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2ヶ月前になってしまいますが、3月10日、お誘いいただいたので要旨を書いて応募して、発表してきました。英語発表めっちゃ緊張しますね。なんでこんな異分野に踏み入れたのかといいますと、2年前、読書をしていたからです。

そしてTwitterでつぶやいていたところ

読んでわからんわからん、、と、うんうんとうなっていたところ、訳者の太田先生からメッセージが届き、やりとりしていたら「発表してみませんか?」とのこと。

いやーとっても良かった。「日頃、重要に思っていたけどこれってなんて名前で呼んだらいいだろう?」みたいに思っていた概念がバチッバチッと用語を得て脳内でハマっていって、とても刺激的な体験でした。

やはり問題は一緒で、研究者が、貧困の現場に来れないことで、網羅的、体系的に物事をとらえるべき研究分野全体が偏り、学問の進歩が大きく遅れているだろう、ということをあらためて理解できましたし、

研究者が現場に行って、当事者の困難と直面したテーマの研究のほうが、既存研究、先進国のこれまでの態度に対する批判の切れ味が鋭くなっていました。では昆虫食でも「同じような問題」が起こっている、というべきか「違う問題が起こっている」というべきか、どうにか魅力的なロジックに起こしていきたいところですが、今回の学会発表ではまだ、事例紹介が主になってしまいました。察しのいい研究者のみなさんは、そこに倫理学上の本質的な問題があるぞ、ということはあっという間に感づいてくれたようです。が、私のまだまだ力不足。

次の課題は、食農倫理学の研究者が、昆虫食で成果を出したり、論文を書いたりするようにできるにはどう介入できるか、というところでしょうか。(私が書くことも含めて)

今日、深刻化している様々な問題は「厄介な問題」(wicked problems)と呼ばれており、残念ながら明快な解決策があるわけではありません。これらの問題に対処するためには、フードシステムの多様性と、経済、産業、文化、健康、生活、自然といった他のシステムとの複雑で精緻な相互作用に、注意深く目を向け、読み解いていく必要があります

https://www.apsafe.online/apsafe2023/apsafe2023-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/

いやほんとそう。しかしさ、なんで昆虫食の発表がこんなに少ないの?と思ってしまうほど、ラオスで私達が典型的な問題に直面しているものの、書籍でも、学会でも、昆虫食が題材に扱われない点について、やはりうがった見方をしてしまうわけです。「この食農倫理学という分野全体が、昆虫を食べない人たち=つまり先進国エリートだけの「群盲、象を評す」によるものではないか?」と。

また一方で、「彼らが触れている典型的な食の問題が、昆虫食でも顕著に起こっているということは、食材の事情によらない、普遍的な知(問題提起)がここに存在するのではないか?」ということも同時に感じるわけです。

まだ私の中に答えはないです。大前提として、「厄介な問題」を説明するだけの絶対数としての研究者が足りない。そして足りない中、個々人の研究者の「好奇心」にその分散を頼っている、ということは、国際協力における優先順位の付け方との競合が起こりうるのではないか、とも思うわけです。その一方で、好奇心が有限な資源であることも理解していて、「有限な資源である好奇心をどのように社会課題に向けて分配しうるか」あたりも、考えています。

現状、研究者の好奇心にナワをつけるわけにはいかないので、自由な好奇心に任せているわけですが、そうするとアクセスの悪い昆虫食は後回しになってしまっているわけです。

感染症研究におけるデング熱のような、途上国の人たちの命だけを奪う「NTDs ネグレクテッド トロピカル ディジーズ(無視されてきた熱帯病)」では、名前がつくことで、ようやくその遅れが認識され国際プロジェクトが組まれた、という経緯があります。

しっかり昆虫食が「ネグレクト」されていることを明らかにし、「ネグレクトされてきた昆虫食農倫理学」を改めて組み直し、ではどうしたらいいのか、「開発昆虫学」あたりで、応用昆虫学・民族昆虫学・文化昆虫学を統合して再構築するような形を、悶々と考えています。

はじめにお断りをしておきます。私はこの映画に文句を言うために観ています。

前作、「炎の王国」の段階で、あぁこの映画の路線はもうノットフォーミーなんだな、と気づいてしまったわけで、一作目のファンとして、潔くこのシリーズから離れよう、としたところ、最新作は「バッタ映画である」との噂をききつけてしまい、興味をそそられてしまいました。さすがに映画館で観るものでもないなと待ち、アマプラでみることにしました。

あ、バッタ映画だ!

そうなのです。恐竜たちは今回、人間とかバイクとかゾイド、カバに置き換えても全く問題ないです。Vtuberが選ぶアバターぐらい、恐竜のガワである必然性はまったくなく(恐竜であることの必然性は前作でぶち壊したわけですが)、観客に3Dで映えるスパイスを提供するだけのアトラクション的存在で、物語の主軸からは大きく外されてしまいました。

主役はバッタ。伊勢エビぐらいの、トゲトゲとして、ほどほどのむっちり感に巨大化をした、白亜紀のDNAをもつバッタが、ずっと物語を引きずり回していました。バッタをどうにかしないと食糧危機がうんぬんかんぬん、だそうです。

サイズといい体重といい、このぐらいの伊勢エビ感。

以下ネタバレしますが、ファンはもう映画で観ていますよね。いいですよね。

炎の王国のラスト、突然、最終作のキーマンみたいな感じをプンプンさせる、クローン少女が現れます。最終作には一作目の主要人物、いうてみればおじいちゃんおばあちゃんが再登場するわけですから、ファミリー向けエンタメ映画である以上、年齢構成は大事ですよね。これは、、、恐竜たちに同類的な憐れみを感じて逃がすためのキャラクターですね。時代を飛び越えるというなんかそのアレみたい外来生物問題は気にしない少女。そして闇のオークションにかけられそうになっていた恐竜型遺伝子組み換え動物たちは、野に開け放たれるのです。

そして今作、4年後、主人公カップルは少女と山奥に同居し、悪徳な(?)やつらから恐竜型動物たちを保護する(?)活動をする一方で、開け放たれた恐竜たちは野外に定着し、いろんな人身事故を引き起こしていました。

侵略的外来種としてすでに定着しているにもかかわらず、相変わらずマフィア的な人たちによって行われる闇(?)のオークション。もうすでにわかりにくい!
「麻薬王のカバ」的な話、と考えればいいんでしょうかね。
※麻薬王のカバ、というのはコロンビアの麻薬王が密輸したカバが繁殖・野生化して外来種として問題になっているものの、地元住民にはそこそこ愛されてしまい駆除が進まない、的な状況です。

写真はコビトカバ
カバの頭骨はわりと恐竜と戦えると思う。

とにかく逸出した恐竜型遺伝子組み換え動物の分布が示されていないので、野生なのか飼育なのか、養殖なのかがわかりにくい!これはノネコ問題、としてみればいいのか、、、?外来種でありならが高級食材のシャンハイガニ的なものなのか、、?とにかくオリジンの人たちの飼い方がマズいので、飼い方が確立していない大型の動物、買いたい人ってどのくらいいるのか、、、?

んでさ、シリーズを通して、人間のみなさんがウッカリすぎて、セキュリティがいつものごとくガバガバで、恐竜型クリーチャーがどこにいるか、どこにいないか、ワチャワチャになっていることが明らかになっていきます。もう人類滅びていいぐらい。これは正規の方法では航空機が飛ばないんじゃないかなぁ。滅ぼしたほうがいい気がするぞ、、、

さて、ワチャワチャしますが、結局恐竜はあんまり問題とされてないらしいです、、、が。恐竜の問題をきっちりとらえないと(危険度が上がりすぎてまともなフィールドワークもできないでしょうから、保全生態学はかなり後退していると考えられます)最後の判断、バッタ殲滅もちょっと怪しくないかと思ってしまうわけです。

バッタの話をしましょう。

白亜紀バッタのDNAをサバクトビバッタに組み込んで巨大化したバッタと、そのバッタに耐性のあるコムギを販売することで、バイオシン社はセコイ商売をしようとしていたっぽいんですね。そんなんすぐバレるじゃんと思うんですが、なぜか(生の草でなく)実が乾燥して収穫どころになったコムギで育つのを食べている、よくわからないバッタなんです。生の草を食べるサバクトビバッタのケースにも、エサが置かれていないのであんまり飼い方の様子がわからないです。

そしてこのバッタ、なぜか知らんけれど人間の服を噛む行動をします。これもよくわからん。んで、この人為的に逸出した恐竜型クリーチャーについて、外来種問題にしたくない、っぽいんですよね。なぜかバッタが大きな部屋で、フタのないケースで飼われている。もーこれは逸出させたいとしか思えない。最後の方、バーナーで焼いたらなぜか通風孔から燃えたバッタが逃げ出すという、設計段階から狂っている、まったくよくわからないアクシデントがあるんですが、これまで一度も試運転しなかった装置をいきなり使うんですか、、、?

「人間に対するバッタの被害」に注目しだすと、恐竜のほうが被害出るじゃん、とかバッタによる食糧危機と恐竜による食糧危機(逸出したやつらが繁殖しているし、農作業に対する危険度がバク上がりしているし、すでに食糧危機だと思いますが)を比較するのを避けている様子があります。

んで、一作目ファンへの介護(笑)として、博士三人衆、古生物学者グラント博士、植物学者サトラー博士、数学者マルコムを再登場させなくてはいけないわけですから、植物学者の出番をひねりだすための苦肉のバッタなのでしょう。

恐竜による被害から目をそらすための苦肉のバッタ、これしっかり直視しないと、「肉食恐竜がバッタを食べるシーン」があるんですね。これ、、、恐竜による人的被害、食糧危機が(見かけ上)起こっていないのは、バッタが支えているから、という可能性すらあります。

池でかいぼりをしてブラックバスを駆除したら少し遅れてアメリカザリガニが大発生したり、小笠原諸島でヤギを駆除したら、競合だったネズミが増えてしまい、希少種が食べられてしまった、なんて話もあったりするので、外来生物同士の競合についても、しっかりふまえたうえで対策を検討しないと、「バッタで食糧危機」なんて単純な話をするサトラー博士、、、これ、買収されてませんか?

そして最後、ラボを失ったウー博士が、病原体を感染させた一匹のバッタを放つところで話は終わります。え、解決しないの???モニタリングをだれがするの? 不妊虫放飼みたいなのってもっとたくさん放つ必要があるんじゃないの?

結局バッタ対策がグダグダになったまま、シリーズを通じてCRISPERみたいな特異性の高い遺伝子編集技術もできてしまい、ほとんどの人類がmRNAワクチンも打ったばかりですし、不妊虫放飼による外来種対策なども成功事例が出てきてしまった以上、なんだか、、コンセプトが古い、、んですよね。しかたないこれで最終作だし、、、

ドジスンぐらいしか面白シーンなかったじゃねえか。あとCGちょっと荒くないか、、、
やたら丁寧にいろんなバージョンでおどかしにくるバッタにも第一作にも興味がない人たち、大丈夫だったんでしょうか、、、、


ハライチのあの感じですね。

今回の話と関係ない画像。

近頃、自由研究や大学レポート、アイデアコンテストなどで昆虫食の情報収集を進めている若い人たちから相談に乗る事が増えてきました。小学生だったら「考えて、実際に昆虫を料理して食べてみた」という結論でじゅうぶんに大団円なのですが、真面目な高校生や、大学生になってくると、アレ、となにかに行き詰まってしまった生徒、学生さんからの相談が来ます。はい、正しいです。

そこで専門家として、なにか助け舟を出せればいいんですが、「専門家もいいと言ってくれました」みたいな自説を補強する無茶な大団円をもたらすのは教育に良くないですし、外部の専門家からお墨付きをとってこれたこと、そのものがレポートの評価を高めるような度胸試しに使われても不本意ですので、まぁ心を鬼にして「途中から昆虫食、関係なくなっちゃってない?」と脳内の澤部さんとともに、指摘するようにしているわけです。

よくあるやつを再編集しました。

「①昆虫は牛肉より環境負荷が低い
②昆虫をもっと食べれば世界が救われる。
③もっと食べるようになるべき。
④しかし見た目が悪いのでみんな食べない。
⑤すりつぶしたらいいだろう。
⑥すりつぶしてたべてみました。
⑦このレシピに専門家のコメントください!」

次は私の副音声とともにお送りします。

①昆虫は牛肉より環境負荷が低い(一部の昆虫について、事実)
②昆虫をもっと食べれば世界が救われる。(過度な推測)
③もっと食べるようになるべき。(推測から規範を導くには弱い。食の主権とぶつかる。)
④しかし見た目が悪いのでみんな食べない。(今食べている人たちを知らないか、仕方なく食べているだろうという偏見)
⑤すりつぶしたらいいだろう。(すりつぶした商品があるのを知らない?なぜ売れていない?調査不足)
⑥すりつぶしてたべてみました。(体験は重要だけど個人の感想と結論との関係が不明。それで何がわかる?)
⑦このレシピに専門家のコメントください!(え、お墨付きを出せと?ノーコメントじゃダメ?)」

この⑦だけに好意的に加担してしまうのは、①から⑥の「探求」の流れを肯定してしまうわけで、専門家としてどうにもアレなわけです。単純に文献調査として、昆虫食の背景が調査されていない、のです。ここで私は心の中の澤部さんと一緒にコメントします。

「これって、昆虫関係なくなっちゃってない?牛肉より環境負荷が低いマイナー食材、全部そうじゃない?」と。

「①〇〇は牛肉より環境負荷が低い②〇〇をもっと食べれば世界が救われる。③もっと食べるようになるべき。④しかし見た目が悪いのでみんな食べない。⑤すりつぶしたらいいだろう。⑥すりつぶしてたべてみました。⑦このレシピに専門家のコメントください!」

たとえば藻類、ウサギ、ティラピア、ダチョウ、なんかも当てはまるわけですね。
じゃあメジャーな大豆とニワトリでもいいじゃん、と。

昆虫食をテーマにしたはずなのに、ほかの食材を当てはめても同じになる結論が導かれる、とき、
気にしなくてはいけないのが「結論ありきでスタートしていないか」ということです。どんな情報も、結論を補強するためだけに調査をするのであれば、最初から調査しないほうがまだマシです。

昆虫が美味しそうだから食べてみたい。
これで十分な理由ですし、しっかり自分にとってのあたらしい食材として、取り組めばいいと思います。

「昆虫を食べる自分を肯定してほしい」だとすると、心細い気持ちはわかります。
食べているときに冷たい視線を投げかけられることも、キモいと否定されることもたくさんあるでしょう。そうすると「なぜ心細いか」「昆虫をこれまで食べてきた人たちに私達も冷たい視線をなげかけていないか」自己反省する必要があります。そのために後ろ盾がほしい、お墨付きがほしい、その気持は痛いほどわかりますが、だからこそ、自分の願望に沿うだけの情報では、何もいえないのです。

自分自身という主観的な体験はとても大事な1ケースです。それを等身大の1ケースとして、拡大解釈もせず、過小評価もせずに向き合うこと、については社会学が大きな蓄積があります。が、社会学って高校生までで手にする「社会」とは大きく違うので、これってどう伝えればいいんでしょうかね。

社会学の研究者、岸政彦先生が、「ゴシップ的消費」について、注意喚起をする一節があります。

調査の前から、調査者自身が「ものの捉え方」をバージョンアップする気がなく、結論が決まりきっている社会調査は、やらないほうがマシ、となってしまうわけです。

さて、結論ありきで自説を補強するための「調べ学習」をしている皆さん、行き詰まったら、チャンスです。自分自身の「ものの捉え方」が変わる瞬間は、私にとっても、これから昆虫食に関わる教育を考えたい私にとっても、大きなチャンスです。ぜひ「行き詰まったときこそ」相談してください。

最期にヒントです、「昆虫食ならではの状況」というのは、どこを探ると何が出てくるでしょうか。

昆虫は自然環境にたくさんいるということ、つまり昆虫学です。昆虫そのものの性質、生態系における昆虫の役割をもとに、未来の食糧生産を考えてみましょう。

昆虫を食べる文化は長い研究の蓄積があります。分野は人文地理学です。日本のような先進国で、なぜ手作業で手間のかかる昆虫食が、一部地域で残ってきたか、マイナーサブシステンスで検索してみましょう。

FAOの昆虫食「以外」の食糧問題についても読んでみましょう。どんな未来が必要だと言っているか、調べてみましょう。Google翻訳でいいので、FAOのサイトを読んでみてください。

「昆虫が置かれている状況」「昆虫食が置かれている状況」この2つをしっかり見つめることで、「昆虫食ならでは」の色んな発見があると思います。みなさんの柔軟な発想に期待します!

「命より大切なものがある」というのは生命倫理を学ぶ上で、なかなか直感にあわない難関でしょう。


ときに単なる延命より大事なものとして「保健」が挙げられます。
健康寿命、という言い方は聞いたことがあるのではないでしょうか。つまり苦痛の状態を長引かせず、健康に命を全うし、尊厳が保たれ、残された他者が後悔しないようにできれば、よりよいだろう、と。
他人の命を、その本人の意に反して短くすることはもちろんときに欲望をそそのかして延命することさえも、暴力になりうるのです。

しかしマイルドに、命を長くすることも、短くすることも私達は日々行っています。それは食事。
多くの人が、同じようで少し違う食事をそれぞれ行うおかげで様々な食事と健康の関係がデータとして蓄積し、統計学を駆使してその関係がわかってきました。

玄米などの未精製の穀物はいいらしい。牛肉や豚肉は食べ過ぎたらダメっぽい。酒は結局少量でもいいことがないらしい。野菜や果物はたべたほうがいい。コーヒーは適度に飲むとよい。


などなど。しかしその学術的な結論とは裏腹に、個人の食事の「成果」が個人の命の長短と直結するわけではないのが人生の、そして統計学の悩ましいところです。
どれだけ食生活を整えても、人は死ぬときは死ぬし病気になるときはなるというものです。こればっかりは仕方がない。後悔のないように生きましょう。


とはいえ、さも「正しい生活」のような体で行動を押し付けられると、自由を求める個人としては反発もしたくなるものです。体に毒であるとわかってもタバコを吸いたくなるし、酒も飲みたくなる。スナック菓子を食べながら映画を見たくなる。人間に許された自由のうち、愚行権もまた、答えの出ないものです。しかしその葛藤を「コメディ」として、説教臭くなく、沁みるように届けられたら。これはすごい。


ということで前置きが長くなりました。ダンジョン飯です。コメディ、RPGのパロディとして、一話目はスタートしています。

https://comic-walker.com/viewer/?tw=2&dlcl=ja&cid=KDCW_EB06000001010001_68


冒険者がダンジョンに潜るとき、食事(やウンコ)はどうしてるのだろう?HPやMPといったパラメーターは表示されているが食事ではなく魔法や(少しの薬草的な)アイテムで回復するし、宿屋に戻って一晩寝れば全回復。
そういったRPGの定番に対して、無粋なリアリティを押し付けてパロディ化する。そんな出オチの設定かのように、「ダンジョン飯」はスタートしました。

大サソリの水炊き」を作ったり、コイン虫によく似た虫を食べたり、連載当初からダンジョン飯とは長い付き合いですが、ダンジョンの生態系を最大限利用するにあたって昆虫食「も」当たり前に食材候補になる、という意味で象徴的な使われ方をしています。とはいえ人間に近い由来や姿をした魔物もいますので、そっちのタブーに比べると昆虫系はマイルドですね。


主人公パーティーはダンジョン攻略の中でレッドドラゴンに遭遇し空腹のため勝てないまま苦戦します。主人公の妹がドラゴンに食べられる寸前、最後の魔法でダンジョンの外へと逃されます。
残金も少なく、メンバーも抜ける中、「ダンジョンのモンスターを食べながら進もう」と主人公は突拍子もないことを言い出し、ダンジョンに住む変人、センシをダンジョン食の先人として新たな仲間に加え、死んだ妹を回収すべく、進むことにします。
ダンジョンの中で死んだ人の魂はその場に留まり、蘇生魔法があれば生き返すことができるからです。ここまでは、RPGのパロディといえるでしょう。


しかし途中から、ダンジョンの攻略が進むにつれ話の本筋はパロディどころではなく、本筋である「命と食」そして「欲望」の話であることが「攻略」されていきます。
あとから第一話を振り返ってみると、これまでのRPGの設定には「食」の要素がなかったために、生命の本質を既存のダンジョンだけで表現するには力不足だった、というわけです。そして話も佳境になってきました。

(以下最新単行本のネタバレをします)


「ダンジョンの主」が現れます。
当初、ラスボスらしき存在として登場したのは「狂乱の魔術師」でしたが、更に裏ボス「悪魔」の存在が明かされます。悪魔は人間の欲望を食べる存在で、ダンジョンを通じて異世界からはみ出し、人間の欲望をかなえ、現実世界を飲み込むことを欲望しています。
悪魔の目的達成のため、ダンジョン内では人間は「死ぬことができず」蘇生魔法によってまた生き返ることができてしまうのです。
悪魔とは無関係に、種族的に「しばらく死ねない存在」も明らかになりました。第一話ではエルフとして登場した、マルシルです。マルシルは人間とエルフの子供、ハーフエルフとして生まれたために成長が安定せず、子孫を残せない代わりに、1000年というエルフよりも長寿命が運命づけられています。
ラスボスらしき「狂乱の魔術師」を無力化した主人公、ダンジョン飯の発案者ライオスが悪魔にそそのかされて次世代のダンジョン主になるか、と思われたとき
悪魔はマルシルを選びます。そしてマルシルの欲望とは「みんなと一緒に長生きしたい」というものでした。マルシルの欲望がダンジョンの外へと漏れ出すとき、悪魔は世界を飲み込みます。
しかし1000年という長寿命に人間や多種族がさらされる世界はどういうものか、その「欲望」は度が過ぎたものではないか、とマルシルが仲間たちに諭されるシーンが、単行本11巻のクライマックスです。


俺たちはもうずっと前から寿命を延ばせる方法を知っているだろう?
バランスのとれた食生活。
生活リズムの見直し
そして適切な運動この3点に気をつければ、自ずと強い体はつくられる!!


これは別れの言葉です。
種族ごとの寿命の差を肯定し、超長寿命・子孫を残せないハーフエルフであるマルシルに寄り添い
そして全力で健康を保ち、寿命を全うして別れを告げる、やさしくて残酷な、最期の言葉なのです。

種族として寿命を全うし、100年後に、孤独に900年残される「仲間」に対する言葉。精一杯自由に、かつ健康に生き、残された仲間と笑って別れる最期の理想が語られているのです。
これこそが「保健」の理念であり真髄でしょう。「それ以上」を求める、あるいは他者に押し付けるのはもう「欲望」の領域になってしまう、と。

単行本ではここまでなので、じゃあ最初の目的だった妹の蘇生はどうすんだ、とかなかなかヘビーな展開は続きそうですが、単純で、アタリマエだけど、ちょっと窮屈で、直感に反することを、異世界でユーモアとともに伝える、という保健の語りの新しい展開をみることができました。今後も楽しみです。

先日こんなつぶやきをしたら、思いの外多くの反応をいただいて、おもしろかったのでまとめておきます。

自分としては当然というか、当たり前のことを当たり前のテンションでつぶやいた、つもりだったのですが

リプライと引用RTが多く、届くべき方たちに届いたんだなぁと感慨深いです。しばらく素の反応をいただきたいので、コメントは控えて放置していたのですが、気になったコメントをピックアップしていきましょう。

とその前に、図解をしてみました。

さわれることと、好きなことは相乗効果があります。昆虫を好きでいるために、ハンドリングできると便利ですし、よりたくさんの情報を得ることができます。

また逆に、きらいなこととさわれないことにも相乗効果があります。さわれないことで不意の昆虫との遭遇で対処できる手が限られますし、そのとき虫から攻撃されたり、逆に殺してしまったりしたら、苦手な気持ちは高まるでしょう。

しかし、さわれるし、すきな人、と、さわれないし、きらいな人が大部分であるからといって、すきでさわれない人、きらいでさわれる人が見えなくなってしまうと、昆虫との付き合い方が狭くなってしまいます。すくないけれども、そこに人がいることを確認して、多様性の広がりを見ていきましょう。

ということで先のつぶやきに至ったわけですが、先に「図解」するよりも、その図でいうところの見逃されがちな右下だけに言及することで、これを見た人のつぶやきを誘ってみることにしました。語りすぎないほうがいい。

「私だ」とか「私の家族だ」という反応が10人ぐらい。大人になると種類によって異なったり、何らかのエピソードがきっかけだったりして経験の多さを感じます。子供も興味はあるけどさわれない、さわれる方法がまだわからない、と大人を頼ってくる様子もあります。

その中で「ありがたい」という反応もあって新鮮でした。やっぱり少ないからといって、無いものとされることとは違うわけです。

「イルカやクジラ、トラ、イヌ」といった、他の動物と比較するコメントもありました。イルカやクジラは、触ったことがない、そして野生の場合ですと触ることが適切でない動物ですが、それでも堂々と好きと言える許容があります。おそらく虫だと「すきなのにさわれないの?」「さわれないんだったらすきとはいえないんじゃないか」といった圧を感じる経験があったのではないでしょうか。

文章から図解の構造を読み解いてくれた方もちらほら、シンプルなテキストにすることで、そこから受け止めやすい方法でそれぞれ響いてくれるという意味で、意外な大きい反応になったのでは、と分析しています。

難しいですがこういうの、もっとやってみたいですね。

さてさて、6月24日に渡航してから、なんやかんやあってホテル強制隔離が終わったのが7月8日。
日本にいる間に、呼吸器疾患をコントロールしてる関係でかかりつけ医に相談していたところ、早期接種を推されて一回目のファイザーワクチンを6月20日に打ったところで渡航となりました。

キャッサバが育ちつつあるタケクの我が家

隔離期間中にラオス側の調整をしていただいて、二回目をラオスで受けることになりました。これはけっこうレアなのでは。保健NGOとして田舎で活動する以上、感染リスクの持ち込みは最低限にしないといけません。mRNAワクチンは超低温冷凍庫が必要な関係で、首都ビエンチャンでしか受けられず、各社のワクチンがCOVAXというWHO主体の枠組みで分配されている様子。空港のPCR検査は韓国が提供しているとのこと。いまのところラオスでの接種の完全普及は2023年を予定しており、接種スピードの遅さから地域を分けた強いロックダウンが唯一かつ効果的な方法、とのことです。首都ビエンチャンはレッドゾーンで、活動地のカムアンは2週間以上、一人の市中感染者も出していないグリーンゾーンになります。やはりレッドゾーンはみなマスクをしていましたが、グリーンゾーンは普通の生活に戻っている様子。観光客がほとんどおらず、観光客向けのホテルや飲食店が閑散としています。

アジア経済研究所がここらへんまとめてくださっていました。ありがたい。

んで7月11日に接種して、そのまま中部タケクに移動。接種日までの週末に少し時間があったのでビエンチャンでパソコン関係の物品購入をチェック。気軽にタイに渡航できなくなったのと、近年のバーツ高もあって、なかなか日本と同じ価格、同じクオリティとは言い難いですが、それでもちょっと気の利いたものを扱う店もふえてきたようです。

今回持ち込める荷物制限が厳しく、重くてかさばる調理器具を運んだこともあり、かなりの物品を諦めていたので、ビエンチャンで補充できてよかったです。調べたらEMSも止まっていて、割高のDHLか船便。
送ろうと思って断念した、ちょっといいキーボードもこちらで買えました。
ゲーミングキーボードってレインボーにきらめくんですが、なんかアガりますね。タイ語がいい感じ。

接種後6時間でタケクへ。無事(?)肩が腫れてきて、翌日だるさと関節痛がマックス。


なんだかんだ一日だるく過ごしつつ、自宅待機となりました。入国隔離後、すぐに移動すれば二回目の隔離は免除されたのですが、レッドゾーンのビエンチャンにワクチン待ちで滞在していたため二度目の自主隔離に。
一週間は外に出れず、二週目は食材の買い出しはOKとのこと。

ようやく先週末に開放!ひさしぶりの町並み。変化はフードパンダ(ウーバーイーツみたいなの)が増えたこと。

湿気は強いですが雨上がりはひんやりと過ごしやすく、日本の夏よりもつらくない。
寝具にダニがやってきていたので晴れ間を狙ってダニ熱殺

隔離二度目といっても庭はあるき放題なので、かなりストレスは少ないですね。虫はよい。
今週末でようやく自由の身です。田舎に行きたい。

「おいしい昆虫記」発売一ヶ月が過ぎました。
みなさまのお手元に届いているでしょうか。

某所でコラボを始めようとしている企業の方が、「おいしい昆虫記」を読みはじめてくださったとの報告をいただきました。また別のラオス関係の方から、本を熟読してくださり、信用を頂いたとのことでいろんな方をご紹介いただきました。

やはり、ひとまず信用を勝ち取るにはエモい部分が必要なんだろうと思います。その後にまでエモさで押し切るのはプロとしてよろしくなくて、私の手に余ることについては適切な専門家へと橋渡しをして、ビジネスとして成立するよう後押しするのが、蟲ソムリエの役割でしょう。

だいぶ前になってしまいました。

私のたっての希望で、AI HASEGAWAさんとトークイベントをできることになりました。同時に代官山蔦屋書店で昆虫食本のフェアもしてくださるとのことです。

非常に濃い時間になりました。ご覧いただいたみなさま、ついてきていただけたでしょうか。ここではもうちょっと補足を入れつつ、振り返ってみましょう。私とこのあたりの分野との、はじめの出会いはここらへんの書籍から。

最初は反発から入りました。「スペキュラティヴ・デザイン」問題を解決ではなく問題提起をするデザイン。
問題をほじくり出して、解決しようとしない。なんと無責任なことだろう!

このスペキュラティヴ・デザインの流れでバイオアートも説明されることが多くあります。バイオロジーを背景とする表現物でありながら、論文ではなく専門家による査読もない。評論は美術畑の人からはあるのに生物学からはほとんどない。反発そして嫉妬ですね。当時は私が論文がかけずに苦悩していた時期でしたので、余計に憎悪が募ったと思います。最近これを読み返すと、「思ったことをプロトタイプの状態で世間に出せるというのはなんと自由なんだろう!」というまた違った感情もわきあがってきました。ヒトの情動とは変化するものです。

そして、未来と芸術展での「POP ROACH」の展示。

こちらも以前から知っていた作品なのに、六本木という土地柄もあり、「都市」に寄り添うものの、昆虫食文化をもつラオスには縁遠い、と感じるようになりました。少しの寂しさと、フェアネスについて物申したい感じ。そして「おいしい昆虫記」を出したこともあり、日本の出版においてラオスの昆虫食の「リアル」を日本にただ、そのままを持って帰っても、「遠く異国の昆虫食」と、リアリティの薄い、地続きで見てくれない、という反応も気になってきました。

ラオス産の昆虫を日本に持ち込んだときに、「遠く異国の昆虫食」では売れないでしょう。そこにラオスと日本を共有する、リアルではなく「リアリティ」のスペキュラティヴなデザインを仕掛けないといけないのでは、と考えたのです。

そしてイベント直前、流れがまとまらずウンウンうなっていたとき、愛さんから送られてきた参考文献の中に、こんな本が出てるではないですか!

ラオスでバタバタしていて、帰国後はおいしい昆虫記を書いていたので、お恥ずかしいことにまったく気づいていませんでした。さっそく購入して、授業を受けてみることに。

どうしても通常のビジネス、デザインでは「望ましい」部分しか可視化されない。

PPPP図という、ピコ太郎みたいな図から入ります。現在から未来に向かって、可能性は円錐状に広がっていると考えてみると、人間の想像の限界によって、あるいは資本主義的な投資、投機のバイアスによって、どうしても今の構成員による「望ましい」未来しか想定されなくなってしまう。すごくよくわかります。昆虫食とほかの食資源の将来性を「直感に従えばフェアに比較できるとピュアに思いこんでいる」という場面によく出くわします。

縄文時代に昆虫食があったのか、証拠は見つかりにくいときに、「あっただろうと想像する」ことができなくなっている。

未来を考えるときに、昆虫を食品レベルの値段で養殖する技術はあるのに、その技術がまだない培養肉のほうが「望ましい」ので「起こりそう」と思われてしまっている。

おいしい昆虫記についても、前半は個人的な話ですが、後半はスペキュラティヴ、つまり社会的動機から問題提起をしたい、という構造になっています。

最後にワークシートがついています。この「スペキュラティヴ・デザイン」というのは対話型専門知の一つ、と言い換えられるかな、と思いました。

実際に空欄に入れていく、という行為によって、どっちつかずだったものを「とりあえず当てはめてみる」という思考の整理が進んでいきます。それが自分のモヤモヤのすべてを表すものではなくても、「選んで当てはめる」ということが大事。目指したいのはラオス発の昆虫養殖技術が世界に広がり、各地から多様な昆虫食材が貿易されて、みんなが食べたい昆虫を食える未来。

そして大資本が富裕層向けに昆虫を売り、ラオスの貧困層は労働搾取される、これが最悪のシナリオでしょうね。

やっぱり不思議だったのはこれまで書いてきた計画書との違いですね。「え、自分の痛みって必要なの?」と面食らいました。しかしNGOや研究者も、様々な個人的な背景から、熱意を継続している方が多くいます。なるほど、痛みか。。。。

私にとって「痛み」とは「自分が変人に見られたくない」ということでした。昆虫を食材として扱う、というまったくおかしくないことが、「奇妙キテレツ」に見られてしまうことで、これから昆虫食が取り組むべき技術的課題ではなく、見た目の問題に矮小化されてしまうのを見てきたからです。フェアに議論したい。そのときに偏見は大きく邪魔をしてきます。それが今は痛い。

さて、今回はあえて「おいしい昆虫記をスペキュラティヴ・デザインから解剖する」ということを愛さんと一緒にやってみました。

対談の中でいろいろとアイデアが湧いてきて、「演じてみる」ということが私のこれからの余白だろうなと思えてきました。自分じゃない人だったらどうするか。イーロン・マスクだったら昆虫を宇宙に打ち上げるだろうし、クリストファー・ノーランだったら緊張感が3時間つづく映画を作るだろう。

そしてやはり、昆虫は「悪目立ち」してしまう。先の森美術館の展示でも、poproachよりもアートとして高く評価されている作品、Shared baby やImpossible babyよりも、SNSでつぶやかれたのはPoproachのほうが多かったそうなのです。そして色を変えてゴキブリを食べやすくするという発想自身が「ルッキズム」ではないかという指摘をされて驚いた、とおっしゃっていました。

ゴキブリには人権がないので、この作品そのものはルッキズムにはあたらないのですが、その茶色い見た目が嫌悪されている構造から、肌の色を理由とする差別のような、ある種のルッキズムを連想させてしまったようなのです。これは驚いた。

以前に別の作家さんから「昆虫は無価値であることが社会的に共有されている」という話をもらったことを思い出しました。無価値だからこそ、食べない愛好家と、私のような食べる人が一緒に話ができる。

また無価値だからこそ、ある種のミームのように、自分の思い入れが自由に投影されてしまう。のでしょう。

昆虫食の見た目解決として、「すりつぶす」というのはルッキズムの度外視、とは言えそうですが、果たしてルッキズムからの解放、といえるのか、むしろ「すりつぶせば食える」ことこそルッキズムに縛られていないか。

ここらへんも新しい切り口です。ルッキズムと昆虫を、あえて近づけたり遠ざけたりして教材にしていくような、そんな攻め方ができそう、という、私にとっても非常にスペキュラティヴな経験でした。長谷川愛さん、ありがとうございました。

愛さんからも、「苦手な昆虫と向き合ってみる」という宣言をいただきました。アーティストが本気で昆虫と向き合っていく先に、どんな挑発的なデザインが生まれてくるか、とても楽しみです。

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以前に「害虫展」に応募した写真作品ですが、使ってみたかった「メタルプリント」での出力をしました。これはアルミ板に昇華印刷をしたもので、光沢や発色が優れているだけでなく耐候性が非常に高く、「アルコールにも耐える」という今の感染制御のご時世でピッタリの性質をもつ、写真パネルとのことでした。これを昆虫料理レストランに飾りたいのです。

返却してもらっておいしい昆虫記、出版記念の一日店長でも飾らせてもらいました。

強度はアルミ板のまま。曲がらない限り印刷は痛みません。かなり丈夫です。角は気をつけたいところですが、取り回しは楽でした。

さて、このパネル、本当にアルコールに耐えるのか。やってみたいのですがこの大きめパネルだとちょっと決心がつかない。

ということで光沢のある昆虫の質感も確かめたいと、ちょうどやっていたモニター募集に応募することにしました。

そして、

とどいた!

そして、買っておいた蒸留エタノールで拭く!

問題ないですね。重さもこの大きさぐらいまでだったら気軽に持ち運べます。ブルーの構造色が美しいフェモラータオオモモブトハムシのメタルな雰囲気も十分に伝わっています。

今回のモニターは、パイオテック株式会社さまの協力で実現しました。


 [HP]
 ・メタルプリント本サイト https://www.metal-print.jp/
 ・ペット特集サイト    https://www.metal-print.jp/lp/pet/
 ・趣味特集サイト     https://www.metal-print.jp/lp/hobby/
 ・コスプレ特集サイト   https://www.metal-print.jp/lp/cosplay/
 [SNS]
 ・YouTube  https://www.youtube.com/channel/UCkJx6l52i2-Wi_se9bhxABA
 ・BLOG    https://www.piotec.co.jp/blog/
 ・Twitter   https://twitter.com/piotec_hd_print
 ・Instagram  https://www.instagram.com/piotec_hd_print/
 ・Facebook  https://www.facebook.com/Piotec-HD-Print-335658950230225/

この画像、パネルについても、貸し出しサービスに使われるかも、とのことでした。なかなか画像や動画では伝わりにくい質感ですので、見て確認するといいかと思います。

▼貸し出しサービス

https://www.piotec.co.jp/blog/?p=708

さて、「きらめく」といえば、ちょうどこんな本が出ました。

肉眼で「きらめき」を感じるとき、光源とそれを反射する物体の関係から、左右の目には異なる反射が入ってくるでしょう。つまり立体映像と「きらめき」は相性が良い。VRなんかで映えるのでしょう。

一方で、印刷物、とくに液晶画面のように発光しない面で「きらめき」を表現しようと思うと、かなりいろんな表現技法が使われています。

そんな難しい事を考えなくても、ビジュアルがひたすらによいのがいいですね。オススメです。

美しい干物を見る気分で楽しめました。一部麻酔された昆虫がいる感じがしますが、ほとんどは乾燥標本です。

表紙になっているプラチナコガネは乾燥にともなう収縮で「貫入」のようなヒビが入っています。それを単なる学術標本の劣化ではなく「ある種の別の美しさ」としてテクスチャ表現したい、とのことでした。すごい。変態だ。(褒め言葉)

著者で最も若い法師人響さんは「アリの巣の生きもの図鑑」を見て昆虫の世界に入ったとのこと。そう。若いのです。

図鑑は単なる図鑑ではなくって、思い入れのある著作物は人の人生を揺さぶるパワーがあるなと改めて実感する、新世代の写真集でした。

このブログや私の表現物もそうなりたいと願う年齢になってきましたね。

二倍マクロ、気になっていたLaowaのレンズがこれまでいくつかありました。


虫屋さんの間で評判がよく、あらたにマウントを導入しようかと迷っていたときに、ついに

とうとうマイクロフォーサーズが登場

以前に同じ画角のレンズを導入していたのですが、古いZuikoレンズで、明るいものの、ハーフマクロです。そして前から持っていたオリンパス60mマクロ、比較していこうと思います。まずはファーストインプレッション。

たまたま、8月末にライトトラップへのお誘いをいただきまして、虫を撮りまくろうと某田舎に行ってきました。しかし暑い、、熱中症には注意をしつつ、、

そして某田舎へ。

ひさびさに虫とふれあいました。そしてカリッカリに写ってくれるLaowa まったく深度合成もなく、RAW現像もしてないので撮って出しですが、自動絞り最高!は言えます。ピントを先に決めてしまって近づいて、被写体とカメラの位置を調整している時、たいてい片手は空いていてほしいのですが、自動絞りでカメラ側から操作でき、またフォーカスピーキングを使うときに明るい状態でチェックできるのでありがたいです。

しかし、、無限遠から二倍マクロってかなりの振れ幅ですが、ハーフマクロあたりからフラッシュなしには厳しいです。オリンパスの60mmマクロと比べると防塵防滴がなく、カメラ内深度合成もないので、この描写が好きな人が買うことになるでしょう。このレンズの「味わい」みたいなところまで引き出せたらと思います。私の写真のゴールは「美味しそうに映るか」ですので。精進します。

そしてEm5 MK3とともにもう1台、G9のほうで撮影していたら、、、

チェックしたらオリンパス機では一切ゴミがなく、G9だけでした。

カメラのキタムラでクリーニングをしてもらい一件落着。オリンパスってすごいな、、と思いつつみなさま、メンテには注意しましょう。

読みはじめて休憩をはさみながら17時間ぐらいかかりましたが、ハードでヘビーな本です。

「未来の食」論において、なぜ地球全体のことを、先進国の賢い人が考えて、そしてみんなに広めるという植民地主義的な発想が拭えないのか、途上国のマイノリティは目に入らないのか、というラオスで感じた素朴な疑問について、フーディーという一種の社会的潮流が影響していることが示されていました。これは必読。

民主主義によって選ばれ、その他の民衆から一線を超えた「人気者」になりたいという卓越化の欲望が、更に社会格差を生み出しうる、あるいはもう生み出しているという現状まで、厳しく解析していきます。自称「フーディー」のヒトがこれを読んだら気を悪くするだろうな、という部分まで切り込んでいきます。こういったステークホルダーを「あえて配慮しない」ストイックな社会学的態度というのはすごいですね。

読後に私が感じたのが、これは「フーディー」に限った話なのだろうか、という部分です。

民主主義的な「フェアとされる」方法で資本主義的成功、つまりお金持ちになった有名人は、選ばれるまではおそらく格差に反発し、庶民に寄り添う姿勢を示しますが、次第に庶民では届かない富裕をアイコンとして「卓越化」してその影響力を、盤石なものにしていこうとします。

つまり新たな格差拡大の担い手となっただけで、格差是正に貢献したのかどうかすら、検証されていないのです。そしてこれがおそらく、多くの業界のスタンダードになっていますし、この風潮は続くでしょう。

さて、読書メモをもとにこの本を解読していきましょう。難解ですし、私がラオスで感じた疑問に答えるものでなかったら、読み終えることはできなかったでしょう。そんなハードな書籍が、翻訳で4000円という破格の安さで読めることに感謝です。

音楽の話は詳しくないんですが、ここからスタートします。なんとなく感覚はつかめますね。「音楽的雑食」と言われる場合、単純にどんな音楽もOKではなくって、本来「高尚」とされるもの、「低俗」とされるもの、「外」とされるものをあえて逸脱する、という評価があるんでしょうね。そして逸脱を評価の構造がないのに逸脱はしない。

「でたらめな味覚を持っているわけではなく、私は味覚の幅が広いのだ」いつか使おう。

非常に満足度の高い、情報密度の強い本でした。すごい。

昆虫食は未来の食糧問題を解決しない でも指摘したのですが、「未来の食糧問題」に関するテックがなぜ今の食糧問題と切断処理されているのか、未来の総量ばかりを気にして、現在の食料不均衡が悪化するのか改善するのかも曖昧にしてしまうのか。昆虫食でいうと昆虫の栄養を調べ、養殖に挑戦し、将来性を掲げる一方で、昆虫食文化のある地域の貧困と栄養不足に着目しないのか。

おそらく着目できているのは

社会学的背景のあるシャーロットさんアフトンハロランさんの二人ではないでしょうか。

学術的意義を社会の風潮にちょいと載せるときに、その風潮自体に偏見や差別が内包されていないか、吟味するための社会学的な批判は最初の課題設定のときに必要でしょう。なぜならその風潮に載せた「役に立つ」研究はそこに内包される偏見や差別の拡大再生産装置として機能してしまうからです。

自戒を込めてかなり注意。

そうすると私のこれまでやってきた昆虫の試食はフーディーの流れにある「文化的雑食」ではなく、「生物学的雑食」であり、社会から距離をとった孤独な時間が、この風潮に対する批判的な視点に気づくことができた、とまとめておきましょう。いやいやよかった。

ではこの先どうするか、という部分ですが、

「昆虫食を社会課題解決に利用できる技術をもつ集団」を作っていきます。

そして同時に、個別の社会課題解決の延長上に、未来に採用されるべきモデルが含まれている、と予言する仕事を同時にしていこうと思います。これを同時にしないと専門性にお金が落ちないからです。

逆に言うと、「今課題を抱えていない人」からは未来のソリューションなんて生まれないと強く言っておきましょう。

シビアさがないからです。未来の不確実性を自分のやりたいことをやるための資源として搾取してしまったほうが合理的です。そういう我田引水インセンティブが発生してしまいます。個別事例から精査して、拭い去るのはかなり難しいでしょう。

目の前の社会的弱者の課題解決が、未来の不確実性に対する備えになっていく、そんな好循環を作ろうとしています。「第一段階の成功」はすなわち目の前の社会的弱者「しか」救えないこと。これでも、もう十分です。国際協力としてこの部分を実装します。

さらに上乗せしたインパクトとして目指す「第二段階の成功」はそれだけでなく、社会全体の未来を提案する新たな選択肢が開発されること。でしょう。この部分に先進国が投資として実施すべきです。

昆虫食に対する知見や技術の不足は、昆虫食文化のあるラオスの足を引っ張っています。彼らの文化に応じた支援をするチャンスが失われています。しかし昆虫食文化をもたない先進国は、それに気づくチャンスすら失っています。

問題を問題と考えられない問題。これは深刻です。

そしてこの実装の現場は、私達先進国が、昆虫食というコンセプトを忘れてしまったことで失った選択肢の大きさをリマインドしてくれる現場なのです。

巨大な遺伝資源である昆虫について、食用になるというコンセプトが世界中に広まったら、生物多様性条約における「利益の配分」の概念すらひっくりかえってくるでしょう。薬用の遺伝資源はすでに考慮に入っていますが、

食用として育てやすく、美味しく、そして地域のバイオマスのディスアビリティを解消するような、そんな昆虫食の実装を各地域で実施し、そこで得られた知見を体系化していくことが、先進国フーディーの風潮に乗らない、文化の担い手をサポートしていく、真の意味での「昆虫食の参加型開発」となっていくのではないでしょうか。

この書籍のストイックさに影響されて、カタメ、キツメでまとめておきます。