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人は苦痛を感じます。あなたもわたしも、言葉が喋れない赤ちゃんも、おそらく感じているだろう、と考えられます。

そして人には幸福追求権があります。幸福を一番定義しやすいのは「苦痛の回避」です。

堪え難い苦痛を受け続けるぐらいなら、幸福を追求するために死ぬことも選べる、というのがある種の究極の選択でしょう。

さて、最近は人間以外の生物の「苦痛」も考えられてきました。動物解放論では、先の赤ちゃんや、事故や病気によって苦痛の自己申告ができない人を「限界事例」と呼び
本人が申告できなかったとしても、社会はその苦痛の回避のために尽力すべきだ、としています。

そしてもう一つ、「種差別の禁止」を組み合わせました。これは人権侵害の多くの場合において、人権が認められない理由を「種が違うから」というレイシズムで説明してきたことへの歴史的反省です。そこで、種という概念を使わずに、「苦痛の回避」が行われるべき対象を考えると、人権が人以外の動物へと滲み出してきます。

ここらへんの倫理学の入門教科書はこちらをどうぞ。

そこで気になってくるのは「苦痛を感じる動物」の話です。

哺乳類は人間と似た神経システムを持っていますから、苦痛を感じているだろうと類推できます。そのためアニマルウェルフェアという概念によって
動物の倫理的な扱い(人と同程度の人権を与えるという意味ではなく)をすべきとしています。

今の議論は脊椎動物の系統を遡っていき、魚類まで注目がいきましたが、ついに無脊椎動物まで

さらに最近は「植物」といった侵害刺激を伝達するシステムも「苦痛」と呼び始めそうな勢いです。

ここでは「苦痛」ではなくより広義の「いたみ」としておきますが、ロブスターと人間と植物の間に、いますよね。
虫が。虫の「いたみ」についても考えましょうよ。

こういうリプをいただきました。

ということで、昆虫の神経特異的に作用するいまの最新の殺虫剤が「苦痛を与えている」と社会が判断したら、
殺虫剤で安定した収量を確保できているベジタリアンも含めて、どうしていくんでしょうかね。脊椎動物だけ議論して無脊椎動物を議論しないのは不公平だ、という問いかけに対して、「無脊椎動物を後回しにしろとは言っていない」と反論できますが、食というのは総量があまり変わらないので、脊椎動物をことさらに優先して議論を進めることが、本来公平に扱うべき「苦痛」を不公平にバイアスをかけてしまう危険があるわけです。できるだけフェアにいきましょう。

どうすべきかって? 毒植物とそれを無毒化できる昆虫とを組み合わせた農業が、新しい「倫理的な」農業になっていく、と予言しておきましょう。
ここラオスでやるのもそういうことです。

大阪府箕面公園昆虫館の館長、こぶ屋博士がいきなり、こんな問題提起をしてくださいました。

これに対する私のアンサーはこちらです。

害虫に対する基礎知識は「害虫の誕生」をお読みください。すごく面白いっす。

さて、改めて考えてみましょう。
よく聞く名称である「不快害虫」というのは「愉快益虫」の対義語なのでしょうか。

快不快、というのは個人のお気持ちです。
益虫、害虫というのは先の「害虫の誕生」にもありますように、社会の判断です。
害虫の誕生は殺虫剤の誕生と強く関連します。殺虫剤によって取り除ける「害」であることが認識される前は、虫の害は風水害のような天災の一種でした。

農学研究においては「害虫化する」あるいは「潜在的害虫」と呼ばれるように、地球に生活している昆虫たちの多くは無益無害です。

また、害虫という虫がいるのではありません。害をもたらしたことでその虫を害虫と呼ぶ、つまり害虫は事後的に決まるものなのです。
事前に決まるのは「害虫可能性」といった確率的パラメーターぐらいでしょうか。基本的に、潜在的害虫も生態系の一員ですので、いくら害虫可能性が高くとも、
予防的に殺虫することはほとんどできません。

例外的に、衛生害が極めて大きいマラリア感染地域における蚊や、農業的に被害の大きいウリミバエなどの、侵入して間もない侵略的外来種などは予防的に不妊虫放詞などで選択的な個体数抑制が行われます。

さて、独立するパラメーター「快不快」「有害無害」「有益無益」を以下のように分類しましたが、これはどうにも「不快害虫」の一般的な用法と一致しません。

この分類では不快、でかつ有害なものが「不快害虫」と呼ばれるはずなのですが、そのような用法は見たことがないです。これらは単に害虫と呼ばれます。

「不快益虫」「不快無益虫」「不快無害虫」といった、社会的に有害有益と判断されていない、あるいは有益と判断された虫が「不快害虫」と紛らわしい名前をつけられて総称されているのです。

ちなみに「害」を想定しない「不快虫」は「Nuisance」という用語があります。個人のお気持ちとして不快に感じる虫、なので不快虫に対して散布される殺虫剤はプライベートな空間での使用を目的とした「家庭用品」なのです。

ようやく見えてきました。「不快虫」を「不快害虫」と読んでしまうことで、この用語に混乱が生じているのです。

つまりこぶ屋博士のいう「不快害虫」は「不快虫」と読み替えるべきで、「愉快虫」が対義語になります。
形容詞としての快不快は、個人のお気持ちに属しますので、虫そのものを不快をひきおこす、愉快を引き起こす、と形容するのはあまり普遍性がありません。
ある人にとっては愉快な、またある人にとっては不快な、あるいは時と場合と場所によって、愉快になったり不快になったり。虫と人との関係は一定ではありません。
「おいしい牛乳」みたいなものと考えていいかと思います。

あなたにとってのおいしい牛乳があるように、あなたの心の中に愉快な虫、不快な虫が住んでいるのです。

また、農業には農薬取締法、衛生害虫などの殺虫には薬事法が使われ、明らかな被害と、それに対する効果がはっきりしているものしか使えません。
殺虫剤は耐性昆虫を生みますので、メリットとデメリットをきちんと検証せずに、お気持ちだけで好き勝手に野外に撒くことは、「殺虫剤の効かない虫」という虫嫌いにとっては恐怖の昆虫を生み出すことに加担してしまうのです。

一方で、「不快害虫用殺虫剤」の法律上の区分は化審法ですので、
「農薬や殺虫薬品と同じ殺虫成分を含む家庭用品」です。「今日の髪型を保つためのヘアスプレー」と同じ扱いになります。つまりプライベートで楽しむぶんには家庭用殺虫剤を使っても構わないですが、それが社会の常識といいはったり、野外や農地で噴霧するのはよろしいことではありません。

ヘアスプレーで例えてみると
「他人の家に来てヘアスプレーを散布する」とか「他人にヘアスプレーの使用を強要する」というと、そのパーソナルな用途がわかりやすくなるかと思います。

さて、家庭における殺虫をプライベートな事案として押し込めてしまったことで、殺虫せざるを得ない、虫が苦手で、虫の情報も、虫の対処法も、ググることすら不快が強すぎてできない、という情報の少ない人達が生まれた、と考えられます。彼らは自らの不快を虫からの「被害」とすり替えてしまうことで、勇気を奮い立たせて「私刑/死刑」をしているのでしょう。

しかし、そのような私刑の後に残るのは、虫の死体です。「死体の方が怖い」もしくは「生き返ってしまうのでは」という恐怖にも襲われ続けます。それにより、家庭用にはより強く、より素早く動きを止め、神経に作用するタイプの強い薬剤が好まれていくのでしょう。いつまでもエスカレートし続けることでしょう。私たちも彼らも生きているだけで、遭遇は互いにとっての不幸な事故で、人間側が「なれる」ことでしか、この事故のダメージを減らすことはできないからです。

さて、今こそ、虫に対する法的な議論を始めるときです。
好き嫌いに関わらず、そろそろ昆虫は食用になります。
ラオスではすでに食用です。最先端です。

昆虫に対する人類の社会的態度とはどうあるべきか。

「不快に感じる人もいるんだから殺虫すべき」なのか

「ペットや食用にする人もいるんだから殺虫剤は公害」なのか。

「愉快に感じる人の目の前で昆虫を殺すことは嫌がらせ」なのか。

「飲食店で食用の昆虫を逃してしまったときは威力業務妨害」なのか。

いろんな事例で考えられますね。

いまこそ。昆虫の社会的扱いについて、家庭用殺虫剤メーカーに任せずに、虫好きも、虫嫌いも一緒に始める時でしょう。

では、「虫が苦手で画像すら見たくない」という人に、このブログをみてくださいといえるか。

NOですね。風の噂ではだいぶキツイそうです。

「虫ユニバーサルデザイン」というものも考えていきたいと思います。

だいぶ前の話になってしまうのですが、9月7日、理化学研究所にて開催された「次世代タンパク食を考える」シンポジウムに、ラオスから一時帰国して 登壇してきました。

初めての和光、初めての理研です。おぉ。敷地が、、大きい。。。。 当日、誰からも気づかれなかったのですが、気合いをいれてこんなネクタイをしていきました。

会社員のコスプレと呼んでいます。

http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/events/symposia/20180907/20180907_p.pdf

発表した資料を、問題ない範囲で公開しておきますので、ごらんください。 これまでの蟲ソムリエの活動を紹介したり

「価値観を正す」のではなく「ゆるがす」昆虫食のデザインワーク、「昆虫食展」

今の昆虫食界隈の問題。イシューはあるのにプロダクトは弱い。サステナビリティを標榜しながらそこで出される昆虫のサステナビリティがよくわからないものを出すしかない。 軽く自己紹介をしたあとに本題。 今世代、新しく次世代にむけた問題が顕在化したときに、その問題が顕在化するまえに忘れ去られた前世代の可能性を含めて未来に向けて対策していこう、という趣旨です。 いわゆるルネッサンスですね。

よく引き合いにだされるグラフ。

そしてよく紹介するFAO報告書。みなさん読みましたか。

生物多様性条約における「利益」を見積もる時に、昆虫の利益、見積れてますか。昆虫食という大きな可能性を無視していると、あとあと不公平になりますよ。

 

生態系を模倣した循環型農業、と言っていますが、生態系に昆虫はつきものです。昆虫を加えることで、より循環の設計が自由になりませんか? そしてこれが私がラオスに来た最大の理由。 「昆虫を食べている地域は食べていない地域よりも栄養状態が良い」のではなくむしろ悪い、という現状を確かめに来ました。  そしてラオスの写真たち。こちらは雨季

うってかわって乾季。

村の市場の様子

タイワンオオコオロギのはかりうり

美味しいいいため

オオスズメバチの高いこと。日本より高い値段。

茹でたら、ラオス人スタッフから「蒸した方がうまい」とのこと。

ビエンチャンの市場。バッタとカメムシのほとんどは死んでいる。流通卸の問題もまだまだ改善したい。

ある日のビエンチャンタイムズ。収入は栄養の重要な要素だが、収入アップが必ずしも栄養にはつながらない。そこをどう設計するかが腕の見せ所。 この活動は味の素ファンデーションの助成で、ISAPHの活動として私をラオスに派遣することでやっています。なかなか安定した立場ではないです。来年度まで助成は続きます。

ビデオ内にあった「村落栄養ボランティア研修」で昆虫について説明したスライドです。   さて、ラオスの事例を元に、未来を考えてみましょう。 ラオスの自給的農家はいわゆる日本の昭和の農家に近い状態です。なので「今に残る前世代農家」といえます。   「昔の人はコメばっか食ってた」と言われますが、今のラオスにおいても、コメを大量に食べている様子が伺えます。そしてコメいがいは野生食材に依存していることから、市場で野菜や肉を買ったりすることなく、季節の旬の食材をおかずとして味わっているのです。 こう説明すると聞こえがいいですが、実際問題として野生食材は季節によって不安定になりやすく、狩猟採集に時間もかかることから、特に乳幼児の栄養に関して、リスクがあります。     そのため家庭菜園や養殖昆虫を使うことで、野生食材を取りに行くまでもなく、家庭から身近な栄養にアクセスできるように支援できれば、と考えています。 「コスパ」という概念がラオスの田舎は大きくことなります。海外から物を買うとコスパが悪いのです。そのためできるだけ「自給」できることが、彼らの経済力にもつながっていきます。   そして今、3種の昆虫を並行して実装に移そうとしています。 しかし、昆虫を食べている文化だからといって、養殖昆虫が気軽に受け入れられるわけではありませんでした。けっこう盛大にひかれましたが、なんとか5名の希望者をうけいれ、パイロットファーム がスタートしています。

「ラオスでは昆虫がたべられているからすんなり養殖昆虫も受け入れられる」というのは過度な期待であって、日本と同じように、コミュニティに受け入れられていく、そしてコミュニティそのものを支援していくような根気のいる、王道の展開がサステナビリティな社会を作っていくのではないでしょうか。

昆虫のポテンシャルを印籠のように掲げてお金を集め、そのお金で貧困国の農民を使役し、そうやって作られた昆虫は、はたしてサステナブルでしょうか。

そしてまた、日本でのコミュニティにおける合意形成をしながら、根気強くやっていくのが大事なんではないかと、いなか伝承社の田中さんを見て思うわけです。

 

さて、理論的な話から始まって、泥臭い話でおわりましたが、この活動はいくつかの新しいことを挑戦しています。

登壇者として培養肉のShojinmeatの方も来ていて、ディスカッション、意見交換会では、昆虫か培養肉か、というものではなくて 昆虫も培養肉も、具体的な現場の問題解決の選択肢として、実績を積んでいこう、という話になりました。 また、培養肉の最大の敵は実物の肉だとのことで、ではもう化石種で現存しない、メガネウラの切り身を現代に蘇らせられたら競合がいないのでは、との話もしました。 昆虫の切り身、食べてみたいですね。今後に期待します。

 

ということで、そのあとはラオスに戻り、村人にひかれてしまったゾウムシ養殖の希望者を募り、11月はじめにパイロット農家の育成をはじめたところです。まだまだ忙しいですが、養殖拠点での研究、村への普及、そしてゾウムシの後に控える昆虫たちの準備と、まだまだやることが山積みです。 何しろもともとは短期での滞在と指導によって昆虫養殖を軌道にのせようとしていたところ、私の判断で関係各所に無理してもらって、こちらに長期滞在しているものですから、活動予算が足りません。

ご支援いただけるとありがたいです。 ラオスでの母子保健活動全般についてはISAPHへ   食用昆虫に関わる食用昆虫科学研究会へのご支援はこちらへお願いします。 また、これからは 「タンパク質が増産されたらタンパク質不足は回避できるのか」「そもそも現状の食糧問題は総量の不足なのか」「どういう動機付けをしてラオスに昆虫養殖を導入していくのか」 みたいな込み入ったところもまとめていこうと思います。

そしてなぜ2ヶ月もたって、今更この記事を書いたかというと、ようやく旅費の精算が終わったからです。 精算に必要な半券を「これは大事にしないといけない」とどこかに(胸ポケットかパスポートケース)に入れたところまでは覚えているのですが、ふわりと紛失し、 エアアジアに搭乗証明書の発行を依頼し、全く音沙汰なしでそれから2ヶ月後、突然搭乗証明書が送られてきたのです。 ネット上ではエアアジアからは搭乗証明書が出ない、という話もありましたが、遅いですが出る、ということがわかりました。2ヶ月あればですが。 大事なものを、大事だからこそ失くしやすい皆様、どうにか生き延びていきましょう。

なんと早くも第2巻。私が監修した13話も掲載されており、あとがきには、ありがたくも名指しでお礼の言葉まで!
昆虫食研究者冥利に尽きます。彼らの食と昆虫に対する真摯な姿勢と、作っているうちに不思議と湧いてくる食欲、そして「かわいいこが昆虫を食べ始めるのはなんと美しいのだろう」というフェチ心まで、見事に描写されていたと思うのですが、この作品に、少しでも貢献できたらいいな、とおもいます。

さて、この漫画は「昆虫食漫画」ではないですので、昆虫食が登場するのは1話かぎり、ですがそこに至るいろいろな生物に対する「愛で方」が様々な個性的な登場人物によって語られていき、そして時に(いや頻繁に!)対立します。
それは大きく変化し、立場によって変わり、そしてあやふやなものです。しかしこんな個性全開な人は日本にはあまり見かけませんので、現実世界の日本の「普通」は固着しているように見えます。もしかしたら西塚emさんがこの漫画でも、この漫画以外の作品でも常に訴えているのは「普通」というテーマかもしれません。

「普通」は日本においてはすごく重いことばです。普通じゃないことをメタ的に認知することで、あたかも普通かのように振る舞うことを強要された、普通じゃない人たちがいっぱいいます。というかそういう人だけで日本は構成されているかもしれません。なぜならすべてのパラメーターにおいて「ふつう」を叩き出す人間というのは確率的にありえないからですし、ある一定以上のパラメーターで「普通じゃない」スコアを取ってしまった人は排除されるからです。

数々のハイコンテクストなパラメーターを読み取り、その構造を理解し、自分の行動へと反映させることを、「ふつうのひと」は学校ではこなしてきました。私は幸いなことに生粋の変人という扱いを得られていたので、いつか普通の人になれる自分を想像しつつ、変人として振る舞うことでとりあえず社会の端っこで生きていくことを許されてきたように思います。ただの一度も「普通の人」であった経験はありませんので無理だとわかっていながらそういう生き方に憧れや嫉妬はあります。

そういった後ろ暗い過去のない人に、変人に扮して欲しくはないですし、そういった歴史のない「自称変人」に対して、私は厳しく当たります。
主人公のように、天真爛漫に明るいところで生きてきた人は明るく生きていって欲しいと思うのです。こっち来るなと。

こちらが一方的に見て愛でるためだけに、こっちに近寄りもせず、遠ざかって逃げていかない、そんな都合のいい「ふつう」を提供してくれるのが、この作品で大きく扱われている「標本」という言葉なのかもしれません。対照的に食べて消費してしまう、というのは標本からはかなり遠い愛で方といえるでしょう。しばしば対立します。元の形が残らない場合もありますし、風味や味付けでその生物への印象は変わります。食べる時の体調によっても味が変わるでしょう。そんな不定形な、それでも「一体となる」ことで距離がゼロを下回る、そんな甘い誘惑もあったりします。

さて、収拾がつかないので強引にラオスの話になって終わらせようと思うのですが、ラオスでは採集された昆虫を食べるのが「普通」です。お祝いのときはアヒルやヤギをその場で屠殺するのが「普通」ですし、「普通」の社会人ならばこの程度の知識や技能は本やネットを見なくても「普通」にできます。犬や猫は「普通」に放し飼いですし、「普通」に食べます。手癖の悪い犬は飼い主の「普通の」責任として食肉にしてしまうそうです。

そして市場で食品を買って食べるのはあまり「普通」ではありませんので、1度や2度市場をみたところで、彼らの食生活の「普通」は見えてきません。
日本では「普通は時代とともに変わる」といわれますが、現在においても、たんに座標を移動するだけで、これだけ普通が変わっています。

私は昆虫に詳しい外国人で、「日本人らしくなく」昆虫を食べる人なだけです。「普通」食べない大型のフンコロガシ(メン ドゥッチィ)を食べ、

「普通」触らないイナズマチョウの幼虫をモフり、

私はここでも、普通の人ではありませんが、まぁこれでいいだろうと思います。
私は普通の人を演じませんし、その努力もしませんが、ラオスの「普通の人」に貢献するために、しばらく頑張ろうと思います。蟲籠奇譚2応援、作品に出てきた虫たち。Twitterがモーメントを終了したので、ここでまとめておきます。

セスジスズメ

クサす気はありません。けなすつもりもありません。
ただただ、勇気付けられる、という話です。ホームシックの一種ですか。

ラオスに長期で来て5ヶ月が経過しました。一応1月から3月も引き続きこちらにおれることになります。
ラオス/日本の往復分の旅費を頂ける場合は、日本からの依頼にも答えることができますので、また研究会のHPにてお問い合わせください。

あ、研究会のHPが新しくなりました。メンバーにデザイナーが入って、より見やすく、そして昆虫が苦手な人でもアクセスしやすい外観にしています。

ラオスにいると、ラオ語かタイ語の文字が溢れています。次点で英語ぐらい。今までなじみのなかった文字をようやく覚えてきたぐらいで、なかなか順応は難しいです。

この街にいる日本人は十数人と聞いています。日本の会社の支店も一つか二つ。あとは首都ビエンチャンに集中しています。
なのでお客としても日本人はそれほど重要ではありません。

さて、そんな中でも日本語に出会うことがあります。
レベルの高いものでいうとビエンチャンやルアンパバンのメイソウ(MINISO)

ですが、この街では今ひとつレベルが達していないものに出会えます。
そのレベルの低いものが。いい味わいなんですね。

ネイティブ日本語話者が一人でもいれば、間違うはずのない間違いがあると、そこに日本文化を持つ人がいないのに「日本らしきもの」が求められた、と思うと、なんだか嬉しくなるんですね。

秀逸だったのがこちら。

すでに日本語として読めないんですが、
「日本語らしきもの」がどのように見立てられ、どのように使われているか、という視点から見ると決して悪い印象ではないだろうなというのもわかります。柔らかく、少し未来感のあって、角のない感じ、でしょうか。

日本は素晴らしい、世界に誇る、などという気もありません。ただ「日本語のフォントを使った」という部分から逆算して、日本らしさを見出して鑑賞してしまうというものです。

#駄コラシール にしてもいいですね。

話は逸れますが、#駄コラシールというのはTwitter上で流行した手芸の一種です。検索してみてください。
駄菓子のパッケージなどをコラージュして、ビックリマンシールみたいなキラキラの台紙に載せる、という
極めて駄なコラの遊びなんですが、見てるのとやってみるのでは大きく違います。

やってみると異常に面白くなる!のです。

そして言い出しっぺの OMIさんによる博覧会まで。出品させていただきました。

こちらラオスでも駄なパッケージや日本語表現を集めて、駄コラを作っていこうと思います。

さて話を戻します。

外国で見るいろんな日本語表現ですが、それぞれにたしなみ方があるように思います。

例えば「セソダイ」。

これは分かりやすいですね。ソとンとリの使い分けを間違えてしまったことが、このSENDAIという英語表記からわかります。
こういうカタカナ誤字系は、日本語話者であればほぼ間違えないので、風味がいいですね。仙台という用語のチョイスも
TOKYOやKYOTOというメジャーどころではない部分にコクを感じます。なぜ工具で仙台なのか。川内かもしれないぞ。
いろいろと想像は膨らみます。

そして次はこちら。

フローラルシャンプーみたいな露店で化粧品を売っているお店です。
唐突に「かおり」と書かれているあたりがアクセントとしての日本語を選んでくれたようで嬉しいです。
誤字はないですね。こちらはラオスのお祭りでのことなんですが、ラオ語、タイ語ばかりの世界で
唐突に日本語を目にすると、どこか視覚がバグったような強烈な印象を受けます。目に飛び込んでくるような。

そういった体験もまた楽しいものです。

同じお祭りの古着屋。韓国から来たものでしょうか。

ここまでくると「本当は何を書きたかったのか」を想像する楽しみが出てきます。
青春は、、、、、、、さみでの。さみしがり?  わからん。

お次はチープ感がたまらないこちら。

誰だ、軽G子。きみは縄文滑車を挟んでいるのか。そうか。
縄文時代に滑車はあったのか。弥生で滑車は大きく変わっちゃったんだろうな。だからあえての縄文滑車。

日本で言うところの百均、ラオスで言うところの6000キープショップでの一品です。
こういう安いものは品質の低いものもあって、そこの低さをどうにか糊塗しようと、じゃあ日本語でも入れとくか、と
今時google翻訳でも出さないような結果を印刷しているようです。

そういったチープ系日本語は6000キープショップでよく見られるのですが、
全く別の用途でのパッケージをエイや、と流用してしまうものもあるようです。

そして、最近見つけたのがこちら。これを紹介したかった。

全文引用します。

生まれつき力、切っ先がキラキラ 質をもって生きる 信用で発展を求める。品質が良い生活。

どうですか。

何らかのエールのように感じてしまって、何度か音読してしまいました。

生まれつき力あるか。

切っ先がキラキラしているか。

質を持って生きているか。

信用で発展を求めているか。

品質がいい生活をしているか。

自分に問いかけられたようで、そして「うん。信用で発展を求めているよ」

とお返事を返したいような気がして、ブログ記事を書きました。

はい。品質がいい生活をラオスでしています。

質をもって生きています。 敬具。