を食べてきた貧困地域から昆虫食をとりあげて、先進国向けの栄養をつくる」というたいそうよろしくない産業へと育ってしまいかねません。こういうのを生物学的盗賊行為(バイオパイラシー)といいます。

まとめの図です。

さて、これらを踏まえて本題に戻りましょう。「HUMANS BITE BACK!!」をどう訳すか?

このお題は内山さんから投げかけられたもので、それまで私自身は直訳が難しいため、ちょっと皮肉めいた意訳として「人類よ、食いあらためよ!」とたびたび訳していました。今回、翻訳者の友人に聞いてみたところ、悪くない意訳だ、とのコメントをもらったので、教えてもらったロジックを紹介しておきます。これは翻訳の勉強になりました。

一般的な話として、書籍や報告書の「題名・見出し」の意味するところは2つで
1,内容の予告 2,読者の興味を引く要素

内容を見てみると、Edible forest insects とHumans bite backは「人間が、昆虫を食べる」という意味で同じ内容を示している。つまりHumans bite backは 1,内容の予告という機能はほとんどもたず、2,読者の興味を引くためのフレーズが大部分と考えていい。じゃあどんな興味を引くためのものか。

bite backが句動詞で、単語の直訳では意味が通じない。「人類が噛み返す」ようなニュアンス、本当は虫が人を噛むものなのに、といった前提が読者に共有されていると想定すると「その逆」が読者をおどろかせ、興味を引くフレーズとして機能する。

ただ、報告書の内容を見ると、「先進国が見過ごしてきたインフォーマルな昆虫食を見直すべき」という反省の文脈が含まれているので、読者層を「昆虫が人間を噛むことがあっても、人間が昆虫をかむなんて?」とおどろくような、昆虫を食べない先進国だけに限定してしまうのは、それはそれで「これまで食べてきた人たち」に対して包摂的じゃない。

日本でもイナゴを普通に食べてきた人が、このフレーズにピンとこないものになってしまうだろう。なのでちょっと本意とズレてしまう。
そうするとキリスト教の和訳でよく使われる「悔改めよ」というフレーズをパロディにして、「食いあらためよ!」とし、これまでの先進国が途上国へ一方的に価値観を押し付けてしまった反省を踏まえ、人類全体に改めて提言するものとして「人類よ、食いあらためよ!」は悪くない意訳、となる。

とのことでした。翻訳っておもしろい!特に題名については映画なんかも原題と邦題が大きく違っていることもあり、直訳を含めて正解が無数に考えられる中で、説得力をもたせるここらのロジックはとても勉強になりました。

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ラオスに来て、見聞きするものを踏まえて、昆虫食の未来について考える日々なのですが
どうしても日本で昆虫食の未来、というと、昆虫を食べない人たちがマジョリティである社会の中で考えるしかありません。とても窮屈ですし、その窮屈という自覚がないと、自分の発想力の範囲で、未来を考えてしまうことの狭さにも気づくことができません。

最近ラオスに来る機会のない人たちとのコミュニケーションにおいて、「ピンときやすい」と感じられるのが、日本人にとってなじみの深い、魚食からの概念メタファーです。

メタファーというのは厳密な議論には向いてないので、こういった魚食からのメタファーを使うことで、昆虫と魚で異なる社会的背景、技術的背景を無視してしまう危険性があります。あくまで、「居心地の悪さを直感的に」共感してもらうためのツールで、そこに気づいてもらえたら、次の正確な議論に戻る必要があります。

ですが居心地の悪さ、というのを共感してもらえないまま進むと、他人事になってしまうので、「あちら側の問題」と認知されると、それはそれで議論が進みません。このへんはツールのきっぱりとした使い分けが必要になります。あくまでこれは共感のツール。ロジックの場面で使い続けるものではないです。

「昆虫食は見た目が問題だ」「すりつぶせばいいだろう」というアイデアの居心地の悪さを説明するときに使うのが、タコのメタファーです。

「いやいやそうではないだろう」と、たこ焼きに親しんだ私達は直感的にツッコめますし、このようなチームが魚食の未来を語ることに不安を覚えるのではないでしょうか。

ではなぜツッコめるのだろう、このチームにどうやったらこのツッコミが伝わるだろう?と考えると、そろそろロジックに戻ってきましょう。昆虫食に置き換えて、慣れ親しんだ人たちから、このチーム(つまり昆虫食の未来を考える私達)がどう見えるのでしょうか。

こういった比較のロジックは、昆虫食と他の食材の「安全」について考えるときにも役立ちます。
昆虫はダメ、なぜなら昆虫だから。ではトートロジーで何のロジックもないことはわかるかと思います。

その先に昆虫のどういった性質によるものなのか、という部分において、昆虫とその他の食材をフェアに比較する必要が出てきます。ところが、昆虫を日常的に食べない人たちだけのチームで物事を考えると、やはりバイアスがかかってしまい、そのバイアスのキャンセルは、究極的にはチーム編成を改善する以外に解決の方法はありません。

チーム編成を改善する下準備として、今のチームのバイアスを自覚するためのツールとして、限定的にこのメタファーによる説明を試みています。

「昆虫を食べたことがある人が少ないから」であれば種選別があいまいな「ちりめんじゃこ」も禁止にすべきではないか。(フグ混入のニュースがありました)

「採って食べる人たちと養殖は違う」のであれば、魚を買って食べたことのない漁村出身者は魚食文化から外していい?むしろ養殖技術の社会実装を目指すにあたって、豊かな魚食文化の先輩として教えを請うべきでは?

などなど、いろいろ一般向けのネタを仕込んでいます。

ラオスの田園風景

近年の様々な研究により、昆虫は「ふつうの食材」であることが明らかになってきました。
最近、まとめて説明するタイミングがあったので、ここにまとめておきます。久々に長い記事です。

昆虫食をオススメする人が誰しも言及するFAO(国連食糧農業機関)の2013年の報告書 があります。これまで注目されてこなかった昆虫食に対して、養殖にかかる温室効果ガスをウシやブタよりも低減できるかもしれない、というポテンシャルが注目されることで、先進国が昆虫食に対する見方を大きく変えた、という事件がこの報告書に続いて起こっています。
報告書で示された栄養、環境、社会経済のそれぞれの視点がその後の研究の進捗でどうなったのか、それをうけて、EUとFAOが「昆虫食普及の方向性」を示したこと。とくにFAOが注目している小規模農家が「昆虫食がもっと普及すべき論」の中心にあるところまでを説明します。

「昆虫食に栄養面、環境面のメリットはあるの?」という素朴な疑問はよく寄せられるのですが、いくつかの論文をもとに「ある」と答えることはできるものの、そこから単純に「これまで食べなかった人が食べ始めるべきか」「人は誰でも昆虫を食べるべきか」まで踏み込むことはできません。人間は自分の食べたいものを食べる自由があるからです。

「私達は将来、昆虫をたべないといけないのか?」
ちょっと前の総裁選でも、話題になりました。SDGsを学んだという小学一年生の虫好きの少年が、こんな質問をしました。

ここの解説はこちらにまとめたので、そこそこにしますが、コメントがなかなかですね。

大前提として権力者から「特定の何かを食べなくてはいけない」と強要されることは食の主権の侵害になりますので、基本的にナシです。もしやるとしても、保健における栄養指導、介入のように、本人の価値観に沿う形で、極めて慎重に行われないといけません。「〇〇を食べなくてはいけない」「〇〇を食べてはいけない」と強要される状況はできるかぎり避けなくてはいけない。ここが大前提です。

EUでは2021年6月、ついにミールワームを第一号として、新規食品ヌーベルフードとしての認可がおりました。そして2021年、11月、トノサマバッタが第二号として許可されています。その中に、興味深い質問と回答がかいてあります。

Why should we eat insects?

It is up to consumers to decide whether they want to eat insects or not. The use of insects as an alternate source of protein is not new and insects are regularly eaten in many parts of the world.

Q なぜ私達は昆虫を食べないといけないの?

A 昆虫を食べるかどうかは消費者の判断次第だ。代替タンパク源としての昆虫の利用は新しいことではなく、昆虫はふつうに世界のたくさんの地域で食べられてきた。

https://ec.europa.eu/food/safety/novel-food/authorisations/approval-first-insect-novel-food_en#why_should_we_eat_insects

このことから、EUは「昆虫を食べるかどうかは消費者の判断次第だ」としてしまったわけで、ここに昆虫食を普及させるべき意義、栄養面と環境面の利点は、個人の行動を変えるには、ずいぶんと弱いことがわかります。とはいえ、よく聞かれることなので、2013年以降の進展をざっくりとまとめておきましょう。

栄養(成分)の視点から

栄養価の総合評価でいうと何度か紹介している、シャーロット・ペインさんのこの2016年論文「Are edible insects more or less ‘healthy’ than commonly consumed meats? A comparison using two nutrient profiling models developed to combat over- and undernutrition」が網羅的です。
先進国の住民にすすめるならば、とOfcomという指標をつかうと、多くの昆虫は豚肉と同程度のスコア、(ゾウムシは脂質が多いので先進国向きじゃない)で東アフリカで貧困地域の栄養支援の目的で使われている栄養改善の指標、NVSを使うと、コオロギとミツバチは、畜肉の中でもっとも鉄分が高い牛肉よりも高く、比較した昆虫はすべて、畜肉のどの種よりも高いカルシウムとリボフラビンが見いだされた、とのことです。

これからさらに研究が進んで、様々な属性の人たちが、自分の自由な選択で昆虫を食べるようになり、数十万人規模で昆虫を食べる人、食べない人がたくさん増えて、栄養疫学的に解析することで、論文が量産されて、それらを適切にメタ解析をすることで、コーヒーのように、適量であれば概ね有益、という結論 が出せる可能性もあります。

コーヒーのような大規模な疫学的データがとれるとしてもしばらく先で、いい解析のためには、地域や集団に偏りがなく、個人が自由な選択の楽しみとして、気軽に昆虫を日常的に食べるような、コーヒー並みの普及を昆虫食がしないといけない。じゃあどうやって、という状況です。研究をしたいから皆さん食べてください、では多くの人の行動を変える方法としては弱いですね。ありがたいことに、コオロギ粉末が入っているかどうか、被験者に隠した状態で食べてもらい、その腸内環境を測定したRCT研究も2018年に出ました。機能性がありそうな、単一の成分が検出される、という研究はすでにいくつかあるんですが、それが毎日の食事に昆虫を加えるとその効果が期待できるのか、強い効果があったらそれはもう医薬品じゃないの、その成分を昆虫から取る必要はあるのか、その成分を微生物で培養したほうが効率いいんじゃないの、なんかを考え出すと昆虫食という食の形から離れていってしまうので、ここではスキップします。あくまで「食事の形態としての昆虫食」に論点を絞っていきましょう。

環境の視点から

昆虫養殖産業の環境影響評価についてはアフトン・ハロランさんの、2017年コオロギライフサイクルアセスメント論文Life cycle assessment of cricket farming in north-eastern Thailand
研究室環境で効率化されたコオロギ養殖から類推される「未来のコオロギ農業」は、既存のニワトリやコオロギよりも、環境負荷が低くなる可能性は示されたけれども、既存の北タイのコオロギ養殖は、ニワトリの環境負荷と比べて差は少なく、ニワトリと共通する配合飼料であるダイズやトウモロコシの生産にかかる環境負荷が、コオロギ、ニワトリいずれも高い、という結論でした。 ポテンシャルは示せたものの、その後のライフサイクルアセスメントをするには生産規模が研究室レベルでは弱く、産業レベルではまだ十分に生産力がある昆虫が少ない、という状況があります。

とはいえ、栄養面、環境面から昆虫食がふつうの食材と同程度であって、特別な利点がなかったとしても、これまでの歴史的背景、社会的背景を見ると「昆虫食は今よりはもうちょっと普及するぐらいがフェアじゃないの」と言えると思います。その主役は、これまで食べてこなかった先進国ではなくて、やっぱり昆虫が豊富で、長らく食べてきた熱帯の途上国、その小規模な農家の皆さんです。逆に言うと、文化を離れると昆虫食論はふわっとしてしまいますので注意です。

じゃあFAOはどうしたいの?

私が最も重要と考えてるのが、栄養と食料に関するFAO-タイの方針です。より貧困地域の、社会経済的な利点が強調されていくことになります。2013年の報告書ばかりが注目されていますが、その報告書をまとめたオランダのグループよりも、その後はタイの存在感が増していきます。

FAOが昆虫食に注目したプロジェクトは2003年からスタートしていて、有名な2013年の報告書の前に、2010年にも報告書が出ています。ここでは、Edible forest insect 林産資源としての昆虫がテーマになっています。かいつまんでいうと、貧困国は林業による木材生産が手軽な現金獲得手段です。収入向上は住民の求めることですし、管理が届いていないところほど樹齢の高い木が多くあります。ところが、森林から得られていたものは木材だけでなく、林産昆虫に代表される、インフォーマル(現金収入でない)な食材もある、指摘しています。開発によって現金収入だけを優先してしまうと、そもそも彼らが得られていた食料安全保障がマイナスになる危険性を指摘したものです。

これと強く関連するのが、生物多様性条約の名古屋会議、COP10です。「2020年までに生態系が強靱で基礎的なサービスを提供できるよう、生物多様性の損失を止めるために、実効的かつ緊急の行動を起こす」その中で重要なのが利益配分です。

遺伝資源のアクセスと利益配分(ABS)に関する名古屋議定書
 COP10までにABSに関する国際レジーム策定交渉を完了すべしとのCOP8決定に基づき、COP10開催中に非公式協議会合(ICG)において、ABS議定書案の検討が行われたが、派生物、遡及適用、病原体等いくつかの論点での資源提供国と利用国の意見対立が続いたことを踏まえて、最終日に我が国が議長国としての議長案を各締約国に提示し、同案が「名古屋議定書」として採択された。また、議定書の発効に向けた政府間委員会の設置やその作業計画が決定された。

http://abs.env.go.jp/nagoya-protocol.html

学名がわかっている生物種のうち、半分以上が昆虫という今の地球の状況において、食料資源として将来性があるとわかってしまった以上、そこから得られる利益をきちんと推定しないと、利益配分の問題が生じると考えられます。それが昆虫食の将来性をいま、研究すべき強い意義です。

生物多様性条約は、先進国に強い制限がかかるようにできています。それは、貧困国の医薬品原料や薬草の伝統的知識に、先進国の製薬会社がただのりして、莫大な利益を得たにもかかわらず、現地の国や地域になんの還元もなかった、という反省からです。
こういった社会的背景を無視して、大規模効率化ばかりを推進してしまうと、、過去の製薬会社のように、途上国の遺伝資源(昆虫そのものと、それを利用する伝統知識)を勝手に持ち帰り、技術ノウハウを高めて、大企業が大きな利益を得て、それが現地に還元されないとなりかねない状況です。FAOは実はスタンスが一貫していて、2013年の報告書からはむしろ読み取りにくいですが、ポイントは「小農」です。小農宣言というのが2018年に国連で採択されていますが、日本は未参加なので全く報道されていません。

FAOは世界の食料の8割は小規模もしくは家族経営の農家が生産しているとして、貧困にさらされているのも彼らなので、食料安全保障を達成するためには、小農の権利を守ることが重要と指摘しています。FAOより控えめに見積もったこの論文でも、55カ国を調査して(日本とラオスが入ってないのが残念ですが)世界の食料の半分は5ha以下の小規模農家で生産されています。

そのため、2020年に公開されたコオロギ養殖の世界向け手引書、Guidance on sustainable cricket farming – A practical manual for farmers and inspectors においては、大規模効率化はあくまで選択肢の一つで、小規模農家への養殖指導の内容が多く割かれています。先程紹介した、同じ著者、タイのコンケン大学のユパ先生による2010年から2013年のタイ・ラオスのプロジェクトの論文ですが。こちらも20000件のコオロギ農家が、最大75000人の雇用と収入を生んでいる、と推定してあります。そのため、大規模効率化、自動化ばかりがフードテックと語られがちで、昆虫食もフードテックの一部として語られがちなのですが、そのように単純に語ってしまうとタイのコオロギ農家から収入の手段を奪い取ってしまう危険すらあるわけです。

「これまで食糧生産を担ってきた小規模農家」を昆虫食の未来から除外してしまう、という片手落ちが起こってしまいます。

どんな形でもいいから、ブームをつくってしまえばなにかいいことがあるだろう、という動きも危険です。「スーパーフード」とまつりあげられて、一過性のブームになることで、生産地の経済と環境にダメージを与えます。生産者、特に小規模生産者と消費者の橋渡しを適切に行うことで、より良い形ができるだろう、と締めくくられています。

まとめましょう。

「栄養面」「環境面」からいうと昆虫は、「他の食材とおなじくらい」ということがわかってきました。また、他の食材よりも優れた利点が見つかったとしても、他人の食を無理に変えさせるほどの強い倫理はうまれてこないのです。食べたい人が食べられるようにする、食べたくない人に強要するものではない。しかし、これまで昆虫食が当たり前の食材として評価されたり、開発されてきた様子がほとんどないのです。それは先進国が食べない国だったから。

むしろ「なぜ今までふつうの食材として昆虫が研究開発されてこなかったのか」という社会的背景のほうに、昆虫食をもっと(他の食材と同程度には)開発普及させるべき論の主軸があります。つまりこれまで、昆虫を食べる、あるいは養殖する小規模農家を応援できてこなかった、ということです。採集にせよ、それらを養殖に転換するにせよ、小規模農家の貢献なしに地球の食糧生産は成り立ちません。先進国がもつ技術や知識を伝えるという「支援」はこれまでされてきましたが、昆虫を支援するにはゼロから技術を開発する必要があり、「前例が少ないために、計画の実現性が低い」とマイナスに評価されてしまいがちです。また一気に、大企業による大規模な生産がやってくれば、これまでの食料と同じような労働問題が発生しかねません。手放しで昆虫食の未来をアピールするのではなくて、「どのような形ならいいか」というハンドルを握った状態での議論を進めたいものです。

なので、「昆虫食をもっと普及させるべき」論を丁寧にするには、条件を付ける必要があることがわかってきました。その中心は「世界の貧困地域、小規模農家の支援をどういう形でするか」それを抜きに、昆虫食の養殖ポテンシャルだけをとりだして、気候変動と結びつけて「SDGs」と言ってしまうのは、あまりにストーリーを簡略しすぎているというか、フワッとした昆虫食論になってしまいがちです。

学生さんがふわっとした昆虫食論を立ち上げてしまって、リサーチするうちに袋小路に迷い込んでしまい、昆虫食の話じゃなくて、他のマイナー食材ぜんぶに言えてしまう話になってしまう、という相談が舞い込みがちです。

さてようやく、なぜ私がラオスに注目し、伝統食である昆虫を開発し、生計につなげようとしているか、説明できるようになりました。

それはまさに小規模農家の支援にあり、またさらにいうと、生計の向上すらも、栄養状態の悪化につながりかねない、というなかなかの貧困状況、栄養教育の不足にもあります。かれらの栄養をモニタリングしつつ、生計の向上を確実に栄養につなげるまでの技術開発を進めていこうとしています。

出国も迫る6月16日、サエボーグ個展「Livestock」を観てきました。イベントでのパフォーマンスが本領発揮なアーティストですが、展示として造形をじっくり観られるのもまたよいものです。パフォーマンスはまだ観れず。

ご本人も会場にいらして、「食べること」「ウンコすること」を中心に色々話しました。

センシティブなテーマであることもあって、一部撮影禁止だったり入り口からは見えない位置に置いてある作品もありましたが、全体的に「お祭り感」があるのがいいですね。ご本人も「祝祭」を意識されてるとのことでした。

どうしても作品展示というのは触れる時間が短くなりがちで、「なぜここにウンコがあるのかわからない」といった素朴な感想もあったようで、そりゃ大動物家畜がいて食肉生産をしていたら、そこにウンコがあるだろう、という発想が、どうやらない人もいるらしい、のです。

どうしても人間はピンとくる部分に目が行きがちで、作品を観に来るときはその感度が高くなっているときでしょう。そのときに「システム全体」を見ることがいかに難しいか。

ピッタリとしたラバーはきもちいい、とか、くびれやくるぶしがピタッとしていて、いいですね。

また一方で、「作る側」になると見え方が違ってきます。取材し調査し、試作と思索を繰り返し「何を強調するか」を考えるとき、「何を強調しないか」そしてその全体を把握していないと見失うものがあるのでしょう。

昆虫食と文明」という名著のあるデイビッド・ウォルトナー・テーブズ

の「排泄物と文明」にも話が及びました。

国境なき獣医師団をつくった疫学者で、学者肌の雰囲気を漂わせるナイスな翻訳文なのですが、サエボーグさん的には「めっちゃ大事なのはわかっているけれど読み込みにくい」とのこと。確かにちょっと硬いし、前提知識がいるし、サイエンスを背景にしない人にはとっつきにくいかも。

そういう意味で表現の目的ごとに「解説役」というのがいろんな形で必要なのでは、とも思うのです。対話型専門知だ。

最近リアルタイムで読書をしてメモを残していく「読書メモ」というのをやっているのですが、もともとは読書中にTwitterを占拠して、気が散るのを抑えるための苦肉の策だったのですが、意外と好評で、こういった専門知ユーザーとしての目線を増やしていく、というタイプの対話型専門知も実践できればな、と思っています。

専門知を再考する 読書メモ

https://togetter.com/li/1708730

食農倫理学の長い旅 読書メモ

https://togetter.com/li/1733281

さてさて、6月24日に渡航してから、なんやかんやあってホテル強制隔離が終わったのが7月8日。
日本にいる間に、呼吸器疾患をコントロールしてる関係でかかりつけ医に相談していたところ、早期接種を推されて一回目のファイザーワクチンを6月20日に打ったところで渡航となりました。

キャッサバが育ちつつあるタケクの我が家

隔離期間中にラオス側の調整をしていただいて、二回目をラオスで受けることになりました。これはけっこうレアなのでは。保健NGOとして田舎で活動する以上、感染リスクの持ち込みは最低限にしないといけません。mRNAワクチンは超低温冷凍庫が必要な関係で、首都ビエンチャンでしか受けられず、各社のワクチンがCOVAXというWHO主体の枠組みで分配されている様子。空港のPCR検査は韓国が提供しているとのこと。いまのところラオスでの接種の完全普及は2023年を予定しており、接種スピードの遅さから地域を分けた強いロックダウンが唯一かつ効果的な方法、とのことです。首都ビエンチャンはレッドゾーンで、活動地のカムアンは2週間以上、一人の市中感染者も出していないグリーンゾーンになります。やはりレッドゾーンはみなマスクをしていましたが、グリーンゾーンは普通の生活に戻っている様子。観光客がほとんどおらず、観光客向けのホテルや飲食店が閑散としています。

アジア経済研究所がここらへんまとめてくださっていました。ありがたい。

んで7月11日に接種して、そのまま中部タケクに移動。接種日までの週末に少し時間があったのでビエンチャンでパソコン関係の物品購入をチェック。気軽にタイに渡航できなくなったのと、近年のバーツ高もあって、なかなか日本と同じ価格、同じクオリティとは言い難いですが、それでもちょっと気の利いたものを扱う店もふえてきたようです。

今回持ち込める荷物制限が厳しく、重くてかさばる調理器具を運んだこともあり、かなりの物品を諦めていたので、ビエンチャンで補充できてよかったです。調べたらEMSも止まっていて、割高のDHLか船便。
送ろうと思って断念した、ちょっといいキーボードもこちらで買えました。
ゲーミングキーボードってレインボーにきらめくんですが、なんかアガりますね。タイ語がいい感じ。

接種後6時間でタケクへ。無事(?)肩が腫れてきて、翌日だるさと関節痛がマックス。


なんだかんだ一日だるく過ごしつつ、自宅待機となりました。入国隔離後、すぐに移動すれば二回目の隔離は免除されたのですが、レッドゾーンのビエンチャンにワクチン待ちで滞在していたため二度目の自主隔離に。
一週間は外に出れず、二週目は食材の買い出しはOKとのこと。

ようやく先週末に開放!ひさしぶりの町並み。変化はフードパンダ(ウーバーイーツみたいなの)が増えたこと。

湿気は強いですが雨上がりはひんやりと過ごしやすく、日本の夏よりもつらくない。
寝具にダニがやってきていたので晴れ間を狙ってダニ熱殺

隔離二度目といっても庭はあるき放題なので、かなりストレスは少ないですね。虫はよい。
今週末でようやく自由の身です。田舎に行きたい。

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出国前にようやっと、完成しまして、害虫展season2 への応募が完了しました。これから一次審査、二次審査へと進み、落選しなければ、落選しなければ、ですが、足立区生物園、箕面昆虫館でそれぞれ展示されます。TwitterでRTいいねをしていただくと残れる確率が高まりますので、応援よろしくおねがいします。

Insect "Cooked" Specimens 昆虫”調理”標本

害蟲展は第一回、昨年2020年の応募が初めてで、入選をいただくことができました。だれが害虫、という線引をするのか、そしてそれを更改するのはだれか。(それがラオス人であってほしい、という願望も含めて)ヤシオオオサゾウムシを題材に、写真作品を応募しました。

審査員の館野鴻さんから、「そのままじゃん!」と講評をいただきましたので、今度は「表現」を噛ませたものを作ろうと、立体作品にしました。手法は「液浸標本」です。

「昆虫標本ってうまそうじゃないな、、、」がきっかけです。昆虫は外形の特徴をかんたんに、そして長期に保存できることから、乾燥標本が主流です。バッタなどの一部の昆虫は退色してしまい、生きているときの彩りを残すことができません。凍結乾燥などの高価な機材が必要な方法も普及に困難があります。

またトノサマバッタは茹でると、含まれるアスタキサンチンがエビのように赤く色づき、その後茶色く退色してしまいます。佃煮などの保存食にする頃には茶色いのです。茹でたあと、冷凍してもしばらくすると退色してしまいます。エビぐらい赤くおいしそうなまま、保存できる方法はないか。

ということで海産無脊椎動物の液浸標本の方法を教えていただき、茹でたバッタの赤を保存する方法を模索しました。ようやく、まだまだ完成ではないですが、各調理法に応じて、退色脱色を最小限にした保存方法ができたので、既存の乾燥標本と並べ、「茹で」「揚げ」「混和」「成形」の4種の調理歴をもつ「昆虫”調理”標本」ができたのです。

これが昆虫の乾燥標本と生体が並ぶ昆虫館に展示されることで、乾燥標本が美味しそうに見えない、ということと「昆虫が美味しそうに見えない」ということは、必ずしも同一とは言えない、という新たな軸がみえることを期待します。

今回は「混和」「成形」という本来の標本、つまり外形の情報が残らないものも、あえて「標本」と称して並べました。果たしてあなたが食材として口にするのはどういう調理法なのか、乾燥標本の軸から少し外れて、昆虫調理標本を目の前に(審査が通過すれば、ですが)考えてみてはいかがでしょうか。