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ファージみたいなツムギアリ。

連載第3回、更新しております。若干のホームシックかもしれませんが、日本食を作ると元気が出ます。記事にいれなかったのですが、見つけると噛まれると痛いことはわかりつつちょっと開けてみたくなるツムギアリの巣です。

美味しいタガメアイス。近所で売ってるココナッツアイスにちょい足し。

近頃暑いですね。アイスの美味しい季節です。今日の気温は33℃。これから乾季の後に「暑期」というものが来ます。ラオスでは6月から10月が長い梅雨、雨季でそのあと10月から3月中旬ぐらいまでを乾季、そして3月から6月まで最も暑くて乾燥する暑期が来るそうです。4月には仏教正月「ピーマイ」があり、1週間ほど公的機関はお休み、市民の人たちも4月後半は休み休みダラダラしていて、道端でビニールプールを出し、道ゆく人に無差別で氷水をぶっかける活動(?)に勤しみます。熱中症対策として素晴らしいと思います。東京オリンピックでもボランティアはプールに浸かって案内するといいと思います。

近所に「ファミリーミニマート」というお店ができました。ファ(ミリー)ミ(ニ)マ(ート)、ファミマです。

ファ(ミリー)ミ(ニ)マ(ート)

ラオスに日本のファミマは進出していないので商標権とかは多分大丈夫です。ここの店主が英語を少し話せるのでよく行くのですが、そこで美味しいココナッツアイスを出しています。今回はそれをベースに使わせていただきました。70円でトッピングを2つ選べるココナッツアイス。

今日はお昼の休憩時間に数日前に作っておいたタガメアイスをトッピングしに行きました。タガメアイスのレシピはこちら。

  • タガメ(フン抜きしたもの)       2頭
  • 生姜                                         5g
  • バニラアイス           50g
  • ゴマ              適量
  • タピオカ粉            50g
  • 屋台で売っているココナッツアイス1人前

タガメを清潔な水に入れて5日間、毎日水を換えてフン抜きをし、横開き(ハサミで片側面を切り落とし、横に開く)してから、腹部の脂肪体と胸部の翅と脚の基部の筋肉をスプーンでこそげ落とす。生姜をみじん切りにしてタガメを合わせ、包丁で細かくたたく。なめろうを作る感じ。

タガメのなめろう

筋状の肉がほぐれ、脂肪体と混ざり合い、生姜の粒が見えなくなったら一旦容器ごと冷凍し、しっかり冷えたらバニラアイス50gと練り上げる。翅と脚は水で溶いたタピオカ粉とゴマに浸してから油でさっと揚げて冷やす。

揚げタガメの脚と翅

ファミマのココナッツアイスを購入し、アイスにトッピングしてタガメの翅を飾り付けて完成。

タガメアイス完成。木漏れ日がいい雰囲気。紫のご飯は仕様。スイーツによく合うよう甘めに炊いてある。

口に含むと先にやってくるタガメの強い香りと、後から生姜の粒をかみしめることで広がる爽やかな生姜のピリッとした味と香り。バニラの香りに負けていない。トッピングのグミのフルーツ香料にもふんわりと合うウソくさいフルーツ臭さ。そしてフン抜きのおかげで水臭さはほとんど感じられない。肉質の旨味はアイスとして吸収されていて違和感もない。見事なバランス。ココナッツアイスと負けないぐらいの個性があるので味比べも楽しい。ゴマの香ばしさをまといパリパリとした翅も具材として調和している。揚げてしまうとタガメの風味は消えてしまうことからこれまで揚げ調理に消極的だったが、「風味担当」の中身と「食感担当」の外皮を分けて料理し、後で合体する、という今回の調理法は風味と食感を同時に楽しむ上で効果的と思った。ごちそうさまでした。

動物倫理がここまで来たかと、感心してしまうイベントが開催される模様です。引き続きウォッチしていきます。

名付けられたゴキブリ

こちらの記事によると、アメリカテキサス州のエルパソ動物園で、別れた恋人の名前をゴキブリにつけて、昆虫食性のミーアキャットに与える様子をライブストリーミングするというもの。Quit bugging me! イベントなので「五月蝿い黙れ!」といったニュアンスでしょうか。嫌な思い出として葬り去りたい過去の名前を、ミーアキャットに食べてもらおうという企画です。

金銭のやり取りはないですが、SNS拡散を狙ったネーミングライツのようなもの、と言えそうです。ミーアキャットは相変わらずいつもと同じ養殖昆虫を食べるだけですので悪影響はないですし、育てられた生き餌用のゴキブリも名前をつけられたからといって食べられる運命に変わりはありません。なので先にはっきりさせておきますが、動物福祉、アニマルライツ、どこから見ても全く問題のないイベントです。問題ない、ということはここからいろんな派生を想像して教材として利用することができます。それでは参りましょう。

ゴキブリをヒヨコかハムスターにするとどうか。

めっちゃ触れる動物園、という色々と飼養に問題が指摘されている個人経営動物園があったのですが、そちらではめっちゃ触られたヒヨコとハムスターが他の肉食動物の餌として使われていました。

PIECEという動物愛護団体がこちらに挙げた質問書では、それそのものへの嫌悪感が書いているわけではなくて、それにより感染症などの悪影響を増大する可能性はないか、質問としてあげています。なので今回の場合、名付けイベントによって衛生状態が悪化することはないでしょうから、ゴキブリをヒヨコにしても衛生上の問題はないでしょう。少なくともバレンタインイベントとしての楽しみ方は少し減るような気もします。

金魚ならどうか。

多くの子赤(縁日の金魚すくいでよくいるシュッとした赤いフナ)が肉食魚の餌として使われています。赤い色合いもバレンタインらしくいいでしょう。魚に関する「苦痛」の研究は盛んですが、現在の効率的な漁業のあり方がだいぶ魚に肉体的な負担をかけるものなので、研究が魚全般の扱いを変えるまでの政治運動になるのはちょっと時間がかかるような気もします。イベント参加者が金魚がかわいそう、となるのか。ここら辺が分水嶺として気になるところです。ライブストリーミングをした映像とその食べ方(丸呑みタイプの方がいいかもしれないです)にも影響される気もします。

藁人形ならどうか。

ここからトリッキーになってきます。

「クソがきども」などと脅し文句を書いたわら人形を小学校の通学路につるしたとして、東京都江戸川区の男性(41)が9月27日、脅迫の疑いで警視庁小松川署に逮捕された。

https://www.bengo4.com/c_1009/c_1403/n_6816/

なるほど。イネ科の植物の死体を束ねて人型にしたものを吊るし、不特定多数の不幸を願う文言を書いて吊るすと脅迫罪。

さてこうするとゴキブリをミーアキャットに食わせるという「呪術」が公知の事実として知られている、恐怖感を感じるかどうかが争点になりそうです。逆にいうと、ゴキブリを食わせるという露悪的なイベントが「もともと一般市民がゴキブリへ感じている恐怖感を殺して減らす」という効果があるならば、そこに批判(嫌悪)は生じないような気もします。

スーパーでやると威力業務妨害

スーパーマーケットの店内にゴキブリ10数匹をまき散らして業務を妨害したとして、兵庫県警垂水署は5日、威力業務妨害容疑で、神戸市西区学園西町、市立小学校事務員の女(56)を逮捕した。「ゴキブリを生かしておきたくて、逃すなら餌がたくさんあるスーパーだと思ったが、業務妨害をしようとは思っていない」と容疑を否認しているという。

https://www.sankei.com/west/news/160705/wst1607050024-n1.html

証言だけ見ると心優しいゴキブリ飼育者に聞こえるんですが、どうやら言い逃れのようです。私も日本でゴキブリ飼育をしていましたが、絶対に逃さないよう、皆様気を付けましょう。

すると「ゴキブリに元恋人の名前をつけてミーアキャットに食わすという呪術」が一般的でないからこそ脅迫罪に問われず、動物園で隔離された状態でライブストリーミングするので衛生的に問題がないため威力業務妨害にならず、ミーアキャットは名付けられたゴキブリといってもいつもの食事をするだけで、それでいてSNSで拡散するので宣伝にもなる、というなかなか多方面に配慮の行き届いた、そして攻めた企画であることがわかりました。

ゴキブリがおもちゃにされて殺されるイベントに不快感を覚える人や、本来生き餌用に衛生的に養殖されたゴキブリと、全く別種の、別の場所の衛生害虫としてのゴキブリ嫌悪を混同したような、分類学を無視したイベントの悪趣味さ、それを学問を司るという建前の公立動物園で開催するという点に辟易する人も、私を含めているかもしれません。

もしやめさせたい場合は、狙い目は脅迫罪です。人型に整形した稲ワラでいけるわけですから「ゴキブリに元恋人の名前をつけてミーアキャットに食わすという呪術がある」という都市伝説(今時はフェイクニュースといいますか?)を広めることで、悪趣味に嫌悪を煽られて消費されるゴキブリが救えるかもしれません。戦略的に参りましょう。

現在、味の素ファンデーションからの助成を受け、国際協力NGOであるISAPHの協力のもとで昆虫養殖普及のためのパイロット農家の育成を行っています。
ゾウムシはあくまで「斥候」のようなもので、簡単で養殖しやすく、飼料も比較的安くバランスがいいため一番手にしました。その後には少し養殖に手間のかかる昆虫や、市場ニーズの強いもの、あるいは養殖コストが安く効率の高いものが二の矢、三の矢として控えています。そのような段階を踏んて効果測定をしながら活動を進めていくことを、こちらの業界では「ラダー(ハシゴ)を組む」と呼ぶそうです。それが単に徐々に難易度を上げることで離脱を防ぐ効果だけではなく、昆虫養殖への動機付けが促進したり、今後の課題の理解が促進するようなスペキュラティヴ(問題を提起する)な効果があったと感じたので、その経過をここにまとめておきます。これまでの活動の動画を作りました。村での会議でも上映してもらい、好評だったとのことです。

初めはみなさんドン引きでした。私も(今思い返せば)安易なもので、昆虫を食べている地域であれば、昆虫を養殖して食べることも受け入れてくれるだろう、と気軽に構えていたのです。ところが。この8月の写真。

... "スペキュラティヴ・ゾウムシ" を続けて読む

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ものすごい本が出ました。一般書です。公衆衛生学の教授が、妻と息子を共著者としてチームで作った、という家族崩壊しかねないのではないかと心配してしまう本です。これは全くの邪推で、素晴らしい良書に仕上がっています。公衆衛生学のはじめの教科書としても読めますので、私のラオスでの活動の意義を知りたい時の下地となるデータ集としても、もちろんオススメですが、私の驚きはそこではないです。

「平均」以外の統計用語を使わず、「GDP」以外の経済用語も使わずデータの重要性と、そこからファクトに近いものを選んでいこうという心構えを平易な文章で説明しています。本文で語られるいくつかの心構えのうち

直線本能 世界の人口はひたすら増え続ける、という思い込み

なんかは以前の記事「昆虫食は未来の食糧問題を解決しない。」とも直結する話です。


感想を呟いたら翻訳者にお返事をいただきまして、原著の志を汲み取り、「偉そうな文章を書かない」ことを心がけたようです。すごい。「だ、である」調は学術書を書く時に普通の文体で、翻訳版の価格が上がらないよう、紙の節約ぐらいの意識で使われてきたように思います。それを「偉そうに感じる」という理由でですます調を選んだ、というところに、やはり不特定多数の社会に向かって情報発信するからには、非専門家と専門家がタッグを組むことの重要性を改めて感じたのでした。専門家が一般向けに書籍を書く場合、専門書を読む前の要約入門書、のようなものになりがちです。しかし往往にして、ある分野の専門家になりたい人、というのはこういった本を読まずにガチの教科書に当たることが多く、専門家になりたくない人はそこまで興味を持ちません。この本は専門家の実体験や統計を駆使したデータの読み方、そしてデータは大事だけれども、それだけでは真実にたどり着かないことなどの失敗経験を通じて、「ファクトフルネスという態度」に気づかせようと作られたものです。なので専門家のスキルや経験はあくまでファクトフルネスに至るためのプロセスであって、それを手法としてうまいこと利用している、という点でものすごく一般書のあり方に自覚的であると思います。

そして見事な13問。バイアスを引き出すという意味で、3択の問題は恣意的にコントロールされています。これは回答者のありのままの考えを引き出すアンケートとしては良くないのですが、公衆衛生学の教授なのであえてバイアスが見えるようにやっていると思われます。世界はよりスリリングでドラマティックであるかのような思い込みを引き出された回答者は、ランダムに3択を答えるはずのチンパンジーの回答率を下回ってしまうのです。

もう一つお勧めしたいのが、この回答をチンパンジー以上に答えられた知識のある人です。統計や公衆衛生、世界の問題に自覚的に取り組んでいる方だと思います。統計の用語を理解しないとここら辺の理解は不可能だろうと私は思っていたのですが、この本は統計によってデータを扱うスキルではなく、その大切さ、というエッセンスを伝えることに成功していると感じました。伝え方。コミュニケーションの方法として、ものすごくストイックで、そのストイックさがとっつきやすさにつながっていますので感心することしきりです。つまりこの13問に答えられた人も、答えられなかった人もこの本のターゲットなのです。すごい。これぞ一般書。

そして、日本語訳者の宣伝の仕掛け方が新しくおもしろい。冒頭の13問(サービス問題を除く12問)に到達するには、本来ですとKindleの試し読みをダウンロードする必要がありますが、そのアクセシビリティを高めるためにウェブサービスとして実施しています。

このブログも多くはスマホで読まれているようです。一般向けにどう情報発信していくか。今は多様な手段がありますので、バチっとハマれば大きな資本がなくてもできてしまいます。すごい時代になったものです。それだけにどれを選んでいいかわからない。同じ分野の前例に習えばいい、となりがちです。

この宣伝活動を見て専門家が、非専門家とタッグを組んで、新しい価値を社会に向かって創り出せる時代がやってきた。未来は明るい、と感じました。

一方で、主著者の専門である公衆衛生で「世界は良くなっている」とは述べつつも、彼は「専門外ではわからないことはわからないと言う」という態度こそファクトフルネスと書いていますので、もうちょっと生態系と人間とのこれからの付き合い方について「ファクトフルネス」の続きが読みたいな、と思えてきました。

残念ながら「世界の生態系は悪くなっている」というのは彼が指摘するようなドラマティックな思い込みではないです。また、彼の専門分野である公衆衛生と生態系は密接に関連しています。1日2ドル以下でくらす最貧困層は生態系への依存度が高い自給的生活をしていますので、その土地の生態系を抜きに現金収入だけで一括りにすることもできません。(余談ですがアフリカの砂漠地帯での1日2ドル以下、とこちらラオスでの1日2ドル以下、の生活は随分と異なります。ラオスは割と現金を使わずに、それなりに豊かな狩猟採集生活ができる生態系があります。)また、気候変動に大きな影響を受けるのは私たち現金収入が十分なレベル4の人ではなく生態系依存度の高いレベル1の彼らである、という非対称性があります。この非対称性が、生態学の専門知識をもって最貧困層を支援すべき理由となるでしょう。今年は持続可能な開発を掲げたSDGsなんかが盛り上がっており、国際協力とビジネスを組み合わせることで、いつまであるかわからない寄付や助成金だけに頼らない持続可能な形にしよう、という「経済的持続可能性」はよく話題に登るのですが、その活動が現場の生態系に対してどこまで負荷をかけるのか、どこまで環境収容力があって拡大可能か、とのアセスメント がなされることがほとんどなく「生態学的持続可能性」をかたるSDGsビジネスはほとんどないです。経済的持続可能性をアピールしたいがために無限に活動が広まったら(ビジネス的に)無限に持続可能だ、といった生態学的持続可能性を無視した言い方をしてしまうアピールをしばしば見ています。

つまり援助業界のSDGsの流行に際して、サステナビリティの語源となったはずの生態学の専門家がなんとも不足しているのです。生態学の専門家と、おそらく非専門家とのタッグがいいと思います。ファクトフルネスの生態学分野での続きを、どなたかよろしくお願いいたします。


2019 0317 翻訳者からコメントをいただきましたので追記しました。

非常に丁寧にコメントをいただき、原著者に対して批判的なコメントすらいただけました。なかなか原著者に対する批判的な態度というのは難しいものだと思います。今回のやりとりは非常に満足度の高いポスト読書の経験で、「ファクトフルネス」を地でいく翻訳者の態度に感銘をうけました。これはすごいことをしていて、そしてここをマネタイズすることが翻訳、という世界の革命になっていくんだろうなと。特に一般書ですが、翻訳者は本当に原著を読み込んだ最初の人で、ローカル版(今回は日本語版)をつくるにあたっての最大のキュレーターでもあるんだろうと感じました。日本語版注釈について、かなりの日数と文字数をかけて(この具体的な数値があるのもマネタイズすべき分量が可視化されていてファクトフルネスですね)うーん。重ね重ねすごい。

そしてこれは真似していくべきなんじゃないかと。かかった労力を開示して、その価値を見出してもらい、この先はマネタイズをしないとこんなにいい体験は持続可能じゃないぞ、と危機感をもたせる。「書籍」が何冊売れた、という部分を大きく超えた「読書体験の提供」があるような気がして、わくわくしました。

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まとめていなかったのでまとめ直しておきます。

2017年、初めてラオスに訪れた際に、村人からドクバッタをもらいました。
「誰も食べない」と言われたドクバッタ。笹を食う、とその時は教えてもらいました。教えていただきましたがAularches miliaris が一番近そうです。

ということで結局味見はしていません。大発生して稲を食害する、という話もあるので、キョウチクトウなどの毒草を食べさせずに無害化できたら、彩りがよく動きも遅く、捕食者に狙われにくいので素晴らしい家畜になると思います。完全養殖したいですが、もうちょっと生態についても調べておきます。

人は苦痛を感じます。あなたもわたしも、言葉が喋れない赤ちゃんも、おそらく感じているだろう、と考えられます。

そして人には幸福追求権があります。幸福を一番定義しやすいのは「苦痛の回避」です。

堪え難い苦痛を受け続けるぐらいなら、幸福を追求するために死ぬことも選べる、というのがある種の究極の選択でしょう。

さて、最近は人間以外の生物の「苦痛」も考えられてきました。動物解放論では、先の赤ちゃんや、事故や病気によって苦痛の自己申告ができない人を「限界事例」と呼び
本人が申告できなかったとしても、社会はその苦痛の回避のために尽力すべきだ、としています。

そしてもう一つ、「種差別の禁止」を組み合わせました。これは人権侵害の多くの場合において、人権が認められない理由を「種が違うから」というレイシズムで説明してきたことへの歴史的反省です。そこで、種という概念を使わずに、「苦痛の回避」が行われるべき対象を考えると、人権が人以外の動物へと滲み出してきます。

ここらへんの倫理学の入門教科書はこちらをどうぞ。

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そこで気になってくるのは「苦痛を感じる動物」の話です。

哺乳類は人間と似た神経システムを持っていますから、苦痛を感じているだろうと類推できます。そのためアニマルウェルフェアという概念によって
動物の倫理的な扱い(人と同程度の人権を与えるという意味ではなく)をすべきとしています。

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今の議論は脊椎動物の系統を遡っていき、魚類まで注目がいきましたが、ついに無脊椎動物まで

さらに最近は「植物」といった侵害刺激を伝達するシステムも「苦痛」と呼び始めそうな勢いです。

ここでは「苦痛」ではなくより広義の「いたみ」としておきますが、ロブスターと人間と植物の間に、いますよね。
虫が。虫の「いたみ」についても考えましょうよ。

こういうリプをいただきました。

ということで、昆虫の神経特異的に作用するいまの最新の殺虫剤が「苦痛を与えている」と社会が判断したら、
殺虫剤で安定した収量を確保できているベジタリアンも含めて、どうしていくんでしょうかね。脊椎動物だけ議論して無脊椎動物を議論しないのは不公平だ、という問いかけに対して、「無脊椎動物を後回しにしろとは言っていない」と反論できますが、食というのは総量があまり変わらないので、脊椎動物をことさらに優先して議論を進めることが、本来公平に扱うべき「苦痛」を不公平にバイアスをかけてしまう危険があるわけです。できるだけフェアにいきましょう。

どうすべきかって? 毒植物とそれを無毒化できる昆虫とを組み合わせた農業が、新しい「倫理的な」農業になっていく、と予言しておきましょう。
ここラオスでやるのもそういうことです。

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大阪府箕面公園昆虫館の館長、こぶ屋博士がいきなり、こんな問題提起をしてくださいました。

これに対する私のアンサーはこちらです。

害虫に対する基礎知識は「害虫の誕生」をお読みください。すごく面白いっす。
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さて、改めて考えてみましょう。
よく聞く名称である「不快害虫」というのは「愉快益虫」の対義語なのでしょうか。

快不快、というのは個人のお気持ちです。
益虫、害虫というのは先の「害虫の誕生」にもありますように、社会の判断です。
害虫の誕生は殺虫剤の誕生と強く関連します。殺虫剤によって取り除ける「害」であることが認識される前は、虫の害は風水害のような天災の一種でした。

農学研究においては「害虫化する」あるいは「潜在的害虫」と呼ばれるように、地球に生活している昆虫たちの多くは無益無害です。

また、害虫という虫がいるのではありません。害をもたらしたことでその虫を害虫と呼ぶ、つまり害虫は事後的に決まるものなのです。
事前に決まるのは「害虫可能性」といった確率的パラメーターぐらいでしょうか。基本的に、潜在的害虫も生態系の一員ですので、いくら害虫可能性が高くとも、
予防的に殺虫することはほとんどできません。

例外的に、衛生害が極めて大きいマラリア感染地域における蚊や、農業的に被害の大きいウリミバエなどの、侵入して間もない侵略的外来種などは予防的に不妊虫放詞などで選択的な個体数抑制が行われます。

さて、独立するパラメーター「快不快」「有害無害」「有益無益」を以下のように分類しましたが、これはどうにも「不快害虫」の一般的な用法と一致しません。

この分類では不快、でかつ有害なものが「不快害虫」と呼ばれるはずなのですが、そのような用法は見たことがないです。これらは単に害虫と呼ばれます。

「不快益虫」「不快無益虫」「不快無害虫」といった、社会的に有害有益と判断されていない、あるいは有益と判断された虫が「不快害虫」と紛らわしい名前をつけられて総称されているのです。

ちなみに「害」を想定しない「不快虫」は「Nuisance」という用語があります。個人のお気持ちとして不快に感じる虫、なので不快虫に対して散布される殺虫剤はプライベートな空間での使用を目的とした「家庭用品」なのです。

ようやく見えてきました。「不快虫」を「不快害虫」と読んでしまうことで、この用語に混乱が生じているのです。

つまりこぶ屋博士のいう「不快害虫」は「不快虫」と読み替えるべきで、「愉快虫」が対義語になります。
形容詞としての快不快は、個人のお気持ちに属しますので、虫そのものを不快をひきおこす、愉快を引き起こす、と形容するのはあまり普遍性がありません。
ある人にとっては愉快な、またある人にとっては不快な、あるいは時と場合と場所によって、愉快になったり不快になったり。虫と人との関係は一定ではありません。
「おいしい牛乳」みたいなものと考えていいかと思います。

あなたにとってのおいしい牛乳があるように、あなたの心の中に愉快な虫、不快な虫が住んでいるのです。

また、農業には農薬取締法、衛生害虫などの殺虫には薬事法が使われ、明らかな被害と、それに対する効果がはっきりしているものしか使えません。
殺虫剤は耐性昆虫を生みますので、メリットとデメリットをきちんと検証せずに、お気持ちだけで好き勝手に野外に撒くことは、「殺虫剤の効かない虫」という虫嫌いにとっては恐怖の昆虫を生み出すことに加担してしまうのです。

一方で、「不快害虫用殺虫剤」の法律上の区分は化審法ですので、
「農薬や殺虫薬品と同じ殺虫成分を含む家庭用品」です。「今日の髪型を保つためのヘアスプレー」と同じ扱いになります。つまりプライベートで楽しむぶんには家庭用殺虫剤を使っても構わないですが、それが社会の常識といいはったり、野外や農地で噴霧するのはよろしいことではありません。

ヘアスプレーで例えてみると
「他人の家に来てヘアスプレーを散布する」とか「他人にヘアスプレーの使用を強要する」というと、そのパーソナルな用途がわかりやすくなるかと思います。

さて、家庭における殺虫をプライベートな事案として押し込めてしまったことで、殺虫せざるを得ない、虫が苦手で、虫の情報も、虫の対処法も、ググることすら不快が強すぎてできない、という情報の少ない人達が生まれた、と考えられます。彼らは自らの不快を虫からの「被害」とすり替えてしまうことで、勇気を奮い立たせて「私刑/死刑」をしているのでしょう。

しかし、そのような私刑の後に残るのは、虫の死体です。「死体の方が怖い」もしくは「生き返ってしまうのでは」という恐怖にも襲われ続けます。それにより、家庭用にはより強く、より素早く動きを止め、神経に作用するタイプの強い薬剤が好まれていくのでしょう。いつまでもエスカレートし続けることでしょう。私たちも彼らも生きているだけで、遭遇は互いにとっての不幸な事故で、人間側が「なれる」ことでしか、この事故のダメージを減らすことはできないからです。

さて、今こそ、虫に対する法的な議論を始めるときです。
好き嫌いに関わらず、そろそろ昆虫は食用になります。
ラオスではすでに食用です。最先端です。

昆虫に対する人類の社会的態度とはどうあるべきか。

「不快に感じる人もいるんだから殺虫すべき」なのか

「ペットや食用にする人もいるんだから殺虫剤は公害」なのか。

「愉快に感じる人の目の前で昆虫を殺すことは嫌がらせ」なのか。

「飲食店で食用の昆虫を逃してしまったときは威力業務妨害」なのか。

いろんな事例で考えられますね。

いまこそ。昆虫の社会的扱いについて、家庭用殺虫剤メーカーに任せずに、虫好きも、虫嫌いも一緒に始める時でしょう。

では、「虫が苦手で画像すら見たくない」という人に、このブログをみてくださいといえるか。

NOですね。風の噂ではだいぶキツイそうです。

「虫ユニバーサルデザイン」というものも考えていきたいと思います。

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昆虫食展でも大変お世話になった 西塚emさんの単行本「蟲籠奇譚」

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を読みまして、

蟲籠奇譚(1)を読みました。という記事を書きました。

第二巻か三巻あたりでは「昆虫料理部」とかと生物部が戦ってほしいなぁ。

と書いていたのです。するとそのあと、メッセージをいただきまして

「蟲籠奇譚13話が昆虫食回なので監修してほしい」

とのこと!

なんともまぁ!なんともまぁ。 本当に2巻に昆虫料理が登場することになってしまいました。嬉しい。

昆虫食創作のレベルアップのために、私は尽力しますので、創作の皆様、気軽に声をかけてください。全力で監修します。

そして今だけ無料公開中!「むしばむ愛

昆虫食回だけテイストが浮いてしまわないか心配したのですが、きっちり他の話の流れに沿っていて、さすがストーリーテラーとしての漫画家はすごいなと。

可愛い女の子に昆虫を食べさせたい。可愛くてかっこいい昆虫の味も知ってしまいたい。という後ろ暗いフェチ心も描かれていて、

私にもそう言ったフェチに心当たりがありますので、私のドロドロとした深層心理を暴かれたようで、恥ずかしくもありますが。素晴らしいです。

「食べちゃいたいほど可愛いが実践できるのが昆虫」と、昆虫料理仲間のムシモアゼルギリコさんもおっしゃっていましたし

虫を喰う人と、虫を愛でる人が同じ場所で情報交換できる、というのもとても楽しいものです。犬とか猫、クジラやイルカだとこうはいかないと思います。

そんな、昆虫を介したいろんな楽しみの広がりを妄想しつつ、また昆虫食回来ないかな、とか、他の漫画家さんも昆虫食漫画描いてくれないかな、とか

ここラオスから考えています。いっぱいネタありますよ!

アイデアはあるんです。それを形にする手が不足していて、私の頭はアイデアでパンクしそうなのです。優先順位をつけて今ラオスにいるんですが、日本でやっておきたい事もたくさんあります。

そしてアイデアを貯蔵しておくだけじゃオリジナリティは守られないので、形にして著作物にしてしまいたいです。

なので形にしたい、という方、どっかにいいアイデア落ちてないかな、という創作の方。お待ちしております!

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キョウチクトウスズメ Daphnis nerii

美しいですね。いまラオスにいますが、
先日、夕方、玄関に来ていたんです。会いたかった。食べられないけど。

さて、キョウチクトウスズメはその名の通りキョウチクトウを食べます
キョウチクトウの毒はオレアンドリンという強心配糖体というもので、心臓にアタックします。

まぁこれの急性毒性がすごい。枝を箸の代わりにつかったら中毒、バーベキューの串の代わりに使ったら中毒。

そして神経活動に欠かせない、すべての細胞の膜電位を司る
ナトリウムカリウムポンプを阻害するとのこと。これは怖い。

というかキョウチクトウスズメはなんで耐えられるのか。メカニズムを調べた論文があれば教えてください。

さて、完全に解毒しているのか、単に耐性が高いだけなのか、どちらか一方ということはあまりなく
解毒しつつ耐性もたかい、ような生き物なのでしょう。

なので今回は味見しません。キョウチクトウスズメをキョウチクトウ以外の無毒な葉で育てたことのある方、

教えてください食べたいです。

ともあれ、まぁ美しいですね。

じっくり見惚れてしまいました。

Daphnis nerii

Daphnis nerii

Daphnis nerii

Daphnis nerii

Daphnis nerii

そして、キョウチクトウスズメを目にした翌日

街路樹としてまちなかに大量のキョウチクトウが生えているのが目に入るようになりました。

「見える」というのはなかなか難しいものです。